吉川浩満『理不尽な進化』

進化論についての言説史的な(?)エッセー(?)。どういう本なのか一言で説明するのはちょっと難しいが、「何故非専門家は進化論について誤解するのか」「何故グールドは混乱した議論を展開したのか」という問いをたて、非専門家やグールドがアホだからとはせずに、進化論にはそういう罠が仕掛けられているのではないかと論じていく。
進化論という取り上げているテーマ自体は、科学・生物学ではあるが、問いの立て方や議論の展開は、人文書的であると思う。
科学哲学や生物学の哲学か、といえば、そういうところもないわけではないが、いわゆる「科学哲学」や「生物学の哲学」と本書はやはり興味関心の所在が違う。
あるいは、一種の「批評」かもしれない。
批評の面白みの一つとして、「この○○を使って××を読み解くのか」という組合せの妙、みたいなものはあると思う。これが妙になるかトンデモになるかは、書き手の腕次第ということになるが。
この本は、まあおそらく「妙」の方だとは思うのだけど
一見読みやすくて、するすると読んでいけるし、取り上げられる事柄の説明はとても分かりやすいのだけれど、もしかして、意外とアクロバティックに進んでいるのではないか、という感じもする。
個々の議論は分かりやすく書かれているのだが、それらが全体を通してどう繋がったのかを考えると、途端に難しくなる本だったと思う。


科学的世界像と日常的世界像との齟齬という大きな枠組から、先の二つの問いを見てみると、「進化論」を方法論として捉えるか、世界観として捉えるかのズレがあって、普通の専門家は前者、非専門家は後者、グールドは両方を同時に目指そうとして失敗した、というようなことになるかと思う。
とはいえ、非専門家が捉えている世界観としての進化論と、グールドが捉えている世界観としての進化論は別物だろう。
専門家(科学者)と非専門家(非科学者)の間の対立としては、因果論的世界観と目的論的世界観の対立があり、非専門家が進化論を誤解してしまうのには、これを目的論的に捉えてしまうことも一因としてある。
グールドは無論、目的論的世界観はとらないが、因果論的世界観に対して、「偶発性」を置いているように見える。
しかし、本書でも言及されているように、ここでいう偶発性は、カオス的なものであって、因果論の中におさまるもののように思える。宿命論と自由は対立するが、因果と偶発性は必ずしも対立していないのではないだろうか。
自分は、グールドをちゃんと読んだことがないのではっきりとは言えないが、この本を読む限りでは、グールドは「偶発性」概念を過大視してしまっただけのように思える。
そうなってくると、グールドの失敗を、科学的世界像と日常的世界像、説明と理解、方法論と世界観といった対立軸・枠組にどのように位置づければいいのかが、よく分からなくなってくる。
あるいは、というよりもむしろ、非専門家による進化論の誤解というのが、本当にグールドの失敗と表裏の関係にあるのか、という方が問題かもしれない。


2章は、進化論の語彙が非専門家に誤解されやすいことについて、何がどう誤解なのかということと、誤解する理由として、言葉の使われ方の面と歴史的経緯の面から触れられている
これ自体は非常に有用なまとめ。なので、2章単体で広く読まれるといいんじゃないか、と思うけど、これが終章の議論とうまくくっつているのかどうかは、結局よく分からなかった
3章は、グールドの適応主義論争のまとめ。これもわかりやすい。
終章は、19世紀から20世紀にかけて、歴史学や哲学においておきた「説明と理解」論争という枠組みを使って、グールドの仕掛けた論争を捉えてみる、というもの。が、結構色々な話題が入っている。
科学というのは、人間がもともと持っている思考様式とはかけ離れた思考を可能にする「非人間的な概念装置」である、という科学観がいいな、と思った
系統樹思考が、分類思考と違って人間にビルドインされた思考様式ではないように、自然淘汰というのも、弱肉強食・優勝劣敗あるいは目的論的世界観と違って、人間的な思考方法ではないようだ。


序章 進化論の時代
第一章 絶滅のシナリオ
第二章 適者生存とはなにか
第三章 ダーウィニズムはなぜそう呼ばれるか
終章 理不尽にたいする態度

第一章 絶滅のシナリオ

ラウプ「絶滅の類型学」
1.弾幕の戦場
2.公正なゲーム
3.理不尽な絶滅
1は完全な運、2は生存競争(選択)
3はルール(自然環境)自体が突然変わってしまって、生存競争の勝利条件が変わってしまうこと。運と選択の両方の要素がかかわる。
理不尽さに対して、滅びた者の自業自得であると誤解してしまうのは何故
公正世界仮説認知バイアスの一種)
「道徳における運」も似た問題ではないか
遺伝子と運の組み合わせ

第二章 適者生存とはなにか

進化論の語彙が誤解される理由
鶴見俊輔の「言葉のお守り的使用法について」
表現的であるのに主張的に見えるとき、「お守り」になる
感情を表現しているだけだが、主張的に見えることで、正当化されているように見える


「適者生存」:スペンサーがつけたキャッチフレーズ
適者生存はトートロジー
ソーバー:「適者生存」は文じゃないからトートロジーじゃない
マイア:適者と生存するかどうかは独立
三浦俊彦:適者を事後的に定義している。ダーウィニズムの主張全体はトートロジカルではない
再びソーバー:理論にトートロジーが含まれることと、理論自体がトートロジーであることは別
進化論は、適者生存・自然淘汰を前提にすることで、経験的に検証することができる
適者生存は、適応の定義を取り決めてるだけであって、法則ではないのだけれど、法則っぽく見えるので、「お守り」として使われてしまう。そもそも、トートロジーだから正しいし
ソーバー「自然淘汰は足跡を消す」


ダーウィニズムとその社会的受容のズレ
社会ダーウィニズムって、本来なら社会ラマルキズムとかスペンサー主義とか呼ぶ方が適切だろうに、ダーウィニズムって呼ばれたせいで、「素人」が進化論の語彙を使うときの誤解(進化を進歩とか目的論的に捉えること)につながっている


学問世界における進化論と暮らしの中で使われる進化論の解離的共存
前者は科学理論、後者は世界像
世界像は検証されるものではないから、そもそも非科学的
そもそもすれ違っているので、共存できている

第三章 ダーウィニズムはなぜそう呼ばれるか

適応主義をめぐる、グールドの論争

  • 1978年 グールドとルウォンティン「スパンドレル論文」

適応主義は、適応万能論になっている→パングロス主義的パラダイム
(パングロスヴォルテールの小説『カンディード』に出てくる、最善説を信奉する教師
カンディードは、リスボン地震に遭遇して、パングロス主義に異議申立する)

制約の中での最適化(アナバチの例)
(「なぜなぜ物語はいらない」というグールドに対して、ドーキンスは「(科学的な)なぜなぜ物語が必要」とする。従来、宗教や物語が担っていた役割に科学が位置する、だからドーキンスは文学的メタファーを使うのだ、と吉川は論じている)

最適性はヒューリスティクス(仮説形成の方法論)
そもそも、グールドだって、適応主義的な説明をしている(素数ゼミの例)
適応主義は機能主義
リバース・エンジニアリングとしての進化論
リサーチ・プログラムのハード・コアとしのて適応主義


グールドは、適応主義に変わる方法論を結局提案できなかった
→論争としては敗北は間違いない


進化論は、自然淘汰(進化のプロセス)と生命の樹(進化のパターン)の二本柱
ステレルニー:ドーキンスはおもに前者、グールドはおもに後者、と切り分ける

終章 理不尽にたいする態度

何故、グールドは負けを認めなかったのか


「現在的有用性」と「歴史的起源」の区別を、適応主義はあいまいにするというのがグールドの批判
→グールドの批判は、学問的批判を越えて、憎悪となっているようにみえるが何故か
→適応主義の「中傷効果」に対するリアクション

  • 中傷効果(ライル)

科学による説明と生活的な実感が離れている時に、科学によって実感が中傷されていると感じられること。ただし、そのような中傷はただの錯誤


グールドは「説明と理解」問題という地雷を踏んだ
19世紀、実証主義に対して、歴史学がその流れに反論したのが「説明と理解」論争
ドロイゼンによる問題提起
自然法則による「説明」を目指す自然科学と、歴史の「理解」を目指す歴史学との区別
ディルタイヴィンデルバントリッケルトらによる自然科学と精神科学・歴史科学・文化科学の区別
歴史は、前科学的な先入見によって産出される=ガダマーの解釈学的循環


ローティ:科学のスペクトラム
理系か文系かという二分法ではなく、物理学から歴史学・文学までのスペクトラムとして捉える
進化論は、「自然淘汰」という自然科学的方法論と「生命の樹」という歴史との両方の側面をもつ
グールドは、科学的方法論が歴史の領域に越境してくることで、歴史が毀損されると考えた


毀損されるものとは何か→「偶発性」(決定論的カオスのようなもの)
グールドは、「偶発性」をロマンティックに語る(ドーキンスに「偽りの詩」と批判された)一方で、「偶発性」をも説明する全体的理論を作ろうとするという分裂に引き裂かれた(「クレーン」と「スカイフック」。「偶発性」はスカイフックであったが、グールドはそれをクレーンにしようとした)
→「混乱している」と評される立場


「説明と理解」論争後半戦
ガダマーによって「方法と真理」へと転換される
説明的方法と理解的方法があるのではない。学問=科学は、どれも説明という方法によって行われる。ただ、説明の仕方が、物理学と歴史学では異なっているだけ
「理解」は「真理」をもたらす
「真理」:芸術作品や歴史的瞬間によってもたらされる唯一無二の経験、方法によっては得られない知識
学問による知と「真理」は別物であって、優劣があるわけではない
この2つの緊張関係を、吉川は「回帰する疑似問題」と呼ぶ


吉川:「偶発性」を「理不尽さ」と呼ぶべきだったと提案

  • 科学は、人間に対して遠心的

量子力学相対性理論だけでなく、進化論もまた「非人間的」な考え方
マックス・プランク「(自然科学は)あらゆる人間的要素を除去しようとする恒常的な努力にほかならない」
バーナード・ウィリアムズ「絶対的な捉え方」(特定の人や文化や立場から離れた見方)

  • 運・不運、理不尽さは、人間に対して求心的な概念

「形而上の罪」=他でもあり得たことに対する「人間的な」反応
「偶発性」を「理不尽さ」と呼ぶことで、科学=学問の領域に属さない事柄として適切に位置づけることができる。そうすれば、分裂せずにすんだ


グールドの功績

  • 方法論

歴史科学において、得られる情報密度の違いに応じて4つの原理
情報密度が高い順から
「斉一性」の原理(ミミズ原理)
「配列」の原理(珊瑚礁原理)
「符号」の原理(花の原理)
「不調和」の原理(ラン原理、あるいはパンダ原理)

  • 社会史的手法の導入

軽視ないし無視されてきた題材から歴史を捉える

感想とか気になったりしたところ

進化論を、非専門家が誤解して使っているっていうのは、まあ進化論に限らず科学用語ではよくある奴じゃないのか、とも思っていて
あと、進化論の語彙の科学的には間違っている用法は、雑な比喩のようなもの、あるいは、見た目は同じだが別の言葉として捉えていたから、あんまりこう、系統的な誤解があるという見方はしていなかったかも。
その上で、「お守り的用法」だとか、文法的に法則文に似ているから法則に間違えられるだとかいったこととか、ダーウィニズムと社会的ダーウィニズムの違いであるとかは、有用な整理だなあとは思った。
「お守り的用法」とか文法が似ているから誤解されるとか、(そもそもお守り的用法は鶴見なので当たり前といえば当たり前だが)あたかも日常言語学派的な処方だったのは、楽しかった。


トートロジー問題
本文にも大体同じようなことが書いてあるけど、自分の理解としては、適応度は子孫の数によって定義される、ということで、定義により真なのでトートロジーっちゃあトートロジーだけど、別にそれが何か、という話だ。
トートロジーだ」という論難は、「トリヴィアルに真である」ということを指摘したいのではなく、どちらかといえば「循環論法に陥っている」ということを指摘したいのだと思うのだけど、適者生存については、適応度という言葉をこのように定義しました、という宣言でしかなく、それによって何かを説明したり解明したりしようとしているわけではないので、循環論法には別にあたらない気がする。
トートロジーであることを、強調しようとするけど、そこが本当に強調ポイントなのか、というのは気になる。
それから、非専門家が適者生存を誤解することについて、トートロジーだから(必ず真になるから)使い勝手がいい、みたいなことが書かれているけれど、個人的には「適応する」という言葉の誤解ではないか、とも思う。定義によって真になるようなトートロジーが、いつでも「お守り」として使われるわけじゃないから。
ソーバーの本には、適応度と有利さは異なるということが指摘されている。
「適応度が高い」と「生存して子孫をたくさん残している」は(そう定義されているので)置換可能だけど、「有利である」は置換できない。有利だけど適応度が高くない(子孫が少ない)とか有利でないけど適応度が高い(子孫が多い)とかいうことはありうる。
でも、普通の人はあまりそうは思わないのではないだろうか。
「適応度が高い」とか「適応している」とかいった言葉と「有利である」は置換可能で、「生存する」とか「子孫が多い」とかとの置換は不可能だと思うのではないか。つまり、適応度と有利さが同じものであると考え、生存するとは別のことを意味していると捉える方が、日常的な語感としては普通なのではないか、と。
そうなると、適者生存とは、どうして生存するのかを適応度(有利さ)によって説明している、「法則」なのだと誤解するのではないだろうか。
ビジネス書等での進化論的な語彙の使われ方どういうものか、あまり読んだことがないのでよく分からないから想像で言うけれど、説明したいものが、生物学とビジネス書では違うのではないか。
生物学の進化論は、「生物が(神のようなデザイナーの手によることなく)今あるような形・機能となっているのはどうしてか」ということを解明したくて、「生きたり死んだりすることによって」と答える。これは「適応したりしなかったりすることによって」と言い換えてもよい。生き残ったり死んでしまったりを繰り返すだけで、意図も目的もなくデザインが可能になる、というのが「自然選択」のポイントで、そしてこれは経験的に検証することができる仮説だろう。
一方、ビジネス書とかは、「どうやったら競争を生き延びることができるのか」ということを説明したくて、それに対して「適応することによって」と答えたいのだと思う。この時、「適応すること」とはどういうことなのかと問われて、「生き延びること」だと答えたら、これは循環論法に陥っているのであって論難されるポイントになる。


非専門家による「進化論」の使い方は誤解である。
本書もそれはちゃんと指摘していて、どう誤解なのかも説明している。
その上で、何故誤解してしまうのかの理由を述べている。
さらにそれが、「進化論」がもつ性格からくる分業体制だと述べている。
誤解する理由だとかは、いい分析だとは思うんだけど、やっぱりそれはどこまでも誤解でしかなくて、分業体制だとかそういう意味づけができるのかどうかは、なんか腑に落ちないままである。
非専門的な文脈で専門用語が誤解を受けるのは日常茶飯事であり、いちいち誤解を指摘してもらちがあかない、という点で、誤解を看過することはあれど、誤解そのものに理があるとまでは言い難い。
もちろん、理由があることを示すのは正当化することではないわけだけど。


話がそれるけど、理由を示すことと正当化することは違う、というのは、進化心理学とかの知見に触れるときに注意しておくポイントかも。
非常によくいわれる、俗っぽい奴として、「男は子孫を沢山残すものだから浮気する」とかそういう奴。単に、浮気することの理由の説明にはなっているが、「だから浮気をしてもよい」という浮気の正当化では全くない。
これ、正当化しているように思えると、「中傷効果」が発生するのだろうなあ
(こういうのを自然主義的誤謬ということがあるけれど、これは自然主義的誤謬ではなかったはず)


適応主義をめぐるグールドとドーキンスの論争は、ちゃんと分かってなかったので、改めてよい整理になった。
その上で、グールドが何に拘っていたのかは、結局あまりぴんとこなかった
ドーキンスが述べるように、適応主義は、制約の中での適応であって、自然選択は、ランダムな突然変異からアドホックに選択されていくという原理なのだから、パングロス主義じゃないだろうし。
スパンドレル*1のような、適応では説明できない事例って、それは単に前適応ってだけでは、と思うし。
「偶発性」というのが、隕石衝突などによる環境の激変等をさすとして、それは確かに生物学の範囲では説明できない事柄だけど、他の分野の科学が説明を与えてくれるし、実際、古生物学はそういう協力関係があるのでは、と思うし
何を科学では解けない問題と考えていたのか。
系統樹が何故こういう形になったのか、という、一回限りの歴史についての何故、についてなんだろうけど
今述べた理由で、ある程度の説明を現在の科学は与えていると思うので、やっぱり、グールドは「マヌケ」だったのでは、という感想になってしまう


歴史について、先入見による解釈学的循環の説明のところで、「存在論的コミットメント」という言葉が出てくる。
前科学的な、先入見の選択のことを、「存在論的コミットメント」と呼んでいるのかな、と理解したのだけど
それって、クワインのいう存在論的コミットメントとは違くないか、というのが気になった
この本、とにかく様々なフレーズを色々と引用しながら進められていて、例えば「どこでもないないところからの眺め(ネーゲル)」みたいに、文中に色々入ってくるんだけど、存在論的コミットメントには一言も「クワイン」って書かれていなくて、それをもって、クワインのいうそれとは違うってことを暗に示しているのだろうか。
存在論的コミットメント」という語が出てくる前に「実存的にコミットメントする」みたいな表現が出てきて、文脈的にだいたい同義に使われているように見えるんだけど、実存的と存在論的って結構別の概念ではないか、とも。
自分も、クワイン存在論的コミットメントのことをちゃんと正しく把握している自信はないんだけど。クワインは存在するとは変項の値であるとか何とか言ってて、存在論的コミットメントって、ある理論においてドメインの中に何が入っているかということ。素粒子物理学という理論は、ニュートリノや電子に存在論的コミットメントしてるし、ギリシア神話は、ゼウスやヘラに存在論的コミットメントしてる。
でも、素粒子物理学ギリシア神話のどっちが正しいかをえいやっと選ぶ、みたいな意味ではないはず。それは、経験的に確かめられるとクワインは考えているはずで、前科学的なものじゃない。


回帰する疑似問題について
あ、これは意識のハードプロブレムだなあ、と思った
吉川は『心脳問題』でも、同様のことを扱っているらしいので、多分そうだろう。
自分は、ハードプロブレムはおそらくは、大体は、説明のギャップあたりに問題があるんじゃないのかなあ、と思っているので。まあ、でも迷うけど。
意識とかクオリアとかは、「理解」とか「真理」とか「人間的」とか「個人的事情」とかに属することである、と。急いで付け加えておくと、現象的意識やクオリアがまさにこのこういう感じである、ということは「理解」するしかない領域である、ということであり、現象的意識が何故あるのか、どのような仕組みなのかというようなことは、科学的説明がつくのではないのか、ということ。そこに説明のギャップがあるから、とんでもない未解決問題(ハードプロブレム)があるように見えるけど、それは疑似問題、なのかもしれない。
これと相似形の議論が、進化論を巡る議論にも当てはめることができる、とは思いも寄らなかった。
それが、冒頭に述べた「組み合わせの妙」で、この本が「批評」だなと感じた理由
興味深いなあと思いながら読んだけど、完全な納得には至ってない感じ。


この本が、人文書だと感じた理由はいくつかあるけど、こうやって長文の感想なり疑問点なりが浮かんでくる、というのもその1つかもしれない。
普通の自然科学の本であったら、「なるほど」とは思って、こんなに「あーでもない、こーでもない」とはならない。
もう一つ別の理由として、さっきも書いたけど、色々なフレーズが縦横無尽に引用されていることかな、と。ああいう書きっぷりが自分には「人文書」っぽく感じられる。
ところで、引用元は科学や哲学だけに限らないのだけど、contractioさんやshorebirdさんまで出てきたのには驚いたw contractioさんは、contractioという名前では出てきてないけど*2


ラウプの『大絶滅』http://www.amazon.co.jp/dp/4892032654/ という本が、「理不尽」の元ネタとして出てくるが、
『大絶滅』というタイトルの本は他にもあって、土屋健の生物ミステリーPROシリーズでよく言及されているのは、アーウィンの『大絶滅』http://www.amazon.co.jp/dp/432005685X/
まあ、サブタイトルが違うから区別できるんだけど



「道徳における運」というと古田徹也『それは私がしたことなのか 行為の哲学入門』 - logical cypher scapeを思い出した
遺伝子と運、というと、適者生存に対する幸運者生存を思い出してしまうけど、この本ではそういう話(中立進化)は特に出てこない。もちろん、基本的には関係ないから出てこなくていい。(どうやって繋ぐかは宮田隆『分子からみた生物進化』 - logical cypher scape


リスボン地震がヨーロッパの知識人に与えた影響って、前にも何かでちらっと読んだことがあるんだけど、何だったかな。
ライプニッツ自身は、この地震の時は既に亡くなっていて、ヴォルテール、ルソー、カントが影響を受けたらしい。


新カント学派とかガダマーとか、教科書的に名前とキーワードなら知っている程度なので、なるほどこういう流れがあるのかーというのは面白かった。
「真理」という言葉をそういうふうに使われると、何とも言えない気分になるけどw まあ確かにそういう用法もありといえばありだよね、とは思うが。


「説明と理解」論争と『理不尽な進化』に対して、『理不尽な進化』とウェーバーの位置:「説明と理解」論争をめぐって - Togetterというコメントがついてるのだけど、ここらへん、この本を理解するためのポイントなのかもしれないけど、ここらへんの社会学全然わからんから、わからん


理不尽な進化: 遺伝子と運のあいだ

理不尽な進化: 遺伝子と運のあいだ

*1:これは建築の様式で、ある種の副産物

*2:「進化は人のためならず」と「切断して加熱するだけの簡単なお仕事」