古井由吉『木犀の日 古井由吉自薦短編集』

1960年代の作品から始まり、主には1980年代(おおよそ古井の40代頃)に書かれた作品を収録した短編集
古井由吉については、最近古井由吉『杳子・妻隠』 - logical cypher scape2を読んだ。つまらなかったわけではないが、格別面白かったわけでもなく、古井作品を読み進めようという気持ちにはあまりならなかったのだけど、それはそれとして、なんか文学作品を読もうと思っていくつか候補をピックアップしていて、その中に一応これも入れいていた。で、図書館に行ったら、他の候補は貸出中なので、これを借りてきたというあまり積極的ともいえない経緯で手に取った。
とまあそんな経緯はともかく、読んでみるとこれが面白かった。
図書館で借りてきたということもあって、間をおかずに読まねばという思いから、勢いつけて読んだのもよかったのかもしれない*1
また、作者が40代くらいの頃に書かれた作品が多くて、主人公も概ねそれくらいの年齢が多い。だからといって別に共感できるとかいうわけではないのだけど、大学生が主人公である「杳子」よりも関心を持って読めたのかもしれない。


内向の世代」の1人と言われている作家だけど、「なるほどこれは内向だなー(?)」と思った
とにかく自分の中の思索に潜っていく感じで、あんまり出来事や情景が出てこない。日常のふとしたところから、思索というか妄想というかが連なっていく。
どこかで、文体の作家だみたいに書かれていたような記憶があるんだけど、例えば、一段落すべてを読点でつないだ長い1文を書いてたりとか、上述のように自分の内面について書いていたり、現実のことを書いているのかどうか分からなくなったりするので、そういうのに対応している文体なのかな、と思う。
あと、使っている漢字が時々難しくて読めない*2。ルビふられる基準がよく分からなくて、それに振るならこっちに振ってくれ、というものが度々あった。あと、初出の時には振ってなかったけど、次に出てくるときに振ってああって、そういう読み方だったのかと気付いたものとか。


「秋の日」「風邪の日」「木犀の日」が面白かったって、全部「○○の日」だな

先導獣の話

1968年
聞き慣れない「先導獣」という単語は、巻末解説によれば、古井がブロッホから借用した言葉らしいが、古井自身独特の使い方をしている。野生動物の群れの先頭に立つ個体の意味だが、リーダー的存在とかそういうのではなくて、若くて群れの動きを乱してしまうような個体を指している。
主人公は、東京生まれ東京育ちだが、転勤で何年か田舎暮らしをした後に東京に戻ってきて、ラッシュ時の群衆に驚くという話になっている。
群衆の中でそれにそった動きをしない「夕立ち男」や、仕事ができるがマイホーム主義で残業をしないため同僚から疎まれている「先輩」など、先導獣的な人間に、憤りなどを感じる
たまたま、学生運動のデモに巻き込まれ、学生から暴力をふるわれ気絶するのだが、旗振り役をしていたと警察に疑われ捕まってしまう。嫌疑自体はすぐに晴れるのだが、入院先に、同僚ばかりか「先輩」も見舞いに訪れる。

椋鳥

1978年
二股というか、主人公が2人の女性と付き合うのだが、この2人にもともと因縁(?)があってという話
因縁というか、互いに寝取り・寝取られを繰り返している関係という
で、主人公が40になった時に、そのうちの片方がまた会いに来て、もう1人が癌で死ぬところだと告げる。
ところが、最後に、死んだはずの方が主人公の前に現れて、あの子は頭がおかしくなってしまったのよと告げるという話
女性同士の大きな感情が渦巻く話だが、主人公がわりと、ここで寝るのはまずいだろうと思いつつ寝たいと思って関係を持つというムーブを何度かしていて、どうにも

陽気な夜まわり

1982年
就寝の儀式というものについてのとりとめもない考えがまず書かれていて
そのあと、学生の頃に、学校の用務員のアルバイトをしていた友人が、自分自身の霊を見るという話がなされる

夜はいま

1984
勤務中に突如発狂した男が入院し、1週間で退院するまで、の話
と思わせておいて、最後に退院の下りが夢でまだ入院し続けているというオチがつく
というか、語りそのものは整然としており、過労っぽく描かれているので、あんまり主人公が狂っている感はないのだけど、最後の夢オチは結構びびる。

眉雨

1985年
巻末解説でポストモダン小説と紹介されていて、実際、何が起きているのか一番よく分からない作品
主人公がトイレに入ったところで、戦国時代?の情景と、そこで味方の女が架けられているところを幻視する。
敵・味方、目や見られることを巡って

秋の日

1985年
読んでいる時の感覚が、磯崎作品を読んでいる時に似ていたような気がする。
突然の歯痛に苛まされて以降、会社に行けなくなってしまった主人公
夏の間は、幼い我が子と散歩したり昼寝したりという穏やかな日々を過ごすのだが、秋になり、歯痛のあった日に浮気があったっぽいことが発覚して、離婚することになる
それでその女性と同棲し始めるのだが、その期間は完全にヒモ。離婚を仲介した友人が時々会いにきてくれるのだが、それも次第に足が遠のく。
それで、20年だかの時が過ぎて、主人公は50になっていて、その友人のところに現れる。同棲相手の女性とは別れ、その直後にその女性は亡くなってしまい、それを機会に働き始めたという。20年も社会生活送っていなかったのによく働けたなとその友人から思われるのだが、なんかそれが逆に上手い具合に気に入られたらしいとかなんとか。

風邪の日

1988年
タイトル通りで、主人公が風邪になった時の話
なお、主人公は古井と思われるような人物(作家と名言されていないが自宅で働いており、8年間勤めていた先を辞めた後15年この仕事をしているとあり、大学教員を辞めた後専業作家になった古井の経歴と重なる)
年をとると、風邪もちゃんとひけなくなるというところから始まる。風邪のひきかけにはなるのだが、発熱まで至らないとかなんとか。それで、仕事しないといけないと思いつつ寝て過ごしてしまう一日が描かれている。
のだが、後半になって急に子ども時代の回想ないし夢が挟まれる。父親と野球を見に行った帰りに、新宿の飲み屋に2人で入ると、闇で野菜を売りに来た女性に絡まれたというエピソードのあと、今の自分より若い姿の父親から、どこから来たんだ、また会いに来い、みたいなことを言われる。

髭の子

1989年
入院した父親のことを見舞う話。
主人公は、毎週見舞いに訪れては父親の髭を剃るのだが、寝たきりのまま押し黙ってほとんど口をきかない父に対して、髭が旺盛な生命力(?)によって硬く伸びる。
なので、髭剃りにもなかなか苦労するのだが、次第に習慣化していく。
一方、兄弟で分担している入院費用がそれぞれの家計を圧迫するため、転院を検討することになる。
付添婦という職業の人が出てきて、そんな職があったのかと驚きながら読んだ。今ググったら1997年まであったらしい。

木犀の日

1993年
かつて生家があった坂道を訪れる話。
15の頃に姉と訪れた時と、18の頃に訪れた時の話が回想で挟まれつつ、坂道を歩くことで既になくなった風景を思い出したり思い出せなかったりしながら、最後、雨に降られて見知らぬ男性と雨宿りする。

背中ばかりが暮れ残る

1994年
女に養われ部屋に閉じこもったまま50代を過ぎた男の姿を、白昼夢のように見るようになったという話
学生時代に、登山の帰りにたまたま一緒になった、少し年上のサラリーマンが夕食をおごってくれた話を思い出す。
作家となりある意味社会とは距離を置いた「私」と、当時から社会の一員として働き、その後もおそらくそうやって働き続けたであろうその「男」
当初、白昼夢に出てくる男は、そのときに出会った男なのではないかと思うのだが、次第に、しかしやはりあれは自己投影なのではないかと思うようになる話。
最後に、亡くなった人からの手紙が届くところで終わる

解説

読んでいる最中もこの解説を度々見て、読む手がかりとしながら読んだ。
群れの中の自我としての先導獣ないし犬儒的なものとの対決でもあり、それが次第に馴らされていく過程なのかもしれない。
また、女性に狂気をみる「椋鳥」から、狂気自体が解体していく「夜はいま」
私小説的な時間と漱石的な時間のあわい、あるいは対立としての「秋の日」や「風邪の日」
収録作品の年代の間隔が次第に短くなるように配置されているというのも面白かった。

*1:最近kindleで小説を買うことが多いが、途中まで読んで置いてしまっているものが多い……

*2:そもそも杳子(ようこ)だって読めないしな