『現代アートの哲学』西村清和

美学、芸術学についての本。
去年とっていた芸術学の授業や、今年取っている現代美術論という授業と絡み合って、なかなか面白かった。


まず、この本では、何故「芸術」という言葉ではなく「アート」という言葉を使っているのか。
「芸術」という言葉には、どこか優れているものに対してつけられるようなニュアンスがあるからだ(また、それに抵抗して、自分の作品を「芸術」とは呼ばせないような人たちもいるだろう)。
そこで、価値的なニュアンスをできる限りなくして、単なる記述的なニュアンスだけの語を使いたい、ということで「アート」という語が選ばれている*1
そうでなければ、「絵画」とか「彫刻」とか呼べば、価値的なニュアンスはほとんどなくすことができるけれど、「絵画」でも「彫刻」でもないような作品をどう呼べばいいのか、あるいは総称的な表現はないのか、という問題が出てくる。
それで、この本ではとりあえず「アート」という言葉を使っているというわけだ。
個人的には、「アート」の中の1ジャンルである、フィクションについても同じように、記述的かつ総称的な語はないだろうか、と思い悩んでいる。
つまり、小説、マンガ、映画、演劇、TVドラマなどを総称する語はないか、ということだ。
「物語」という語では、一部の小説や映画などを取りこぼしてしまう気がする。
最近では、「フィクション」という語を使っているのだけど、「フィクション」というのは、その作品が表している世界のことを指しているのか、その作品に対する形容詞なのか、その作品そのものを指しているのか、よく分からない*2
虚構芸術とか虚構表象芸術とかいう語も考えたのだが、何とも堅い。
この本を読んで、「フィクション・アート」というのも考えたが、何だか妙だ。
やっぱり「フィクション」と呼ぶのが妥当か。
「文学」は、最近では映画やマンガをその研究対象として捉えつつあっていいなと思うのだけど、「芸術」と同じで価値的なニュアンスが強い。個人的には「文学」と「文芸」と「小説」の違いをあまり感じないけれど、文学賞を受賞して「でも私の作品は文学ではなくて文芸です」と発言する人もいる。
「表象文化」という表現もあるが、こちらは対象がずいぶんと広くて曖昧模糊とした印象がある。
「フィクション文化」?


閑話休題
今とっている現代美術論の先生*3が強調するのは、「芸術は勉強しないと分からない」ということだ。
それはこの本を読むとよく分かる。
芸術作品とは何か、という問いにどのように答えるか。
ここでは、ダントーのアートワールド、あるいはディッキーの制度理論といったことが参照される。
つまり、ある何かを芸術作品、アートとして捉えるためには、歴史、文化、それを鑑賞するための空間、批評などといった諸々の環境=アートワールドが必要となるのである。
そうした環境が、ある何かをアートと呼ぶのである。
これは現代アートを知るためには特に重要となってくる。
例えば、デュシャンの「泉」は何故アートなのか。そもそもこの作品は、当初アートとしては認められなかった。それは、その当時のアートワールドがこの物体をアートとして認めなかった、ということであり、しかし後になってアートワールドがアートとして認めるようになったということでもある。
また、「泉」という作品は、ある何かをアートの作品として認めるか否か、というのが、そのような環境に拠っているということを、批判してみせたのである。そしてその批判性ゆえに、後になってアートの作品として認められるようになったわけである。
この考え方が、伝統的美学への批判の根拠となってくる。
「美」「自然の模倣」「趣味」「キッチュ」といった問題である。
「美」にこそ価値がある*4。それは美しい「自然の模倣」である。そして、美しい作品を愛でるのがよき「趣味」であり、「キッチュ」なもの*5を愛好するのは「悪趣味」である。
このような言説は、結局のところ、18〜19世紀のアートワールドにおいて通用することなのである。
これらは、この当時の芸術を支持していた、エリートたちの思想の反映でもある。
そして、例えば趣味と批評に関しては以下のようなことがいえる。
例えば、クラシック音楽が上等で、ロックが下等である、ということは言えないということだ。というのも、この二つの音楽は言ってみれば属しているアートワールドが違うからだ。だから、同じクラシック音楽同士であれば比較は可能になるが、そもそもクラシックとロックの間では比較することが不可能なのである。
これは、純文学と大衆文学の対立にも同じことがいえるだろう。
そしてさらに、デュシャンウォーホールの違いもみえてくる。
ウォーホールから始まるポップアートは、軽さがその最大の特徴とも言える。このことは、ポップアートの前身である、抽象表現主義アヴァンギャルドとは異なる。彼らは、真のアートを探求していた。だからデュシャンの「泉」には批評性があったのである。既存の作品ではなく、自分の作品こそが真のアートである、という批評だ*6
それに対して、ウォーホールらのポップアートは、自分たちが真のアートであるなどとは主張しない。単に、今までのアートとは別のアートである、というだけである。クラシックとロックが比較不可能なように、従来のアート、例えば印象派の絵画とポップアートは比較不可能なのである。
これを、「ポスト歴史的多元主義」と呼ぶ(らしい)。
ところで、こうしたポップアートはどうして生まれてきたのか。これは、社会的状況と強く結びついているのである。つまり、大衆化、情報化、複製技術、広告などといった要因である。


この本で面白かったことは、芸術作品を享受するとはどのような体験か、ということを論じていることだ。
もともと芸術作品は、宗教的、社会的な要請に従って作られていた。
だが、これがある時期からそのようなものから独立するようになる。このことによって、芸術はそれだけで自分たちの存在理由を用意しなければならなくなった。その一つが、18世紀に生まれた「美学」であり、つまり(宗教などではなく)「美」というのを芸術の要件として作り上げたのである。
しかしそれだけではなお、何故芸術が必要なのか、ということを論証するのには足らず、有用性が説かれるようになった。
すなわち、芸術には真理がある、云々ということだ。
絵でも小説でも何でもいいが、ある作品を鑑賞したあと、「この作品は愛のすばらしさを描いている」とか「この作品は人生の苦しみを描いている」とかいうことが、よく言われる。そういうことを言うことが、芸術作品の鑑賞方法だと思わされているところもある。
しかし、この本は、それらは芸術作品を鑑賞した後に振り返って、作品「について」語っているのであって、作品「を」語っているわけではない、作品「を」享受している体験そのものではない、とする。


さらに、フィクションについて論じている。
まずはサールの偽装主張説に触れた上で、しかしこのサールの論は、「伝統的な「仮象論」を一歩も出ていない」とする。
つまり仮象とは、現実のふり、ということである。そしてこのような考え方の問題点は、フィクションを「リアルでありつつリアルでない」と理解することである。このように理解すると、フィクションの受け手は、一方でこれはリアルだと思いつつ、他方でリアルではないと思うという分裂的な態度で作品を享受していることになる。
そうではない、とこの本は主張する。
リアルであることと、リアルのふりをしていることは、全く別ものである、という。フィクションとは「リアルでありつつリアルでないもの」なのではなく単に「フィクション」なのである。
また、フィクションを享受する体験は、主人公と一体化する体験でもない、という。受け手が、もし登場人物と一体化しているならば、やはり「登場人物でありつつ登場人物ではない」という分裂的な状態に陥ってしまうからだ。受け手はあくまでも、観客席の位置に立っている。受け手というのは、作り手が設定した、全体を見回すことのできる特別な位置*7に自分を置いてフィクションを享受しているのである*8
また、科学を一種のフィクションである、とする考え方もここでは否定される。
科学や神話は、世界を有用に説明する方式である。有用だから採用されているに過ぎず、絶対的ではない、という意味でフィクションと比喩的に表現されることがあるのは認める。しかし、それでも科学や神話が世界を説明するためにあるのに対して、フィクションは決して世界を説明するためにあるのではない。もし、フィクションが世界を説明しているように思うのならば、それは上述した「ついて」と「を」の区別がついていないのである。
フィクションと歴史についても触れられる。
この二つは非常によく似ていて、ある面ではほとんど同じである。
過去において、フィクションと歴史が区別されていなかったことはこのことを示唆している。
また、どちらも、因果を描くという点で似ている。この因果を導くための「一般法則」あるいは「真実らしさ(もっともらしさ)」をフィクションと歴史は共有している。
ここでいう「一般法則」「真実らしさ」というのは、例えばこういうことだ。
「AはBをしようとした」→「AはBするのをやめた」という変化の原因は、「Bをするとよくないことが起こることをAが知ったから」と「Bをするととてもよいことが起こることをAが知ったから」のどちらであろうか。まず間違いなく前者だろう。前者だと判断するのに使ったのが「一般法則」あるいは「真実らしさ」というものである。
では、フィクションと歴史の違いとは何だろうか。
フィクションは、登場人物の心情が描かれていたり、今まさに目の前で出来事が起こっているかのように語る。歴史は、歴史である以上は心情などを描くことはできない。これは、フィクションがあの「特別な位置」を持っているから可能なのである。歴史はそのような位置を持つことを禁じている*9


現代アートの哲学 (哲学教科書シリーズ)

現代アートの哲学 (哲学教科書シリーズ)

*1:とはいえ、現代では「アート」という言葉でもまた何らかの価値的ニュアンスを持っているような気がする

*2:個人的には形容詞的なニュアンスを感じて、いわばジャンル名として使うのがどうもしっくりこない

*3:現役の現代アートの作家でもあるらしい

*4:これは技芸と区別したものとして芸術を存立させるため

*5:この本では、「キッチュ」とは悪趣味なのではなく、寄生的な美である、とする。つまり、それそのものでは美しいとはいえないかもしれないが、それにまつわる思い出などと組み合わすことで美しく見える。キッチュはお土産用の「スケッチ」が語源

*6:こうした批評性、いわば自分たちにいたる歴史、アートワールドを自覚することは、また自己言及性にも繋がる。つまり、アートの作品は、ただそこにあるだけでは作品とはいえず、アートワールドの中で位置を占めることで初めて作品となるのだから、「自分はアートである」と自分から主張しなければならないのである

*7:これは語り手の位置でもある

*8:このとき、作者(語り手)と読者との間の対話などない、という主張も面白い

*9:仮に、人物の心情を語るような記述があるとすれば、それはやはり歴史書ではなくて歴史小説なのである