東浩紀『サイバースペースは何故そう呼ばれるか+』

サイバースペースは何故そう呼ばれるか」を河出文庫版で再読。
それから、収録されている論考「精神分析の世紀、情報機械の世紀」「想像界と動物的通路」「スーパーフラットで思弁する」を読んだ。「精神分析の〜」は再読、残り2つは初めて読んだ。対話の章に収録されてるものは既読だったのでパス、また今度読む。あと、特別インタビューと濱野智史による解説を読んだ。


以前読んだときは、結構情報量の多さにいっぱいっぱいになりながら読んだ記憶があったのだが、今回はそうでもなかった。
一応、面白く読むことは出来たのだが(あちこち線引いたりして)、全体的な問題設定とそのための手段の繋がりというのに納得できなくなっていた*1
ポストモダン論みたいなものへの興味が薄くなっていた。情報量にいっぱいいっぱいにならなかったのも、知識が増えたとかではなくて、そういう部分は少し引いて読んでいたからかもしれない。
近代からポストモダンへの変化がどうのとか、主体がどうのとかという話、そこは置いておいて、美学的な話としては面白く読んだというか、ここらへんからうまくネタが拾いたい、というか。多分、自分が東浩紀から一番影響を受けているのって多分ここらへんだなーというのが、改めてわかった。『動物化するポストモダン』でいうところの第三部だけど。


まあ、気になったところを適当に引用してみる。

(『ヴァリス』について)一方にはソフィアという名の少女がいる。彼女は自動人形のように神の言葉を伝える少女として描かれ、フロイトが例示した不気味さの典型的なイメージを備えている。...他方にはファットという名の男がいる。...ファットは語り手の内側と外側、一人称と三人称のあいだを往復するなにものかなのであり、それゆえ小説世界の一貫性を攪乱する機能をもっている。...ソフィアは不気味さのイメージこそ全身にまとっているが、語りの一貫性を脅かすことはない。彼女はファットと異なり、語る主体と語られる世界、メタ/オブジェクトの峻別に従うひとりの登場人物にすぎない。それは言い換えれば、彼女の存在が語り手の視覚的秩序を決して逸脱しないことを意味する。...しかしファットは、まさにその区別を機能不全に陥らせるために登場していたのだ。

かつてラカンは、イメージの世界には現前しかなく、そこに不在を導入するためにはシンボルが必要だと論じた。したがってそこでは、「真実らしさ」の倒錯は、言葉を通してのみ、すなわち、象徴界への参入を通してのみ到達可能だと考えられてしまう。だが実際には私たちの社会は、ハリウッド映画のCGやゲームのキャラクターに代表されるように、もはや単純に現前とは言いがたい、かといって不在でもないイメージに満たされている。
その両義的な記号は、ポストモダニズムによって「シミュラークル」と呼ばれてきた。

シミュラークルは複製技術の産物である。ただし、ここで「複製技術」とは、広義のイメージをふ複製する技術...シンボルを複製する技術は...「複製技術」と呼ばれることはあまりない。...ベンヤミンは...「視覚的無意識」という考えを提出している。そこでは彼は、精神分析と映画を比較し、その双方が近くを「深化」させることに注意を促していた。...クローズアップや高速度撮影のような、空間的・時間的な拡大の技術である。それは彼の考えでは、「不鮮明に見えていた物を単に鮮明にするのではなく、むしろ物質のまったく新しい構造を顕わにする」。...言い換えればそれらの技術は、現前の世界と知覚されるものの世界を切り離し、対象が現前しないイメージ(シミュラークル)に導かれた新たな知覚を可能にしてしまう。...「視覚的無意識」は、イメージをシミュラークルに変え、知覚されるものと現実の関係を組み替える(見る側と見られる側の時間的一致を脱臼させる)ことではじめて立ち現れる。

映画の誕生とは、入力される視覚的情報の「速度」の位相、あるいは「密度」の位相の発見にほかならないだろう。
(「精神分析の世紀、情報機械の世紀」)

濱野智史による解説)
現在においては、「サイバースペースは何故そう呼ばれなくなったのか」という問いのほうがアクチュアルに感じられるかもしれないのである。...「空間的」と「速度=距離的」という、メディア理解をめぐる二つの概念である。...二〇〇〇年代以降に登場したさまざまなインターネットサービス群は、後者の「速度=距離」の観点から捉えたほうがその本質を理解しやすい。...「サイバースペース」的な想像力は、本来であれば情報メディアがもたらす「不気味なもの」を隠蔽する、「悪魔払い」としての機能をもつ。人間は本来、目や耳といった複数の情報乖離を無意識のうちに処理しているが、通常それはひとつの意識/人格の下で仮想的に統合され、複数回路の存在は隠蔽されている。/しかし、これに対して東氏がベンヤミンを通して明快に論じているように、情報メディアの本質は、「単一的な意識への統合」にではなく、「複数的な無意識への解放」にこそある。


東が自ら最も気に入っているという「想像界と動物的通路」は、ハイデガーにおける「動物」概念とデリダによるその検討を論じたものだったので、ハイデガーよくわからん自分にとっては、よくわからんかった。
それから、「スーパーフラットで思弁する」は、ホルバインの大使たちをラカンが分析してみせたように、村上隆の作品を分析してみるというもの。


本論で、シミュラークルとかエクリチュールと呼ばれるもの、それは少しあとに東が「過視的」と呼ぶようになるもので、具体的には上述にあるとおり、CGとかアニメのキャラクターのことだが、これはフィクションの問題として興味がある。本来ならない、見えないものが、見えるようになっているrepresentation*2。それは、一種の新たな「知覚」であるのかもしれない。
まあこれが本当に新しい「知覚」なのかといえばそうではないと思うのだけど、ここらへん、ウォルトンの写真とメイクビリーブの話とかから考えなおしてみたい。
で、そういう知覚的フィクションのハイパー化に対応しようとする時にどうすればいいのか、という戦略の一つとして、ファット的なものが提案されていたり、村上隆作品が分析されているわけだけれど、まあやっぱりそこが一番気になる。

*1:あと、以前ディックの『ヴァリス』読んだはずなのに内容を忘れてしまっていたのが、残念だった

*2:東の「サイバースペース」論文に従えば、ポストモダン用語において、これはもはや再現前representationではなくて、だからシミュラークルという用語が当てられている。が、めんどいので無視