ラノベも随分と変わってきた、と思ったり。
ラノベとは何か、なんてことを考えたり述べたりするつもりはないのだけれど、おおむねラノベというと
「表紙がアニメ絵で、電撃文庫とか富士見ファンタジア文庫とかそういったレーベルから出ている」
「中高生向けで、ファンタジー、SF、伝奇のガジェットが使われている」
が大きな特徴であると思う。
この作品は、上の条件は完全に満たしている(レーベルはファミ通文庫)のだが、下の条件を満たしきれてはいない。
『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』もそうなのだが、ファンタジー、SF、伝奇のガジェットがほとんどないのだ。
例えば、『砂糖菓子の弾丸……』だと、海野藻屑は自称人魚であるのだが、これは最後まで自称に過ぎなくて彼女は単なる人間で決して人魚ではない。ここに読んでて違和感を覚えていた。つまり、無意識のうちに「この本はラノベなのだから、人魚でなくとも、その手の人外の存在が出てくるに違いない」と思っていたからだ。
では『永遠のフローズンチョコレート』はどうか。
決して、伝奇的ガジェットが出てこないわけではない。主人公は、9人を殺害した女子高生であり、そして彼女の前に現れるのは、不老不死の少女である。「不老不死の少女」など、どこからどうみてもラノベ的伝奇的ガジェットに他ならない。他ならないのだが、その特別さはぐっと薄まっている。彼女は確かに不老不死ではあるが、それ以外特別な能力があるわけでもなく、また不老不死になってしまった理由があるわけでもない。
人殺しも不老不死も、決して普通の人間ではないが、しかしラノベというフィルタを通してみると、とにかくあまりにも普通の人間なのである。
この作品は、過去のラノベやオタク作品の引用が多いのだが、特にブギーポップへのそれが多い。
主人公である、人殺しの女子高生はいつもスポルディングのバッグを持ち歩き、凶器や(返り血を浴びた時の)着替えをそこにしまっている。
ブギーポップは二重人格であるし、凶器は糸だし、殺す相手は世界の敵である特殊能力者であったりと、とかくガジェットが多い。
しかし、同じスポルディングのバッグを持ち歩いてるとはいえ、こちらは二重人格ではなし、凶器はごく普通のナイフであったり金槌であったりするし、殺す相手は駅前に歩いているサラリーマンやOLである。
ブギーポップが出た時、随分とリアルになったと思った。つまり、舞台が架空の王国や宇宙ではなく、現代の日本になったということ自体が、大きな変化だと思った。その方向が、さらに極まったな、と感じた。
もはや、不気味な泡もエコーもMPLSも出てくる必要はなくなったのだ。
『砂糖菓子の弾丸……』と同じく、なんとも救いがない、というか。
ただひたすら主人公達が無力感に苛まれているのだが。
主人公の少女は、9人もを無差別に殺害しながらいまだ警察の捜査の手も伸びていない。彼女は、実に冷徹のようにも見えるが、そうではない。実に些細なことで感情を揺さぶられ、三角関係に悩む。
その感情の動きも悩みも、紛うことなく本物であり、そしてかつ偽物である。彼らを苛む無力感は、そのことに気づいているからこそのものである。
何かがありのままにある、しかしそれを人は決してありのままに認識することが出来ない。
何かがありのままにある、しかしそれは簡単に変化し決して永遠に同じままではありえない。
そのことに気づき、なおかつ生き続けていることへの深い絶望。
成す術は何もない。
認識への不信感として、言葉への不信が何度も何度も語られる。
これはあまりにも直接的に表明されていて、小説としてはうまくないかもしれない。
言葉への不信、ということであれば、それこそ佐藤友哉や西尾維新、あるいは中原昌也の方がよっぽどうまく表現している(言葉の不信を言葉で表現する、というのも変な言い回しだが)。
だが、その直接的なシンプルな表明は、多分必要だ。
ラノベ的なガジェットを削り、シンプルにそのことだけが綴られていく(ブギーポップはガジェットに引きづられた、とはいえまいか)。つまり、ガジェットを出来る限り削った上で残ったのが、メタでもネタでもなく、シンプルなメッセージであったのだ。
表現に関して言うと、やけに固有名詞が多い。なかにはオリエンタルラジオという単語まで出てくる。
オタク作品の引用に関しても、ブギーポップ以外はそほど重要とは思えない。
これらは、読みにくさとして感じられた。
ただ、これらがこの作品をただひたすら「現代(といより現在)日本」の「ライトノベル」の中だけに固定させようとするものとしているのなら、ありかもしれない。つまり、現在の日本の特定の客層にだけ向けられた商品としての自覚(あとがきによれば、出版の予定のある作品ではなかったようだが)。
もう一点気になったのは、主人公の彼氏が視点人物になっている部分。
ギャルゲーはやったことがないので偏見といえば偏見だが、彼がギャルゲーの主人公にしかなってないのは残念。話の上でというよりも、文章の上で。
参考:限界小説書評第11回
これ読んで、読もうと思った。
追記
第二次惑星開発委員会のレビューを発見。
なるほど、こういうのを90年代って呼ぶのね。
もしこの小説を中学時代に読んでいたら、あまりにも感情移入してやばかったと思う。
今はそんなことはない。
だからこの上の感想を書くとき、少し困った。ラノベについて、文章についてなら色々思いつくのだが、内容については思いつかない。かつて考えたことのあることばかりが書かれていたから。あまりにも書かれている内容が分かりすぎたから。
しかし、僕はまだこの「90年代」に対して拘っている。
この惑星開発委員会のレビューのように考えることは出来ない。懐かしむことも、陳腐だと一笑に付すことも。
このレビューの中で
「酒鬼薔薇聖斗」になることを拒絶した殺人鬼の青春
とある。あるいは、上述した限界小説書評の中にも酒鬼薔薇聖斗は言及されている。
ここにはかつて「透明な存在」と名乗った少年の「透明」さに通じてしまうような、不可避な脆弱さから来る諦念と哀感が満ち溢れている。
自分はいまだにこの「90年代」の絶望に拘っているのだ。
だから、「物語の復権」にも「再帰性」にも、心底コミットすることができない。それが一つの処方箋だとは分かっていても。
そして、だからこそ、ラノベ的なガジェットやエンターテイメントもないし文章や表現が必ずしもよいわけではないが、その分シンプルに直接的に綴られているこの作品を肯定的に評価したい。