伊藤剛『テヅカイズデッド』

著者がこの本に注いだエネルギー量が伝わってくるかのような本。
吐くような作業だった、とブログで書いていたことがあったと思うのだけど、実際にこの本で述べられる理論を構築するに当たって、気の遠くなるようなエネルギー量*1を注ぎ込んだのだろう、と思う。
なおかつ、この本は、書くに当たってそのエネルギーを細心の注意でコントロールすべく、さらなるエネルギーを使っている。
この熱意と注意深さを感じ取るだけでも、読む価値があると思う。
この野心と慎み深さは、自分でも身に付けたいと思った。


さて、内容であるが、いわばこの本の肝となる部分は、色々なところから聞いたり読んだりしていたので既に知っていた。
もちろん、人から聞くのと直接知るのとではやはり違うわけで、個別の作品論は面白く読んだけれど、しかしとりたててここでもう一度要約するつもりはない。
何故、この本を読んだのか。
三浦俊彦の虚構実在論とマンガあるいは、キャラ概念、フレームの不確定性概念は如何に接続しうるだろうか、という問題設定からだ。
この点からすると、頭を抱えてしまった、というのが正直なところだ。
このままで全く使えない。
まずは「キャラ」
キャラは、伊藤によると「固有名の名指し」によって指定されるらしい。……まじか。
(dere多世界説を成立させるために)名指しに先立つ概念として、キャラ概念を利用できないかと期待していたので、これでは全く使えない。
もちろんこれは、「キャラ」概念そのものを批判しているわけではない。「キャラ」をうまく利用できないかなあという自分の浅はかな見込みがうまくいかなかっただけの話だ。
「フレームの不確定性」に関しては、まだ何とも言えないところだが、しかしやはり、自分の浅はかな見込み通りにはいかなさそうだな、という感覚。
自分としては、作品のメタレベルとオブジェクトレベルを錯綜させるような装置として「フレームの不確定性」概念に期待していたのだが、伊藤剛は非常に禁欲的なのでそんな得体のしれないものと取られるような議論はしていない。この禁欲的態度こそ、自分は見習わなければいけないのだと思うけど。


しかし、リアリティを現前性と捉え、マンガに何故リアリティ、現前性が生まれるのか、という問い
あるいは、何故実際には存在していないキャラクターをさも実在する人間かのように語りうるのか、という問い
は、非常に面白かった。
その一つの答えが、「キャラ」とその隠蔽というわけである。
この答えは、虚構実在論とどのように対応しうるのか、あるいは相反するのか、興味深いところだ。
先の二つの問いに対して、虚構実在論は、可能世界として実在しているのだから当然だろう、と答えるわけだが。
言葉が「内面」を語りうると見なされるのは、近代的制度に過ぎない、あるいはマンガが「内面」を語りうると見なされるのも、やはり近代的制度に過ぎないわけだ。
制度と虚構の実在とはどのように接続しうるのか、あるいは全く相反するのか。
最後、このような制度と亜人種との関係というのも面白かった。
亜人種を一体どのようなレベルの存在と見なすのか、というのも非常に興味深い問いだ。


あと、映画評論の理論書も読まなきゃダメかな、とか思った。


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*1:そう簡単に言ってはならないが