『生と権力の哲学』檜垣立哉

後期フーコーの「生政治学」についての概説と、ドゥルーズアガンベンネグリによるそれの応用についての解説。
まさに、解説書、入門書的な一冊だと思う。
政治哲学というと、どうしてもローティ、ノージックという感じで、あとは加えてロールズとか。ハートもアメリカ人だし。あるいは、サイードチョムスキーしても、アメリカ人ばっかりってイメージがある(政治哲学に限らず、存命中の哲学者はアメリカ人の方が多くなってるのかも)
が、どちらかというと、大陸系の哲学・思想の方が好きなので、こういう本はありがたい。
しかし、実際には具体的な政治の話とも言い難い、何とも抽象的な議論が続く。
正直、分かりにくいし、キーワードの羅列のようにしか見えない部分もある。
とはいえ、そういう純粋に理論的なところに、なんかまだ転がっているのかもしれない、という感じもするわけで。

1〜4章(フーコー

前半4章は、フーコーについての解説。
「生政治学」という観点から、特に後期、晩年期を中心にしたもの。
僕のフーコー理解というのは、内田隆三の新書と東浩紀フーコー解説から得たもの程度。あと、一応『監獄の誕生』は読んだが、「面白い歴史書だ」という程度の感想しかない(^^;
で、どれをとっても、要するにディシプリンの話で、後期のフーコーについてはあまり詳しくなかった。
さて、まずはフランスの現代思想を2つに分類している。
一つはエピステモロジー(科学認識論)の系譜であり、
もう一つが、現象学実存主義哲学の系譜である。
面白いのは、ベルクソンにおいては、この2つは交錯していた、ということだ。
現象学実存主義哲学系というのが、デリダレヴィナスであり、エピステモロジー系としては、バシュラールフーコーアルチュセールがあげられている。
フーコーというのは、アンチ否定神学で、ニーチェ主義者なのである。
ものすごく大きく括ってしまうと、テクノロジーや言説が如何に「主体」「人間」というものを生成し、管理してきたのか、ということを探るのがフーコーの仕事である。
「主体」や「人間」というのが成立する根底には、テクノロジーに下支えされた「生」があると考える。
つまり、ものを書いたり、政治したりすることが出来る理由は、それは生きているからに他ならないということだ。
そこに、超越性だの他者だのを持ち出したりはしない。
生きている、だからこそ、ものが言える、
というのは当たり前のことだが、哲学はそういうところには触れたがらないような気がする(いや、そこまで言うと哲学に失礼かもしれない。どちらかというと「僕個人が」といった方が適切かも)。
ギリシア語で
前者の生きている(これは純粋に生物としていう意味で)を「ゾーエ」と呼ぶ。
後者のものが言える、とか政治するとかを「ビオス」と呼ぶ。
哲学にしろ政治にしろ文化にしろ、人間が他の生き物と違うのはビオスがあるからだろう。だから、人間の単なる動物的な、生物的な側面に過ぎないゾーエにはあまり関心を寄せなかったのではないだろうか。
そして、何故ビオスがあるのか不思議がる。
そうやって形而上学否定神学が立ち上がってくる。
だが、フーコーは単にゾーエがあるからビオスがあるのだ、と指摘する。
そしてまた、近代というのはゾーエとビオスの境界が曖昧化している時代である、というのが生政治学という主張なのである。
ところで、「真理」というものに対してどのように対処するか、ということでいくつかの哲学的立場があるように思う。
絶対的な真理があると考える形而上学に対し、絶対的な真理の不在を説くのが否定神学である。後者は、いわゆる相対主義とも言い換えられる。
それに対して、英米分析哲学が「真理」に対してとる立場はプラグマティックだ。彼らは、絶対主義も相対主義もとらない。多分大体正しい、と考えることによって、コミュニケーションが成立していることを重視する。
では、フーコーあるいはニーチェ主義者はどうか。
彼らは、絶対的な真理があるとは考えないが、真理の不在も説かない。かといって、決してプラグマティックな立場もとらない。真理とは絶えず生成され続けるものだと考えるのだ。

5章アガンベン

ジョルジョ・アガンベンというイタリアの思想家の名前は、『ホモ・サケル』の著者という、ただそれだけしか知らなかった(その上、『王の二つの身体』と勘違いしていた)のだが、誰かがどこかで(多分社会学者がネット上で)「アガンベンは読んどけ」ということを書いていて、気になっていた。
二学期に、1年生向けの入門的授業でアガンベンが扱われるらしいので、聴講しにいこうと思っているのだが、それより前にアガンベンについて入門的な基礎知識が欲しかったというのが、実はこの本を買った主な理由でもある。
アガンベンについて、本書が触れているのは34ページ(全252ページ中)だけであるが、おそらくこの本の中で最も濃密な箇所だ。
アガンベン読めば、isedとか読む必要ないんじゃないか、と思うほどに(^^;
さて、ホモ・サケル(聖なる人間)であるが、これは犯罪者のことである。彼らは処刑されたのち放置された。ゾーエはひたすらに排除されるが、この排除によってビオスが成立するのである。法や秩序にとって、ゾーエというのは例外事項である。この例外を排除することによって、逆説的に内包するのである。ビオスの成立の起源を超越的な何かに仕立て上げない(祭りを行わない、ただ放置する)。
しかし、近代において、ビオスとゾーエの境界が曖昧化してきたとされる。
ビオスというものは公的な生であり、ゾーエを私的な生であるとすると、アレントによると、公的なものに私的なものが浸蝕した結果こそが全体主義である、という。そのため、アレントは再び公的なものと私的なものを区分することを主張する。
一方、フーコーは、公的なものと私的なものの曖昧化を不可避なものと考えて、そこに積極的な意味を見いだそうとする。
アガンベンもまた後者の考えなのだが、特にビオスとゾーエが曖昧化した空間として「収容所」について考える。例外であるゾーエが排除されずに通常化する場所=収容所。
そして、アガンベンは収容所の「生き残り」と「ムスリム」と呼ばれた人たちに注目する。
「生き残り」というのは、実に曖昧な存在である。彼らは、収容所について証言する。しかし、それは一体何についての証言であるのか。彼ら「生き残り」は、何故生き残ったのか。それは多かれ少なかれ、彼らが「裏切り」を行っているからだ。例えば、彼らの中にはガス室の清掃を行い、ガス室に送られるユダヤ人を整列させていた者たちがいる。無論、彼らもユダヤ人である。彼らは被害者であり、かつ加害者でもある。
そこにあるのは、ビオス的な生ではない。ゾーエ的な生、アガンベンのいうところの「剥き出しの生」である。
「生き残り」たちの中には自殺しているものたちがいる。彼らは、その「剥き出しの生」に耐えられなくなってしまったのだ。彼らには、責任はない。それは、「免責」ではなく「無-責任」である。つまり、「剥き出しの生」においては最早、「責任」という概念そのものが意味をなさないのだ。
さらに、「ムスリム」と呼ばれる人たちがいる。栄養失調により、ただ生きながらえるだけのものだちである。彼らもまた「剥き出しの生」を生きる。ビオスを生きてはいない。その意味で「非-人間」である。

アウシュビッツにおいて真に恐ろしいのは殺されることではない。ひたすら生きつづけさせられることである

そこ(アウシュビッツ)において人間がそれに還元されてしまっている剥き出しの生は、なにものも必要とせず、なにものにも適合しない。それはそれ自体が唯一の規範なのであり、絶対的に内在的である。そして「種に帰属しているという究極の感情」は、どうあっても尊厳ではありえない

「種に帰属しているという究極の感情」というのは、生物種としてのヒトである、という感情であり、非-人間と人間の閾に現れる感情である。
さらにアガンベンは「恥ずかしさ」という言葉を使う。「自己触発」が起こったとき、「恥ずかしい」のだという。
「自己触発」とは、非-人間である自分と人間である自分が触れあうことだ。

「恥ずかしい」のはレイプされている際に、自分が感じてしまうことだ。(中略)アウシュビッツを「生き残った」レーヴィを襲うものは、それと同様の「羞恥心」である。「非-人間」に触れることを、「人間」である言説の活動において述べつづけなければならない自己が恥なのである。

ここは、この本の中で最も深い、濃い一節だと思う。
どうしても語り得ないであろうゾーエを、ビオスが引き受けざるを得ない、という状況の「恥ずかしさ」
これは羞恥でもあり、恥辱・屈辱でもあり、また絶望でもあるように思う。
さらにアガンベンは、シュミットとベンヤミンを参照して、法と暴力について語る。
法に関する暴力には二種類がある。
法を維持するための暴力と、法を作り上げるための暴力である。
前者は、法自身によって内在的に正当化される暴力だが、後者は決して正当化されない。何故なら、法を作り上げるときにはまだ法がないからだ。だから、法は自分自身の正当性を証明することが出来ない(自己言及のなんとやら、現代思想ではよくでてくるロジックと思われる)。
後者の暴力は外部からやってくる。この外部を実在すると考えると形而上学になり、不在だと考えると否定神学となるわけだが、アガンベンはその不在に生を流し込む。
法(ビオス的なもの)と生(ゾーエ的なもの)の境界領域において、法は立ち上がる。
そして、アガンベンは法を作り上げる暴力とは逆ベクトルの「神的暴力」なる概念を設定する。

6章ネグリ

かの『帝国』で有名な、イタリアの極左マルキシスト。
『帝国』と『マルチチュード』は、タイトルは勿論知っているが、当然のように一度も触れたこともない。
で、マルチチュードって一体何なんだ?!と常々思っていて、これを読んだら分かるかと思ったが、分かったような分からないような気分にさせられる。
ネグリは、<帝国>という概念を批判しているのではなくて、どちらかというと肯定しているということを知ったのは収穫かも。
この章を読んでいて思ったのは、この<帝国>概念はなんだかSFっぽく感じてしまうということ。
夢物語という意味ではなくて、わかりやすすぎるような気がして。
簡単に言ってしまうと、攻殻機動隊的な世界観

「帝国」が見据えるのは、国民国家が崩壊し、あらゆるナショナリティやそれを軸にうごめく情念が消滅し、すべての個的なアイデンティティの主張が消え去っていく、雑多な混合体としての社会の現勢化なのである。

そしてそれを進行させているのは、ネットワーク化ということ。
で、この「雑多な混合体」というものが「マルチチュード」なのだろう、と思う。
もっとわかりやすくいうと、スマートモブズ的なイメージ。
さらにネグリが求めるのは、絶対的民主主義。あらゆる媒介がない民主主義。つまり、議員も政党もメディアもない政治。
ここらへんは、何だかSFっぽい感じがしてしまう。
ただ一方で、非常に重要なことも言っている。
それは、グローバルなものとローカルなものを対立させても、それは「帝国」という権力の片棒を担ぐことにしかならない、ということ。
グローバルな同一性に対して、ローカルな差異を持ってきても無意味。何故なら、「帝国」にはローカルなもの、差異のあるものを生産する働きもあるから。
ネグリは、ハーバーマスの討議的理性を批判する。ハーバーマスの討議的理性が成立するのは、生活世界というローカルな差異性が、システムの外部に保全されている時のみ、である。
「帝国」は、全てをシステムの中に含有する。「帝国」に外部はない。生活世界とおぼしきものも、それは「帝国」というシステムによって用意されたものに過ぎない。
同じような理屈で、ポストコロニアリズム脱構築も退けてしまう。
ところで、この理屈は宮台真司が最近言っている理屈と同じじゃないか。
宮台は、ヨーロッパはまだ生活世界がリソースとして保全されているが、日本には保全されていない、と言って、だから日本は欧米と比べて大変だと主張する。ネグリの場合、最早全世界で生活世界は保全されていないのだ、と主張している。ネグリが、フランスに亡命してきたイタリア人である、ということはもしかしたらこの主張と関係していたりするのだろうか。
で、抵抗の手段としてマルチチュードということを言う。で、彼はマルキシストなんで、それは労働の話になる。情報産業や情動労働(福祉とか)という新しい労働スタイルは、何も生産しないが関係性を生産している。その関係性のなかで<共にあること>が形成されるのだ、とか。
この<共にあること>というのが具体的に何かはよく分からないが、ローティのいう「連帯」みたいなものだろうか。


アガンベンネグリも、イタリア人で、そうえいばイタリアの思想家って全く知らなかったなぁ、と思った。
冒頭でも述べたように、抽象的で、即座に何か現実の政治と接続できるか、というと難しい。
あとこの本は、各々の思想家の著作の要約っていうようなところもあって、そこをもっと詳しく!と思うところもあった。
でも、だから勉強しよう、という気になるのかな……?
で、具体的な何かとすぐに接続できるか、というと確かに難しいんだけど、何かアクチュアルな問題と繋がっているような気はする。それこそアガンベンは、なんかすごい気がする。

生と権力の哲学 (ちくま新書)

生と権力の哲学 (ちくま新書)