デイヴィドソン「概念枠という考えそのものについて」

9月から11月まで、週に1本論文を読んできて、ディスカッションするという授業を取っています。
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前回のクワインによって、分析と総合の区別と言う二元論は放棄された。
だが、それは別種の二元論を呼ぶこととなった。
分析(必然的に真)な言明がないとするならば、何を真とするかはどのような理論に拠っているかによって決まる。クワインは、物理学と神話を同じレベルに置いたのだった*1
つまり、別種の二元論とは、理論と理論によって規定される内容という二元論である。
ここには、クーン、ファイヤアーベント、あるいはサピア=ウォーフらが連なってくる。
理論、すなわち概念枠というものによって、世界は把握されているという考えだ。
そして、こうした概念枠は複数存在し、異なる概念枠を持つ者同士は、互いに異なる世界に住んでいるようなものである、という考えだ。
こうした、相対主義的思考に対して、デイヴィドソンは否を突きつける。


まず、デイヴィドソンは、概念枠とは言語のことである、という。
互いに翻訳可能である言語同士は、同一の概念枠を持っているといってよいであろう。
もし、概念枠が複数あるのであれば、それは翻訳不可能な言語がある、ということとなる。
翻訳不可能な言語はあるのか。
そこで、翻訳可能性に基づかずに、任意の何かが言語である、と言いうる基準を探すことを試みる。
何かが言語である基準は何か。
デイヴィドソンは、組織化と適合の二つを候補にあげる。
そのうち、組織化の方は、翻訳可能性に基づかない言語の基準としては不十分であるとして却下する*2
続いて、適合を検討すると、言語とは、経験と適合しているもの、といえるが、それはつまり真であること、と同じである。
話を元に戻すと、翻訳不可能な言語を私たちは探していた。つまり、翻訳不可能で真なるものを見つければ、それは翻訳不可能な言語である。
しかし、タルスキが真理について述べた「sが真なのはpの場合その場合に限る」という定理を考えてみると、真であることと翻訳可能性は切り離すことができない。
sという言明を翻訳する際には、sという言明がまさにpの場合その場合に限ることによって翻訳がなされるからだ。
“It rains”が真なのは、雨が降っている場合でその場合に限る。
“It rains”が「雨が降っている」に翻訳可能なのは、“It rains”が雨が降っている場合でその場合に限って言われるからだ。


また、この論文では、寛大の原理についても述べられている。
お互いに理解しあおうとする場合、相手はほとんどの場合正しいこと、自分と真理値が一致することを言っていると考える、という寛大さが必ず必要になるというものである。
ここからも、概念枠の翻訳不可能性というのは導出することができない。


デイヴィドソンは、相互に翻訳不可能な言語=概念枠はない、とする。
事実、サピア=ウォーフの有名なイヌイットの雪概念は英語によって説明されているし、クーンはかつてのパラダイムについて、今のパラダイムの言葉を使って説明している。
そもそも、言語が言語たるための基準とは、翻訳が可能かどうかに拠っているのだ。
そうして、概念枠の複数性もまた否定されることになる。
であるならば、そもそも概念枠なる考え方を持つ必要性もなくなるだろう。

*1:原子や分子がある、ということも、物理学という理論に拠っている

*2:組織化されるもの(つまり世界)の単一性(?)が翻訳可能性を担保しているから