古川日出男×向井秀徳

こ、これは、ヤバイ……!!
自分の語彙の少なさを恨むが、しかしヤバイとしか言いようがない……


今年の5月に、渋谷で行われた古川日出男向井秀徳のライブが、スペースシャワーTVのWEBサイトで公開されている。
このライブには本当に行きたかったのだが、瞬く間にチケット売り切れで*1で行けなかった。
見て、行けなかったことを後悔したのは言うまでもない。


SPACE SHOWER Digital Archives Xで、7/15までの期間限定でストリーミング配信されている。
配信されているのは、以下の4つ。
“ベルカ、吠えないのか?”
“USODARAKE”
“6本の狂ったハガネの振動”
“TUESDAY GIRL”
小説家vsミュージシャン
二人のバトルであり、共闘である。


この中で一番よいのは、“ベルカ、吠えないのか?”だ。
鳥肌が立つ。
これは一体何なんだ。

追記

フィクションについて考えるにあたって、メディアを比較することで何か分かるのではないか、と思っている。
差し当たって今は、小説と映画を比較することで何か分からないだろうかという思いつきがある*2
読み終わったら感想を書く予定だが、今、小説と絵画を比較して考察している本を読んでいる。
さて、小説と音楽はどのように比較可能だろうか。
とりあえずこの両者に関しては棚上げにしておくつもりだった。
それは音楽がやや特殊な芸術ジャンルだと考えているからだ。それは、物語性・意味性・論理性といったものよりも非意味性・強度のようなもので構成されている、と考えているからだ。そしてそれはつまり、小説とは後者よりも前者で構成されている、と考えていることにもなる。
芸術においては、非意味性・強度のようなものは重要なファクターで、それは何も音楽だけではなく、小説にも映画にもある。ただ、考察の対象にしにくいので、その点においては捨象して、物語性・意味性というものを取り上げて考えるようにしているのだ*3
しかし、ここで問題になってくるのが、この古川日出男×向井秀徳である。
『ベルカ、吠えないのか』はもちろん小説なわけだが、ここでは非意味性・強度の側面が非常に強調されていたように思う。
小説はある特定の虚構世界を表象している、というのが基本的な前提だ。
一方、音楽は虚構世界を表象しているのかと問われれば、首を傾げざるを得ない。
ところがここでは、小説すらも虚構世界を表象していると言いにくい状況となっているように思えた。
つまり、音楽とぶつかり合って朗読された小説の言葉は、物語を言い表している言葉ではなくなって、何か全く異なる言葉になってしまっている。
そしてそれは、限りなく音楽であるように思う。
だが一方で、それはやはり『ベルカ、吠えないのか』という小説なのだ。
あるいは、向井の詩を古川がアレンジを施して朗読しているところでは、音楽だった向井の詩が小説となっている。だがやはりそれは、限りなく音楽でもある。

*1:当然といえば当然。こちらの準備不足は否めない

*2:参照http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20070531/1180622808

*3:自分は意味の人だ、と認識している。小説やマンガや映画を見たら、意味コードによって整理することが多い