アガンベン『アウシュビッツの残りのもの』

人間とは、言葉を話すことが出来る生きものである。
しかし、言葉を話すことと生きものであることは、いかにして両立しているのだろうか。
「人間」は、二つの位相に分けられるのである。
つまり、生物としての「ヒト」の部分と、他の生物とは区別される、人間性なるものを有する「人間」の部分と。
その区別は、ゾーエとビオスなどとも言われる。
人間性」というのは、なかなか不可解なものであるが、それは尊厳とか政治的身体とか公共性とか言葉を話すも存在とか、そんなふうに言われる。
政治、倫理、思想といったものは、「人間」を対象にしてきたが、「ヒト」を対象にしてきていなかった。少なくとも、ある時期までのヨーロッパにおいては。
フーコーアガンベンに言わせれば、生政治とは、「ヒト」の部分も統治の対象とすることである。
生政治の一つの極端な帰結がアウシュビッツであり、そこには、剥き出しの生を生きるだけの回教徒(ムーゼルマン)がいた。
ムーゼルマンは言葉を失っているので証言できない。
言葉を持つ者はムーゼルマンではないのでムーゼルマンについて証言できない。
ムーゼルマンについて語ることはいかにして可能なのか。


アガンベンは、言語活動とはそもそも主体化と脱主体化の二重の運動である、という。
人間の二つの位相は、必ずズレている。
そのズレが運動を引き起こすことによってこそ、人間は発話が可能になる。
証言する主体は、二つの位相の非-場所において生起する。


バンヴェニスト木村敏を引用しながら、言語活動における主体化と脱主体化の二重の運動について論じるところ、あるいはそれらとエクリチュールや声が絡み合ってくるところなど、非常に面白い。
面白いのだが、ディティールに踏み込んで理解することが出来てないので、以上のような非常にテキトーなまとめしかできない。
フーコーの『知の考古学』を踏まえて論じられる第4章は、よく分かっていない。

アウシュヴィッツの残りのもの―アルシーヴと証人

アウシュヴィッツの残りのもの―アルシーヴと証人