エリオット・ソーバー『進化論の射程』

三中さんの本で紹介されていた本で、ようやく読めた*1
日本語サブタイトルは「生物学の哲学入門」、原著タイトルはそのものずばり“Philosophy of Biology”である。
では、生物学の哲学とは何か。まあ、何かと問われてはっきりとした答えが出せるものでもないのだが、その名の通り生物学における哲学的な問題を扱う学問領域である。科学哲学でもあるし生物学でもある。生物学における様々な議論が、科学哲学の概念を踏まえて整理されている、とも言えるかもしれない。ここで、序の一部を引用してみる。

私は生物学を、実証主義や還元主義、科学的実在論のテストケースとして見ようと言う気にはならない。それは、私がこうした哲学的な〜主義をつまらないものだと感じているからではない。生物学の哲学を、生物学のただ中から浮かび上がらせるというのが、私の好む編集方針だからである。

〜主義のテストケースとして生物学の例に出すのではなく、生物学の議論を科学哲学を道具にして見ていくといえるかもしれない。
例えば、創造論の話をするのにポパー反証主義を使ったり(しかし、そこではむしろポパーが批判されている)、体系学論争において本質主義や個物の同一性について論じられたり、社会生物学論争を通して決定論倫理学の〜主義が再考されたりする。


この本のタイトルに進化論が入っていることからも分かるように、この本で中心に置かれるのは進化論であるが、トピックは多岐にわたる(それでも、序によれば、生物学の哲学のほんの一角に過ぎないというのだから、生物学の哲学の幅広さというか、一言で説明することの難しさが分かると思う)。
そうした様々なトピックについての解説がされているので、科学哲学の本でもあるが、進化論の本として読むことができる(というかむしろそっちがメインか)。
進化論の入門書としてはもっと簡単なのが出てるけど、中級の入門書くらいの位置付けで読めるかもしれない。
もちろん、生物学者ではなく哲学者が書いているので、生物学者とは着目するポイントが違うかもしれないが、一方でこのような様々なトピックに渡って解説することができる、というのが科学哲学者の役割の一つであるように思える。
科学哲学者は、科学における論争のガイド役だと言ってもよい。
もちろんそのような役割を、科学者自身が行ってもよい。実際、そのような本は多いわけだが、哲学者と役割分担してもよいのではないかと思う。
哲学は難解で役に立たない学問と思われている向きもあるが、現代の哲学者というのはむしろ、すぐには見通しのつきにくい科学の論争を整理して解説するという、分かりやすくて役に立つ側面があるのではないだろうか。
議論を論理的に腑分けしていくというのは、哲学者にとってはまさにその専門とするところでもある。
ところで、また実際の「生物学のただ中から浮かび上がらせる」哲学ということもあって、現実離れしたというところもない。
ソーバーは随所で、かつての(100年くらい前の?)哲学が目していたであろう、絶対的な基準や大局的な基準というものを求めることはせず、局所的でその問題を解くのに十分な基準を求めることにとどめる。


進化論に関しては、入門書とかもっと広く読まれて欲しい、というか、別に進化論に限った話ではないけれど、それなりにちゃんと分かっている人ってどれくらいいるのかなと最近思う。
というのも、そもそも進化論が学校教育の中であまりちゃんと教えられてないからだ。
この本で進化論が中心にそえられているのは、進化論が生物学の中でも中心的に据えることができるかもしれないからである。もちろん、生物学の全てが進化論に尽きるわけではないが、そこらへんの生物学と進化論の関係というのも本書は章が割かれている。
創造論に一つの章が割かれているが、アメリカで創造論ないしID論と進化論との対立(?)が大きなイシューとなっていることは周知の通りである。これに対して日本人の反応として、アメリカにおける宗教の影響力の強さと捉えて、宗教の影響力がさほど強くない日本とは無関係としていることも多いと思う。進化論くらい日本人はみんな知っている、というか。
だが、日本人で、何故創造論が間違っていて進化論が正しいのかちゃんと説明できる人はどれくらいいるのだろうか。あるいは、むしろ僕が気になるのは、ラマルクや今西の進化論と、ダーウィン進化論とをちゃんと区別して理解できているのかという点である。
進化するということは知っていても、それが突然変異と自然選択というメカニズムによって起きていることを知っているのかどうか。例えば、キリンは「高いところの草を食べたい」から首が伸びるように進化したと思っている人も結構いたりするのではないだろうか。
あるいは、「偶然的」であることはちゃんと理解されているのか*2。進化と進歩を取り違えていたり、存在の大いなる連鎖みたいな系統樹をイメージしてたり。


内容に入る前に、長々と書きすぎた。
内容については、2009-06-22がすっきりとまとめられていると思う。


章ごとにそれぞれ異なるトピックを扱っているため、独立性が高く、バラバラに読んでいくこともまあできると思う。

第一章 進化論とは何か

まず、そもそも進化とは何なのか。一般的な定義として「遺伝子頻度の変化」があげられるが、これがまず検討される。
また、進化論と生物学の関係として、至近要因による説明と究極誘因による説明の区別が導入される。進化論とは歴史である。何かの原因を知るのには、歴史を知る必要があるだろう。しかし、歴史によって説明が全て置き換えられるわけではないし、歴史以外の説明方法が間違っているわけでもない。
他にも、種分化や、物理学との関係などにも触れられている。

第2章 創造論

ここでは、尤度原理というものを使って、進化論の仮説と創造論の仮説が比較される。
また、(非)科学的な仮説と(非)科学的な人を区別しなければならないということが強調され、創造論をとりあえず科学的な仮説として構成してみせる。もちろん、結論としては創造論は科学的な仮説としてもうまくいかないのだが、かつて科学的たりえていたこともあり、仮説への批判と人への批判を分けることには何度か注意が促されている。

第3章 適応度

この章ではまず、確率の概念について整理される。頻度解釈、主観解釈にくわえて、「仮説的な相対頻度」「傾向性解釈」といった解釈も紹介される。確率をどのように解釈するかは、それぞれ一長一短があり決めがたいものがあるが、適応度における確率の解釈としては、「傾向性」を採用している。
傾向性とは、例えば「水に溶けやすい性質」といったものであり、これは「もし〜ならば、それは水に溶ける」という因果的な文で記述できる性質である。確率も一種の傾向性であるならば、それを調べるのに、因果的な過程を調べればよいことになる*3
また、この章では、適応度による進化論の説明はトートロジーではないのか、付随性について、因果と相関あるいは有利さと適応度について、目的論の自然化などが論じられている。
例えば、有利さと適応度について。駿足でかつ病気に対して脆弱な遺伝子をもつ個体が選択されて進化していったとする。「駿足」と「脆弱」は、同じ適応度をもつ。しかし、「駿足」は「鈍足」に対して有利であったといえるが、「脆弱」は「耐性」に対して有利であったとはいえない。という形で、有利さと適応度は区別されている。そして、適応度が相関に、有利さが因果に対応している。

第4章 選択の単位の問題

ここでは、利他性の進化と集団選択について論じられている。
ってかそもそも利他性って何よという話があり、どのレベルで見るかによって利他性って変わるよねと。個体にとって不利でも集団にとって有利な形質が選択されることを集団選択と呼ぶが、遺伝子にとって有利でも個体にとって不利な形質などもありうる。
また、集団選択はオッカムの剃刀によって切れるともされるが、果たしてオッカムの剃刀は正当化できるのか*4
ここでは、集団選択への批判に応えるかたち(というか遺伝子選択主義への批判)をとりつつも、集団選択か個体選択かという二者択一は退ける。
とはいえ、現在ではソーバーが批判するような極端な遺伝子選択主義というのはなくなっているよう

第5章 適応主義

進化の要因として、自然選択がどれだけの重要性を負っているのかが議論の対象となっている。
進化の要因としては、浮動など選択以外の要因もあるし、またヘテロ接合体において自然選択を「妨げ」ることが少なくとも原理的にはあることを示している。
また、適応主義がポパー反証主義的な意味でテスト可能かということについて、ソーバーはこれを否定する。ただし、これは適応主義が非科学的であるということを意味しない。適応主義は、仮説ではなくリサーチ・プログラムであり、リサーチ・プログラムにおいてはポパー反証主義は適用できないということである。適応主義が非科学的であるならば、それに対立する「多元主義」も非科学的と言うことになってしまう。
しかし、では全くテストできないのかといえばそうではなく、適応主義の仮説をテストできるようにモデル化することができるということも示される。ここでは実際に行われた、ハエの交尾時間についての仮説と観察がどのようにセッティングされたのかが紹介されている。
この章ではゲーム理論についても頁が割かれている

第6章 体系学

ここでは種問題が取り上げられるが、生物学の話に入る前に、本質主義や個物性についてが解説される。
生物種(species)は、自然種(natural kind)ではない。自然種とは例えば「金」である。ある金属が金であることは、その性質によって決定できる。これが本質主義だ。
一方で、生物種はそのような性質によって決められているわけではない。種は歴史的存在なのであり、その点で自然種ではないのである。
そしてさらに、種は個物(indevidual)であるという考えが論じられる。
そこでまず、生物個体が個物であるとはどういうことかが論じられる。それは、共時的ならびに通時的に因果的に結合された統一体であるということである。
次に、種を相互交配集団とみなし、相互交配集団が個物であるかが論じられる。そしてさらに、種を相互交配集団とみなすべきなのかが論じられる。
種=個物説は、明快ではあるが、これまでの種概念の使われ方とは齟齬を生ずる部分も多い。
ここで、そもそも種概念とはどのようなものとして扱われてきたのか、体系学論争が紹介されることとなる。
体系学論争は、生物を分類するための方法として、「分岐学」「表形主義」「進化分類学」の三つの間で行われたものである。
分岐学は、生物の系統に基づいて分類する。つまり、祖先が同じかどうかで。
表形主義は、全体的な類似度によって分類する。
そして両者の折衷が進化分類学である。

第7章 社会生物学と進化理論の拡張

社会生物学は、決定論として批判されることがある。
いわゆる「氏か育ちか」論争であるが、遺伝子か環境かといった二者択一は実際には正しくない。遺伝子と環境がそれぞれ影響する、というある意味では当たり前のことがまず説明される。
また、再び至近要因による説明と究極要因(進化)による説明を区別することによって、社会生物学的な説明に対する批判への応答としている。
また、倫理的言明をどのようなものとして捉えるか(主観主義と実在論)、事実言明と倫理的言明との関係についても触れられている。
また、文化進化についても取り上げられている。これはいわゆる「進化」ではなく、つまり遺伝子や生物学的メカニズムによらない、学習などによる文化の「進化」のことである。ミーム論のようなものか。

誤字?

いくつか見つけたので、一応書いておいてみる。
p.73 l.17「互いにまさに当確率で起こりうる」→「等確率」?
p.314 l.14「表型学的な提案」→「表形学的」?
p.385 l.7「島の祈?師」→「祈祷師」?(文字化けと思われる)
既に訳者や出版社の方は気付いているのかもしれませんし、何の関係者でもない自分がこんな指摘を行うのは失礼に当たるのかもしれませんが、何か見つけてしまったので、もしかしたら何かの役に立つかもということで一応書いてみました。

*1:系統樹思考の世界』の時はまだ邦訳がなく原著の方が、『分類思考の世界』では邦訳が紹介されていた。そういえば、次は『進化思考の世界』が出ますね。twitterを見ていると時折執筆実況があるので待ち遠しい気分が煽られるw

*2:例えば、ラマルク進化論とダーウィン進化論の違いとして、一つは獲得形質が次世代に伝達されるかどうかという点があるけれど、この本では結果の偶然性についてもあげられている

*3:もし頻度であるとするならば、何度なく試行を繰り返さなければ調べることが出来なくなってしまう

*4:これについては問題提起されるだけでこの本のなかで議論はされていないが