古川日出男『ベルカ、吠えないのか』

歴史とは物語であり、物語とは歴史である。
この小説には、1943年から199X年までの歴史=物語が書かれている。
偽史ないし架空史を描いた小説は数多くあるだろうけれど、これはそうした作品を圧倒するだろう。
何故か。これが犬の歴史=物語だからだ。
犬は数を数えることができない、ということが何度か繰り返されている。
また、犬と同化していくことになる少女もまた、数えない。彼女は、日付を数えず、ゼロの時間を過ごすことで、犬族と同化していく。
この歴史=物語の紀元もまた、ゼロ時間にあった。
かつてゼロ時間を過ごした、数を数えない種族、それが犬族だ。
彼らは人間たちに振り回される。彼らは、人間たちの「個人的な関係」*1に振り回される。
数えることのできない彼らは、歴史=物語という力もまた持つことが出来ない。それゆえ、歴史=物語という力に、あるはその力を持つ人間に振り回されてしまうのだ。
犬たち、少女*2、老人*3は、人間たちの歴史あるいは表の歴史に振り回され、排除された者たちだ。
しかし、彼ら犬たちは人間たちの思惑を離れたところで、結びついていく。
歴史の影に女あり、とはよく言われるが、むしろ歴史の影に犬あり、である。
人間の歴史=物語が、その影にある犬の歴史=物語へと書き換えられていく。
犬たちの歴史=物語を貫く縦軸は、1943年、キスカ島で日本軍に置き去りにされた四頭の軍用犬から連なる家系図である。
そして横軸は、1957年11月、スプートニクに乗り込み宇宙へと飛びだったライカだ。
四頭の軍用犬の子孫は、アメリカ、ソ連、中国へと散っていた。
千頭もの子孫たちを、ライカは宇宙から見た。犬たちは、宇宙から見られた。
犬たちは数えることが出来ない、歴史=物語を紡ぐことが出来ない。
だが、遙か宇宙から地球を一挙に見下ろしたライカには、それが可能となった。一頭のライカが、犬たちの関わりを結びつけ、歴史=物語を紡ぐ。
イカが、犬たちにお前たち、と語りかけることで、犬たちの歴史=物語が描かれる。
『ハル、ハル、ハル』は、主人公たちが新しい力を手にしていく話であったが、これは犬たちに歴史=物語という力を手に入れていく話なのだ。
犬たちは数を数えることが出来ないが、この作品では様々な形で数が強調されている。
例えば、わかりやすいところでは、年月日、頭数。少女が手名付けることになる犬=ヨンジューナナ、ベトナムの地下壕で繰り広げられる引き算と足し算、カブロンとギター親子にとって重要な数字、2。
歴史とは、単なる出来事の記述ではない。物語られることによって、出来事は歴史となる。
そして冒頭のエピグラム。

これはフィクションだってあなたたちは言うだろう。
おれもそれは認めるだろう。でも、あなたたち、
この世にフィクション以外のなにがあると思ってるんだ?

この犬たちの歴史はもちろんフィクションだ。だが、だからこそ、歴史=物語なのであって、そのことによって些かも力を減じることはない。


『ハル、ハル、ハル』は、主人公たちが新しい力を手に入れるというストーリーの一方で、新しい日本語(小説を書くための日本語)を手に入れるための実験も行われていた。
この作品も、いわば古川節とでもいうべき文体が見事にはまっている。
まず第一は、何よりも、「お前たち」と犬たちへと語りかけられる文体である。犬たちの歴史=物語を語る語り手は、その歴史=物語を何よりも犬たちへと語っているのであり、またその語りかけによって犬たちの歴史=物語は構築されていく。
一番最後のページに、地の文に「おれ」が現れて、この語り手が何ものであるか明かされるわけだが、その語り手はまさに犬の歴史=物語そのものであるといってもよいのではないだろうか。
次に、音声的な魅力がこの文体にはある。
古川日出男向井秀徳と共に行った朗読ギグでこの作品を朗読している。
ここでは、1957年、米墨国境地帯でシュメールという雌犬がライカからの視線と邂逅するシーンと、この作品の目次が朗読されている。
これを既に聞いていたため、普通に読んでいても頭の中で古川が朗読しているようなイメージを持っていたのだが、耐えきれず(?)、2カ所ほど音読した部分がある。
他の小説で音読をした経験はないので比較できないが、この作品は明らかに音読による快感が得られるのだ。読み始めると、止まらなくなる。
さらに古川文体の特徴としては、ルビの多用が挙げられる。
前半はまだ、外国語とか隠語とかくらいなのだが、後半になるにつれて次第にルビが暴走、とまでは言わなくても、乱用されていく。

ベルカ、吠えないのか? 目次
「おれは解き放ちたいのだ」
一九四三年
「組長、おやすみ」
一九四四年から一九四九年
「ロシア人は死んだほうがいい」
一九五〇年から一九五六年
「それって犬の名前かよ」
一九五七年
「ヤクザの嬢、なめんな」
一九五八年から一九六二年(イヌ紀元五年)
「うぉん」
一九六三年から一九八九年
「いまは一九九一年ではない」
一九九〇年
「ベルカ、吠えないの?」

古川と向井による朗読は是非聞いて欲しい。


ベルカ、吠えないのか?

ベルカ、吠えないのか?

*1:作中では、トルーマンスターリン及び毛沢東フルシチョフの関係

*2:ヤクザの嬢

*3:かつてKGB特殊部隊を率いた男