新潮12月号(瀬戸内寂聴、佐藤友哉、中原昌也、谷川俊太郎)

秘花(瀬戸内寂聴

瀬戸内寂聴の小説を初めて読んだ。
世阿弥が自分の一生を回想する、というもの。
猿楽を広く世に認めさせようという意欲に燃える父・観阿弥、風流で移り気な権力者足利義満、義満と世阿弥の師匠である二条良基、そして元白拍子世阿弥の妻である椿、といった人々との出会いや関係。
世阿弥はとても冷静で、淡々と人々のことを見ている。回想というせいもあるけれど、「離見の見」というのが気にかかった。
二条良基の閨(世阿弥は、義満、良基と男色関係にある)で、世阿弥はどこまでが本当の自分でどこまでが演技している自分か、分からなくなる。観阿弥に言わせれば、猿楽は物まねの演芸。世阿弥は、幼い頃から様々な人の仕草を真似ることを身に付けられている。
メタ視点というのか、演技する、とか、ふりをする、とかいうのは、なかなか興味深い題材だ(というのは、瀬名の『あしたのロボット』(文庫版『ハル』)に収録されている「ハル」や『第九の日』に収録されている「決闘」なんかも同様。ロボットは演技できるのか)。
という点からも読めるけれど、それ以外にも諸行無常な世の中とか、人間関係とか、芸についてとか、色々な視点で色々と楽しめる。
観阿弥世阿弥という、個人的に何の興味もないジャンルだったのにも関わらず、わりとスラスラと読める作品だった。

1000の小説とバックベアード佐藤友哉

新潮を買って読んだのは、勿論これが目当て。
文体は勿論佐藤友哉なんだけど、何というか村上春樹、それも『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』を思わせる展開だった。「やみ」とか、本棚に隠れている社長室とか、地下奥深くにある図書館とか、そのガジェットの登場の仕方や使い方に、『世界の終わりと〜』っぽさを感じた。あるいは「日本文学」っていう名前の謎の人物を探さなきゃいけなかったり、謎の姉妹が登場したり、とかも春樹っぽさを感じる。内容は全然違うけど。
「友がみな僕よりえらく見える日は刃物を振るいてお前らザクザク」
ユヤタン節が相変わらずいい。
あと、高橋源一郎『日本文学盛衰史』でもある。とにかく、日本近代文学への言及がとても多い。上に引用した文も、啄木のパロディだし。テーマが、(あえて言うならば)小説の再興であるのだから、当然と言えば当然だが。
その他、シーンごとに細かくチェックしていったならば、色々と面白いんだろうな、と思うシーンはちらほらと。
とりあえず気になったことをいくつかメモ。
配川つたえが送ってくるDVDは、人の感情を機械的に刺激する。そういえば、片説もそれに近いのか。人間の感情というのは、機械仕掛けみたいなところはあって、刺激と反応の関係がある。サプリメントとしての物語っていうのは、それこそ瀬名も『八月の博物館』で言っていた。とにかく感情を効率的にブーストさせてやる刺激物さえあれば、案外多くの人にとって小説というのは必要ないだろうと思う。ハリウッドの映画が、そういう点で緻密に計算されて作られているのは有名だけど、ああいう技術を発達させていけば、極端な話、錠剤でもいいんじゃないか、とか思えてくる。
そうではなく「小説」(あるいは「映画」でもいいと思うのだが)がある、というのはどういうことなんだろうか。つたえのDVDや革靴の『言語』と「小説」というものの差異というのはあんまりしっかり説明されていなかったような気がする。南野は面白ければいいじゃない、というけれど、木原とゆかりはそれを受け入れられないわけで、サプリメントと小説にははっきりと線が引かれている。一方で、木原はつたえのDVDを「小説」って呼んでいる。
そして、木原とゆかりは、新しい小説を目指すこととなる。これが、近代文学史と関わってくるわけだけど。
そもそも文学をつづる言葉というのは、割に人工的に作られたところがあり、言葉と実感(?)というのは乖離してしまう。言葉の世界と生活世界との乖離とでもいえばいいのか。『日本文学盛衰史』では、とにかくその乖離に悩まされる、二葉亭や啄木などの姿が描かれ続けているわけだけど、同じ悩みが木原(佐藤)にものしかかってくる。で、言文一致体を作ったときのように新しいものを作りなさいよ、という話になる。
この新しい小説、というのは、何なんだろうな。
以前、三浦俊彦が、解釈的リアリズムと解釈的ニヒリズムという話をしていた。哲学用語で言い直すと、前者は実在論、後者は唯名論となる。実在論的立場をとると、言葉の世界と生活世界との乖離に関しては一種の判断停止を行わざるを得ない。でも、唯名論的立場をとってしまうと、それこそニヒリズムへと落ち込んでいく。実在論を否定すれば、「何も書くことがない」とは言わざるを得ないだろう。
というわけで、新しい小説というのは、実在論とも唯名論とも異なる立場へと進む必要が出てくるのではないだろうか。
それがどんなのか考える前に、そもそも何故そんな困難な道を歩まねばならないのか。それはつまり、何故小説は書かれねばならないのか、という問いにもつながる。この問いは、この作品の中ではわりと隠蔽されているような気がする。典型的な依頼パターンだし(これも村上春樹的な雰囲気を感じる要因かな、探偵も出てくるしね)。ただ、これは佐藤友哉作品の中では、初期から一貫して貫かれている、弱者と強者の対峙が根にはあるのだろう。弱者は強者の邪魔にならないように死ね。しかし、ユヤタンは強者ではないのだ。というよりも、弱者だろうが強者だろうが、馬鹿げた世界が待ち受けている限り死を免れるのは困難、というか不可能。それでも死を免れようと、強者たろうとあがく中、「小説を書く」という特権的な行為が浮き上がってくる(「世界の終わり」シリーズを見よ)。
で、次に新しい小説とは何か。もちろんこんな問いに答えを出せるわけもないのだが、ラストシーンの文字の海とその循環は重要なヒントになる。世界には、表現のオートポイエーシスとでもいうべきシステムが備わっているのではないか。これはたぶんに唯名論的な考え方なのだけど(ベケット的というか)、しかしそこから立ち上がってくるものは必ずしも空虚でもニヒルでもないんじゃないか、と。少なくとも木原は、文字の循環する系の中でそういう何かを見たのだろう。
そこで気にかかってくるのが、文字と言葉の違い。この場合、言葉は特に音声言語を指すのではないか、と思う。そして、音声言語ってところからは、革靴の『言語』が想起される。音声言語というのは、明らかに日常世界の側のものだし、そういえば感情のトリガーともなるだろう(内容ではなく声色や調子によって)。文字と声の関係、というと、デリダだなんだと言いたくなるけれど、そしてもちろん言文一致運動ということも絡んでくるけれど、佐藤はこの作品でこの2つをどう関係づけたのか、まだよく分からない。
う〜ん、何だか凄いことをやらかそうとしている感じはある。今までの佐藤とは違うのも分かる。物語として面白かったし、ここに書き上げているようなことを考えさせられた。
しかし、まだ消化不良で判断尽きかねる部分も多い。
細かく読み込んで分析すべきなのかな。ミステリとまでは言わないけど、そういう伏線処理っぽいのも見受けられるし。

怪力の文芸編集者(中原昌也

ひたすら文章のサンプリング!
「誰が見ても人でなし」で見せたリフレインが、よりいっそう激化している。
これはもうとにかく文字通り、小説でDJをやっている、としか言いようがない。同じフレーズを繰り返し流しつつ、スクラッチを混ぜたり、イコライジングしたり、シーケンスしたネタをかぶせたり。
しかしこれを読むのは、ある意味苦行。DJは人を気持ちよくさせるが、これは一体どうなんだ。ノイズ系サウンドだと思えば楽しめるのか。
最後に「この作品の原稿料でサミュエル・ベケット(1906〜1989)の墓があるフランスへ行こうと思います(筆者)」と添えられていて、何だか嬉しくなった。いや、ベケットは読んだことがないんだけど、似ているような気がしなくもないので。それにしてもベケットは83まで生きていたのか。

愛羅武現代詩(谷川俊太郎都築響一対談)

何となく読み始めたら、何となく面白かった。
文字と声の関係。
食うために書くのか、書くために書くのか。
あれ、「1000の小説とバックベアード」みたいじゃない?
結局文学の世界にある問題、というのは、古今東西でわりと同じだったりするんじゃないだろうか。
とりあえず、詩人とは一体何者なのか(どうやって生活しているのか、金を得ているのか)ということを知れるだけでも面白い。詩の世界というのは、よく分からないけど、それがちょっとだけ分かる。
で、谷川俊太郎というのは、詩の世界ではあんまり認められない人だったのか、ということも全く知らなかったので、へぇと思いながら読んだ。
谷川が、メッセージではなく言葉の存在感を重視している、という話が気になった。
「目の前にあるコップと同じくらい確実にそこに言葉を存在させたい」
『ことばあそびうた』は誰でもが知っていると思うけど、そういうことから書かれたのか、と思うともう一度読んだり聞いたりしたくなる。言葉を材料としていじくりまわす。言葉で表現される世界より、言葉そのものに興味があるという態度(佐藤友哉のところで、実在論唯名論の話をしたが、この場合これは唯名論の立場に近い)。そこに、相田みつおとの違いがあるそうな。相田みつをに対する谷川俊太郎の考えも、面白い。谷川ファンと相田ファンというのはかぶっているらしいが、相田と一緒にされることはあまりよく思っていないらしい。しかし一方で、相田を沢山の読者が支持していること自体は肯定的に評価しているみたい。
最後に「詩人格」という話が出てくる。対談相手の都築という人は、精神病患者の書いた詩を集めた本を出したらしいんだけど、やはりそれは詩とは認められないらしい。そこには「詩人格」がないから。でも、精神を病んでいる(と似た)状態にインスピレーションの元があるから、親近感はあるとか。


『新潮』