サブタイトルは、「ロシア宇宙主義からイーロン・マスクまで」
原著タイトルは”Space Forces: A Critical History of Life in Outer Space”
筆者のシャーメンは、建築と都市デザインを専門としている
7つの章に分かれていて、第1章がツィオルコフスキー、第2章がバナールとボグダーノフ、第3章がフォン・ブラウン、第4章がアーサー・C・クラーク、第5章がジェラード・オニール、第6章がNASA、第7章がニュースペース(スペースXを始めとする民間ベンチャーによる宇宙開発)を取り上げている。
クラークに1章割かれていることからも分かるように、SFも頻繁に参照される。ツィオルコフスキー、ボグダーノフ、フォン・ブラウンは小説家ではないが、彼らはSF小説も書いていて、それらも参照されているし、ストルガツキー兄弟やル=グウィンについても言及がある。
いわゆる普通の宇宙開発史ではないし、無論、SFがたくさん取り上げられているからといってSF史でもない。近年、宇宙倫理学という分野が勃興しつつあるが、本書は(宇宙倫理学者への若干の言及はあるものの)そうした分野から書かれた本でもない。その点で、なかなかユニークな本であると思われる。
読んでいる最中、なかなか本書のストーリーがつかめず、難儀した。
個々の話はまあ面白いので読み進められるのだが、それぞれの思想がどういうマッピングで位置づけられているのか、というのが読み取りにくかった。
ただあとから振り返ってみれば、大雑把なストーリーはわりと明確ではある。
人類は何故宇宙を目指すのか、何故宇宙で生活しようとするのか。
宇宙については、ロマンがあるとか、人類には拡張していく本能があるとか、そういった言葉で語られることも多い。ただ、このあたりは、宇宙倫理学の分野で「神話」として指摘されている(巨額の公共投資をするには根拠が曖昧では、という話)。
本書ではむしろ、その初期から宇宙開発の根底に「植民地主義」的な発想があったことが指摘されている。つまり、蒙昧な存在に打ち勝つ、世界を統一する、経済成長する、資源採掘するなどの発想である。
しかし、一方でこれらに対するオルタナティブな発想もあった。
前者については、フョードロフやツィオルコフスキー、フォン・ブラウン、オニール、ニュー・スペースが該当し、
後者については、バナールやボグダーノフ、クラークが挙げられるだろう。ストルガツキー兄弟、ル=グウィン、スターリングも参考にされている。
筆者は前者に対して批判的であり、後者の方向性を探ろうとしている。
ところで、先ほど自分でも「何故」宇宙を目指すのか、と書いてしまったが、本書が問題にしているのは、必ずしも宇宙開発をする理由やその正当化ではないように思える(全くないわけではないのだが)。宇宙開発を望むとして、それはどのような未来観・社会観に基づいて行われようとしているのか、を問うている。
宇宙開発は、当初から植民地主義的な思想が根底にあった。だから、宇宙開発はよろしくない、というふうに、本書は進むわけではない。
宇宙開発するとして、宇宙で生活するようになるとして、それを実現するためにはどのような世界観や構想に基づくのがよいのか、ということを論じているようである。そこは、建築・都市デザインを専門にしているからかもしれない。
はじめに――宇宙で生きる能力
1 コンスタンティン・ツィオルコフスキーとレンガの月
2 J・D・バナール、赤い星、そして〈異能集団〉
3 ヴェルナー・フォン・ブラウンの宇宙征服
4 アーサー・C・クラークのミステリー・ワールド
5 ジェラード・オニールのさがすテクノロジーの強み
6 アメリカ航空宇宙局
7 オールドスペースとニュースペース
おわりに――別の物語を見つけること
謝辞/注/訳者あとがき
はじめに――宇宙で生きる能力
「われわれ」とはいったい誰か
1 コンスタンティン・ツィオルコフスキーとレンガの月
まずは、ツィオルコフスキーと、彼が影響を受けたフョードロフのコスミズムについてから。
フョードロフの「共同事業」という構想への具体化としてツィオルコフスキーの宇宙開発のアイデアがある(ただ、ツィオルコフスキーは自身の著作の中で、フョードロフや共同事業について明示してないらしい)。
本章では、ツィオルコフスキーによるSF小説『地球をとびだす』(1920)が例に出される。その中で、宇宙空間にガラスの温室を作るところが描かれている。
ところで、本章ではさらに、アメリカのエドワード・ヘイルによるSF小説『レンガの月』(1869)についての内容も紹介され、比較されている。
『レンガの月』は、宇宙事業への出資を呼びかける事業者が出てきて、レンガで作った「月」を作る
「地球を飛び出す」では、フョードロフの思想同様、「意識的な存在」が「蒙昧な力」に打ち勝つことが描かれる。つまり、宇宙開発は計画的に行われる。
これに対して『レンガの月』では、「たまたま」宇宙へ行けてしまう。宇宙進出の準備はしているのだけど、実際に宇宙へ行くのはむしろアクシデントによってという形で描かれている。
ツィオルコフスキーは、『地球と人類の未来』という著作も書いているが、こちらは地球を改良する話で『地球を飛び出す』に出てきたガラスの温室で、地球全体を覆ってしまう構想が描かれる。熱帯から事業は着手されるのだが、熱帯の原住民を啓蒙して温室事業の労働者にする、という植民地主義的な手法が用いられている。
建築において、実体と構想のあいだの空間を語ることを「テクトニクス」と呼ぶ。
本書ではこの「テクトニクス」という語がしばしキーワードになっている。
ガラスの月は足し算の思想であり、超植民地主義的で、空間は統御されている。
地球全体を同じガラスの温室で覆うなど、規則正しく統一のものにすることが目されている。
レンガの月はむしろ、引き算
そもそも、アクシデントによる自治
また、宇宙に進出したレンガの月住人たちは、地球から送られた法律書などを不要だといって放棄する。ツィオルコフスキーのような統御・統一ではなく、地球からの分離・独立の思想がある。
どちらも、地球や宇宙を植民地化しようとしている点は同じではあるが、この2つに代表されるように、宇宙開発にあたって、統一主義と分離主義という二つの考えがある。
2 J・D・バナール、赤い星、そして〈異能集団〉
英国海軍准将マウントバッテン卿のもと「異能集団」と呼ばれる科学者3人組の一人
結晶学者、材料科学者、(一時期は)マルクス主義者、(生涯に渡って)平和主義者、反戦活動家
ロザリンド・フランクリンとともにX線結晶学
バナール球でも知られる。
コスミストに通じる思想をもつが、『宇宙・肉体・悪魔』は、宇宙は目的をもつというフィードロフやツィオルコフスキーへの批判としても読める
オープンな考え
理性的精神の3つの敵
第一は自然の力(宇宙)、第二は健康と疾病(肉体)、第三は、人間の願望と恐怖、想像力と愚かさ(悪魔)
自然という蒙昧の力を意識的な構想と努力で抑え込む(この点はコスミズム的)
多層構造の宇宙ステーションとしてバナール球を構想している他、宇宙に適応するための人体改造にも触れており、「サイボーグ」という名前ができる前からサイボーグ的な発想がある。
上述した「異能集団」の1人として、ノルマンディ上陸作戦に関わっている。
ノルマンディ上陸作戦では、人工港湾を立案。また、都市爆撃についての研究報告も行っている。
平和主義者・反戦主義者であるが、これらについて、常に、いかに死者を減らすかという観点から行われている。
バナールの意図通りに伝わらず、もっと死者を減らすことができたのではないか、という後悔の言がある。
バナールと、ボグダーノフとが比較されている。
バナールとボグダーノフの間に直接の関係はなく、互いの国での出版年を考慮するとおそらく互いに相手のことは知らなかったと考えられるが、筆者は2人の思想がよく似ていると指摘している。
ボグダーノフ『赤い星』(1908)
科学者レニのもとを訪れる火星人メティ
「タコの目」という喩えで異質同型という考えが出てくる。いわば収斂進化。来歴が違っても同じようなものになること。『赤い星』では地球社会と火星社会が「タコの目」として説明されている(地球はこれから社会主義になる、火星はすでに社会主義になっている)
バナール『戦争のない世界』(1958)
「自動化」(オートメーション化)の衝撃を書いているが、これがボグダーノフと同様。
また、10年後の「一般システム論」を予告するようなことを書いている。ボグダーノフの「テトロギヤ」も同様。
『赤い星』において、意思統一されていた火星文明が、他の惑星(地球)の文明を知ることで亀裂が走る
地球侵略派の火星人の主張は、コスミズムっぽい。つまり、統一してしまえばよい、という考え。
ところが、『赤い星』では、序列や有用性の重視に対して、同じ火星人からの批判がなされる。
平行進化は同じかたちに収斂するとは限らない。
ボグダーノフは、コスミズム的な考えを批判している。
ところで筆者は、バナールの異能集団もまた、序列への挑戦であったとし、また、バナールが意見交換を重視していたことを指摘する。
バナールもボグダーノフも、同じ方向性への統一、その中での序列という考え方を批判していた。
3 ヴェルナー・フォン・ブラウンの宇宙征服
フォン・ブラウンは『プロジェクト・マーズ』というSF小説を書いている(アメリカに渡ってきた頃に書いたっぽい)
フォン・ブラウンは『コリアーズマガジン』で連載を持つことで、有名になっていく。宇宙ものやれと言われて困っていた編集者がフォン・ブラウンに声をかけたらしい。
「宇宙の征服」
フォン・ブラウンは、宇宙軍、宇宙ステーションによる軍事優位を説いている。
宇宙空間と領空との関係は曖昧
人工衛星が通過するとは、人工衛星が「領空」飛行するということ。
それにより上空からの攻撃が可能になる。この恐怖によって、アメリカによる世界統一ができる、というのが『プロジェクト・マーズ』
ただ本書では、それに対して実際に宇宙に行った宇宙飛行士や、宇宙から撮影した地球の画像は、地球には国境がないという感覚をもたらす「オーバービュー」効果があったことも指摘されている。
さて、フォン・ブラウンはアメリカでアポロ計画を成功させた立役者であるが、一方でナチス・ドイツにおいてミサイル開発を行っていたという前歴もある。本章の前半では、そのことについて中立的に触れるのみで、それに対する評言がなかったので「おや」と思ったのだが、後半からそのことについて触れられていく。
イヴ・ベオンという、ナチスドイツの強制労働施設から帰還した人物による『惑星ドーラ』という著作が紹介されている。
V2ミサイルは、ミッテルバウ=ドーラ強制収容所での強制労働によって作られた。本書は、その時の体験談を記したものだが、タイトルにもある通り、その舞台は惑星ドーラという架空の星に置き換えられており、SFという体裁で描かれているらしい。
フォン・ブラウンの宇宙開発の背景に強制労働があったことを、この著作を引きつつ指摘している。
フォン・ブラウンは、当時親衛隊にも所属しているが、これについてのちに「ほかに選択肢がなかった」と述べている。
しかし、本書では、同じく戦争に協力しつつ、「もっと死者を減らせたはずなのに」と後悔を語ったバナールと比較しながら、「ほかに選択肢がなかった」発言を問い直している。
理想を実現するために、一体どのような世界なら許容できるのか。
(フォン・ブラウンは強制労働を許容したわけだが、それでよかったのか、と)
4 アーサー・C・クラークのミステリー・ワールド
『アーサー・C・クラークのミステリー・ワールド』は1980年の超常現象を取り上げるテレビ番組
章冒頭で水晶ドクロの話が出てくるが、まあその手のオーパーツとか超常現象とかを色々取り上げていたらしい。
さて、本書ではクルートとニコルズによる『SF百科事典』を参照しながら、クラーク作品の特徴を論じている。
すなわち、ハードSFであると同時に神秘主義
キーワードとして、「大きな沈黙の物体」「概念の崩壊」「センス・オブ・ワンダー」があげられている
『ミステリー・ワールド』では、謎を3つに分類する。
第一種:今は解明されている
第二種:解明されていないが科学の枠組みにおさまりそう
第三種:世界認識全体をくつがえすようなもの
上述の「概念の崩壊」「センス・オブ・ワンダー」は第三種の謎と通じるところだろう。
また、クラークは宇宙開発へ懐疑主義的なところがあるという。
「奇妙さ」に寄り添う
オーパーツについて
その時代、その場所に相応しくないものという意味だが、その「相応しくない」というのは植民地主義的な固定観念(文明は直線的に進歩する)に由来していないだろうか
イアン・バンクスは「唐突な事象」という概念を論じているが、その最たるものとして植民地化を挙げている。
『宇宙のランデヴー』『地球帝国』
クラークは「外」への探求ではなく、「内」への沈潜へと向かう。
ストルガツキー兄弟とも比較される。
『2001年宇宙の旅』は、時に『ソラリス』と比較されるが、小説と映画の関係は、むしろ『ストーカー』のそれに似ているのではないか。
『ストーカー』「ヌーン・ユニヴァース」
アレクセイ・ユルチャクのいう「ヴニェ(超越)」
ストルガスキー兄弟の作品には、フョードロフやツィオルコフスキーのコスミズムへの批判がある。
征服や永遠の生ではなく、限界や相違を受け入れ、ヴニェ=他者の生活への介入をひかえるという態度
ヴニェは単に非介入というだけでなく、相手に細心の注意を払うことも意味する。
『ミステリーワールド』に類似する番組として、セーガン『コスモス』(1980)クストー『クストーの海底世界』(1966~1976)があり、この3者の共通性が論じられる。
その上で、セーガン、クストー、クラーク、ストルガツキー兄弟には、植民地主義や天然資源の採掘を探検の理由にすることを拒むという共通点があるとまとめられている。
5 ジェラード・オニールのさがすテクノロジーの強み
講義室でマスドライバーの実験をしたエピソードから始まる。
オニールの思想は、「惑星、表面、技術、拡大」というキーワードで表現される。
オニールは、惑星は資源採掘の場所と考え、人類が発展するには新たな「表面」=スペース・コロニーが必要だと説く。
『宇宙のフロンティア』『2081年』
定常的社会を批判し、自由と変化を何よりも重視
オニールの構想は、現代のニュー・スペースにもつながるが、のちのSF・宇宙科学では批判の対象にも
『アスボーン未来図鑑』『子供の未来カタログ』には、オニールの構想した未来社会のイメージが載った
1970年代、ローマクラブ『成長の限界』による悲観主義が出てきたことに対する抵抗として、オニールの楽観的未来像がある。
これに対して本書では、『サイレント・ランニング』(1972)、『ソイレント・グリーン』(1973)、『2300年未来への旅』(1976)が取り上げられる
これらはそれぞれ独立した作品だが、いずれもディストピアを描いており、あたかも三部作のようにして見ることができると論じている。
さらに『ブレードランナー』を四作目と位置づけることすらできるだろう。
『ブレードランナー』製作にあたって、未来社会のイメージを構築する際に『2300年未来への旅』は無視するようにという指示があったらしいが、しかし、実際には影響が見て取れると筆者は指摘している。
『テクノロジーの強み』(1983)
マイクロエンジニアリング、新世代ロボット、遺伝子工学、磁気浮上、空飛ぶ車、軌道上のエルドラド
ソニーへ訪問した話が載っているというのが、80年代っぽい。
やはりここでも、定常的社会か終わりなき変化か、と問題設定する。
オニールは何より個人の自由を最優先として、その次に平和を置く。
「はじめに」でも触れられているが、本書は「スペース・コロニー(植民地)」という言い方を原則採用しないが、オニールは、「植民地」「フロンティア」といった表現を臆面もなく採用する。
自由と変化による成長を、ホッケースティック型カーブ、S字曲線により表現している。
しかし筆者は、オニールの自由は、個人ではなく企業のものになっていないかと批判し、企業コスミズムとなっていると論じている。
筆者は、オニールに対置する形で、ル=グウィンを引き合いに出す。
ハイニッシュ・サイクルシリーズ
オニールが提案するように無限に宇宙に進出する未来。しかし、技術文明は永続しない。一本道ではない。異人への愛情。人間が世界を作るのではなく、世界が人間を作る
「『テクノロジー』にまつわる苦言」というル=グウィンのエッセイがある。
テクノロジーというと最新のマシンばかり取り上げられるが、紙やインク、車輪、ナイフ、時計、椅子、錠剤もまたテクノロジーだろう、と。
6 アメリカ航空宇宙局
冒頭、NASAで勤務していて、退職後も各地で啓蒙活動を行っていたある黒人男性建築家のエピソードと、映画『ドリーム』で有名になったキャサリン・ジョンソンのエピソードが触れられている。
前者は生前にはそれなりに知られた人物だったが今は無名の人物だし、後者は、生前は無名の人物だったが今は非常に有名になっている。その時々に応じて、イメージ戦略が変わる例として。
イメージ戦略
女性初の宇宙飛行士も黒人初の宇宙飛行士もソ連
ソ連はそうやって、自由の国アメリカに対するイメージ戦略をしかけていた。
アメリカ初の黒人宇宙飛行士候補者エド・ドワイトは、結局宇宙飛行士にはなれない。イメージ戦略のために、あえて候補に入れられていただけでは、ということで、エド・ドワイトに対する評価はかなり割れているらしい。
本人はその後、職を転々として彫刻家とかになっている。
大分遅れてアメリカでも黒人宇宙飛行士が誕生し、十数名が宇宙へ行っているが、スペースシャトル運用終了後、その歴史は途切れている。理由についてNASAは何も語っていない。
リック・ガイディスという画家・建築家がいて、未来像のイメージイラストを手がけていて、その絵を見るために筆者がNASAに取材にいったエピソード
そうした絵は、職員のモチベーションを高めるために用いられた。
NASAのエコノミスト、アレグザンダー・マクドナルドは、宇宙開発を動機づけるものとして(動物行動学でいうところの)「シグナリング」概念を持ち出す(しばしば動機付けとして語られる「威信」はシグナリングの一種)
探求、国防、威信、科学
フォン・ブラウンは、相手に応じてこれを使い分けるのがうまかった。
オニールの研究会とガイディスのイラストレーション
宇宙ステーション、月面基地、マスドライバー、月面オートメーション工場
NASAは、未来を作っている、雇用者に一緒に未来を作ろうというシグナルを出した
しかし、黒人は別のシグナルを受け取る。
宇宙開発のための予算を貧困対策に使うべきだとして、ラルフ・アバナシー牧師がデモ活動などを行う。アバナシー牧師に会ったペイン長官は、もし打ち上げないことで貧困層が救われるなら発射ボタンは押さない、と答えた(おそらくこれは反語的な話で、直接関係ないよという話だろう)。
スペースシャトル計画について、NASAは各方面の要望にいい顔しすぎたために、非効率なものになったと筆者は批判している(もともとブースターも再利用できる計画だったらしいが、ペイロード重量を増すために使い捨て固体燃料ブースターになったとか)
オニールは、一時期ティモシー・リアリーに好かれていて困っていた、という謎面白エピソード
プロクシマイヤー議員による予算削減。のちにNASAでは「プロクシマイヤーされる」という隠語ができたとか
7 オールドスペースとニュースペース
ベゾスとマスクの違い
アマゾン(ベゾス)はフルスタック志向。システム全体で考える
マスクは、ガジェット志向。個々の事物を刷新する
ベゾスは、特許を抱え込む
マスクは、特許を公開する
マスクの火星植民計画は、個人主義的(個別のドーム群からなり中心がない)
「誘発需要」という考えへのマスクのアンビバレンツ
マスクがフォン・ブラウンの後継なら、ベゾスはオニールの後継(本書では、ベゾスの描く未来像にオニールの影響が見られるくらいの書き方だったが、クリスチャン・ダベンポート『宇宙の覇者ベゾスvsマスク』 - logical cypher scape2によれば、実際、学生時代にオニールのゼミに所属していたらしい)
小惑星資源採掘
宇宙条約は、宇宙の領有を認めていない、資源採掘について明示されていない。資源採掘もできないとも読むことができるが、小惑星資源採掘ベンチャーであるプラネタリーリソーシズ社長のルウィッキーがロビイングを行って、宇宙活動促進法を成立させる。
アメリカは、企業の資源採掘を認めるという立法
こうした流れに筆者は明確に批判的だ
ULAの主任研究員で、のちに小惑星の資源採掘についての大学教員になったジョージ・サヴァーズは、宇宙資源開発を、農業革命、産業革命になぞらえる。
獲得できるエネルギー量の増加である。これは誘発需要を引き起こす。小惑星から資源がとれるようになれば、その資源に対する需要が生まれる。
しかし、筆者は、これは単に人を増やすだけであって、人の生活は変わらないと指摘する。今現在ある問題も温存される(人類の総人口が増えるとして、みんなハッピーになれるのではなく、やはり一定の人数は餓死したりする)。
トランプは大統領令で、宇宙がグローバル・コモンズであることを否定したが、筆者はむしろ、宇宙をグローバル・コモンズととらえることや宇宙条約を重視する。
こうした考えは、宇宙の生活をよりよくしていくための「政治的テクノロジー」なのだと筆者は述べる(ここでいうテクノロジーは、ル=グウィンのテクノロジー観を念頭においている)。
おわりに――別の物語を見つけること
アフロフューチャリズム
「黒人」という概念は作られたものである
ユートピアの裏には、強制労働などの「地獄」がある
宇宙軍
自分たちの構想を受け入れるのにどんな世界を作ろうとしているのか、どんな世界な受け入れられるのか
宇宙にも資源の限界はあるのではないか(太陽系の資源を採掘しまくると、数百年で尽きるという試算をした研究があるらしい)
資源採掘植民地主義はうまくいない
筆者は、乱雑さがある方がいいと主張し、乱雑さのある未来社会の一例として、スターリングの『スキゾマトリックス』を挙げる。スターリングは、バナール『宇宙・肉体・悪魔』から影響をうけている。
また、「インターギャラクティック・レイルロード」というポッドキャストについても称賛している。
ニュースペースと「逃避反対主義」
宇宙開発は、地球上の問題からの逃避であるとして、これに反対する「逃避反対主義」という動きがあるが、筆者は、この両者を表裏一体の関係であるとして、どちらにも与しない。
ユートピアとディストピアの二元論をこえて
感想
読後にググっていたら、福嶋亮大や大森望による書評などを見つけた。この両者はともに、クラークの扱いについて指摘している。つまり、何故主に扱っている画の、クラークの小説作品ではなく、クラークの名を冠したテレビ番組なのか、と。
まあ確かに、クラークの章は謎といえば謎な章ではある。
小惑星の採掘をなし崩し的にokということにしてしまっていいのか。グローバル・コモンズなんじゃないのか、という問題提起はいいとして、それに対する対案があんまりないなあという感じはした。
宇宙開発は十分正当化できないっていって、宇宙開発自体に反対してしまった方がすっきりするんじゃないか、とも思ったりする。
オルタナティブとしての、バナールやクラーク、ル=グウィンなどが出てくるわけだけど、これらに共通点があるのか、系譜が描けるのか、というとそのあたりが定かではない。
ただ、バナールって、最近『宇宙・肉体・悪魔』が復刊されたので自分は知ったのだけど、逆にその書名しか知らなかったので、もう少し知ることができてよかった。あと、この本がタイトルがなかなかおどろおどろしいので、それの意味が知れたのもよかった。
クラークは超有名人ではあるけれど、しかし自分個人は実はあんまり知らないので、ハードSFだけとちょっと神秘主義的、「内」へと潜っていくタイプの作家という整理が紹介されていて、ちょっと勉強になった。
本書のポイントは、オルタナティブな思想を示すことよりむしろ、フォン・ブラウンdisなのかもしれない。
訳者あとがきによれば、筆者自身、本書のための取材を通して、フォン・ブラウンを偉人として無邪気にみられなくなったと述べているらしい。
フォン・ブラウンがナチス・ドイツのもとでV2ミサイルを作っていたことは周知の事実であり、そもそもだからこそ、渡米後もすぐには宇宙開発の表舞台には立てなかったわけだが、その後のアメリカの宇宙開発を牽引してきたこともあって、そこまで強く非難もされていなかったのではないかと思う。
『フォー・オール・マンカインド』というAppleTVのドラマがその点では面白くて、ソ連がアメリカより先に月面着陸に成功していたら、というifの歴史を描くドラマなのだけど、フォン・ブラウンも登場する。ただ、途中でNASAから追放されてしまう。理由は、ナチスへの戦争協力の咎によるものなのだけど、ソ連に先を越されたことのスケープゴートにされたという方が正しく、その点ではフォン・ブラウンが被害者のように見える描かれ方がされている。しかし、その一方で、本作の主人公の一人でありフォン・ブラウンの教え子であるマーゴは、フォン・ブラウンのナチス協力への嫌悪を隠さないし、彼女との関係の悪化はフォン・ブラウンを罰するものでもあるだろう。このドラマは、フォン・ブラウンを好々爺然として描いているが、evilな部分もあわせもった人であることも描いている。
そして本書は、フォン・ブラウンの宇宙開発の思想が、征服や支配という考えと結びついていること、彼がおそらくは強制労働を容認していたのであろうことを述べて、かなりはっきりとevilな存在としているように思う。