藤野可織『いやしい鳥』

デビュー作「いやしい鳥」を含む3篇を収録した作品集
鳥、恐竜、胡蝶蘭がそれぞれ登場し、少し奇妙な世界を展開する。


藤野作品は以前から雑誌やアンソロジーで少しずつ読んでいたが、最近ふと、もう少しちゃんと読もうかと思い立ち、藤野可織『おはなしして子ちゃん』 - logical cypher scape2を読んだ。
次に何を読もうかなと思った時に、この本を手に取った主な理由は、恐竜というキーワードが目に入ったからなのだが、『おはなしして子ちゃん』の次くらいに出版されていたので、順番的にもちょうどいいかという理由もあった。
ところが、実際に開いてみたら、デビュー作が収録されていてちょっと驚いた。実は、単行本としては2008年に刊行されており、著者初の単著だが、文庫化は遅れていたらしい。

いやしい鳥

主人公の「俺」視点で描かれる一人称のパート、その隣家の主婦の視点で描かれる三人称のパートが交互に展開する。
「俺」は大学や専門学校で非常勤講師をしているのだが、学生と飲み会をしたときにたまたまトリウチという男と居合わせる。同じ大学の学生らしいのだが「俺」とは面識がなく、しかし、帰宅時に泥酔したトリウチと鉢合わせてしまい、自宅につれてこざるをえなくなる。
そのトリウチが、「俺」の飼っているオカメインコのピッピをあろうことか食べてしまう
そして、さらにトリウチは次第に鳥の姿へと変身していく。
なかなか不気味でホラーっぽい話で、というのも「俺」が、その後「俺」の元を訪れた恋人に対してことの顛末を話すという体裁になっていて、状況を生々しく語っている感じになっているから。また、トリウチの異様にウザい感じも次第にむしろ不気味に感じられてくる。
また、トリウチは鳥の姿になっても、その大きさや性質などは人間のままで、主人公との間で攻防が繰り広げられることになる。
そして、隣家の夫婦は、自宅のまわりで不審な行動をとる主人公を訝しがるが、その家の中でまさか人が鳥になっているなんてことは想像すらしない(夫は近く夜逃げするのではないかと推理する)。
最後に、「俺」と連絡がとれなくなっていた恋人が訪れ、ここまでの「俺」一人称パートと三人称パートがつながって、「ピッピは死んだ。いや殺された。いや、殺した、俺が」という冒頭のセリフが再び現れ、構造としてはループして終わる。
ところで、「俺」の一人称パートは、語りかけているものなので、時々「きみ」という二人称が出てくるのだが、これも最後にループすることで、なるほど彼女のことだったのかと分かるのだけれど、「俺を洗って乾いた布巾で拭いてくれたのはきみだった。でもきみは俺だってことに気づかないで流しの下の戸を開けて、包丁差しにすとんと差して、ぱたんと戸を閉めてしまう。」というところは何だったのかがよく分からない。ここ、いつの間にか寝落ちて夢だと気づかずに夢を見ているシーンなのか?
作中で、鳥になったトリウチを見ているのは「俺」だけなので、本当に鳥になってしまったのかは不明といえば不明だが、鳥になった猫を主婦の方が目撃しているのが最後に少し出てくる。


読み終わったときに「これがデビュー作か」という驚きがちょっとあった。
いや正確に言うと「この作品でどこからデビューしたのか」という驚きかもしれない。
面白いし完成度も高いと思うけど、ジャンルが不定でつかみどころのない作品でもあるので(その点でこの作者らしさが発揮されているともいえるが)。
改めて確認してみると、2006年第103回文學界新人賞でデビューしていた。
で、続く第104回文學界新人賞をとっているのが円城塔の「オブ・ザ・ベースボール」だった。ちなみに当時の選考委員は、浅田彰川上弘美島田雅彦辻原登松浦寿輝だったよう。
また、『文學界』2008年7月号で、赤染晶子円城塔谷崎由依藤野可織の4人で座談会をやっていた。
『群像』『新潮』『文學界』7月号 - logical cypher scape2

溶けない

女子大生の主人公が、怪我をした上の部屋の住人(で同じ大学の学生)の入院先にお見舞いに行き、自分の子ども時代に起きた出来事を話し始める、というところから始まる。
子ども時代に母親が恐竜に食べられたという。
ここで出てくる恐竜は、ティラノサウルスとかトリケラトプスとかいった実在する種ではなく、黄色い目と岩のように黒い肌をして紫色の舌をもつ「恐竜」である。
買い物から買ってきた母親が再び家を出ていき、追いかけたところ、マンションのエントランスの先が洞穴になっていて、それが実は洞穴ではなく恐竜の口で、母親は食べられてしまった。
ところで、あとになってこの母親は登場する。母親は死んでおらず、翌日には家に帰ってきている。しかし、主人公は偽物の母親に変わってしまったのだと思っている(た)。
恐竜が再び現れて、上の部屋の住人を食べようとしていたので、主人公は昔のことを思い出したのだった。
この恐竜の話は、主人公の妄想なのか、何かの比喩・象徴なのかとも思われるのだが、はっきりとしない。主人公が自転車に乗っている時に、大家に腕を引っ張られるシーンがあるのだが、恐竜から大家が主人公を助けようとしての行動として描かれている(ただし、大家は恐竜ではなくコモドオオトカゲだという)。
この話の主眼はしかし、恐竜というよりも母と娘の関係についての物語である。
大学から一人暮らしを始めた娘の家へと訪れた母親は、タバコの跡を見つけて詰問する。一方、主人公の方は、恐竜の話をし始める。
主人公は、昔の話を思い出すにつれて、母親だけが食べられたのではなく自分も食べられて、しかし溶けてなくなってはいないと考えることで、母親と和解しようとする。むろんその話は母親には伝わらないので、互いに話があわない。
タイトルの「溶けない」は、母親は溶けないという意味で、母と娘の間に残るわだかまり(?)を示唆しているのかもしれない。
この話も、恐竜という要素が日常世界の中に挟まれる感じが、ジャンル不定な独特の感じをもたらしているのだが、母娘関係というテーマがわりとはっきりしているので、「いやしい鳥」よりも話の意味は分かりやすい。
ただ、母娘が結局決裂する話で、最後に「溶けたりしないくせに」と捨て台詞的なのを残して終わるのがざらっとする。
ところで、『戦後短篇小説再発見4 漂流する家族』 - logical cypher scape2をまた作るのであれば、収録してもよいのではないかとも思った。

胡蝶蘭

以前、日下三蔵・大森望編『超弦領域』 - logical cypher scape2で読んだことがあった。読んだことは覚えていたが、内容は忘れていた。
本書収録作の中では最も短い。
ちなみに、初出は同人誌のようだ。
主人公が通勤中に前を通る洋菓子店に置かれていた胡蝶蘭が、血でぐっしょりと濡れていて猫の首が落ちている。
店の者が捨てようとしていたので、譲り受ける主人公。
翌日、部屋の中には鳥の死体があり、胡蝶蘭に対して、お礼のつもりかもしれないがこういうのはいらない、と言って聞かせる。
主人公は、その店の者と恋人関係になり、胡蝶蘭も同居人としてうまくやっていく

解説

江國香織が巻末に解説を寄せているが、「おそろしい」「充足している」ということを述べている。
江國は「おそろしい」に複数の意味をのせているが、一番直接には内容が怖い、というのがある。上で「少し奇妙」と書いたが、怖いとか不気味とかいった形容もできるかと思う。また、藤野作品は、度々大森望編の年刊SF傑作選に収録されることがあるが、奇想SF枠扱いされているのかなと思う。
単純に、作中で起きている出来事が怖い・不気味、というのもあるが、主人公となる登場人物の感情やあり方も不気味だったり鬼気迫るものがあったりする。
また、江國が「充足している」という時にどういうことを意味しているのかはよく分からないところもあるが、こういう奇妙なことが起きる世界があるという手触りはすごくある。

石毛直道『麺の文化史』

普段こういう本、つまり文化人類学の本や食文化の本を読んでいないし、本を読むほどの興味関心を抱いている分野ではないのだが、しかし、日常生活において、料理や食文化についてちょっとした疑問を抱くことは度々あって、その都度、wikipediaを読んだりしていたのだが、そうしたなかで、偶々この本の存在を知ってちょっと開いてみることにした。
正直、結構読み飛ばしながら読んでしまった*1が、内容自体はとても面白かった。
学術書というよりは、紀行文というような要素も強い本になっている(一方で、参考文献として外国語論文とかもガンガン出てくるが)。


麺類というのは、わざわざ細くしないといけない食べ物なのに、何故洋の東西を問わずに広まっているのだろうか、というのが個人的なささやかな疑問としてあり、この本はまさに麺類の起源と伝播を扱っているということで、読んでみた。
意外にも(?)分からないことも相当多いということが分かったが、一方で、大雑把な見取り図のようなものは得られたし、ぼんやりと抱いていた考えが裏付けられる面と裏切られる面の両方があって面白かった。
また、麺類全般が好きではあるが、中央アジアやモンゴルの麺類などは全然知らなかったので、機会があれば食べてみたい気もした。

1 麺のふるさと中国
2 麺つくりの技術
3 日本の麺の歴史
4 朝鮮半島の麺
5 モンゴルの麺
6 シルクロードの麺
7 チベット文化圏の麺
8 東南アジアの麺
9 アジアの麺の歴史と伝播
10 イタリアのパスタ
11 ミッシング・リンクをさぐる
12 あらたな展開


目次を見れば一目瞭然のように、基本的にはアジア圏についての話をしている。
麺という言葉も若干厄介で、中国語の麺やイタリア語のパスタは、日本語の麺よりも指す範囲が広い(小麦粉で練って作ったものを指すので、細長くないものも指す)。
本書では、細長くしたものを煮たり焼いたりして主に主食として食べるもの、ということをとりあえず麺の定義としている。
麺の分類方法として、本書では製麺方法を採用している。手で伸ばして細長くする麺、広げたあとに包丁で細く切る麺、押し出し器によって作る麺というのが、大雑把な分類で、さらにその中でもう少し細かく分かれる。
小麦以外、例えばリョクトウで作る春雨とかは押し出し器で作るらしい(小麦と違って粘りけがないので)
また、これは冒頭の筆者のエピソードにも書かれているが、切るためには、まず広げるための平らな面が必要になり、これがある程度技術が発達していないのと用意できなくて、いつから作られ始めたのか、というのが一つの論点になるらしい。
6世紀に北魏で書かれた『斉民要術』という本があって、これは農業の本なのだが、当時のレシピとかも入っていて、ここに最古の麺類レシピがあるらしい(水引餅という)。
著者の知人である料理人とともにこのレシピを再現して作っていたりする(この料理人の方はその後も度々登場する)。
中央アジアウズベキスタンとかキルギスとか)や東南アジアに実際に行って現地の麺を食べまくって調査した時の話などが書かれている。
中央アジアは、元々牧畜民だが定住するようになった順で麺類も普及したらしい。羊肉やコリアンダーやスパイスやヨーグルトを入れて、スプーンを使って食べるらしい。
3~8章までアジア各地の麺類について書かれていて、9章がそれらのまとめとなっている。
起源や伝播を追うには文献も先行研究も少なくて、はっきりしたことはなかなか言えないようだが、アジア圏の麺については、やはり起源は中国であって、これが各地へ広がっていったようだ。西に関していうと、中央アジアまででさらに西までは伝わっていない、と。
日本とかは麺が伝わってきたのが早いのだけど、しかし、中央アジアとか東南アジアとかは、広まったのはおそらく清の時代くらいではないかということで、結構遅い、と。
麺類はやはり作るのがそれなりに面倒な食べ物なので、ということらしい。
さて、ではイタリアのパスタはどうなのか、という話になる。
筆者らはイタリアへと研究の旅へ向かう。
イタリアでもパスタの歴史研究はあまりされていないらしく、これまた起源や伝播を追うのはかなり困難らしい。
さらに、例えばニョッキのことをかつてマカロニと呼んでいた地域があるらしく、今では別物を同じ名前で呼んでいたり、同じものを別の名前で呼んでいたりということがあって、さらに歴史研究を困難にしている、と。
で、マルコ・ポーロが中国の麺をイタリアへ伝えたという俗説があるらしい。
筆者はこの説自体は切って捨てている。というのも、食文化というのは持続的な交流がないと伝達しえないので、1回だけの接触で伝わることはありえないだろう、と。
しかし、一方で中国から伝わった可能性自体は否定していない。というか、イタリアのパスタを色々分類したところ、イットリーヤというのが、アラブ由来らしく、アラブの文献にも同じ名前の食べ物が出てきている、と。さらに、ペルシアではこれがリシュタと呼ばれていた、と。
ペルシアまで来たとなると中央アジアまでつながってくる。
筆者は唐代に中国から中央アジア・ペルシアへと伝播し、アラブ、ヨーロッパまで徐々に伝わっていったのではないか、という仮説をたてている。
ただ、既に述べた通り、現在のアラブ圏では麺食がされていないわけで、ここが難しいところである。筆者は、西アジアは手づかみでものを食べるので麺は向いておらず、シャリーヤやクスクスにとってかわられたのではないか、という説明を一応している。

*1:最近図書館でわりと本を借りていて、貸出期限を気にしながら複数の本を読んでいるので……

文学読もうかという気持ち

最近なんだか文学読もうという気持ちが強くなって、実際色々読み始めているところだけど、これまで何を読んできたかなというのと、これから何を読みたいかなというのを整理してみようかなという記事
それで、このブログを始めてから今までの読んだ小説を数えてみた。


ちょっとカウントの仕方が雑なので、細かい数字はアレだが、おおざっぱな傾向をとらえるにはよい。
ちなみに、ここで現代文学としたのは大体90年代以降に発表された作品で、戦後文学というのは80年代以前に発表された作品。いずれも日本の作家のもの。
SFか文学か境界的な作家、作品についての判断もわりとテキトー。円城塔は文学としてカウント、宮内悠介は作品ごとにSFカウントしたり、文学カウントしたりした。
あと、文学にもSFにもカウントしていない作品(つまりこのグラフには集計されていない小説*1)ももちろんある。


2000年代後半は本たくさん読んでるなー、と
で、このころよく読んでるのは、古川日出男佐藤友哉円城塔星野智幸磯崎憲一郎諏訪哲史中原昌也青木淳悟とか(順不同)。
女性作家は、ほぼ鹿島田真希島本理生
SFの比率が少ない
海外文学は、ポール・オースターが多くて、ガルシア=マルケスを少し(『百年の孤独』は読んでない)、イタロ・カルヴィーノやスティーヴ・エリクソンを少し読んだりといった感じ。
で、見ての通り、2010年代は読んでる小説のほとんどがSFになる
文学は、阿部和重とか磯崎憲一郎とか上田岳弘とか宮内悠介とか
海外文学が時々入ってくるが、これ主にクリストファー・プリーストスティーヴン・ミルハウザーを文学カウントしているからで、SFかSF隣接ジャンルを読んでいる感じである。
2019年あたりから少しずつ入っている現代文学女性作家は高山羽根子


日本文学についていうと、現代の男性作家は00年代にそこそこ読んだので、それの蓄積で、読む数は減ったもののコンスタントに読んではいる。
女性作家はなぜか全然読めていない。女性作家を意識的に避けているわけではないのだが、一方で、意識しないとあまり読まないらしい。00年代はさっき述べた通り、ほぼ鹿島田真希島本理生で、2019年から今年にかけては高山羽根子と、読むとしても特定の作家だけパラパラ読むところはある。
今年は藤野可織を読もうと思っている。
もう少し幅を広げたいところ。
それから、戦後文学というか少し古い作品(50年代~80年代くらい)
2016年の『群像』創刊70周年記念号を読んで、戦後の文学も面白いものがあるなあということを思い始めたので。
それで実際今年は少しずつ読み始めているし、この後ももう少し読むつもり。
なんとなく第三の新人あたりが気になっている。
埴谷雄高三島由紀夫大江健三郎安部公房開高健中上健次とかビッグネームだけどビッグネームすぎて今のところそこまで食指が動いていない(ここにあげたうち埴谷以外は、過去に1,2冊は読んだことあるが……。あと、村上春樹も過去に数冊は読んだ。大江と中上はこのブログに記録が残っているけど、それ以外は、このブログを始める前のことだから記録に残ってないし、記憶も薄くなっている……)。


海外文学について、あまり読めていないとは思っていたが、こうやってグラフにすると比率が少ないことがかなりはっきりした。
SFだと、日本のと海外のとを結構バランス読んでいるんじゃないかと思うんだけど。
海外文学は過去読んだものをみても、わりと行き当たりばったり感じがある。
以前、橋本陽介『ノーベル文学賞を読む』 - logical cypher scape2経由で読んだ高行健が面白かったので、そっち方向も読んでみたいなあと思っている。バルガス=リョサは気になっているのだが、まだ読めていない。
元々ミルハウザーとか好きだけど未読作品まだあるし、あと、エリクソンに再度挑戦するかどうか……。
今度『実験する小説たち』読んで実験小説もちょっと探ってみたいような気もしている。

*1:例えば『機龍警察』とかはカウントしていない。ラノベも。ただ、ラノベレーベルの作品でもSFとかにカウントした作品もある

大正史メモ?

何故か大正史に関わる本を連続で読んだ。何故か、というか主にちくま新書が近いタイミングで何冊か出してきたから、というのが主な理由だけど。
数年前から、戦前昭和史に興味を持ち始めていたのでそれに連結する形で大正にまで興味関心が伸びた。まだ、明治までは伸びていない。
大正は、大衆が成立した時代で、一方でポピュリズムや大衆文化があり、現代と地続きの似たところがある。他方で、政治的には二大政党制が曲がりなりにも成り立っていたり、社会的・文化的には様々な(政治にも関わる)運動があったり、現代とは異なる様相も見せるので面白い。

大正航空史?

これは、たまたま立川飛行場 - Wikipediaを読んでて、日本の航空の歴史も大正から始まるのか、と気付いた話で、以下は主にWikipedia由来の話で、本とかは読んでいない。
日本陸軍の航空部隊の原点は、日露戦争時の気球部隊(なのでこれは明治末の話)
で、飛行機部隊としての初の実戦は第一世界大戦(大正3年)で、大正4年に所沢に作られた飛行場が日本で初の飛行場らしい。
立川飛行場大正11年にできている。
ちょっと驚いたのは、羽田も元を辿ると大正で、大正6年に日本飛行学校というのが作られている。ここの第1期生が円谷英二で、第1期生に応募するも不合格になったのが稲垣足穂
ただし、羽田が飛行場になるのは(大正ではなくて)昭和6年のこと。
元々軍民共用だった立川飛行場の民間部門の移動先が羽田だったらしい。
当初から国際空港で、第1便は大連便だったとか。その後、満州航空の拠点となったことだが、満州には航空会社もあったのか。基本、満州行きは船のイメージだったが……。満州航空、自社開発の飛行機まである……。
日本の航空に関しては、長岡外史という人がキーパーソンっぽい。
元々、日露戦争前に当時衛生兵だった二宮忠八が飛行機について具申してくるのだが、そんもん飛ぶわけねーだろと一蹴したのが長岡で、しかし、第一次世界大戦で実際に飛行機が有効活用されるのを見て反省し、以後、飛行機の普及に努めたとかなんとか。
飛行機については詳しくないが以前読んだ生井英孝『空の帝国 アメリカの20世紀』 - logical cypher scape2がなかなか面白かった。これの2章・3章が日本でいえば大体大正~昭和前期にあたる話で、3章には稲垣足穂の名前が出てくる。

大正科学技術史?

航空だけでなく科学技術全般も気になるところ
筒井清忠編『大正史講義』 - logical cypher scape2によれば、寺内内閣の時に、理研や東大航空研が設立され、科研費のもととなる科学研究奨励費制度もこの時期に始まった、と。


東大航空研というと、後のJAXAで、もしかして調布飛行場のところの奴かと一瞬思ったんだけど、さにあらず。
ちょっと話がそれるが、東大航空研に関連するWikipediaの内容を軽く要約
東大航空研の設立当初(大正7年)の場所は越中島(今の東京海洋大)で、関東大震災後に駒場へ移転。敗戦で研究が中止になるが、1958年に活動再開。
一方で戦後、糸川博士によるペンシルロケットの開発などは、東大の生産技術研究所でやっていて、1964年に航空研究所と合併して、東大宇宙航空研究所となったらしい。
1981年に文部省所管の宇宙科学研究所となり、1987年に相模原移転となる。
調布の方にある奴はというと、1955年に科学技術庁が作った航空宇宙技術研究所。これも前身としては、東大の生産研のようだ? 名前が似ている東大の航空研は1955年当時は活動停止中なので、あまり関係なかったのかな。


理研は、大正6年に財団法人理化学研究所として設立。昭和前期には理研コンツェルンとなっている


明治末から大正にかけての日本の科学だと、北里柴三郎野口英世などの医学系が盛り上がっている(?)時期だろうか?
ほかに、寺田寅彦は大正時代から文筆活動をしているようだ。


日本の科学史としては、全く読んでいないが明治・大正期の科学思想史 - 株式会社 勁草書房帝国日本の科学思想史 - 株式会社 勁草書房などの重厚な本がある
これの目次を見てみると、今村新吉と千鶴子の章がある。千鶴子騒動は大正ではなく明治末だが、この頃に心霊ブームみたいなのがあって、それが大本にも繋がっていたりする
それから関東大震災を巡る話か。寺田も関東大震災の調査をしていたようだ。


自分が昭和史への関心を深めた要因の一つが柴田勝家『ヒト夜の永い夢』 - logical cypher scape2だが、この作品の主人公である南方熊楠は、明治33年に日本に帰国し以降和歌山で研究生活を送っているが、大正時代にもやはり和歌山で植物や粘菌の研究をしていたようだ。


たまたま、大正時代、中学校英語科廃止論が盛り上がる「日本帝国の青年としては英語は無用」(江利川 春雄) | 現代新書 | 講談社(1/3)という記事を見かけた。
当時、以下のような主張があったらしい

(2)日本は「西洋の学術技芸を模倣せんが為めに、久しい間青年の時間と脳力とを犠牲に供した。これ以上は最早(もはや)必要がない」「今は丁度その切上げ時で、更に転じて海外に膨脹する為めの予備教育に全力を注ぐべきである」。
(3)知識増進のために「翻訳機関の設置」を行い、文部省は優良なる専門書の翻訳に力を注ぐ。そのほうが専門用語の訳語が統一され「学問の独立」に寄与する。実業専門学校の授業も日本語で可能である。

翻訳語といえば、「恐竜」という訳語はいつできたんだっけと確認してみたが、これは横山又次郎(1860~1942)が明治28年の「化石学教科書・中巻」で「恐龍」という言葉を使っているそうなので、あまり大正は関係なかった。
そのあたりで色々とググっているうちにたどり着いたのが、我が国における科学雑誌の歴史 ――総合科学雑誌を中心として――*という論文

大正時代から昭和初期にかけて、明治時代と同様の問題意識の基に、総合科学雑誌が多数創刊された。大正時代には写真技術や印刷技術の進歩によって、写真や色刷りを多く用いた大衆向けの雑誌が、大人だけでなく子供をも対象として発刊された。

特筆すべき人物がいるので紹介をする。原田三夫(1880-1977)は、東京大学理学部に在学中から科学雑誌の刊行を志し、1915(大正4)年に『子供の科学』を独力で刊行した(1924(大正13)年に誠文堂から本格的に一般誌として出版された)。1921(大正10)年の『科学知識』の発刊に当たっては創刊号の主幹を務めたがその後事情があって退き、その2年後に『科学画報』を創刊した。

この論文によれば、大正期に創刊した科学雑誌としては、『現代之科学』『科学知識』『科学画法』『科学の世界』『子供の科学』『自然科学』がある。
子供の科学』は今でも続いている雑誌で(僕自身は読者ではなかったが)、こんなに歴史が古かったのかと驚き。ほかに、この論文に載っている雑誌で、戦前に創刊し今まで続いているのは岩波の『科学』(1930年創刊)だけだ(戦後に創刊された雑誌もその多くは今はもうない)。
『自然科学』は、大正史読んでるとたびたび登場する改造社から創刊されている。大衆向きの雑誌ではなかったらしいが。

五十殿利治『日本のアヴァンギャルド芸術――〈マヴォ〉とその時代』

大正新興美術運動を研究している著者*1の評論集。
大正振興美術運動については、ゲルハルト・リヒター展 - logical cypher scape2で近代美術館の常設展を見ていて知ったのだが、その後、大正期新興美術運動の概容と研究史 | 日本近代美術史サイトをざっと眺めたりした。
ダダ、未来派、ロシア構成主義あたりからの影響を受けて、日本でも前衛美術・抽象美術の運動が興った、と。
色々なグループがあったらしいけど、マヴォがおそらく一番有名。


美術展の図録や論文誌に収録されたものを集めており、ある程度の知識を読者が当然持っていることを前提とした文章が多く、「人名が全然分からん!」ともなったが、ちくま新書の大正史*2で知った名前だ、という人たちもパラパラと出てくるので、面白かった。

大正期新興美術運動について

上述の通り、この本はある程度前提知識を持っている読者が対象となっている。
作者にはその名もずばり『大正期新興美術運動の研究』という、博士論文をもとに刊行した著作があるので、大正期新興美術運動の全体像を知りたければむしろそちらを読むべきなのかもしれないが、とりあえず上述のサイトが、概要をつかむのにはよいので、それを元にさらに簡単にまとめておく。


まず、前史として、日本の美術界では明治期から文部省主催の官展が開催されるようになっていたが、大正に入り、この官展では活動しにくかった新しい傾向の洋画家たちが在野の美術団体として、二科会を発足させ、二科展を開催するようになる*3
また、白樺派から派生して、岸田劉生高村光太郎によるフュウザン会というグループも創られている。
そうした背景がありつつ、1920年代(大正9年以降)に、さらに新しい美術潮流として位置づけられるのが、大正期新興美術である。
1920年に、未来派美術協会が発足。1923年、ベルリン留学していた村山知義が帰国すると、未来派美術協会のメンバーが村山を加えて、マヴォという新団体を発足させる。
一方、1922年には〈アクション〉というグループも誕生しており、未来派美術協会・マヴォのライバル的存在となる。
とかく、色々なグループや活動が離合集散を繰り返していて、1924年には、マヴォや〈アクション〉が合流して、三科が発足*4するが、これもあまり長く保たずに解散する。
その後、新興美術運動に関わっていた者の中には、政治色を強めていく者たちもいれば、より純粋に美術へ進む者もいれば、ダダ・アナーキズム的な運動を続ける者たちもいて、一つの運動ではもはやなくなり、分解していった、と。
代表的な人物は、既に挙げた村山知義や、〈アクション〉の中川紀元や中原実あたりなのだろう。
また、マヴォの一員であった高見沢路直は、後に『のらくろ』の田河水泡になるので有名だろう。マンガとアヴァンギャルドの関係については、ひらりん・大塚英志『まんがでわかるまんがの歴史』 - logical cypher scape2でも触れられていた。
あと、古賀春江は、自分でも以前から名前を知っていた。ただ、彼は大正時代の作品より昭和初期のシュールレアリスム的な作品が有名かも。
ちなみに、本書も基本的には大正の話が多いが、最後のほうは昭和初期の話もしている。

 


1章“マヴォ”の時代―美術・舞台・演劇の革命
 東郷青児の登場―日比谷美術館と青鞜社
 柳瀬正夢と“マヴォ”―「前衛」的ヴィジョンの生成
 村山知義の意識的構成主義―「すべての僕が沸騰するために」
 <アクション>結成と中川紀元―底の深いパッション
 村山知義と「朝から夜中まで」―屹立する舞台装置
 構成・舞台―大正期新興美術と演劇


2章 還流する美術運動
 受け継がれる「バウハウス」体験―仲田定之助をめぐって ドイツ/日本
 ゴンチャローヴァ、ラリオーノフと日本人―画家、コレクター、「劇友」 ロシア/日本
 <タミの夢>とモダニズム―久米民十郎とエズラ・パウンド イギリス/日本
 「モンドリアン受容」小史―「ネオ・ダダイスト」から始まる フランス/日本
 柳瀬正夢と「アメリカ」像―未来派・グロッス・グロッパー アメリカ/日本

3章 モダニズムの時代へ
 岡本太郎アヴァンギャルド
 板垣鷹穂と昭和初年の美術批評
 メカニズムの水脈


東郷青児の登場―日比谷美術館と青鞜社

東郷は雑誌への投稿によりデビュー
楽家を志していたためか、コントラバス奏者の原田潤と知り合い、その妻である安田皐月*5や、山田耕筰とも知り合う。
東郷は、日比谷美術館で初の個展を開く。
ところで、そこではすでに山田らがベルリンの画廊に関係する欧米絵画の個展を開いていた。平塚らいてうの事実上の夫である奥村博史も個展をしており、また、与謝野鉄幹パトロン与謝野晶子も訪れていたし、また、吉野作造が来訪したこともある、とか。
この日比谷美術館を中心に、青鞜コネクションみたいなのがあって、東郷が初個展をここで開いたのは、そういうこともあったのではないか、というような話
なお、安田皐月は1933年に自殺しているとか。
また、原田潤は、1916年から宝塚歌劇の音楽教師となっており、東郷は大阪の原田のもとを頼っていたことがあるとか。

柳瀬正夢と“マヴォ”―「前衛」的ヴィジョンの生成

タイトル通り、柳瀬とマヴォの関係について書いているのだが、前提知識が必要で論旨がつかみにくかった。
マヴォを結成した1人なのだけど、マヴォとの関わりが実は薄くて、でも新興美術運動とはずっと近かったんだよ、というような感じか。


柳瀬は、関東大震災によって画家として生まれたというようなことを書いていて、それは一体どういうことかということがまずは論じられている。
また、柳瀬はのちにプロレタリア芸術運動に向かうが、元々、アナキズムボルシェヴィキの区別をつけていなかったとかなんとか。


未来派美術協会を発展的解消させたのがマヴォだが、関東大震災以降、未来派美術協会時代のメンバーよりもそれ以降のメンバーが中心になっていく。
元々、未来派美術協会だった柳瀬も、マヴォへの参加率は低い
しかし、上述のように柳瀬は、自分が画家として生まれたのは関東大震災からだというようなことを言っている。
柳瀬は、関東大震災以降の、マヴォや他の新興芸術運動の運動性に牽かれたていたのだ、と。
ここでいう運動性というのは、絵画だけでなく、というか絵画よりもむしろ、演劇やったりダンスやったり街を練り歩いたりとかいう、ジャンル横断的でパフォーマンス的な活動のことである。
その一つの例として、〈アクション〉などがバラック装飾を行っていたことが挙げられる。関東大震災以降、建築も新興美術運動の中に入り込んでくる。
そうした中、柳瀬は、舞台美術にも関わっていく。

村山知義の意識的構成主義―「すべての僕が沸騰するために」

1923年、ベルリンから帰国した村山は、「意識的構成主義」という構成主義批判の立場を打ち立てる。ここでは、それ以降の村山へのダダと構成主義の影響などが論じられる。
ベルリンでの熱心な交流
ダダと構成主義の造形的イディオムを操作する多元性が意識的構成主義
芸術の到達点として建築を見据える
関東大震災の後のバラック装飾のほか、「三角の家」を設計し、帝都復興創案展にマヴォも参加する。髪の毛や新聞の切り抜きや首無し人形を組み合わせたアッサンブラージュを展示して、怪奇室と呼ばれたとかw
村山は、マリネッティの触覚主義の紹介もしている。建築と生活は結びついており、また、身体の運動感覚ともつながり、舞踊や演劇などのパフォーマンスとも結びついた
「朝から夜中まで」の舞台美術や、舞踊、高見沢路直の音楽パフォーマンス、劇場の三科参……
その後、村山はプロレタリア芸術運動へと進むが、そこでは階級闘争の手段としてネオ・ダダイズムが要請されると論じた

<アクション>結成と中川紀元―底の深いパッション

パリ留学中にマティスに学ぶ。ただ、どれくらい会っていたかなど詳しいことはよく分かっていないらしいが、「スピリッチュアルなもの」「秩序への回帰」などの影響があったらしい。
パリ滞在中に交流のあった矢部友衛、中原実ともに、帰国後にアクションを結成する。
しかし、その直後くらいから中川はアクションからは後退していくらしい。

村山知義と「朝から夜中まで」―屹立する舞台装置

ドイツ表現主義、ゲオルク・カイザーによる戯曲「朝から夜中まで」の1924年築地小劇場公演について、自分から申し出て舞台装置を作り上げた村山
この舞台は、まさにその村山の手による舞台装置によって半ば伝説と化している、という。
3階建てで構成主義の原理に基づいて作られた
村山にとって初めての舞台装置
築地小劇場に予算の余裕があったこと、歌舞伎から出発した職人気質の大道具の人がいたことも成功の要因ではあったが、それでも、村山自身の熱心な研究があったればこそ、と論じている

構成・舞台―大正期新興美術と演劇

大正期新興美術においては、美術家が演劇に関わっていたケースが多いが、あまり研究が進んでいないということで、ここでは、大正の演劇史に沿いながら、そうしたケースを拾っていく。
まず、冒頭で当時の洋画家と演劇の関わりが、官展系から在野まで、歌舞伎座や帝劇から素人芝居まで広い範囲であったことが示される。その中には、島村抱月の芸術座や、抱月と松井須磨子を批判して脱退した人による劇団などの名前も挙がっている*6
次いで、1912年、のちに映画監督となる村田実が中心となる「とりで社」について、フュウザン会との関わりが描かれている。ジョサイア・コンドルの名前も出てきたり、あと、純映画劇運動の帰山教正の名前も出てくる
自由劇場小山内薫は、日比谷美術館で舞台美術展を開いている。日比谷美術館については、前述した東郷青児の章でも扱われていた。
1923年に結成された先駆座に参加した柳瀬正夢長谷川如是閑*7の風刺劇のための舞台装置が構成派的
1924年に旗揚げした築地小劇場には、アクションの吉田謙吉が参加して、舞台装置を作成。さらに「朝から夜中まで」では村山知義が舞台装置を作成。
村山は、帰国直後の個展「意識的構成主義的小品展覧会」やマヴォ第1回展でも舞台に関連する作品を出展している。活動写真館の設計もしていいて映画にも意欲があり、村田実監督作品のセットも出がけたと
1924年秋、三科結成。美術家たちだけによる「劇場の三科」を上演
その後、三科は内部分裂して解散するのだが、「解散騒動真相報告会」を演劇化しようとしたほど、演劇の想像力が強かった。
その後、単位三科が作られる。三科とは異なり、他ジャンルへの越境を試みるのではなく、各ジャンルの専門家集団であり、美術家、文学者、映画関係者、建築家が集まった
単位三科も「劇場の三科」を上演している(上述のものとは内容は異なる)。ここでは、仲田が抽象的な舞台を上演している

受け継がれる「バウハウス」体験―仲田定之助をめぐって ドイツ/日本

仲田定之助という美術評論家のドイツ留学時代の足跡を辿るもの。
日本に宛てた手紙などから、いつどこへ行ったかとか、どんな本を読んだかが分かる。
バウハウスカンディンスキーを訪問している(村山も行く予定だったが村山は結局行っていない)
バウハウス自体は、仲田以前にも日本での紹介者はいるのだが、バウハウスの理念から詳しく説明したのは仲田が初めてで、以後、バウハウスへ留学した日本人の手引きともなった。
なお、仲田は美術家として作品(抽象舞台)も作っており、これへのバウハウスの影響も論じられている。

モンドリアン受容」小史―「ネオ・ダダイスト」から始まる フランス/日本

日本において、抽象画家としてはカンディンスキーの方がリアルタイムに受容されており、今も昔も研究が盛んに行われているのに対して、モンドリアンはそうでもない。本格的に受容されるのは戦後になってからだが、戦前のモンドリアン受容について論じている。
サブタイトルにもあるが、村山はモンドリアンダダイストとしてのみ理解していたらしい。
また、当時雑誌間の交流があって、『デ・ステイル』はマヴォに影響を与えており、また、『デ・ステイル』にマヴォの名前が載ったこともある、と。
その後、モンドリアンは美術よりも建築の方で受容されてきたとか。

柳瀬正夢と「アメリカ」像―未来派・グロッス・グロッパー アメリカ/日本

柳瀬が影響を受けた、ベルリン・ダダの作家でありアメリカに移住したジョージ・グロッス
ニューヨーク生まれで風刺漫画を描き、日本のプロレタリア美術家同盟とも関わりのあったウィリアム・グロッパーからも、柳瀬は影響を受けている
プロレタリア芸術と、コマーシャリズム的なものとの関係
グロッスはナチから逃れて渡米したが反ファシズム運動とは距離を置いていたり、柳瀬も逮捕・拘禁などされたが一方で読売新聞の漫画記者としても活動することでプロレタリア美術運動からは非難されたりしている。
柳瀬の中では、大衆に向き合うという点でプロレタリア芸術と商業主義的なものはつながっていて、柳瀬にとっての「アメリカ」はそのような面を持つのではないか、と

岡本太郎アヴァンギャルド

岡本太郎が美術界に「登場」してくるのは戦後だが、実際には、戦前から活動はしている。
戦前の岡本の履歴を辿りつつ、その蓄積がどのように戦後の「登場」を準備したのか、について。

板垣鷹穂と昭和初年の美術批評

滝口修三らと同時期1930年代の美術批評家である板垣鷹穂について
建築、都市、流行、文芸、映画、写真、舞台、放送、教育と広範な領域を扱っていたが、一方、「絵画」が抜けている。
板垣は、映画や写真といった新メディアの台頭により、芸術の世界の再編が進んでいるとみなし、その再編を、自然美、芸術美に次ぐ第三の次元である機械美と言い表した。

カニズムの水脈

大正期新興美術運動は、単位三科によって命脈が経たれる。しかし、昭和モダニズムから見たときに、メカニズム=機械美学という点によって、かろうじて結びついているのではないか、という論
新興美術運動でメカニズムを初めて唱えたのは中原実
中原はもともと歯科学を学んでおり、科学への理解が抜きんでていた。
1924年の首都美術展で、解剖図や機械部品が題材になっているような作品が出展されている。ピカビアのパロディー化された機械観に近い視座。科学とダダの奇妙なアマルガム
村山は、構成主義論の一端として機械美学をとらえる。レジェへの注目。芸術の機械化として印刷、写真、フィルムを挙げる。
非ダダ的で構成主義的な単位三科
1929年、機械芸術論が多く発表され、その年の二科展に古賀春江の「海」が出展される
古賀はシュールレアリスムともいわれるが、ここではむしろモダニズム絵画だと論じられる。古賀は機械と美術について、単に機械を描くということではなく、機械的・科学的・主知主義的な方法をとることだと述べており、これを筆者は、オートマティスムや無意識を従事するシュールレアリスムとは隔たりがあると指摘している。
最後に、政治運動的な観点から論ずる村山と、あくまで都市モダニズムに批評家としての立場を崩さない板垣の違いを対比させている。

*1:五十殿で「おむか」と読むらしい

*2:筒井清忠編『大正史講義』【文化篇】 - logical cypher scape2筒井清忠編『大正史講義』【文化篇】 - logical cypher scape2

*3:官展の日本画部門には新旧の二科があったが、洋画部門にはそれがなかったため、新科としての二科と名乗った

*4:この名前は二科から由来するのだろう

*5:山口輝臣・福家崇洋編『思想史講義【大正篇】』 - logical cypher scape2で触れられていた『青鞜』での堕胎論争のきっかけになった人である

*6:参照:筒井清忠編『大正史講義』【文化篇】 - logical cypher scape2

*7:山口輝臣・福家崇洋編『思想史講義【大正篇】』 - logical cypher scape2大正デモクラシーの人として名前が出てきたが

『戦後短篇小説再発見4 漂流する家族』

今年に入ってから急に日本文学を読むブームが自分の中にきているが、それで色々調べていたら見つけたのが、この『戦後短篇小説再発見』シリーズ。
講談社文芸文庫・編(井口時男川村湊、清水良典、富岡幸一郎編集委員)で、2001年から2004年にかけて全18巻が刊行されていたらしい。
テーマ別に各巻12篇程度の作品が収録されている。
さすがに全18巻全てを読む気はないが、気になった巻をいくつか読んでいこうかなと。
それでまず最初に手に取ったのが、4巻の「漂流する家族」
1950年代~1980年代にかけての12篇の作品が収録されている。家族というテーマに興味をもったというよりは、安岡章太郎庄野潤三黒井千次津島佑子あたりが気になったのだが、結構あたりで、わりとどれも面白かった。
特に面白かった作品は、安岡「愛玩」、幸田「雛」、庄野「蟹」、尾辻「シンメトリック」、津島「黙市」かな。
初出媒体を見ていると、いわゆる文芸誌だけでなく、新聞や婦人公論とかが混ざっているのがちょっと新鮮

安岡章太郎「愛玩」

安岡章太郎については安岡章太郎『質屋の女房』 - logical cypher scape2であんまり面白くなかった的な感想を書いたのだが、こっちは面白かった。
終戦後、働けなくなった父、父に代わり商売をしようとしたが失敗してしまった母、戦争で脊椎カリエスになった僕、と誰も稼ぐことができなくなってしまった3人家族
父親が、知人から毛が売れると薦められてアンゴラウサギを飼い始める。
貧乏家庭でウサギを飼い始めた狂騒を描く。
思わず笑っちゃうような軽妙な書きぶりで、面白かった。
(父親の顔がウサギに似るようになってきて、最終的にウサギは手に負えなくなって業者に回収してもらうんだけど、その業者が父親のウサギ面っぷりに一瞬ぎょっとするシーンとか)
そういえば巻末に著者のプロフィールが書かれているのだが、本書が出た頃はまだ安岡は存命だったらしく驚いた。調べてみると、2013年に亡くなっていたが、当時の訃報の記憶が全然ない……。
初出:1952年11月『文学界』

久生十蘭「母子像」

失火により警察に補導された少年のことを説明しに担任が警察を訪れる。
前半では、担任が少年のことを警察に説明し、後半では、少年の内言で実際のところが語られるという構成
終戦間際サイパンにいて、母親に殺されそうになったという過去があり、それが影響しているのだろうという話をする。学校では特に問題を起こしていないが、警察は彼が過去にも女装などもしているという。
この少年は、美しい母親のことを崇拝しており、サイパンで母親と2人で心中することも甘んじていた。実際にはそうはならなかったわけだが、帰国後、母親が水商売をしていることを聞いて、その店に入ろうとしたり何だりをしていて、警察に厄介になったことは全てそれ関係
初出:1954年3月26日~28日『読売新聞』

幸田文「雛」

初めての子どもの雛祭りに張り切って色々揃えた母親の話
娘の祖父母(つまりそのうちの1人は幸田露伴)を呼んでひな祭りをするが、後日、露伴から呼び出されて、そんなにお金かけるもんじゃないということを遠回しに怒られる。暗に、姑のところにも詫びに行けよと言われていたので行ったところ、「祖母としてはもう少し隙を作ってくれると嬉しかった」ということを言われるとともに、この後、もし2人、3人と娘が産まれた場合に同じことができるのか、ということに気付かされ、父露伴から言われたことには反発を覚えたが、義理の母から言われたことには納得がいった、と
最後、その娘も大きくなって、疎開か何かする時に、ひな人形をどうすると祖父から言われたら、おじいちゃんの本を少しでも大きく持っていきなよと言われたというオチ(?)がついている。
初出:1955年3月『心』

中村真一郎「天使の生活」

純粋に愛に生きようとした夫婦が破綻するまでの話。
タイトルは、夫婦の共通の友人から、人間の生活じゃなくて天使の生活をしていると、悪い意味で言われたことから
初出:1957年11月『新潮』

庄野潤三「蟹」

家族で海へ旅行へ行ったときの話。
安い宿なので、部屋が襖一枚で隔てられているだけなので、隣の部屋の家族の様子が伝わってくる。部屋の名前に画家の名前が使われており、「セザンヌの部屋の父親は~」という風に表記されているのが、ちょっと面白い。
隣の部屋に泊まった家族の小さな男の子が、夜に童謡を歌い始め、逆の隣の部屋の女の子も同じ歌を歌い始めて、その部屋の子が「はさみうちだ」と思わず口走るシーンに笑ってしまった。
特段事件らしい事件も起きず、ただ穏やかな家族旅行が描かれているだけなのだが、面白かった。
初出:1959年11月『群像』

森内俊雄「門を出て」

ものすごく省略した要約すると、不倫現場を妻に見られた話
幽霊話と絡めて云々している
「門を出て故人と逢ひぬ秋の暮」という句があって、主人公は最初故人=死者だと思い怖い句だと思うのだが、後に、故人はふるい知り合いという意味だと気付く。
で、不倫した宿を出たところで人影を見て「あれは幽霊に違いない、幽霊でなければだめだ」と思うのだけど、家に帰ってから妻に、あの故人の意味知ってたのかと聞いたら、知ってたよと答えが返ってくる、という。
ところで、自分は不倫云々について特に倫理的な直観を抱いていないように思っていたのだけど(芸能人のその手のニュースを見てもあまり思うところがない)、この作品は、わりと受入れられない感覚があり、不倫ものは苦手なのかもしれないという気づき(?)があった。
初出:1972年12月11日『図書新聞

尾辻克彦シンメトリック

父親と娘の食事時の会話で、色々なものにシンメトリーを見いだしていく。
父子家庭で、母親がいないのだけれど、1人親でシンメトリーだ、というような話をしている。また、親と子でビックリマークになる、とか
会話文が多めで軽妙な感じの作品で、これも結構よかった。
巻末の著者プロフィールを見たら、別名に赤瀬川原平とあってまた驚いた。別名義で小説を書いているということを知らなかったという、単なる自分の無知ゆえなのだが。
初出:1979年12月31日・1980年1月7日合併号『日本読書新聞

黒井千次「隠れ鬼」

ちょっと不思議な感じの作品で、最初、妻が家出したことに父も息子も気付かなかったというところから始まって、家のどこを探してもいないという流れがあった後、電車に乗った妻の方へと話が変わる。
妻は、高校時代の同級生がたまたま乗り合わせていたことに気付いて声をかけるのだが、その後、何故か続々と同級生が乗ってくる。平日夜の上り列車で、ほとんど客がいなかったのに、同級生だらけの同窓会状態になる。
最後、妻が夫に電話をかけて、謎のしりとりをして終わる。
初出:1981年1月『文藝』

津島佑子「黙市」

母子家庭の話で、家の近くにある六義園が森のようになっていて、そこに捨て猫とかが住み着いている。
離婚した夫に子ども2人を会わせに行くのだけど……という話
黙市とは沈黙交易のことで、捨て猫に餌をあげるときに代わりに何かをもらっているのではないかということと、離婚した夫に会った際に会話ができないこととを喩えている。
元々、主人公の実家は六義園の近くにあって、子どもの頃過ごしていたのだけど、独り立ちして離れていた。しかし、自分も母と同じくシングルマザーとなって、また実家の近くに住むようになってしまったというようなことも書かれている。
都会と森、子どもたちと猫や動物、自分と元夫、自分と母、自分と子どもたちといった様々な関係が描かれている話
初出:1982年8月『海』

干刈あがたプラネタリウム

こちらは、父親はいるのだけど仕事で全然帰ってこない家庭
主人公である妻はもう愛想を尽かしているが、子どもたちは父親を慕っているところもあってまだ別れてはいない。
息子が描いている漫画、息子のチック、兄弟げんか、クラスの友達が遊びに来るなど子供との日常生活が描かれている
ある晩、子どもたちが工作して自室をプラネタリウムに変えるシーンで終わる。
初出:1983年1月『海燕

増田みず子「一人家族」

書簡体小説で、主人公の女性が学生時代の後輩にあたる女性に宛てた手紙という形式をとっている。
この後輩の女性である「あなた」が離婚することになってそれを「わたし」に知らせてきたことに対する返信となっている。
「わたし」は一度も結婚したことがなく今も独身で、一方の「あなた」は、学生時代に「わたし」にプロポーズし断られた瀬木くんと結婚していた(ただし、今回の離婚相手は瀬木くんではない)。
それでほとんどは、学生時代の「あなた」と「わたし」、そして瀬木くんの話になっている。
瀬木くんと「あなた」は、それぞれ育った家庭に問題があって、理想の家庭を作りたいという気持ちが強く、若くして結婚した
対して「わたし」は、いわゆる幸せな家庭に育ったがゆえに、家庭への憧れがなく、結婚願望も薄いまま生きてきた、と。
皮肉なものね、みたいなことを述べている手紙で、「わたし」は家庭を作らずに「一人家族」として生きるわということを書いているのだが、最後の最後に「わたし」はどうも妻子ある男性と交際して、その男性の家庭を崩壊させようとしているっぽいことが書かれて終わる。
初出:1983年7月『別冊婦人公論

伊井直行「ぼくの首くくりのおじさん」

11人兄弟である父親の弟、つまり「ぼく」の叔父についての話
羊の群れには黒い羊が混ざっていて、この叔父は「黒い」側だ、と
10代の頃に首を絞めて性的快感を覚えてしまい、以降、度々首をくくって失神しているため「首くくりのおじさん」とされている。
家族の前では無口なのが、「ぼく」と2人になると、途端に色々なホラ話をしてくれる。オーストラリアで羊の群れを管理するバイトをした話もその一つ。
その叔父がついに亡くなったので、それを回想しているという体の話(しかし、やや時系列が複雑)
初出:1988年冬季号『中央公論文芸特集』

安岡章太郎『質屋の女房』

安岡章太郎については、以前『群像2016年10月号(創刊70周年記念号)』その1 - logical cypher scape2を読んだ時に面白く感じたので、気になっていた(安岡だけでなく、この『群像』を読んで第三の新人に属する作家が全体的に気になりはじめた)。
去年の12月から今年の1月に、SFじゃなくて文学とかも読もうキャンペーン(?)が自分の中であって、古井由吉『杳子・妻隠』 - logical cypher scape2を読んだりしていたが、実は、その頃に本書も読み始めていた。
読み始めていたのだが、途中でなんとなく読む気が失われてしまって、半年以上放置して、最近また文学とか読もうという気持ちになって、読むのを再開していた。
ただ、改めて読むと「悪い仲間」も以前感じたほど面白くなくて、それで読むのが止まっていたところがある。
全体的に、10代の少年を主人公にした作品が多く、また、母親との関係を巡った作品が多いのだが、おそらくそのことが、今現在の自分にとってはあまりピンと来なくなっているのかもしれないと思った。
逆に、最近読んだ古井由吉『木犀の日 古井由吉自薦短編集』 - logical cypher scape2でも触れたが、10・20代よりも30・40代が主人公になっている作品の方が、今の自分には面白く感じられるようになっているのかもしれない。

ガラスの靴

猟銃店のバイトをしている「僕」は、その用事でいた米軍の軍医の家のメイドと知り合う。その軍医が留守の間にその家で遊ぶ

陰気な愉しみ

役所に傷病年金をもらいにいっている「私」

夢みる女

この作品集の中では毛色の違う作品で、聖書の中のエピソード*1を戯画化して描いた作品
最後の方に人名が出てきて、聖書の話なのかということがわかる(自分はググらないと分からなかったが)

肥った女

母親が肥っていることを気にしていたせいか、肥った女に親しみを覚えていた「僕」が悪友たちと遊郭へ行く

青葉しげれる

落第し浪人を続ける順太郎の話1

相も変らず

落第し浪人を続ける順太郎の話2
いずれも、母親の希望によりそれに従ってしまう自分と、それに反抗しようとする自分の葛藤

質屋の女房

学校をサボりながら、家のものを質入れしたり戻したりしながら、その店の女房とやりとりする話
女房というか、おそらく元は女郎だった女性をここの主人が身請けしたのか何なのか、そういう人だろうと。
でまあ、この主人公も母親に対する反抗と従属を繰り返している。

家族団欒図

これと次の「軍歌」では、既に妻子ある身となった安岡自身と思われる男が主人公の作品
いずれも、母親が亡くなり、父と同居し始めることになった頃の話で、父親と妻との間でどっちずかずの態度をとりつづける話。

軍歌

正月に、出版社から依頼された成田神社への取材に逃げるように出かける
帰ってくると、近くに住んでいる年下の友人が来訪しており、父親と飲んでいる