『現代思想』特集:絶滅
とりあえず長沼さんと三中さんが何書いてるかなーと眺める。この2人、ページの上下に線が入っていて、コラム扱いというか、別枠扱いされている感じがする。
- 長沼さん
長沼さんは、ビッグファイブについて簡単に説明したのち、化石人類史(ホモ属の歴史)を解説していた模様。最後に、トバ・カタストロフとボトルネックによる大躍進のことを解説していた。
- 三中さん
三中さんはまあいつもの、系統樹思考と分類思考の話だけど、恐竜と絡めていた。でもって、単系統だけが真の単位、側系統は分類群として存在しない、そう考えれば、不必要な絶滅シナリオについて説明しなくてもよくなる、みたいなことをちらっと書いているw いいのかこれw
あと、メレオロジーと集合論を対立させるような書き方をしていた(系統樹思考と分類思考の対立とそわせる形で)が、実際のところ、メレオロジーと集合論ってどういう関係にあるんだろうか。
『Newton』
『日経サイエンス』
三中さんからトラバが
飛んできてました。
生物進化上の「絶滅」は,因果プロセスとしての仮説を論じる前に,系統樹あるいは分岐図の上で絶滅を仮定してもよいかどうかという認識論上の問題を解く必要があるでしょう.
実は絶滅はありませんでしたってなったら、古生物学者はみんなびっくりしてしまうんじゃないかなーと思った、というのが、上で書いた「いいのかこれw」
「系統樹思考」が形而上学の「メレオロジー」と密接な関係があるというのは part-whole relationship を考えれば自然な発想だと思う.
多分そうだと思う。
気になったのは、集合論との関係
TL検索したらこんなのを見つけたのでメモ
メレオロジーのウリは「集合論じゃないけど集合論っぽいことができる」みたいなもんですから
https://twitter.com/torakoyama/status/197346067086454784
集合論と大して違いがないので、集合論研究者にとってつまんないというだけです。
http://ask.fm/ytb_at_twt/answer/110942172490
あと、集合論をメレオロジーの一部として解釈するルイスの仕事というものがあるらしい
「クラスの概念と部分ー全体関係」(戸田山和久) - あいまいな本日の私 blog
メレオロジーって結局何なのかいまだによく分かっていない。SEPしかないかー。英語読めないけど。
集合論との関係は、とりあえずここらへん?
For while Leśniewski's and Leonard and Goodman's original formulations betray a nominalistic stand, reflecting a conception of mereology as an ontologically parsimonious alternative to set theory, there is no necessary link between the analysis of parthood relations and the philosophical position of nominalism.[5] As a formal theory (in Husserl's sense of ‘formal’, i.e., as opposed to ‘material’) mereology is simply an attempt to lay down the general principles underlying the relationships between an entity and its constituent parts, whatever the nature of the entity, just as set theory is an attempt to lay down the principles underlying the relationships between a set and its members. Unlike set theory, mereology is not committed to the existence of abstracta: the whole can be as concrete as the parts. But mereology carries no nominalistic commitment to concreta either: the parts can be as abstract as the whole.
http://plato.stanford.edu/entries/mereology/
メレオロジーは、グッドマンとかだと唯名論と結びついていたけど、別に唯名論の立場とつながっている必要はない。また、集合論と違って、抽象物の存在にコミットしてない。
形而上学的立場を選ばない、ということか。
古代ギリシアまでさかのぼり、中世でも近世でもでてくる、現代だとブレンターノとフッサールらしいが、形式化したのはLeśniewski でも、ポーランド語読めない人には伝わらなくて、現代の形而上学においてはレオナルドとグッドマンの『個体計算』が主なところって感じなのか。