島袋八起(発起人)と中村屋与太郎(編集長)による、ボカロ評論同人誌創刊号。
ちなみに、八起さんはこの前の文フリの時に突発的に、この本のパイロット版にあたる『ボカロクリティークvol.00』*1を作っており*2、僕はその際に寄稿したという縁があるが、今回は全く関わっていない。
おそらく多くの人から待望されていたタイプの本であり、まずはその誕生を祝いたい。今後の続刊が楽しみであり、またそれによってボカロ批評や新たなタイプの音楽文化論が生まれ育っていくことを期待している。『ボカロクリティーク』は新たな文化の発信源たりうるポテンシャルを秘めた雑誌であると信じている。
ただ、この本は読みやすかったけど、物足りなさをすごく感じた。以下、思いつくままに感想を書いていくけれど、その多くはその物足りなさを示していくことになると思う。しかしそこには、何らdisろうという意図はないということを先に記しておく*3。
始まる前に一点、用語の注意を。『ボカロクリティーク』では、VOCALOIDだけではなくUTAUも取り上げられている。以後、「ボカロ」という語は、UTAUなど類似の技術も広く含んだ総称的な用語として用いることとする*4
なかなか本題に入らなくて申し訳ないが、この『ボカロクリティーク』感想記事には、おそらく僕のブログや僕のことをほとんど見たことない人が読みに来るのではないか、ということが予想されるので、ちょっとだけ自己紹介的なことを書かせてもらう。
ああ、そういうスタンスの人が書いてる感想なのね、と思っていただければ、ということで。
簡単な自己紹介
まず、自分はボカロクラスタではないということ。
ニコ動的なことでいうと、見てる動画の大抵はアイマス。あと、アニメチャンネル。その次にボカロ。東方は全く知らない。という感じ。
元々電子音楽・クラブ音楽が好きで*5、ニコ動でもそういう音楽を聞こうとして、アイマスMAD、アニソMAD、ボカロと出会ったという経緯がある。それも2009年頃なので、かなり後発の部類にあたる。
このブログの上のカテゴリ一覧から「音楽」をクリックしてもらうと、どういう好みなのかはなんとなく分かるかもしれない。最近は、ボカロ関連の記事もなくはない。
ところで、僕がボカロ批評なるものに興味を抱き始めたのは、いるーPのこと/『Connect』『potage lies』milk and poteto - logical cypher scape2この記事を書いたこと、というよりも、書けなかったことに起因している。僕は一体どうすれば、いるーPの魅力について言葉にすることができるのだろうか……。
次に、同人的なことでいうと、自分は文学フリマ批評クラスタとなる。
同人即売会は、買い手としても売り手としても、ほぼ文学フリマにしか参加したことがない。その上、ほぼ批評一択という、同人界隈全体から見ると、かなり狭い世界に住んでいる。
そういう意味で、この『ボカロクリティーク』は、「ボカロ」からの興味も当然あるけれど、「クリティーク」側からの興味も結構ある。
ボカロ曲自体は聞いてはいるけれど、結構ジャンルを限って部分的にしか聞いていないので、ボカロクラスタ界隈の雰囲気とか諸々にも疎い。
おそらく多くの人は、この本をボカロへの愛ゆえに手にとり、そしてこの本の感想を書いたり呟いたりしていると思うが、自分はこの感想を書くに当たり、何故か批評への愛が上回ってしまったために、ボカロ本への感想としてはいささかバランスを欠いた文章になってしまっている。そこらへん、そういうもんかと思って読んでいただければと思い、簡単な自己紹介を書くことにした。
全体的な感想、と見せかけて、批評についての個人的な思い
まず、読み始める前の感想として、『アニメルカ』のようだなと思った。
『アニメルカ』とは、2010年に創刊し現在vol.4まで号を重ねている、アニメ評論系同人誌である。ネット上におけるアニメについての語り・評論というのは確かに枚挙に暇はないが、アニメ評論というものがなされる場が十分に整っているとはいえないと感じた有志たちにより、主にアニメ評論系ブロガー・ツイッタラーを集めて作られた同人誌である。
何が似ているかというと、ネット上では様々なコメントや反応で溢れているけれど、長文の批評を載せるような媒体はなくてそれを実現したという点や、アニメもボカロも様々に語られている割りに、実は批評の方法論的なものがあまり揃っていないこと。それから、編集の人の獅子奮迅によって多くの書き手が集められていること、である。
『アニメルカ』は、文フリやコミケといった同人誌即売会に加えて、とらのあななどの同人ショップ、そして一般書店であるジュンク堂でも委託販売がなされているが、僕としては『ボカロクリティーク』には同様の形での多様な販路を確保してほしいと思っている。既に編集長の中村屋さんがそれに向けて準備中のようなので、わざわざ僕から言うほどのことでもないのだが。同人誌がここ最近一般書店(主にジュンク)への進出が著しくて、そこって結構重要かなーと思ったりもしている。
ただ、『アニメルカ』が毎回、編集の反=アニさんが死にそうになって作っている点については、似なければいいと願っておきますw
『アニメルカ』の結構重要なポイントとしては、毎回必ず海外からの原稿が入っていることだ。『ボカロクリティーク』も今回は、タイの人へのインタビューが入っており、その点ひけを取らない。ボカロが海外でも広く受容されていることは周知のことであり、今後の編集方針として海外枠を検討することも当然考えられることだと思う。
さて、『アニメルカ』にあって『ボカロクリティーク』にないもの、そして自分が一番物足りなく思ったもの。それは個別の作品論である。
これはもちろん、アニメとボカロという対象の違いによるところが大きいとはいえ、『ボカロクリティークvol.00』においては、個別具体的な作品への言及が全ての原稿にあり、作品についての詳細な分析を試みている論もあったことが考えれば、決して不可能なことではない*6。
もっともその逆に、『アニメルカ』より『ボカロクリティーク』が優れていた点というのもあり、それは『アニメルカ』に掲載されている論文の文章は玉石混淆なところがあるのに対して、『ボカロクリティーク』に掲載されている文章はほぼ例外なくリーダビリティが高い。
しかしそれはまた、良くも悪くも、するっと読めてしまうということも意味している。
編集側からどの程度、文章量についてサジェストがあったのかは分からないのだが、どの原稿も短い。
内容的にも、良くも悪くも創刊号だからなのだろうなという感じがする。悪い意味でいうと、みんな様子をうかがっているというか、本論が始まる前に終わってしまっているような感じを受ける。
『ボカロクリティーク』なのにクリティークが始まっていない?!
批評とはこういうものである、ということは僕にはとてもではないがいえない。批評という言葉には色々な意味が含まれているし、僕が知っている批評というのはごくわずかだからだ。
しかし、僕は批評が好きであり、それが面白いと思っていて、確かに万人向けのジャンルではないけれど、それでもそんなにとっつきにくいものではないはずだということは言いたい。
批評というのは、おそらく多くの人にはあんまりよく思われていない。だけど、それは端的に誤解だと思う。
批評は、難しいことを言わなければいけないわけではないし、客観的に正しいことだけを述べなければならないわけではないし、上から目線で偉そうに振る舞うことでもないし、自由に書いてよいものだと思う。
自分の好きな作品や気になっている作品について、その好きな部分、気になっている部分について、何故好きなのか、気になっているのかをひたすら言語化していく作業なのだから。
それからもうひとつ。
批評は「音楽」のためにあるのではない。それはノースロップ・フライが強調するように「文化の仲買人」ではけっしてなく、対象と異なる方法と目的とを備えるそれ自体で自律した言説の体系である。
なぜ音楽について語りたがるのか?──音楽の倫理学に向けて | 増田聡 ‹ Issue No.30 ‹ 『10+1』 DATABASE | テンプラスワン・データベース
引用元の主張とはちょっと異なってしまうが、批評とはそれ自体が自律した創作物である、ということも言っておきたい。
批評とは必ず「○○についての批評」でしかなく、その意味で決して独立はしていない。だがそれは決して、○○のおまけなどであったりするわけではない。
優れた批評というのは、仮にAという作品について論じていたとして、そのAという作品について知らなくても十分に面白く読めるものになっている。もちろん、そのような批評は、Aという作品を深く分析することによってのみ生まれる。だが、批評はその作品そのものではない。元の作品からだけでは望めなかった発見がありうる。だからこそ、元の作品を知っている人も知らない人も楽しむことができる。
批評というのは、二次創作のようなものである、というのは僕が好む喩えで、元となっている作品をしっかり理解していなければ優れた二次創作を作ることは望めないが、二次創作が創作である以上、そこには元となった作品とは異なる世界が描かれている。元の作品をより深く知りたくて、しかし一方で元の作品からでは見えてこなかったようなものを見たくて、二次創作は存在しているはずで、批評というのは、数ある二次創作のややマイナーな姿にすぎない。
上で、増田聡は「批評は「音楽」のためにあるのではない」と書いているが、そうであるならば、「ボカロ批評は「ボカロ音楽やボカロ文化」のためにあるわけではない」と言うことがまた可能だろう。
ボカロ批評は、ボカロ文化の中にある様々な作品ジャンルの中の1つである。ボカロ曲にはボカロ曲ならではの、ボカロイラストにはボカロイラストならではの、価値や魅力や面白さがあるのと同様に、ボカロ批評にはボカロ批評ならではの、価値や魅力や面白さがあるはずだ。
ボカロが次々と生みだしていくn次創作に連なる1つのジャンルを勃興させるような、読み応えのある批評を今後読んでみたい。
各作品について
なんだかいつまでたっても肝心の感想が始まらないので、無理矢理にでも
VOCALOIDが向かうところとは 尾形友秀
猫村いろはなどで知られるAHSの代表取締役である尾形氏の文章は、VOCALOIDを声の出るシンセサイザーと捉えて論じる。
VOCALOIDが「声の出るシンセサイザー」なのは当然のことだろうと思う方も多いだろうが、ボカロ論を書くにあたっては、これはとりうる立場の1つに過ぎない。VOCALOIDをキャラクターと捉えて論じるボカロ論の方がおそらく多い*7。
シンセサイザーの歴史に触れながら、VOCALOIDが今後辿るであろう道筋とそこで直面するだろう論点をいくつか挙げている。
ここでは論点の羅列にとどまり、それらの論点についての考察はそれほど試みられていない。
ところで、論点を紹介する際の参照作品として、『フィフス・エレメント』と『ファイブスター物語』が挙げられていたのは、個人的には、おおっと思ったところだった。『フィフス・エレメント』面白いよ『フィフス・エレメント』。『ファイブスター物語』はまた後ほど出てくる。
歌声合成文化とUTAU デスおはぎ
UTAUの簡単な解説とそのユーザーらについて書かれている。UTAUというのが、ボーカロイドと比較してキャラ・歌重視で楽曲重視にはなっていないことや、カテゴリタグについての問題点など。
これもやはり問題提起にとどまっている。
批評*8にどれだけシーンに介入する力を有するか、というのは非常に答えにくい問題だけれど、「楽曲面で注目してくれるリスナーがもっといるべきだ」と考えるのであれば、それこそやはり優れたUTAU曲の、楽曲に注目した作品論を書くべきなのではないだろうかと思う。
僕はもともとUTAUであっても普通に聞いたり聞かなかったりするリスナーだが、この文章を読んだだけでは、よしUTAU曲を聴こうとは思えない。それこそ僕は、曲重視でUTAU曲も聞いているので、そもそもこの論の前提にあるUTAUはキャラ重視の文化である、というのもあまりよくわからない(これは僕が、UTAU全体で聞くよりも、数人のPに限定して聞くというスタイルのためだと思う)。
もっとも、これは編集側の意図として、作品論に踏み込まずにUTAU文化について簡単な紹介を、ということだったのかもしれない。
編集GJと感じたのは、これが2番目という順序で配置されている点である。これによって、『ボカロクリティーク』の「ボカロ」がUTAUを含む広い意味でつかわれることがうまく示されている。
音楽ビジネスの中のボカロ 清水りょういち
著者は『ゲッカヨ』編集長。まさにそのタイトル通りというか、出版社やメジャーレコードレーベルとの温度差についての体験談といった体裁。
ところで、後記には、「今まで批評はしないようにしてきた、編集は裏方なので」といったことが書かれているのだが、この点について、僕はこう返したい。編集は批評じゃないのですか、と。
批評というのは、まず第一にはそういうジャンルの文章作品のことを指す。これが基本で、このブログ記事を含め、僕が「批評」という場合はおおむねそれを指す。
しかし、この世の中には「批評的行為」というものもあって、文章以外にも、広い意味で「批評」に含まれるものがある。もっとも、それはそういう比喩なので*9、そういう使い方をする場合はなるべく断りをいれたいとは思っているが。
僕は、文学フリマで頒布するための批評同人誌を編集しているが、自分がそこに載せるために書いている文章よりも、その雑誌の編集の方がよっぽど「批評」になっているんじゃないかと思うことがある。それは自分が今、面白いと思っている、気になっていることや人をプッシュする作業だからだ。
ゲッカヨによるボカロ特集やムック本はクリティカルな仕事だと思う。そのことを知った時、驚いたのを覚えている。この文章は、その中の人の声がまとめられている貴重な文章であるとは思うけれど、編集の仕事ほどクリティカルではない。
天使は立つ。舞い降りることなく 青木敬士
日大芸術学部教授准教授*10による、初音ミク海外デビューコンサート「ミクノポリス」レポート。
なのだが、たった4ページに満たない分量の中に、かなり濃密な議論が展開されている。
初音ミクにおける「ライブ性=一回性」とは何なのか。そのポイントを、テクノロジーの限界によって図らずもそうとしか表現されなかった「舞い降りることなく」「人のように地に足をつけて立つこと」に見出している。また冒頭では、マクロスシリーズを引きながら、「生身の歌姫」であることの幻惑にも注意を向けている。
初音ミクは「電子の歌姫」であり「天使」であるわけだが、彼女に「一回性」を付与するものとしての「人」性というのを考えるというのは、キャラクター論にとっても重要なポイントではないかと思う。今、読んでいる村上裕一『ゴーストの条件』とあわせて考えてみたい話。
また、何故「人」性なのか、ということについては、尾形論文における「声」への着目ともあわせて考えることができそうである。
「人」であるからいいのか、「人」でなければいけないのか。というか、「人」性ってじゃあ何なのか。(ミクは人の姿をしていることの魅力と、しかし人ではないが故の魅力があるのだから。尾形論文も青木論文もそこに引き裂かれていて、明らかに重要な論点がそこにある*11 )
タイ人ゲーム作曲家にきくボーカロイドと美少女ゲーム ニケP×島袋八起 通訳 白石昇
やおきさんの人柄が感じられるインタビュー
これも短いのが残念だけど、やおきさんが女の子みたいな声を出してみたいと言うのに対して、ニケさんが難しくないからやってみてと返すやりとりがいいなと思った
アルバムで聴くボーカロイド HazardLamp
こういう分類作業もそれなりに大事であることは認めるが、これはまだスタートであって、やはりまだ本論には入っていないということを感じてしまう。
僕は個人的には、この文章の全体のページ数10ページを変えないのであれば、この内容は2ページ以内で終わらせて欲しいし、この内容に10ページ割くのであれば全体で50ページは欲しい(あ、それだけで『ボカロクリティーク』が半分以上埋まるw)。
様々なアルバムを紹介されるのも楽しいけれど、何か1つのアルバムに絞ってじっくり論じられたものを読みたい。例えば、「流れ」を堪能することがアルバムを聴くことの醍醐味だ、とあるけれど、そうであるならば、その堪能の仕方を具体的な作品を例に出しながら解説し、疑似体験させてほしい。僕は、ボカロに限らず、アルバムというのをあまり「うまく」聴くことが出来ている人間ではないので、そういうチュートリアル的な批評があれば、読んでみたいなと思っている。
また、この論で重要なのはもちろん、音楽を聴取するにあたって様々な形態があるということだ。ニコ動で、Youtubeで、SoundCloudで、ダウンロードしたMP3で、CDアルバムで、それらは全て同じ曲だったとしてもそれぞれに違う体験となりうる。そしてこのことは、無論ボカロ曲に限ったことではなく、音楽文化においてはいつも重要な問題であったはずだ。ライブで聴くか、CDで聴くか。アルバムで聴くか、シングルで聴くか。そうした聴取体験の差異についてのレポートもあれば読んでみたい。
また、同人流通やボカロ独自レーベルやネットレーベルでの配信は、音楽流通を支えるインフラが変化する中で、音楽文化がどのように変遷するかということを考える上で重要となることは、もはや言うまでもなく、そこを掘り下げていってもやはり本一冊はいくような大きなテーマだろう。筆者の関心は、むしろここらへんにあるのかな。
ところで、アルバム論というと
tricken(Bluesky: @falettinsouls.info)(@tricken)/2011年8月11日 - Twilog (ツイログ)
http://www.amazon.co.jp/review/RQ74QCOC9P3YR/ref=cm_cr_dp_perm?ie=UTF8&ASIN=B0055PDQP6&nodeID=561956&tag=&linkCode=
における、@trickenによる、スガシカオ『SugarlessII』論が印象に強い(上のリンクはtwilogなので、真ん中より下あたりまでスクロールして該当箇所を探さないと読めないので注意)。
Amazonレビューでは、アルバムの聴き方のチュートリアルをしとして初出音源リストを掲げながら、コンセプトをさらりと解説しており、twilogでは、そのコンセプトを支えている、シングルやアルバムというパッケージ形態と近年の音楽流通との関係について思いを巡らせたものになっている。
論として1つの文章にまとめられているわけではないが、1つの作品について語るだけでも、そこからアルバムとは何か、シングルとは何か、今後の音楽産業の中でそれらがどう変わるのか、というところまで考察に至ることは十分可能であることが示されていると思う。
広く様々な作品に触れることなくとも、ある特定のところに絞りながらでかいテーマについての考察がじわじわと出てきてしまうのが、批評の醍醐味のはずだから。
その上で、色々な作品を紹介したいのであれば、最後の1ページにあったようなアルバムレビューが2見開き分くらいあるといいかもしれない。
(↑ここで、「こう書いてほしい」と言ったことを全部満たせるような原稿を最初からさらっと書けるような奴は超人であって、実現しようとすればすごい大変なのはもちろん分かっている。「文句言うなら自分で作ってみろ」厨が(ボカロクリティーククラスタにいるとも思わないけれど)ニコ動界隈には一定数いるので、一応予防線を貼っておく。)
VOCALOIDによるデュエット曲の傾向と可能性 ISD@G.C.M(アンメルツP)
キャラクター性に特に着目した原稿が、青木論文は別として、7番目にして初めて出てくる、というのもこの『ボカロクリティーク』という雑誌の面白いところだなあと思うところで、ここにも編集の意志を感じる。
ボーカロイドにおけるキャラクターの自由度の高さというのは、既に数多く言われていることだけれど、デュエットに着目して見ていくのは、よいアプローチだと思った。キャラクター性か音楽性か、というような二項対立はボカロ言説には比較的よく見られるものだと思うし、僕自身、そのような対立軸を半ば自明のものとして考えているところがあるけれど、この論はそのような対立を鮮やかに越えてしまっている*12。
僕はこれまで、1つの作品に着目した作品論を、と繰り返し述べてきたが、この論に関して言えば、むしろこのようにたくさんの作品を横断的、網羅的に論じていくアプローチが正しい。
ただし、そもそもあらゆる組み合わせを網羅することには意味がないのであり、またこの論を読むと、改めてリン・レンの可能性の深さを感じたりもしたので、「鏡音におけるデュエット曲の傾向と可能性」であってもよかったのではないか。むしろ、今からでもそう改題して、もっと鏡音関連の記述を増やすべきなのではないだろうか。
というか、「○○家のリン&○○家のリン」のくだりは、1段落でさらっと済ますにはあまりにももったいなさすぎる!
ラーメンに学ぶボカロPの生存戦略 imgd@パッチワークP
この文章自体はとてもいい文章。
特に、中高生にも読めるということを重視して書かれたということで、その点についても十分な完成度だと思う。
この雑誌にこういう文章は必要だろうし*13。
なので、この文章自体には特に何も言い様はないのだけど、この人のもっと違う文章を読みたいと思ったのは事実。その意味でやはり物足りない感があった。
神なき時代の「ミクさんマジ天使!」論 いっしー
冒頭から早くも「くそ、惜しい!」って心の中で叫んでしまった。
特に、村上裕一『ゴーストの条件』の第1章を読んだあとに読んだもので、なおさら。
というのも、『ゴーストの条件』の第1章というのは、戦後になり天皇としての象徴が失墜し、それを埋めるようにアイドルが現れ、だがアイドルの象徴性というものも90年代の初頭には失われ*14、そこに二次元キャラクターがその穴を埋めるような地位を占めていくという「歴史」を論じているからだ。その視点から見ると、このアイドルのとらえ方が、もう少しうまく噛み合わせることできたのにというものに見えてしまう。
それだけではなく、村上ゴースト論といっしー天使論は、その目指すところという点で近いものがあるかもしれない。
この論に対しては、わりと枝葉末節になるが
人は、人の姿をしたもの・言葉を話すものには「命の存在」を感じてしまう。まして我々は物言わぬ存在にまで魂を感じてしまう日本人なのだから。
の一節が、「あーもう物足りねー。ってーか、ここだけでどれだけ脳がすり切れるかって問題なのに一段落で済ましやがって」っていうテンションのピークだった。
あと、いい論だったとは思うけれど、アプローチの仕方(心理学など)などが個人的な好み・趣味嗜好ではない。
マスターとファティマの話がちらっと出てきたのには笑ったw またかよ!っていうのと、「な、なんだってー」っていうのとでw マスターの語源がまさかFSSだったなんて?!*15
地図を読むかのように NezMozz
「私がこの稿でやりたいことは批評ではありません。「記述」です。」という下りにも、清水氏の後記に対してしたのとの同じコメントをしたい。
僕は、批評と記述というのはそんなにはっきり分かれていないと思っていて、むしろ自分が批評を書くときには、作品を記述したいと常々思っている。記述するための語彙をうまく見出すことができたならば、それは批評を書く際に成功したと感じる瞬間だ。ましてや、地図の比喩は、批評そのものの比喩に思えて仕方がないw 僕は批評が好きなので、そこで批評という言葉を忌避しないでと思ってしまう。
ところで、僕はこの文章はもっと前半に配置されるべきだったのではないかと思った。
「あの怒濤のような3ヶ月!」というフレーズが、09年からの後発組にとっては悔しくて仕方がない。
パッチワークP、いっしー、NezMozzとこの3人は3人とも、リーダビリティの高い落ち着いた文章を書いている。特にこの文章は、ボカロシーンと著者の熱気を「食べやすく」包み込んでいる。
うーん、やっぱ冒頭に読みたかったなあ。
ところで、HazardLampの結びにかえての部分に出てくる異常に長い1文は、文章全体からするとひどく浮いたものであり「食べにくい」のだけど、この最後でこの1文を書かなければならなかったのだと思うと、その熱には飛び込んでいきたくなる。
「声」への欲動――ボーカロイド音楽を聴くこととは何か―― 東葉ねむ
読む前から一番気になっていた論文。
「声」への着目という点が、自分の興味と近かったから。
問題提起、立論、結論の流れも無駄がなくきれいだと思う。
ここで、「メロディ」「ノイズ」「声」の三幅対から、「声」を定義しようとするところが、さしあたってなるほどと思ったところである。
これらを想像界、現実界、象徴界に当てはめるのは、やりすぎじゃないのかと思ったりもするのだけれど、意外とうまくはまっている感はある。特に、「音楽を聴きたいという欲望」は、既に手にすることの出来ない母からの呼び声を求めるのだという分析を前提にしている以上、ここは必須である。
ん? 自分も精神分析なんて全然勉強してないけど、そのように考えるのであれば、この当てはめはズレているような気がしてきた。「声」はむしろ、象徴界から現実界への穴、対象aなんじゃないだろうか*16。ノイズが現実界ってのには、えらく納得してしまうけどw
ボカロの「声」にのめり込んでしまうのは、まさにそれが現実界からの呼び声だからではないのだろうか。既にこの論文は冒頭において、ボカロの声が「ノイズ」に聞こえてしまうことが触れられている。そして、「人工的で不自然な「声」」に魅力を感じるとも。声は現実界からの呼びかけだとして、ましてやボカロの声は「ノイズ」という現実界に近いのだとすれば、ボカロの声人間の声よりも魅力的だということになりはしないか?! ちなみに自分は、最後の4分類の中ではどちらかといえば3に属すると思っていて、「声」が現実界からの呼び声故に魅力的なのであれば、むしろ3こそがもっともボカロ耳なのではないかと、無駄に張り合ってみる。
ボカロ(VOCALOIDもUTAUもそれ意外の音声合成も)の「声」というのは、やはり独特で、多くの場合、一瞬でそれがボカロの声だということが分かる。また、ボカロとUTAUの聞き分けも容易である。もちろん、調教によって人そっくりにする技術も鎬が削られているわけだが、この独特さに惹かれる者もまた多い。
しかし、これは僕が実際に『ボカロクリティークvol.00』に寄稿した折に痛感したことなのだけれど、この「声」について記述する語彙が全然見つからないのだ。
UTAUはどの音源を聴いてもUTAUだということが分かるのだけど、そしてそれはUTAUというソフトが元データの波形をいじるときの操作に起因しているのだろうということは分かるのだけど、ではそれは一体どういう特徴なのか、というのが言い表せない。このもどかしさ!
ウィスパーボイスのような、しかし明らかにそうではない、「人工的で不自然」という言い回しは確かにそうだが、それはボカロとUTAUの声質の違いを説明してくれない。ボカロの「不自然」さとUTAUの「不自然」さは異なっている。
僕が『ボカロクリティーク』を手に取った理由の1つは、実はこうした「声」の特質を表すような語彙がどこかにないか知りたいからなのだ。
「声」に限らない。批評というのは、いわく言い表しがたい現象を目の前にした時に、それを言い表すための語彙を創造するための営為だ。
ぴたりと当てはまる語彙など、そう簡単には見つからない。多くの試行錯誤が必要になるのは間違いないけれど、多くの人が新しい語彙を創り始めてくれると、僕としてはこれほど嬉しいことはないのだが。
好きよ留学生 島袋八起
10と1/2章で書かれたボカロの偽史 山本ニュー
ごめん
小説は省略させて
イラスト・ロゴ原案
このロゴかっこいいよねー
これ好き
表紙のミクもさることながら、裏表紙のテト、リン、GUMI、いろはがかわいいんだ、これが。
っていうか、このかっこいいロゴからかわいいイラストまでもが1人の人のアートワークであるということに、今改めて驚きを覚えている。
DTP
丁寧にDTPがされていて、とてもよかった。
編集長に確認したところ、本文フォントはリュウミンらしいけど、これがよかった。普通、インデザっていったら小塚明朝なんだけどw このリュウミンフォントは、漢字のちょんちょんってなってるところが独特で、出てくると結構見入ってしまった*17。
各見出しのデザインもいいよね、ボカロっぽくて。
「地図を読むかのように」で、一カ所数字が横になってたのが残念だったけどw
最後にアンケートとか用意されているのも、芸が細かいよなあ。
全体的に、と見せかけて、編集方針の話とか?
冒頭にも書いたけど、創刊号だからなのかなんなのか、やけにバランスとお行儀の良い文章が並んだな、という感じはやはりする。
今までほとんど何もなかったところの地ならしから始めるのだから、こういうとこから始めるのはありだとは思う。これから段々深く潜っていけばよいのだから。
しかし、僕としてはやはりバランスのよい目配りのきいた記事よりも、多少バランスが悪かったとしても個人の思い入れの熱さによって掘り進んでいく論文が読みたかった、読みたい。
全般的にどの文章も短いし、ボカロ論をやろうとしている。もっと、ボカロ批評を読ませてよ!
自分の読みたいボカロ批評がどういうものなのか、というのは既に上で色々と書いてきたので、繰り返すことはしない。
しかし、ここで述べてきたのは、すごく個人的な偏った要望であることは自覚している。もしそうなってくれれば、よりエッジの効いた面白い雑誌になることは間違いないと確信しているが、一方で読者数減らすだろうなあとも思う。
こと、1人20ページぐらいのガチ論文が5本です、みたいな雑誌が、一体どこの誰がどれだけ読んでくれるというのか。
実際、こんだけそういうのが読みたいと言いながらも、もし本当にそんなのができあがってきたら、ちゃんと全部読めるのか自信がないw 読みたいと思うものほど読めないこのジレンマw
僕はここまで、各論に対して「ここをもっとこうしてほしい」みたいなことを書いたが、いくつかのものは、もし僕が担当編集者だったらこんなこと言ったかもなーみたいなことを書いている。それによって修正された原稿は、僕が読みたいものにはなると思うけれど、そしてそれは僕以外にとっても面白いのだと僕は思うけれど、『ボカロクリティークvol.01』という雑誌にとってベストなものになるかというとちょっと分からない。
やっぱ、今後が、編集の腕の見せ所というかがんばりどころ(というのは本人が一番強く感じているところだろうけれど)
この形式や雰囲気で続けるのはちょっとなと思うところがある。
それはもちろん、何十ページものごつい批評を見てみたいというのもあるのだけど、批評誌というのは大抵の場合、特集が組んであったり座談会があったりインタビューがあったりするもので、それで雑誌としての求心性みたいなものを作っている。
いや、それこそこの号だって、AHSの社長の文章が載ってるくらいなんだから、AHSボカロ特集の1つや2つ打っててもよかったんじゃないのって思ったりもするw *18
もちろん、今後AHS特集があってもいい。石原さんのアキバオタPインタビューとか凄そうじゃない? とか勝手なこと言ってみる。
連載評論とか、クロスレビューとか、雑誌にメリハリをつけるような企画の類は色々とあるわけで
あと、長期的には、どういうテーマであったり、アプローチであったりに雑誌としてフォーカスしていくのか、とか。ボカロというものに切り口が多くあるのは既に周知のことだけれど、とにかく色々な切り口を包括的に集めていくのか、あるいは例えば、音楽的な視点を特に重視していくのか、とか(あーでも、PV論とかMMD論とかも読みたいなー)。
まあ現段階では、ボカロ批評誌というもの自体が珍しい以上、幅広いものを受け入れていくハブとならざるを得ないだろうけれども、類似のものができれば、役割分担というか雑誌の個性を打ち出すなんて戦略も可能になるし、まあそうでなくても、編集のさじ加減1つで、そうした個性は出てくると思う(既に出始めている?)。
『ボカロクリティーク』全体としてはそうしたバランスを取りつつも、その一方で着実に『ボカロクリティーク』的な方法論や語彙の蓄積がなされていくといいなとか、自分勝手な夢は広がるw (批評がある種のチュートリアルとして機能するのであれば、そうした蓄積がリスナーを育てるということになりうる)
ボカロ批評ないし音楽批評の難しいところは、文章だと実際の音楽は流れないということ。
その点で八起さんの論が上手いのは、歌詞に着目している点だろう。今回の号には、個別の作品を分析しているものがなかっためにその点にはほとんど気にならなかったが、今後、そういう部分で紙媒体はデジタル媒体に対して圧倒的に弱いので、編集の上で考えなきゃいけないポイントになる。
『ボカロクリティークvol.00』
『ボカロクリティークvol.00』は、文学フリマで39部しか発行されておらず、ネット上での公開も始まっているのだが*19、まだ全然進んでいない状況なので、ざっと紹介してみる。
ボカロ批評は可能か? 可能だと思います。/石原茂和
ここで今後批評するための方法論として、
・トラックについて(アナリーゼのような分析)
・調教について
・歌詞について
この3点が挙げられている。挙げるにとどまり、実践がないのは残念だけれども、そもそもボカロ批評は一体どういう方法論や語彙でやっていけばいいのかというのは、まだまるで分からない状況であり、十分参考になる指摘である。他のジャンルの手法を参考にしながらも、新しく創っていくしかないだろう、そしてそれは苦しいけれど面白いだろう、と思う。
最後に、アキバオタPを紹介して終わり。
フィーリング、エコー「ミク」を消すミクの声/まつとも
ここでは、「空のさかな」「夕闇メロディ」「さよならアストロノーツ」の歌詞、音韻、歌い方(エコーなど)に着目して分析し、ミクの歌声の魅力を「どこからともなく響く声」からくる郷愁であると論じている。
メルト/Innocence/ハジメテノオトの歌詞にかんするアイディア/島袋八起
タイトルにあるとおり、この3曲について、島袋歌詞論で読み解く。
[研究ノート]声と人格――キャラクターを歌わせることの快楽/じゃぶらふきゅー
まず、ユリイカでの初音ミク特集やラカン、バルトなどを参照しながら、声と人格の結びつきについて論じられていく。
って、今読み返してたら、「声は対象a」って中田健太郎が書いてるって書いてあった!w
それから、人力ボカロ、UTAU、SoftTalkなどのテキスト読み上げツールによる歌唱についての紹介がなされている。
cosMo a.k.a 暴走Pという天才の発掘/今井晋
こちらは、cosMo a.k.a 暴走Pという天才の発掘 - 死に舞の再録
声ならざる声のために/シノハラユウキ
拙論。
「声は素材」原理主義の立場から、ボカロをあくまでも楽器として使っているような作品を紹介。
勢いあまって、アイマスMADやアニソンの紹介までしてしまった。
ボカロの声やアニメ声優の声というのは、その人格から切り離されて、ただ「音」としてでも十分「キャラ立ち」してるよね、それを聴くのは気持ちいいよねという話。
参考:『ボカロクリティーク』への寄稿で引用したもの - logical cypher scape2
『音楽の聴き方』
岡田暁生『音楽の聴き方』 - logical cypher scape2という本があって、そこでは音楽は、「する」「聴く」「語る」が三位一体となって成立する文化だと論じられている*20。しかし、近代産業化がそれらを分離してしまったのだと。
音楽は言語を超えていると同時に、徹頭徹尾、言語的な営為である。
(中略)
音楽の少なからぬ部分は語ることが可能である。それどころか、語らずして音楽は出来ない。
pp.57-58
僕はニコ動には、この三位一体が揃ってきているのではないかと思っている。
あのコメントには、様々なものがあるけれど、しかし今までにはないほどに、音楽はニコ動のコメントによって「語られ」ている。
しかし、やはりコメントに限界はあるわけで、そういう意味でも『ボカロクリティーク』の存在はボカロ文化の一翼を担いうると思うのだ。
原稿の紹介や感想記事
2011年9月4日発行『ボカロクリティーク』Vol.01の紹介です - フシギにステキな素早いヤバさ
2011年9月4日発行『ボカロクリティーク』Vol.01の紹介です。(その2) - フシギにステキな素早いヤバさ
2011年9月4日発行『ボカロクリティーク』Vol.01の紹介です。(その3) - フシギにステキな素早いヤバさ
2011年9月4日発行『ボカロクリティーク』Vol.01の紹介です。(その4) - フシギにステキな素早いヤバさ
2011年9月4日発行『ボカロクリティーク』Vol.01の紹介です。(その5) 前回のつづきです。 - フシギにステキな素早いヤバさ
2011年9月4日発行『ボカロクリティーク』Vol.01の紹介です。(その6) - フシギにステキな素早いヤバさ
ボカロクリティーク Vol. 01 後半を紹介! - Jablogy
ボカクリVol.1 感想その1 - 総評 - 煩悩の反応学
*1:発行時は『ボカロクリティーク』、vol.01が発行されることになりvol.00と呼称されることになった
*2:詳しくは君は伝説を見たか - logical cypher scape2
*3:文体についてもとっつきにくさを覚える人がいるかもしれないが、これは単にこっちのが書きやすいからであって、やはり気にしないでほしい
*4:『ボカロクリティーク』誌上において、このような「ボカロ」の(暫定的)定義が明示的に書かれているわけではないが、主宰側にはそのような意図があるだろうと思われる
*5:ただし、詳しくはない
*6:vol.0についてはこの記事の下の方に補足あり
*7:そういう人達が、VOCALOIDをシンセサイザーだと知らないわけではない。ただ、何か文章を書く際にその両方を同じような分量とクオリティで論ずることはかなり困難であるので、選択せざるをえない
*8:特に文章としてのそれ。文章でない批評については後に述べたい
*9:あくまで批評「的」だ
*10:本人から指摘あるまで気付いておりませんでした。失礼いたしました。お詫びして訂正いたします。http://twitter.com/AOKI_KC/statuses/127694722117550080
*11:念のため言い添えておくが、「引き裂かれる」とは論の瑕疵を意味しない。真剣に考えれば引き裂かれざるをえない
*12:批評用語で言うところの「脱構築」という奴だが、まあ別にそんなことはどうでもいいですw
*13:後述するが、今まで挙げてきた文章も、「もっとこうすればいい」と散々書いているが、この雑誌にとって十分な出来にはなっている
*14:ネット以前!
*15:念のため言い添えておくと、そういう喩えがあったというだけの話であって、語源だなんて一言も書いてはありませんがw
*16:下の方のじゃぶらふきゅー論について触れたとこも参照のこと
*17:はてなキーワードをみるに、MacでDTPやる場合はスタンダードなフォントのようだ。不勉強が露呈するw
*18:もちろん、最初からAHSの社長に書いてもらえるとかそういうところまで考えて集めることができたわけではないのは知っているので、これはひどい後出しじゃんけんなんだけど
*19:http://critique.fumikarecords.com/参照
*20:例えば、ビールを「飲む」文化には「語る」文化もあるという。「どううまいのか」という語彙がそこにはある