難しかったので、途中で読むのを断念した……orz
サブタイトルは「最節約原理,進化論,推論」
生物学哲学の本だが、科学哲学、生物体系学、統計学がある程度分かっていることが前提で、統計学の話がばかすか出てきたあたりで挫折
この本は、生物体系学の論争史を科学哲学的に検討していくという話だが、科学哲学の側から見ると、単純性の原理みたいなものは正当化できるのかという話だったりする。
いわゆる「オッカムの剃刀」みたいな話
つまり、同じようにデータをを説明できる仮説が2つ以上あったときに、より単純な方を選べ、みたいな考え方あるけど、これって正当化されてんの、と。
で、従来の科学哲学は、こういう方法論的な話を、グローバルな問題として解決しようとしてきた。つまり、あらゆる科学に適用できるようなものとして。
しかし、ソーバーは、もっとローカルな問題としてこれを考える。つまり、もっと特定の分野に限定された問題として考えなきゃいけないのではないか、と。
そこでソーバーが注目するのが、生物体系学における表形学と分岐学との対立、さらにいえば、全体的類似度法と分岐学的最節約法という系統推定のための2つの方法のどちらがより優れいているかという問題である。
最節約法は、進化においてホモプラシーが稀であるという仮定があるのではないか、ということにおいて批判されている。
本書での検討の結果として、こうした批判は誤りであると結論される。最節約法は、ホモプラシーを最小化する仮説を選ぶが、ホモプラシーが稀であるという仮定を置いているわけではない。
とはいえ、こうした批判に答えたからといって、最節約法が正当化されたわけではないとも、ソーバーは述べる。
最節約法擁護派は、進化についてどういうモデルをおいているかということについて触れてこなかったが、ソーバーは進化についてのモデルがなければ、どの推定法が正しいのか判断することはできないと主張する。
科学哲学では、経験的な背景理論なしにデータから仮説を推論する方法論を考えようとしてきたが、そういうのは無理で、経験的な背景理論が必要になるということである。
「本書の最も重要な論点は、経験的な前提なしにはどんな推定法もデータと仮説とを結びつけられないということである。(p.283)」
序言
第1章 生物学からみた系統推定問題
第2章 哲学からみた単純性問題
第3章 共通原因の原理
第4章 分岐学:仮説演繹主義の限界
第5章 最節約性・尤度・一致性
第6章 系統分岐プロセスのモデル
第1章 生物学からみた系統推定問題
過去をどうやって知るか
過去と現在を結ぶプロセスが「情報破壊的」か「情報保存的」か
血縁関係をどのように推定するか
→パターンとプロセスの区別
パターン:祖先子孫関係(ヒトがサルから進化したこと)
プロセス:変化の原因に関する因果的説明(なぜヒトがサルから種分化したのか)
「体系学の方法論をめぐるこの論争を解決するには、対立する主たる方法論が置いているプロセス仮定をはっきりさせることである」(p.31)
表形主義
・全体的類似性によって分類する(→全体的類似性の対義語は特殊類似性)
・分類学はプロセス理論から独立すべき
分岐学
→単系統群を見つける(「切り落とし法」)
分岐図と系統樹の違い(分岐図は単系統群だけを示す。系統樹は単系統群だけでなく祖先子孫関係についても示す)
祖先種が持っている形質:祖先的ないし原始的
子孫種が持っていて祖先種と異なる形質:子孫的ないし派生的
原始的性質を0、派生的性質を1とする。
種A 種B 種C、形質1〜45については、Aは1、BとCは0、形質46〜50については、AとBは1、Cは0だとする。
形質1〜50をみると、BとCは90%、AとBは10%、AとCは0%類似している。そこで、全体的類似性からすると、A(BC)が真の系統仮説ということになる(BとCがより近い分類群)。
一方、最節約法は、共有派生形質は系統関係の証拠であるが、共有原始形質はそうではないとみなす。つまり、形質46〜50だけで考える。そうすると、(AB)Cが、正しい系統仮説となる。
一回生じた形質はその消滅しない、という仮定を置いてみると、最節約法は正しい。
でも、この仮定は実際には成り立たない。
上の例では、形質1〜45は100、形質46〜50は110というパターンだったが、ここに形質51として、011というパターンを考えてみる。
これは一回生じた形質が、祖先のものに戻ったというようなパターンである。
こういうのは、ホモプラシーとして説明される。
高校生物だと、相同(ホモロジー)と相似(アナロジー)というのを習ったりするけれど、ホモプラシー(非相同)というのは相似にほぼ対応する言葉、らしい。
ホモロジーというのは、共通祖先に由来する類似した形質
ホモプラシーというのは、別々の起源に由来する類似した性質で、並行進化や収斂を含む。
最節約法は、ホモプラシーを最小にしていると説明される。
第2章 哲学からみた単純性問題
20世紀の科学哲学における単純性の問題については2つの起源がある
1つは、ヒューム。帰納法において、ヒュームは観察と仮説を結びつけるためには、斉一性が仮定されていると考えた。斉一性というのは、単純性の一種である。
また、もう一つは、ライヘンバッハの議論やアインシュタインなどに由来するもので、理論説明における最節約性の問題(デカルトの悪魔、オッカムの剃刀)
ソーバーは、この単純性問題について、かつてあった存在論的伝統が次第に凋落して、純粋に方法論的なものになったとしている。
存在論的というのは、単純性が自然に備わっているという考えのことで、例としてニュートンを挙げている。
とはいえ、実際自然は単純などではなく複雑である。単純性というのは、自然に備わっているのではなく、方法論的なものなのではないか、というふうにシフトしていった。
しかし、ソーバーはさらに異を唱える。
確かに、自然は単純であるという仮定はおかしいが、かといって単純性が何も仮定していないわけではない、と。
大局的な科学哲学から、個別の科学的推論における単純性について考えなければならない、と。
第3章 共通原因の原理
同じ結果には同じ原因があると思え、みたいな奴
レポートで2人の学生が全く同じ文章を出してきたら、たまたま2人がそれぞれ独自に同じ文章を思いついたと考えるよりは、同じ文章をコピペしてきたと考えた方がよい、とか、同じ舞台に出演する2人の俳優が同時に腹痛を起こしたら、同じ食べ物が原因になっていたのではないか、とか。
ライヘンバッハとSalomonは、2つの事象に間に相関があるとき、共通原因が存在する、という「共通原因の原理」というものを提唱した
そう考えるのが合理的だというのは認識論的主張、ライヘンバッハらの「原理」はそれよりもさらに強い存在論的な主張
この共通原因の話には、「濾過」という概念がよく出てくる。科学哲学では「遮断」と訳されることが多いらしい。原因を推測する時に、2つの情報があって、片方が分かればもう片方からは新たな情報が得られないとき、その原因は一方の結果を他方の結果から濾過したと言われる、らしい
うん、この章からすでに、よく分からなくなっているな、自分……
第5章 最節約性・尤度・一致性
「統計的推論の観点からみた分岐学的節約法をめぐるFarrisとFelsensteinの論争について」
擾乱変数とか尤度とか統計学的一致性とか出てくる
ここでソーバーは、一貫して論証のまずさを指摘してるのであって、結論が間違っていると述べているわけではない、ということを言っている。
Farrisは、最節約法は仮定を最小化しても、最小性を仮定してはいないと主張し、
Felsensteinは、最節約法が最小性を仮定していると主張しようとした。
でも、それをうまく論証できていない、というような話っぽい。Felsensteinは、最小性が必要条件であることを示そうとしても、十分条件であることくらいしか示せてないとかそういう話だったような?
この章の途中で読むの諦めた。
第6章 系統分岐プロセスのモデル
「モデルがなければ推論できないという重要な結論を無視するわけにはいかにあ。形質分布の証拠としての意味づけをめぐって対立する学説の妥当性を検討するには、たとえ暫定的にせよ、具体的な進化プロセスのモデルを仮定することが不可欠である。」(p.239)
ホモプラシーの頻度が最節約性の妥当性にどのような影響を与えるか
→ホモプラシーが稀であるという仮定をおいて最節約性が妥当であることを示す→だめ(十分性と必要性を混同している)
→ホモプラシーが頻繁に生じるモデルで最節約性が失敗することを示す→だめ
→ホモプラシーの頻度が調整可能なパラメータであるようなモデルを考えるべき
観察された形質が、原始的か派生的かどのように決めるか。
外群比較法、個体発生基準、古生物学的基準、機能基準といった方法がある。
この章では、外群比較法について特に検討されている。
どの手法が妥当なのかは、本書での議論の範囲を超えているとして論じられてはいないが、それぞれの妥当性をはかるための進化モデルがそれぞれ異なっていて、議論しようがないような状況らしい。
最節約法は、最小性を仮定しているという批判自体は、どうも間違っていることが、この章で示された、らしい。
とはいえ、最節約法が正当化されたわけではないよ、とソーバーは言っている。
読む前に気になっていたこと
いや、読む前から、この本読んでもこれについてはわからんだろうなーとは薄々思っていたのだけど、読む前に気になっていて、あわよくばなんかわからんかなーと思っていたこと
最近、恐竜の本を読むと、「鳥は恐竜、これ常識」みたいなことが必ず書いているけれど
これって、鳥と恐竜とが単系統群だってことがわかったって話のはず。
というか、「鳥は恐竜」っての分岐学者の主張らしいんだけど、古生物学ではそれがそのまま受け入れられているのかー、というのがちょっと気になったりしたこと
まあ、この本読んでも、最節約法は必ずしも正当化できていないとはいえ、全体的類似度法にも色々問題あるよ的なことは書かれているし、三中さんの訳者解説やキャロル・キサク・ヨーン『自然を名づける』 - logical cypher scape2に漂っている雰囲気的にも、趨勢は分岐学なんだろうなあというのは伺えるわけだけど
古生物学と分岐学って結局どういう感じの関係なのかなあ、と。
あと、そもそも古生物学者はどうやって分類やら系統推定やらやっているのかっていうもっと具体的なことを知りたいとちょっと思っているのだけど、それは明らかに科学哲学の本に求めることではなかったw
「研究が進んで、鳥は恐竜だということが分かりました」といわれて、じゃあその研究って一体何なんだろうってことで、まあそれはもっと専門的な恐竜についての本を読めよって話であり、なんで科学哲学の本を読んだしって話なんだけど。まあ、方法論の話について基本的な解説があるかとちょっと期待してたんだけど、そうではなかった、と。
で、上でいう「研究」って一体何かって考えたときに、何も考えてないと「あー遺伝子とかかな」とか思ったりしてしまいがちだが、そもそも恐竜は遺伝子ちゃんと分かってないので、分子生物学的な方法は無理。
形質を数えて統計を使う、みたいなことやってるっぽいけど、形質を数えるとか、そこから分岐図を作るとかが、どういう作業なのか全くよく分からないなーと。
読んだ感想
統計とか出てくるらしいというのは事前に知っていたけど、思っていた以上に統計学だった
そして、統計学全然分からなくて途方に暮れる
もう少し解説があるかと思ったんだけど、わりと分かっていること前提にされていた感じだった
生物学っぽい話もむろん色々出てきてはいるんだけども
でもまあ具体例に出てくるのが、同じ劇場で2人の俳優が腹痛を起こしたとか、レーガンに投票した政治家の所属政党はどっちかとか、コイン投げがどうとかだったりして、生物学関連の本読んでいる気が全然しないw
FarrisとFelsensteinの議論とか、2人とも生物体系学者だと思うのだけど、もうひたすら統計学の話をしていて、とにかく統計学なんだなーみたいな。
ちなみに、数式もばかすか出てくる