藤田直哉『虚構内存在』

サブタイトルは、「筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉」であり、筒井康隆論である。
第1章から第7章まで、筒井康隆の仕事をおよそ時系列順に追いながら、その中にある「虚構内存在」の思想を読み込んでいく。
最後につけられた第A章で、筒井康隆から離れて、「虚構内存在」の思想を藤田直哉的に展開している。


実をいうと、この本を読み終わって、感想というのが思い浮かんでいない。
まず、筒井康隆を僕自身がほとんど読んでいないので、筒井康隆がどういうことをやってきた人なのかという点では勉強になったんだけど、それ以上はあまりピンときていない。
虚構論ということで、多分自分にとっても関心の近い領域ではあるのだけれど、一方で「文学と政治」的な、というか藤田さんの問題設定自体は、自分と関心のあり方が違って、そこでチューニングがうまくできなかったのかなあ、という感じ。


今日、ブログに書く記事が3本目であることもあって、申し訳ないけど、ちょっとさらっといきます。

第1章 なぜ、いま筒井康隆が必要なのか

筒井作品には現代的なテーマがあるよ、的な話

第2章 戦後史の中の筒井康隆――「武器としての笑い」と「楽器としての笑い」

この章では、筒井の各年代の特徴を述べていく。
四〇、五〇年代
戦争を筒井はどのように受容したのか。シュールレアリスムについての卒業論文死の欲動に対しての笑い、あるいは科学
六〇年代
デビュー。そしてメディアと現実との関係について
七〇年代
社会的有用性のもった「笑い」(風刺)に対抗するような、ナンセンスな「笑い」(武器としての笑いと楽器としての笑い)を目指そうとするが、そのような「笑い」にもまた社会的有用性や意味が見出されていくという過程。『ジャズ大名』と『歌と饒舌の戦記』
八〇年代
「実験」へ。超虚構の試みが集中して行われる時期。
九〇年代
電子メディアと論争の時代。「断筆宣言」

第3章 超虚構理論とフリードリヒ・フォン・シラー

1975年から、筒井は超虚構という言葉を使い始める。この本は、筒井の超虚構論とは一体何で、それがどう展開していったのかを見ていくものだが、この章ではその初期が取り上げられる。
筒井は、卒論の指導教官である金田民夫を通じて、シラー美学を受容している。超虚構論の中にもシラーの名前がよく言及されている。
シラーの中には、ロマン主義的な有用性のない「美」と社会の調和をもたらす有用な「美」の両者が混ざっている。そのようなシラー美学を通じて、「自然主義」と「超虚構性」が円環をなしている。
シラー思想とフロイト思想の葛藤が、超虚構論の中にはある。

第4章 虚構内存在の存在論

ハイデガーの世界内存在にインスパイアされた形で、筒井は「虚構内存在」という用語を使うようになる。これは、自分が虚構内の登場人物であることを自覚している登場人物のことを指している。
ハイデガーの共同存在から、虚構内存在について考える。共同存在とは、感情移入を可能にするようなもの
超虚構理論の実践としての『虚人たち』について。
ハイデガーの《本来性》への批判として、日常性を描く筒井。

第5章 内宇宙の神話――《集合的無意識》から「文化的無意識」へ

科学は生の意味を供給してくれないが、神話はしてくれる(宇宙論的意味を持つ)という、筒井によるユング受容。
「神話の代理品」としてのSF
集合的無意識をめぐる作品として『夢の木坂分岐点』
虚構内存在に対する倫理
文化的無意識=《準拠枠》(イーザー)
感情移入と関わる文化的無意識。言語を支えている外部(出版社や新聞局などの企業、あるいは慣習や「空気」)としての文化的無意識。文化的無意識を相対化させるための、超虚構理論。
神話論的意味を巡る小松左京との違い。
個人と集団が接する面が回っていくという過程について描こうとする筒井。

第6章 感情移入の理論

フッサールを通じた感情移入の理論、自己と類似しているが他であるような存在に対して感情移入する。
自己の類似物として描かれる、短編「平行世界」
感情移入の対象の拡張
『虚航船団』
「虚構内存在を殺すことによって愛することが可能になる」という逆説によって、虚構内存在と共同存在となる。

第7章 機械化した良識――『朝のガスパール』から『断筆宣言』まで

朝のガスパール
読者に創造的参加を促すために煽られた対立
メディアと結びついた言語感覚(新聞への投稿とパソコン通信での言葉の違い)
虚構内存在と現存在が決定的に違うことを示すための、虚構内存在の叛乱。
祝祭感
『パプリカ』と悪について
文芸家協会という制度に対する批判
『断筆宣言』について
機械化した良識に対する反発。

第A章 虚構内存在の政治

存在論的な意味(生の意味)を供給するものとしての虚構。
虚構権について
(虚構内存在に権利を与えるのではなく、虚構に意味を見出す人々と虚構の関係を維持させるための権利)
『ハーモニー』と『屍者の帝国』について
人間の再定義。《共同存在》の拡張


第A章は、大雑把なスケッチという感じで、筆者もそのあたりは自覚しながら書いている感じ。
細かいところで、どうも色々気になってしまったのだけど、議論の大枠に対しては揚げ足取りになってしまうなーとも思っているんだけど、やっぱり書いておくと、哲学的ゾンビ独我論とは違うのでは、という点。永井均は、哲学的ゾンビの話を独我論として再解釈しなおす本出してるけども。
何に対して感情移入するかっていう話と、倫理的に配慮するかどうかっていう話と、意識を持っているかどうかっていう話と、魂があるかどうかという話と、自己知と他者知の非対称性の話と、それぞれ区別することができる話が、一気に同じ問題として書かれている。
ここで、ぎゃーっとなってしまって、この本について自分の中で全部吹っ飛んでしまったところがあって、それが上の「感想が思い浮かばない」問題に繋がっている。

虚構内存在――筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉

虚構内存在――筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉