ギルバート・ライル『心の概念』

言うなれば、哲学に対するちゃぶ台返し、それが日常言語分析。
一冊まるごと、デカルト心身二元論に対する批判。
世界は、「物的世界」と「心的世界」の2つに分かれていて、様々な「心的」と呼ばれる現象は「心的世界」で起こっている出来事である、という考え方を徹底的に否定していく。
「心」(やそれに類する様々な概念)というのが名詞になっているもんだから、哲学者が勝手に誤解して、その名詞に対応する事物や出来事があると思っちゃったんじゃないか。あるいは、哲学者が勝手に作っちゃっただけなんじゃないか。
そういうことを、まさに日常言語における用法を見ていくことで指摘していく*1
で、有名なのが「カテゴリーエラー」
例えば、大学の図書館や事務室や講義棟を見て回った人が、「ところで大学はどこにあるのですか」と尋ねたとする。この人は、図書館などの建物と同じように、大学という建物があると思っているが、これはカテゴリーエラーである。図書館などの諸々の建物や制度の集合を大学と呼ぶのである。
心は、物と同じようなカテゴリーとして存在しているわけではない。
意志や感情、知性などを、傾向性と解する*2
つまり、物的世界とは別のところに、心という場所があって、そこに意志とか感情とかが存在していて、それが身体を動かしている、というわけではない(「機械の中の幽霊」ドグマ)。
そうではなくて、「もし〜という状況ならば、〜するだろう」「〜ということができる」などといった傾向性こそが、心なのである。
それは、法則性を持っているけれど、因果的関係にあるわけではない。


knowing thatとknowing howの区別なども行っている。
また、情緒emotionを性向・動機、気分、心の乱れ、感情feelingに分類するなどもしている。


また、自己認識についての考察が面白い。
まず自己知に関しては、他人についての知識と、程度の差はあれど種類の差はないとしている。
つまり、自分についての知識*3は、自分にだけ知られるとか自分は間違いなく分かるとかなどとライルは考えない。
私たちは、他人についても、その人がどういう状態であるかを、行動を観察したりあるいは直接尋ねたりして推論して、知ることができる。
そしてそれは、自分に対しても同じである、というのである。
確かに、自分に対しては、他人に対してよりも容易に知ることができる。だが、それは自己知が何か特別な性質を持っているからではない。また、時には、自分について知ることが困難であることも当然ある。
さらに、「私」というものを特別に感じさせることについて、考察している。
「私は昨日の私の行為を後悔する」とか、そういった行為がある。
こうした行為を、ライルは「高次の行為」の一種であると考える。
「高次の行為」とは、その行為以外の行為に言及する行為であり、例えば、批評とか模倣とかそういったものが挙げられる。
そして、自意識や自己抑制なども、「高次の行為」の一種であるとする。
この「高次の行為」は学習によって獲得されるのであり、まずは他人に対して適用され、その後自分に対しても適用することができるようになる。
さて、この高次の行為は、その行為自身には言及できない。ある本についての書評aがあり、さらにその書評についての書評bがある、とする。しかし、書評bは、書評aについての書評であって書評bについての書評ではない。書評bについての書評は書評cということになる。
「高次の行為」が「私」に対して適用される時も同様で、私について私が考えている時、しかしその私というものが捉えきれないことの原因とされる(「私」の体系的逃避性)。
意志の自由、自発性の感じ、「私」と「あなた」の非対称性なども、ここに起因するのではないかと述べられている。
また、「私」という語が指標詞であることにも注目されている。また、「あなた」や「彼」もやはり指標詞ではあるが、これらは状況によって指示対象が変化するのに対して、「私」は変化しない。「私」というものに独自性を与えているのは、このためなのではないか。また、これは「今」という語に関しても同様である。


また、想像力についても考察を行っている。
想像上の対象を見たり、聞いたりすることがあるが、それは文字通り何らかの対象を見たり、聞いたりしているわけではない。そのような対象は存在しない。
こうした行為は、ふりをすることによって説明される。
ふりをすることは、引用することに似ている(あるいは、上述した「高次の行為」に似ている)。
行為そのものは単一であるが、記述は二重性を帯びる。
ふりをすること、あるいは想像することとは、何らかの空想的対象に対する感覚をもつことではなく、行為である*4
そしてそれは、知識の利用法の一つにすぎないとも述べている。


こうしたライルの一連の分析は、いまなお重要な意義を持っているのではないかと読んでいて思った。
なんなれば、ライルの分析はかなりいい線いっているのであって、最近の哲学の一部はライルよりも退行しているのではないかと思えるほどである。
ライルの考え方は、行動主義などと呼ばれ、今では古い考え方のようにも思われているが、心とは何か、自己知とは何かということを考える際に、個人的実感とも合致するところがあるように思われた。
クオリアなり現象的意識なりといったことは、もちろんライルの頃には議論になっておらず、ライルのこの本を読んでも全く類する議論は出てこない。せいぜい、感覚についての議論が多少参考になるくらいではないかと思うが。
ただし、心と言ったときに、それの指しているものは、クオリアなり現象的意識なりだけなのかといえば、決してそうではないだろう。あるいは、ライルも、そうした現象性なり質感なりといったものを決して否定はしなかったのではないかと思う。ただし、否定しないとしても、それをもって心であるとは論じなかったのではないか。
例えば今後、ロボットの研究開発が進んで、いよいよロボットの心とは何かということを考えることになるとき、ライル的な考え方を検討することは重要な気がする(クオリアや現象的意識は、そもそも心にとって必要条件なのだろうか。せいぜいそれらは十分条件にすぎないかもしれない)。


ライルの考えている心理学は、素朴心理学っぽいところがある気がする。
素朴心理学という言葉は、素朴心理学否定派*5が作ったものなので、否定的な響きを持つが、必ずしも消去可能かどうかというのは分からない。
そもそも心というものを、どういうレイヤーで捉えるかということだと思う。
いわゆる、神経科学、物理科学のレイヤーへと還元可能なのか。
確か『探求』には、神経科学によって、確かに喜ぶことと神経の興奮*6の関係は分かるかもしれない。でも、それってどうやったら神経が興奮するかが分かるだけだよね、みたいなことが書いてある。
そしてそれは別に、心身二元論を説いているわけでもない。
単にレイヤーが違う。
神経の興奮が心と関わっているのは確かだとして、心と言われているもの=神経の興奮というわけではない。神経の興奮も含む、もうちょっと色々なものや条件が混ざった物が、心と呼ばれているものなのではないか。
ならば、心についての説明は、素朴心理学に任せておいた方がわりと正しいのかも。
レイヤーの違い、ということに関して言えば、例えばデネットが、生命を志向システムとして捉えるというのと似ているかもしれない。あるいは、サールが、社会科学は物理科学を基盤にしているけどそれに還元できるわけではないとか言っていることとか。


想像力に関する考察もまた、フィクションの哲学を考えるのに、十分参考になるのではないかという気がした。
ただし、これらの考察をそのままフィクションの哲学とするのには、まだ不十分なところはあるだろうとは思う。
例えば、ライルの想像力に関する考察は、実在するものを「心の中で」思い浮かべるということについての考察が主であり、完全にフィクションの対象についての考察はあまりなされていない。

ライルについて

1900年生まれ1976年没。
この本は、1949年刊行。
20年代には現象学*7を研究したが、30年代には論理実証主義に共鳴。その後、古典哲学をよく読むようになる。
戦後は、イギリスの哲学誌『マインド』の編集主幹。
日常言語学派と呼ばれるが、これにはライルの他に、後期ウィトゲンシュタインとオースティンの名が挙げられる。
ウィトゲンシュタインとは、何度か顔をあわせていたようだが、他の哲学者を勉強していないことを自慢するウィトゲンシュタインをあまり快く思っていなかったよう。
オースティンとは同じ大学であり、学務では一緒に仕事をするも、哲学上での関わりは特になかったらしい。しかし、オースティンの死後、彼の仕事の広さと深さを知り、愕然としたとか。
J.L.オースティン『言語と行為』 - logical cypher scapeは去年読んだ。
ウィトゲンシュタイン哲学探究』は、授業で読んでいる。実は、『心の概念』を読みながら、何度もこの授業のことを思い出した。この授業で受けた説明とそっくりのことが書かれていたからだ。この授業については、ブログ上ではほとんど触れていないが、「動機」をめぐって - logical cypher scapeで少し触れている。
また、ライルの他の論文と、彼らよりもさらに後に出てくる日常言語学派であるストローソンの論文については、http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20080926/1222423211


心の概念

心の概念

*1:例えば、これらの語にはこういう形容詞がつくから同じグループとか、そういう感じ

*2:細かくいうと全部が全部、傾向性というわけではないが

*3:自分が今、何を考えているか、どういう感情を抱いているかなどについてに知識

*4:ライルは、感覚をもつことと行為を区別する

*5:否定というか消去

*6:喜びだったか痛みだったか、それとも別の心の働きだったかは覚えてないけど

*7:マイノング、ブレンターノ、ボルツァーノからフッサールハイデッガー