これの続き。
本当は、授業内で読む予定だったのだが、都合で中止になってしまったので、個人的に読んでみた。
懐疑説の議論の例として出てくることの多い「水槽の中の脳」だが、そして実際その要素も含んでいるのだが、議論の文脈はそれとは異なる。
むしろ、問題提起としては前回のサールと同じである。
つまり、「理解」とは何か、という問いである。
サールは、「理解」には志向性が必要であり、それはもしかすると生物学的に産出されるのではないか、と述べた。
やはりパトナムも「理解」における志向性の役割に注目する。
統語論だけでは、意味を理解することはできない。ないし、チューリングテストに合格できるだけでは知性があると認められない。この点で、サールとパトナムは一致する。
しかし、パトナムの場合、この志向性が一体どのように可能になるのか、に関して外在主義の立場をとる*1。
ここで、一匹の蟻が砂地を這い回ってできた線が、チャーチルの顔に似ていたとしても、それはチャーチルの似顔絵ではない、とか、世界が滅びた後も永久にお互いを騙し続ける二台の人工知能、とか、わりと有名なたとえ話が出てくる。
それから、双子地球や双子地球のニレとブナの話なども出てきて、「水槽の中の脳」も含めて、一本の論文の中にこんなに有名な話がいくつも入っていたのだなあ、と思った。
あらゆる表象*2が、表象ではないものを指示している。このことを志向性と呼ぶが、従来その性質は表象が有している、と考えられてきた。
それに対してパトナムは、世界ないし文化ないし共同体といったものがそれを支えているのであって、表象が内的にその性質を有しているわけではないことを主張する。
パトナム自身、ウィトゲンシュタインに言及しているが、この考え方は非常に、後期ウィトゲンシュタイン的な、言語ゲーム的な考え方であると思う。
表象の志向性という性質を探求する哲学的な試みにおいて、表象そのもの(心の哲学であれば心的状態)を分析してもナンセンスなだけなのである。それでは、表象そのものに何らかの、つまり志向性という、神秘的な力を与えて終わり、ということになってしまう*3。
志向性は表象そのものにあるのではなく、その表象と外的対象を結びつける運用能力のことなのである。
つまり、ある表象が何を意味しているのか、ということは、表象そのものではなくその表象を巡る状況に依存してくるのである。
さて、「水槽の中の脳」であるが
パトナムはこれを「自己論駁的な想定」という。
自己論駁的な想定の例としてあげられるのが「全ての一般言明は偽だ」あるいは「私は存在しない」である。
これらの想定は自己矛盾を起こしてしまっているので、偽なのである*4。
もし「われわれは水槽の中の脳である」という言明が真であるとしよう。その時、この言明における「水槽」ないし「脳」は何を意味しているのか。それはパトナムの外在主義によって考えるのであれば、それは「われわれ」にとっての「水槽」や「脳」である。つまり、例えばもしその脳がある種のコンピュータに繋げられているとするならば、そのコンピュータが生みだしているイメージの「水槽」や「脳」のことを、その言明中の「水槽」や「脳」は指示しているのである。
だがしかし、そもそも「われわれは水槽の中の脳である」という言明は、そのようなイメージの
「水槽」や「脳」ではなく、そのイメージの外にあるはずの水槽や脳のことを想定している。
つまり、この言明が真であるような状況のとき、この言明は偽である(言明の中の「水槽」や「脳」が指示している対象が一致(?)しないから)。
ゆえに、この言明は「自己論駁的な想定」であって、必然的に偽である。
しかし、とにかくパトナムがこの論文で主張しているのは、意味ないし指示ないし志向性というものの外在主義であって、懐疑説云々の話ではない。
懐疑説への否定は、外在主義的立場にたったときの副産物のようなものだ。
この論文は、以下の本の第一章。残りはあとで。
理性・真理・歴史―内在的実在論の展開 (叢書・ウニベルシタス)
- 作者: ヒラリーパトナム,Hilary Putnam,野本和幸,三上勝生,中川大,金子洋之
- 出版社/メーカー: 法政大学出版局
- 発売日: 1994/09
- メディア: 単行本
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*1:それに対してサールは、内在主義的と言ってよいのではないか、と思うのだが、ちょっと内在主義という言葉への理解が今あやふやなので保留
*2:ここでは文字などの記号のみならず、心的状態も含む
*3:おそらく、その神秘的な力の候補として目されているのがクオリアなのではないかと思う。もちろん、クオリアと志向性は別ものであって、サールなんかは多分クオリアを持ち出さなくても志向性を説明することができると思っているのだろう。もしクオリアが一体何であるのかが説明可能になったとしたら、クオリアは志向性を説明する道具になりうるのではないのかなあ、という話。志向性とクオリアは別物ということについては、「志向的クオリアなんておかしな用語を頼るのはやめよう運動」(蒼龍のタワゴト)、志向性(とパトナムとサール)については「志向性について」(知識の積み木)、クオリアについては「日本の俗流クオリア論を撃破する」(蒼龍のタワゴト)、「意識のハード・プロブレム」(wikipedia)
*4:もし「全ての一般言明が偽である」という言明が真であるならば、「全ての一般言明は偽である」という言明は一般言明であるので偽である、ということになってしまうので、そもそも「全ての一般言明が偽である」という言明は偽なのである