この前、図書館の雑誌コーナーをふらふらとしていた。
普通に『新潮』だの『群像』だのを読もうと思っていたのだけど、図書館の雑誌コーナーを眺めていると、この世の中にはこんなにも沢山の雑誌があるのかと改めて思った。
図書館だと普通の本屋には置いてない専門的な雑誌が多いから特に。
JRAがだしてる『馬の科学』とか。
まあそれはともかく、そんなふうにふらふらと眺めていて目に入ったのが『文学』という直球なタイトルの雑誌。
岩波書店から出ていて、執筆者はみんな日本文学を研究している大学教授。
07年1,2月号の特集が「虚構のリアリティ」というもので、野家啓一が投稿していたのが「存在するとは物語られることである」
「存在」つまり「ある」とはどういうことなのか。
一つには、目で見て手に触れて、いわば経験的に「ある」といえる類の「存在」
それから、原子とか遺伝子とか直接見聞きしたり触れたりすることはできないけれど「ある」ことになっている「理論的存在」
さらに、夫婦とか国会とはやはり直接見聞きしたい触れたりすることはできないけれど「ある」ことになっている「制度的存在」
そのように「存在」には、様々な「存在性格」がある。
では虚構の存在とはどのようなものか。
例えば虚構の中に出てくる「犬」と、現実の世界にいる「犬」とは同じである。虚構の存在と現実の存在とでは、「存在意味」は同じだが、「存在性格」が異なっている。あるいは「存在濃度」に差がある、とする。
これは、虚構の存在が現実との繋がりを持っているということで、これが虚構の「実の契機」である。
一方で、虚構の現実とは異なる点は、細部を持たないことである、これを「無規定箇所」と呼ぶ。無規定箇所は、受け手が想像力を働かせる部分である。これが虚構の「虚の契機」である。
虚構の機能あるいは虚構のリアリティというのは、こうした「実の契機」と「虚の契機」によって虚構が現実の経験へと侵入して再編成を迫ることにある。