脱構築から遠く離れて(クリップとメモ)

エントリタイトルに深い意味はない。
最近自分のサイトにupした文章↓と問題意識が通じていそうなエントリをクリップ。
文系ヘタレがサバイブする(?)ために

2006.11.19
今年の4月頃に、同じ大学の友達に向けてアジった(笑)時のレジュメとプレゼンファイルを、さっき偶然発見。
一応ずっと考えていることの一つだし、それなりに面白いような気がしたのでupしてみる。
普遍主義、ヒエラルキー/ツリー構造的な知・教養といったものが、批判され、そして事実として破壊されてしまった現在、文系ヘタレがやるべきことは、もう一度知を秩序立てることなのではないか、とこっそり思っているわけです。そんな簡単にできることじゃないですけどね。


用いられている概念の整理と基礎付け問題(蒼龍のタワゴト)

正当性justifiability-正統性legitimacyと、何が人間的か(Quality of Life)-何が人間か(Sanctity of Life)*1と、が同じ対立

http://d.hatena.ne.jp/deepbluedragon/20061123/p1

私なりに解釈すると、正当性-正統性の対立の境界を認めるか否かで、前期ロマン派-後期ロマン派の対立が生じると考えるのが妥当だ。もちろん境界を認めないほうが前期ロマン派だ*3。英米の反基礎付け主義も独仏の脱構築思想も、確固とした基礎を拒む点では同じだ*4。ここからが基礎であるという境界を認めることは現在の私たちにはもうできない(はず)。これこそが基礎だと表象することは原理的に出来ない。しかし、それは形而上学的な問題というよりも、共通の経験基盤*5がない(失われた?)という経験論的な問題でもある。


ここで疑問が湧く。近代社会に共通の経験基盤は本当に必要なのか。グローバル化が進んだ暁にはそんなことどうでもいいのではないか。

http://d.hatena.ne.jp/deepbluedragon/20061123/p1


誤読による大きな物語の再構築(白痴日記)

現代人は圧倒的に知識が足りない。昔は自分が子供だから知識が足りないのだろうと感じていたけどどうもそうでは無いらしい。もちろん勉強を続けて行けばディティールは細かくなるけれど圧倒的に知識が足りないという所から抜け出せる事はないように思える。

http://d.hatena.ne.jp/Muichkine/20061122/1164231132

ほとんどの人間がそれそのもの、自分が立脚する大骨になるようなシュギに対してすら知識が圧倒的に足りない。そうなってくると当然馬鹿らしいから大抵の人間は(頭が悪いわけじゃなくて見通しがききすぎているから)どんなシュギも持たなくなる。はっきり言って自分も今立脚している立場が誤読の産物でしか無いという事を否定しきれない。

http://d.hatena.ne.jp/Muichkine/20061122/1164231132

誤読による世界観の肯定。もしかしたら無知でいいじゃんみたいなエクスキューズにしかならないのかもしれないけど。

http://d.hatena.ne.jp/Muichkine/20061122/1164231132


メディアの「分量」(NoHedge!)

社会的に何が重大で何がそうでもないのかを、記事が占める面積で相対的に評価している。ニュースは時間によって評価する。こうしたやり方は、社会的にいったい何が重要なのかを感覚的に把握できる反面、その基準はあくまで報道する側にあり、見る側に判断の主体性はない。報道する側のイデオロギーに操作される可能性もある。

ではネット上のニュースはその重要性を比較することは出来ないのか。単なるリンクの一つ一つとして処理されるのか。僕はソーシャルブックマークが社会的な役割を持つとすればここにあるのではないかと思う。ソーシャルブックマークはテレビや新聞と違い、「何が重要なのか」を見る側が判断し、ブックマークされている量で視覚的に重要度が分かる。

http://d.hatena.ne.jp/klov/20061122/1164202598


ネットと既存メディアの現況に関する考察?(logicalcypherscape)

・それはそれで構わないとして、しかし何らかのある民意の形成が必要なとき、パブリックな空間は如何に作られるのか。集団ごとに、情報のフィルタリング・秩序化が異なっている以上、装置の異なる者同士でのコンセンサスを如何に得ればよいのか。そもそも、そのような異なる者の存在を可視化できるのか。
・従来、それを担っていたのはマスメディアであるが、現在では既にその位置を失っているように見える。既存メディアは、マスメディア、総合メディアであろうとし続けようとして、むしろコンテンツの質の低下を招いているのではないか。(というか、そもそも既存メディアがマスメディアであった時代は、装置の恣意性は明らかにされていなかった。故に既存メディアは、異なる装置を使う者の存在への意識がほとんどない)
・パブリックな空間の形成が、もはや既存メディアの編集によってなされるのではないとしたら、これからは例えばソーシャルブックマークアーキテクチャによってなされるのだろうか。

http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20060715/1152945796


■大澤真幸萌え(おまえ)(【試験】おたく文化研究会【運用中】)

「外部」というものがあるはずで、それを探さなくてはいけないという意識が90年代にはあったのではないだろうか。

http://d.hatena.ne.jp/OBK/20061119

探していた外部は見つからなかった。人を殺してみたかったという理由で殺人を犯す少年はいなくなった。少なくとも90年代に十代だった人間にとって、極めて非倫理的で非人間的行為によって自分を変質させることができるのではないかという期待は理解不可能ではなかったのに。

http://d.hatena.ne.jp/OBK/20061119

現在、ハルヒの解答は、隣にいる人間こそ外部性の端緒

http://d.hatena.ne.jp/OBK/20061119

佐藤友哉が書いた内容は、世界は世界で存在していて、歴史は歴史で存在していて、自分は自分で現在の場所にいるしかないが、それでもわずかに自分の内部にずれを持ち込むことは意味があるという考えだったはずなのだから。

http://d.hatena.ne.jp/OBK/20061119

軽くまとめると

大きな物語」と呼ぼうと「コモン・ノレッジ」と呼ぼうと「共通基盤」と呼ぼうと、どうでもいいんだけど、そういうものが崩壊しつつある(あるいはそもそもない)。
その状況の端的な具体例が、メディア状況の変質(マスメディアがもはやマスメディアとしては成立しない/情報をコントロールする立場が、送り手から受け手へと変わった)だろう。
そういう状況になると、正当性は乱立するが、正統性が成立しない。あるいは、「自分の立脚するシュギ」が社会の中でうまく立ち上がらない。あるいは、特権的なトポスを持つことが出来ない。
まあポストモダン化と言いたければ、そう言ってもよい。
そのような状況下で、どのようにサバイブするか。

嘘でも基礎は必要なのか?基礎などあいまいなまま(多くの犠牲を伴いながらも)*7誤魔化し誤魔化しやっていくしかないのか?それとも他にも道が…?

http://d.hatena.ne.jp/deepbluedragon/20061123/p1

自分は、誤魔化し誤魔化しやっていくことになるのではないか、と思うが、それにしたって何かうまいやり方はきっとあるはずで、とりあえず「嘘でも基礎を作っ」てみるのがよいのではないだろうか、と考える。

安易に全体性を語ってはいけないが、一方で専門知の乱立だけでもどうしようもない。だから、暫定的な公共性を作らないんじゃいけないのか、近代って奴は結局そうしないと回らないだろう、という話

http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20060410/1144657713

ただ、メタ的な基礎を作るのではなく、インター的な基礎を作らないといけないのではないか。暫定的な公共性≒インター的な基礎(知)
その具体的な実践として、id:Muichkineの「誤読による世界観の肯定」はあり得る戦略の一つかもしれない。
id:OBKさんの、「自分の内部にずれを持ち込むこと」もおそらく同様のことだと思う。
あと、ここで言われている「外部」とハイデガーの「存在」がつながれば、きれいにまとまるんじゃないか、このメモ群も。


ところで、インター的というのは、東の郵便的にヒントを得ているのだが、「『否定神学』批判の陥穽――『理論』の地位のために」(pdf)で、東の郵便論が批判されている。
東は、ゲーデル脱構築デリダ脱構築の区別を主張するが、実はこの2つの違いは曖昧なのではないか。そして、東のいうデリダ脱構築は、単なる相対化に過ぎず、複数の超越性などはありえないのではないか。東のやっていることも否定神学であり、否定神学は必ずしも批判されるものではない、というような内容。
用語の整理、という感じもしなくもないんだけど。