サール『心・脳・科学』

サールの講演会を本にしたもの。
そのためか、非常に分かりやすい。平易な言葉で書かれており、また論理も明快である。
心身問題を軽やかに解決し、強いAI批判を行い、志向性についての哲学を披露し、それを社会科学や自由意志に関する議論へとつなげていく。
訳者あとがきにこのような記述がある。

訳者は、サールのこれらの理論に対してかならずしも全面的に肯定するものではないが、理論の明確さ、議論の単純ともいえるまでの明晰さに関しては無条件に評価したいと考えている。

ここで、いわれている「サールのこれらの理論」とはオースティンの言語行為論についてサールが引き継いだ議論のことであって、本著で取り上げられている「心の哲学」のことではないのだが、全くもって同じような感想を持った。
サールは心を、脳の性質だと考えている。つまり、脳の生物的特徴として心があると考えているため、いわゆるコンピュータによる心の再現を批判する(脳の生物的特徴を模倣するコンピュータが心を持つことは批判していない。脳とは異なる形式で動くコンピュータが心を持つことを批判している)。
この点に関して、自分は逆にコンピュータでも脳を持ちうる可能性があると考えている(ちょっとだけ参照『マシンの園』)。これは、「そうだといいな」というレベルでもあるので、論理的にサールを反駁するのは難しい。ただやはりどうしても納得できないのが、強いAI批判を行う際にサールが提出する前提のうちのひとつである。

統語論は意味論を生むには不十分である。

続いて、「この命題は概念上の真理である」とすら述べられているので、納得できないといったところでどうしようもないのだが。
統語論から意味論が創発したりはしないのか。
そんなことがありえないのであれば、意味論は一体どのように生まれるのか、について説明して欲しい。この本ではその説明はなされていない。意味論の話は、固有名詞や指示の話なのだろうか。それはもう他のそういう本を探すしかないのだろう。
しかし、心身問題に関しては大いに納得。
心という一つの事象を、マクロのレベルとミクロのレベルの二つのレベルで説明することが出来るだけの話であって、心身問題なるたいそうな問題をたてる必要はないのである。だがしかし、これはボトムアップの説明とトップダウンの説明という2つの方式を作ってしまって、自由意志と決定論の関係を解きにくくしてしまう。そうだとしても、心身問題と自由意志に関してこれほど単純で明快な議論はないと思う。
さて、訳者あとがきからもう一箇所引用。

サールの意見は、あまりにもアメリカ的、あまりにも哲学者的な特徴を持っていると思われていたのである。

これは、人工知能研究家に持たれたサールの印象である。彼らが持ったサールの印象と僕の持った印象と、それこそ内包が一致するかどうかは分からないが、外延は一致する。
常識や経験から明快に議論を展開していく、特に社会科学についての部分などは、アメリカ哲学っぽいと感じた。とはいえ、アメリカ哲学に関することはある新書で知った程度に過ぎないのだけれど。
つまり、ある意味あまりに当たり前といえば当たり前のことを語っているだけのようにも見えるから。
さて、サールの本を読もうと思ったのは、その志向性という概念に興味があったから。
これはやっぱりそれなりに面白い、と思うのだけど、気になるのは志向性の分類や特徴なのではなく、志向性って一体どこから生まれてくるのか、ということ。
それはつまり、自由意志がどこから生まれるのか、というのと同意だと思う。
それは意味論がどこから生まれるのか、とはまた別の問題だろう。
余談。
自由意志についての議論は明快なのだが、多分ベルクソンに見せたら批判されるだろう、と思った。
その他。
とても説得力があり、かつ分かりやすく、読んでて思わず「サールってかっこいいなあ」と思う。この上では、納得できない点を挙げたが、内容的になるほどと思う部分ももちろんあった(サール批判への再(?)反論や自由意志に関する過去の議論の整理など)。しかし、それ以上になるほどと思ったのは議論の立て方に関する以下の一節。

そもそも主張を検討するときの一つの方法は、次のような疑問を提起することです。「その主張によっていったいどこが変わるというのか。その主張が偽であったときと、真であったときとで、この世界にいささかでも変化があるとすれば、それはどのようなものか。」

心・脳・科学 (岩波モダンクラシックス)

心・脳・科学 (岩波モダンクラシックス)