『哲学の最前線―ハーバードより愛をこめて』冨田恭彦

アメリ分析哲学について、小説形式でつづられた、入門書。
アメリカの方の哲学ってまだあまり知らないので、ちょうどよい内容だった。
小説形式なのも、まあご愛敬ってところか(^^;
入門書を対話形式にするのは、読みやすくなるのでよいと思う(野矢茂樹とかそうだしね)のだけど、不必要な情景描写も見受けられた気がする。まあ、ハーバードの雰囲気も伝えたいってことなのか。


「解釈学」「指示理論」「ローティの『連帯』」の3つが紹介されている。
クワイン、デヴィッドソン、サール、ローティ、それにクリプキなど。
(関係ないけど、クリプキって高校の時に書いた論文が大学の先生の目にとまり、その先生が論文の書き手を大学に招聘してみれば、実は高校生でびっくり、ってなエピソードがあるくらいの天才らしい)
やはり、アメリカの哲学はプラグマティックだな、と感じる。
知識や認識というものが、実際に使い物になるために、どうするか、という考え方なのだと思う。
何らかの客観的な真理があるかどうか、というのはとりあえず問わない。
むしろ、どうやって新しい知識を手に入れ、それを使い物にするか、と考える。
その場合、必ずしも客観的に知識なりなんなりを手に入れる必要はない、というよりもそんなことができない、ことがわかる。
何かを認識するためには、必ずその認識の前に信念なり知識なりがある。
信念や知識があることによって認識が得られ、その認識によってまた新たな信念や知識を得る。
これが、解釈学の循環構造である。
これは、自然科学のやり方ともよく似ている。
理論・数学があるからこそ、実験データを読むことが出来るし、実験データがあるからこそ、理論を生み出すことが出来る。
また、『近代科学の誕生』で書かれていたが、ベーコンは自分の知識はいつでも暫定的だ、と述べている。
これは、パースのプラグマティズムとも共鳴するだろう。
確かパースは、科学や哲学のありかたを真理への漸近線として捉えている。
客観的な世界や真理をとりあえず否定する、というのはポストモダニズムとも共通するところであるが、アメリ分析哲学は、文化相対主義はとらない。
あることは、こっちでは正しいかもしれないが、あっちでは間違っているかもしれない、という相対主義的な懐疑にとらわれていては、何の理解も進まない。
デヴィッドソンは、ほとんどのことは正しい、と考える。
自分の持っている信念は大体正しいし、相手の言っていることも大体正しいのだ、と。
そして、そうでなければ、互いに互いを理解しあうことや翻訳することなどできないのである。
何故なら、互いに互いが間違っているとすると、お互いを理解し合ううえで共有できる基盤がなくなってしまうからだ。
大体のことが共有できているからこそ、互いの違い・矛盾点が見えてくる。
正しさ、というのは、客観的な真理なのではなく、それぞれの理論・認識の間の整合性のことなのだ。
さて、客観的な真理がない、のはつらい。
だが、そこで客観性を求めてはいけない。そこで必要なのは「連帯」なのだ、と説くのがローティだ。
「連帯」とは、そのつらさをお互いに共有し、矛盾点を解消していくあり方だ。
参考:[読書]『近代科学の誕生』(2006年5月29日)
[読書]『偶然性・アイロニー・連帯』(2005年12月30日)


「指示理論」というのは、言語というのは客観的な世界を指示するものなのではないか、という問題に対する議論。
こちらも、結論としては、発言者の信念がどうしても介在するので、客観的な世界を直接指示することは出来ない、というものなのだけど。
では、それでは何故、言葉というものが使うことが出来るのか、というと、要するに使用者のネットワークの中で言葉の使用に関する相互理解がなされているからだろう、ということなのだろう、と思う。
で、固有名詞の話というと、今まで僕が知っているのは、『存在論的、郵便的』で批判されたクリプキの「名付け」で、それに対して東は郵便空間なるものを出してくるのだけど。
この本を読むと、クリプキ説と郵便空間説の違いがよく分からなくなってきた。
郵便空間説も、使用者のネットワークの話だから。


宮台によると、英米系哲学と大陸系哲学は以下のように区別できる。
すなわち、到達不可能なもの(=ロマン的対象物=(ここでは)客観的な真理(を得るためのアルキメデスの点))を断念することを成熟とみなす、英米
と、断念することは不可能だと悟ることを成熟とみなす大陸系、である。
(ちなみに、さらに大陸系を分類すると、そのロマンが国家や歴史へと向かうのがドイツ、女性へと向かうのがフランス)
アメリ分析哲学をプラグマティックだと感じたのは、まさにこの点である。
また、そういう意味で、フランスの哲学者デリダの研究でデビューしながらも、学部生時代に科学哲学をやっていた東浩紀というのは、ずいぶんと英米系の考え方をしているのが分かる。
ほんの少し前までは、自分も英米系の考え方をしていたのだと思う。
実に、客観性を断念し、その中で整合性を獲得していこうとする、この分析哲学のやり方というのは納得がいく。
だが、ある時期から、それでも断念しきれないという思いがあって、この本を読んでいて物足りなさを感じてしまったし、やはりローティの言っていることはしんどい。
そのしんどさを正面から受け取ろうとするのだから、ローティの言っていることは本当にすごいことだと思うのだけど。
参考:[読書]『限界の思考』(2006年4月10日)←宮台による英米系と大陸系の分類が書いてある
[レビュー]東関連(2006年1月18日)


哲学の最前線―ハーバードより愛をこめて (講談社現代新書)

哲学の最前線―ハーバードより愛をこめて (講談社現代新書)