瞬間と記憶と『サン・ラザール駅裏』とベルクソンと『ダブルブリッド』

テレビ東京の『美の巨人たち』で、『サン・ラザール駅裏』という写真が取り上げられた。
その写真を撮ったのは、アンリ・カルティエ=ブレッソンという。
彼は、決定的瞬間の巨匠と呼ばれた。
しかし彼の撮る写真の、何が決定的瞬間なのか。
彼の写真に写っているのは、日常的な、静かな、情景。
しかし、そんな何の変哲もない情景の中で、彼は見事な構図を発見する。
彼は非常に素早くシャッターを切る、被写体が撮られたことに気付かれないほどに。
そして、そこには、何一つ無駄のない構図(前景と後景とで形に対応があるetc)があるのだ。
『サン・ラザール駅裏』もそのような写真の一つである。
駅舎の屋根と瓦礫の山、柵と梯子、そして水たまりの上で跳んだ男とポスターに描かれた姿、これらの調和。
しかし、それだけではない。見ている者は、その跳んだ男の行く末に思わず思いを馳せる。
まさにそこに写し出されているのは、日常における決定的瞬間である。
日常とは、決定的瞬間の集積であったのだ。
写真家はそうした瞬間を切り取り、逃げゆく時間を捉えようとする。
番組公式サイト『サン・ラザール駅裏』


ところで、このように、瞬間の集積として時間という概念を理解する、ということはベルクソンが批判したやり方であるわけだが、一方で時間から瞬間を抽出し特権化する行為は記憶によって成立するのではないか。そして、その記憶とは持続に他ならない。
写真に撮られた瞬間が、決定的=特権的であるのは、記憶のなせる技である。つまり、記憶というコンテクストによって、瞬間が意味づけされるのである。
記憶とは過去のことではない。過去から現在を意味づけする、持続なのである。
持続、という概念は、案外科学的なところもあると思っていて、それは最近の認知科学あたりとの接点があるのではないか、と考えているから。
下條の「脳の来歴」だったり、ポンティの「身体」だったり、アフォーダンスだったり……?
意識−脳−環境系とでも言えばいいのか。意識を、脳内に閉じこめず、時間・空間的な意味での環境へと開かれた場所に置くこと。
つまり、開かれた全体として意識を捉える点において、ベルクソン認知科学は繋がるのだろう、と。
しかし、僕はベルクソンを全肯定出来なくて、それはベルクソンが持続概念を非科学的、神秘的に捉えようとしているのではないか、と思うから。外延と内包の、内包の方。
あと今授業で、ドゥルーズの『Cinema1』を読んでいて、その本はベルクソンに依拠しているのだけど、もし映画じゃなくてFlashムービーならどうなの、と思ってしまう。
東浩紀がいう「映画」から「Web」への転換というわけでもないのだけど。
要するに、ベルクソンの時代にはなかった技術の誕生のせいで、ベルクソンの言っていることも成立しづらくなっているのじゃないか、ということ
[読書]ベルクソン『時間と自由』


しかし、これ以上ベルクソンのことを掘り下げる能力は今の自分にはない。
で、むしろ記憶ということについて考えてみよう、ということで思い出したのが『ダブルブリッド』で、パラパラと再読してみた。
ダブルブリッド』は一時自分なりに分析したので、それをもう一度繰り返すのもなんなんだが、やっぱり面白い作品だ。
とにかく、記憶と忘却が重要な仕掛けになっていて、主人公は話が進むにつれて記憶を失っていく。この記憶の喪失が、ある意味では彼女を内在的に「幸福」な状態にするのだけど、実際には他者に搾取されていたり、アイデンティティが崩壊しかけてたりしている。面白いのは、その崩壊しかけたアイデンティティを、かろうじて支えているのが、階級と名前という記号。この階級と名前、というのは、あんまり意味のあるものではない、ということが既に明らかになっているのにも関わらず、彼女はそこを拠り所としてしまう。(この作品では、名前がかなり重要な位置をもつ。主人公にとっての名前、アヤカシという種族にとっての名前、未知と呼ばれる幼女にとっての名前)
あと、記憶の喪失が、物語の停滞ではなく加速をもたらしている。
セカイ系といえばセカイ系といえる作品なんだけど、永遠のセカイに停滞しようとしない、という点でちょっと違う。
この作品は、他にも色々言及したいところがある。
例えば、ここで描かれる恋愛ってのが面白い。
記憶というものが瞬間を意味づけるものであるのだから、時間は決して後戻りしない。そして、人間関係もまた後戻りしない。最近、記憶と恋愛に関して色々考えてみたいと思っているから、とりあえずこんな文章を書いてみたけど、『ダブルブリッド』には残念ながらあまりあてはまらないかも。
ダブルブリッド』で描かれる恋愛で秀逸なのは、なんといっても相川と安藤。彼らの恋愛は、最早恋愛ではない。何しろ、食う・食われるの関係(比喩なし)なのだから。設定上、相川は恋愛感情を持っていないし、安藤の恋愛感情も、食われることを認めちゃったあたり倒錯的でもう恋愛なのかどうかよく分からないのだが、しかしだからこそピュアな恋愛関係なのかもしれない、とかなんとか。
というか、この最早恋愛なのかよく分からない関係が、でも恋愛なんじゃないか、というのは、他者とヒューマニズムの問題なのだと思う。
鋼の錬金術師』やらなんやらでも思うことなのだけど、人間以外を出すことでヒューマニズムを捉え直していこうという傾向がある気がしている。
マンガやアニメには、人間以外の存在も沢山出てくるが、大抵そういった人間として扱われる。
ヒューマニズムというのは、いつだってその範囲が疑われるわけだが、人間以外まで広げることでその疑いを捉え直すのだ。
ダブルブリッド』には、「ヒト」ではなく「アヤカシ」の論理で動く動物(他者)とどうやって付き合っていくのか、という問いが絶えずある。
あとは、『ダブルブリッド』に溢れる暴力とライトノベルというジャンルの関係、なんかもかつて分析(?)したことがある。ライトノベルというジャンルが、暴力描写の過激化・過剰化をもたらしている云々という話。で、『ダブルブリッド』の場合、その過剰化によって作者が続きを書けなくなってしまって、本末転倒な感じになっているのだけど、それって『魔法陣グルグル』にも似ているな、と思う。
形式からの要請が、内容に致命的な影響を与えてしまった例として。しかしそれは、形式と真摯に向き合っている証左でもあると思う。
ところで、今『ダブルブリッド』で暴力について語るなら、暴力描写についてより、実際に作中でどのような暴力があったか、にも注目してみたい。相川と安藤の食う・食われるはまさに暴力であるし。
そもそも主人公の周囲には、様々な暴力が溢れている。彼女を好きになり、しかし今では彼女を殺そうとしている、山崎の暴力(これは「キミボク」「セカイ系」が案外正面きっては描こうとしない「ボク」の本性だと思う)であったり、あるいは彼女を従わせようとする「主」の暴力だったりする。
山崎の暴力はある意味でわかりやすいので大したことないが、「主」の暴力の方は主人公が気付かないように主人公を搾取しようとする暴力なので(しかもそれは記憶の喪失、内在的な「幸福」と同時進行で起こるので)注視しないければならない。
amazon:ダブルブリッド

ダブルブリッド〈9〉 (電撃文庫)

ダブルブリッド〈9〉 (電撃文庫)


今、『限界の思考』もパラパラと再読して、それで作品分析みたいなことをまたやりたくなった、ということもある。
宮台がサブカル分析をやるのは、サブカルを通して超越系を安堵させるため。
ダ・ヴィンチ』で連載している「オン・ザ・エッジ」という映画評論がまさにそれ。
例えば、家族関連の映画で、オブセッシブに家族をやるより、家族を演じてた方がいいでしょ、とかそんな話で。
『限界の思考』の中で言ってた、オブセッシブを解除してやること、について納得した。
オブセッシブ解除後はどうなるんだよ、って思うのだけど、とりあえず家族の話に関しては。
で、今考えているのは、そこらへんにも記憶というファクターはどのように絡んでくるのか、ということ。
アイロニカルだのリフレクシブだの、ということは、記憶がなければできないことだと思う。
で、オブセッシブ解除後、「生活世界」でも「個人」でもいいんだけど、参入離脱の自由を供給するリソースとして、あとは記憶とかに頼ることになるんじゃないか、とかなんとか。
つまり、超越系の人間にとっては、記憶ってどういう効能があるのだろうか、とか、そういう疑問。
[読書]限界の思考