偶然性に耐えること、は本当に倫理的なのか
ということを、以前ふと考えた。
偶然性に耐えられず、何かに依存してしまうこと、と比べれば、よっぽど倫理的なのは確かなのだが
偶然性は偶然性で、人を傷付ける可能性をあるのではないか。
自分が自分であることの偶然性には耐えてみせよう。
がしかし、自分と「誰か」との関係性における偶然性はどうか。
「誰か」との関係性は、いつでもその「誰か」を傷付ける可能性を孕む。
その時、その責任の所在はどうなるのか。
最近は、授業(ポストコロニアリズムに関する授業を受けている)との絡みとか、以前blogにも書いたけどリベラルについて考えたりするときとかで、暴力について考えることがある。
語弊があるかもしれないが、いい暴力と悪い暴力とか、暴力は暴力で色々分析しなければいけないことがあるのだなぁ、と。
そういうことと、上に書いた偶然性の持っている暴力性とか、あるいは倫理とか、絡めて考えることが出来たら、
……すごいことになる(^^;
6月10日追記
「『責任』への視点── 自由な時代のなかで」
大澤真幸のコラム
そもそも自己決定・自己責任を言うようになったのも、何が善で何が悪か、何が真理かわからなくなったから。そうなった以上、みんな勝手に判断してくれ。だけど他人に迷惑をかけてほしくないから、自業自得にしてくれということ。
自分で納得して選択すれば、結果を受け入れる気にもなるけど、サイコロを振って出た偶然性に、人は責任を持てない。
責任の裏返しに「謝罪」があり、謝罪のペアとして「赦し」がある。僕らは普通、「謝ったら赦してあげよう」と思う。謝るということは、悪人が少し善人になるということ。赦す「原因」ができたから、赦そうという因果関係の論理になってる。だけど本来、原因がなくても結果を引き受けるのが責任の取り方。とすれば、赦しについても「謝ったから赦す」んじゃなく「赦せないこと、謝りようのないことでも赦す」ことが大事になってくる。