SF冬の時代は終わった、と宣言する傑作アンソロジー。
僕は完全にゼロ年代も後半に入ってからSFを読み始めたクチであって、まだまだSFファンと名乗るのもおこがましい限りではあるが、今SFが面白いと主張していきたい。
毎年上がり続けていると言われるSF読者層の平均年齢を少しでも押し下げる役を担えれば幸いであるw
友人にやはりSF好きがいて、最近のものしか読まない僕なんかと違って、ちゃんと古いものから順を追って読んでいるのだが、彼はシニカルな見方をしていて、僕がいくら「今SFの時代来てるって!」と主張しても取り合ってくれないのである。
同じく大森の『年間日本SF傑作選 虚構機関』が、年次傑作選としては32年ぶりの刊行で、今回のゼロ年代日本SFベスト集成は、年代別傑作選としては34年ぶりの刊行となるらしく、このことこそ、SF冬の時代が終わったことの一つの証左となるのではないだろうか。
昨今のジャンル小説の隆盛でいえば、明らかにミステリが強いわけだが、映像コンテンツとの親和性が高かったのは大きいかもしれない。
SFは、CGやVFXがもはや当たり前になってしまった現代において、映像コンテンツとしてはなかなか売りにくくなっているかもしれない。その点で、まだまだSFはミステリから引き離されてしまっているわけだが。
以下、あらすじと感想。
ネタバレ回避しませんが、ネタバレしてつまらなくなるものはないと思う*1
野尻抱介『大風呂敷と蜘蛛の糸』
いいね、こういうのw
ある女子大生のアイデアから始まった宇宙開発もの。ロケットではなく、凧を使って宇宙を目指すというもの。
大学の研究室の手作り感ある開発ながら、スケールの大きいことをやっているのが魅力。
有人飛行というのもよい。もっとも、凧なので中間圏までは行けても宇宙までは行けないのだが
最後の終わり方も、これはプロローグにすぎないって感じが出ていていい。
小川一水「幸せになる箱庭」
短編集『老ヴォールの惑星』所収。
ファーストコンタクトものにしてバーチャルリアリティもの。
木星にやってきた異星の機械。その持ち主である知的生命体と接触すべく、一流の科学者で構成された特使が派遣される。
彼らはまもなく目的地へと到着するが、そこで彼らはヴァーチャル・リアリティの世界に囚われてしまう。
そこは、彼らにとって理想的な世界であり、知的生命体の方はそれを観察対象としていた。人類全てをヴァーチャル・リアリティの中に取り込もうとする彼ら。そこは幸せが約束された世界であるが。
上遠野浩平「鉄仮面をめぐる議論」
虚空牙シリーズ
触れるもの全てを結晶化させてしまう、マイロー・スタースクレイパーなる男。
幼少期からその体質ゆえに人から隔離されて育てられ、対虚空牙兵器として扱われた。
そんな彼に初めて人間的に接触したのは、天才少女、初子さんである。
マイローは初子さんに淡い恋心を抱くが、初子さんはむしろそれを見越してある作戦を練っていた。
それは人類全体を、マイローの能力で結晶化させてしまうことで、守ること。
お伽噺と作中で言われているとおり、というか、まあいつもの上遠野浩平であって、最後に添えられている筆者の言葉に「決して手に入らないものを敢えて求める」とあるとおり、その切なくもありかっこよくもある姿を描いている作品
田中啓文「嘔吐した宇宙飛行士」
タイトルそのままの作品であるw
といってしまっては身も蓋もないけれど、本当にそうなのだから仕方がないw
新兵として初めての船外活動訓練に参加した李は、しかし前日の大食い大会がたたって気分を悪くし、宇宙をさまよってしまう羽目になる。
その後はなんというか、ひどい嘔吐やらゴミやらの描写が延々と続くのだが、何故だか壮大な気分が味わえるw
菅浩江「五人姉妹」
園川グループ社長の娘、葉那子は、幼い頃に新型の人工臓器を開発実験のために移植され、そしてもしもの時に備えて、4人のクローンが作られた。
4人はそれぞれ別の女性のもとで、クローンであることを隠して育てられた。
35歳になった葉那子は、父親が亡くなり、また人工臓器も安定したために、4人のクローンに会い、今後はもう何の要請もしないことを伝えることにした。
4人は、それぞれの育ってきた環境に応じてそれぞれ全く異なる性格に育っていた。
葉那子は、みなに父親のことを尋ねる。4人は世間的にはクローンではなく、愛人の娘ということになっていて、葉那子の父親はそれぞれ4人の娘のもとでも父親として振る舞っていた。
父親のトーストを食べる時の独特の癖を、知っている者はいるのか。
淡々とした筆致と物静かな雰囲気で進む短編で、さっぱりとした読後感だった。
上田早夕里「魚舟・獣舟」
同名短編集が、「ベストSF2009」で国内編第4位となっている。
短さのなかに凝縮されていて、叙情性たっぷりのラストシーンが非常に印象的な傑作。
水没した未来の地球が舞台で、人類は陸上民と海上民に分かれて生活している。
海上民は遺伝子操作されており、魚舟と呼ばれる生物を居住用の船兼パートナーとして暮らしている。
パートナーを失った魚船は、獣舟と呼ばれ凶暴化し、陸上の人間を襲うようになっている。
主人公は海上民ながら、海の生活を捨て陸上で生活し、獣舟の討伐を行っていた。
そこに幼なじみの美緒が現れる。
獣舟の中に、美緒のパートナーとなるはずだった個体がいるといい、その個体だけでいいから殺すのをやめてほしいと頼む美緒。
獣舟は何故陸を目指すのか。何故大きく姿を変えているのか。
獣舟の咆哮が、もはや海上民としては生活できず獣舟を殺し続けるであろう主人公と、いずれ人類によりいっそうの災厄が襲いかかるのではないかという未来を暗示しているかのようにして終わる。
桜庭一樹「A」
少女をテーマにした、桜庭らしい作品。
アイドルとは一体何か。
アイドルという存在がいなくなってしまった時代。かつて、アイドルであった老婆のもとに代理店の人間が訪れる。
その老婆の神経をトレースし、ロボットを動かし、アイドルを復活させるプロジェクト。
飛浩隆「ラギッド・ガール」
やはり、飛浩隆のこのシリーズはやばい!
最後の著者のことばで、第一作『グラン・ヴァカンス』が大森によって「イーガン以降の目で見ると不満も残る」と書かれたのを機に書かれたというこの作品。
イーガンの先を行っている、と言ってもいいのではないだろうか*2。
仮想リゾート<数値海岸>の開発前夜を描いている。
「あれほど醜い女をみたことはない」と形容される、阿形渓。彼女は、一五〇キロの巨体をもち、正常なところがないほど全身の皮膚に様々な異常が現れている。
彼女は、阿雅砂という少女の姿をしたネット・コンテンツの開発者であり、そして直感像的全身感覚の持ち主である。彼女は、全身の感覚を事細かに記憶してしまうことができるのである。その感覚を、数値海岸の開発者であるドラホーシュ教授は、<情報的似姿>の開発に利用しようとしているのだ。
物語は、ドラホーシュ教授による<情報的似姿>の説明と、教授率いる開発メンバーの一員であり安奈と渓の関係が交互に描かれる。
<情報的似姿>とは、人間に変わってヴァーチャル・リアリティ空間を体験するプログラムで、人間の入出力を事細かに記録することによって作られる。人間全体をコンピュータ上でシミュレーションするのは非常に困難であるが、人間を簡略化した<情報的似姿>であれば容易である。問題は、<情報的似姿>のために使う感覚の入出力をどうするか、ということで、それに渓の直感像記憶を利用しようということである。
(ちなみに、外科的なデバイスによって五感を含めたオーギュメンテッド・リアリティは既に実現している未来が舞台である)
その美しさによって幼い頃から人から見られる悦びを感じていた安奈と渓は、お互いに惹かれあう。
渓は、ドラホーシュ教授の<情報的似姿>の技術を利用して、安奈を所有することを試みる。渓は、その皮膚がもたらす感覚によって、空間を演算できる。安奈の<似姿>が、渓によって演算される。
この作品は、安奈の一人称で語られているのだが、どこかのタイミングで語り手は、渓の皮膚で演算される<安奈>になっている。
現実と仮想現実が原理的には区別できないという話で、それ自体はよくあるネタであるが、そこに至るプロセスと読み終わったときの衝撃はゼロ年代のベストにふさわしい。
美しい人形を所有したい渓、美しい人形になりたい安奈。
また、小説の登場人物は、読まれることによって生きるということと、似姿となった人間は、演算されることによって生きるということが重ね合わされることや、渓と安奈における「人形」の関係などは、『グラン・ヴァカンス』とも通ずるところがあり、残酷さをあぶり出している。
円城塔「Yedo」
『Self-ReferenceENGINE』の中の一パート。
何とも馬鹿馬鹿しくも生真面目で、さくっと読める。
何故「Yedo」? と思ったが、案外いいものかもしれない。
神林長平「ぼくの、マシン」
雪風シリーズのスピンオフ。
深井零の子どもの頃の話。
全てのコンピュータがネットワークにつなげられることが義務づけられている社会で、深井は、幼いながらにぼくだけのマシンが欲しいと思う。
親の目をかいくぐり、どうにかして自分のコンピュータをスタンドアロンにしようと試みるが、最後には警察組織によって破壊されてしまう。
この機械に対する独特の感情移入っぷりが、ゾクゾクさせられる。
『<F> 逃げゆく物語の話』につづく
ぼくの、マシン ゼロ年代日本SFベスト集成<S> (創元SF文庫)
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