ハックスリー『すばらしい新世界』

ザ・環境管理型権力!wもしくは生権力!ww
まず、話としては、
前半が読みにくい。主人公が一人ではなく何人かいるので、視点が多く、その視点変更が最初読みにくい。それと、設定の説明っぽい文章が多いし。
ただ、そのあたりを越えると、一気にすらすら読めるようになる。
野蛮人ジョンと文明社会のギャップ、例えばジョンが朗読する『ロミオとジュリエット』に爆笑するエリート、ヘルムホルツとか、は面白い。特に盛り上がるのは、ジョンぶち切れシーンとジョンと総統の激論。
しかし、そこまでは普通に予想通りの展開。
でも、オチではイヤな気分になる。
設定としては、ツッコミどころがある、やっぱり。
何というか、完璧な世界のわりにヒューマンエラーが多すぎる。
だから、今現在の人間が読むと、ここで描かれる世界ですら牧歌的に見えてしまう。
で、やっぱりこの話の読みどころは、ジョンと総統の激論シーン。
この総統のシニカルな態度には、この「文明世界」を全否定できないリアリティがある。
不幸な支配者と幸福な被支配者という構図は、まさに鈴木謙介の指摘する「格差」社会そのものだ。
また、叶えられない欲望は意識されない(存在することすら知らない)、というのは情報社会のフィルタリング技術によって既に構築されつつある。
こうして、完全に安定した「幸福」な社会ができあがる。
この「幸福」は、内部にいる限り批判不可能だ(だから、バーナードとヘルムホルツの存在はご都合主義的だ、と指摘することができる。しかし一方で、ジョンの登場により、バーナードとヘルムホルツも結局はこの「幸福」に対する批判者としては不十分であったことが明かされる)。
「幸福」に対置されるものは、おそらく「真理」だ。
宮台真司は、人を「超越型」と「内在型」に分類し、「終わりなき日常」を生きるためには「超越」を断念し「内在」的に満足しなければならない、と説いていた(しかし転向した)。
ここでは、「内在」的な満足に「幸福」を、「超越」的な満足に「真理」を対応させる。
総統は、社会の安定のためには、「真理」を断念し「幸福」を選択する。しかし、総統自身はその選択に自覚的なので、いわば再帰的な、シニカルな幸福しか得ることは出来ない。だが、ほぼすべての文明人は、完全に「幸福」なのである。
宮台の転向は、人間というのはどうあっても結局「真理」を断念することは出来ない、という認識に基づいている。「真理」の断念は必ずしも人を「幸福」にしないし、「幸福」であってもどうしても「真理」を志向してしまう者が一定数存在してしまう、と。
だがしかし、『すばらしき新世界』が提示するのは、「真理」への志向を完全に断念することが可能だとしたらどうか、ということだ。
もし仮に可能だとしたら、東浩紀はそうした社会を肯定する。
ハックスリーはこの社会をディストピアとして提示するし、東の態度も実際にはどちらともとれる。
だが、例えば同様の「幸福」を提示する作品として西尾維新の『きみとぼくの壊れた世界』があるが、これは西尾にしても東にしても「悪意あるエンディング」と解しているが、これを「希望のあるエンディング」と解している人もいるらしい*1
つまり何が言いたいかというと、「すばらしい新世界」というのはもちろんハックスリーの皮肉なんだけど、案外文字通りすばらしい世界なのではないか、ということ。というか、原理的に否定するのは意外と難しいように思う。
この否定し難さは、最後の方のジョンを見るとわかる(だって総統に負けてるし、オチもそういうオチ、だからイヤな気分になる)。

すばらしい新世界 (講談社文庫)

すばらしい新世界 (講談社文庫)

*1:波状言論創刊準備号