内井惣七『空間の謎・時間の謎』 - logical cypher scape2、大栗博司『大栗先生の超弦理論入門』 - logical cypher scape2と読んできたので、時間関係の本をもう少し読もうかと思って、手に取ってみた。とはいえ、先に挙げた2冊とはかなり毛色の違う本。
サブタイトルは「持続と時間の存在論」となっていて、持続物の存在について論じられている。それに関係して時間とは何かという話もなくはないけど、それは本論ではない。また、形而上学の本であって科学や科学哲学の本ではないので、物理学の話もほとんど出てこない。一応、相対論を前提しても成り立つか検討するようなところはあるけれど。
正直、自分には結構難しくて、分からなかった部分も結構多い。なので、あまり細かく内容については紹介できないと思う。
この本の話を始める前に、そもそも存在論って何だってことで、この本を読みながら自分が思いついたことを書く。
以下に書くことは、あくまでも自分の抱いたイメージに過ぎないので、変なことも書いているかもしれないので、何か気付いた人は指摘して下さい。
存在論には、ティブルスのパラドックスというのがあって、まあ話としては面白いんだけど、それが一体何なんだーと思っていた。
ティブルスっていう猫がいるんだけど、それに対してティブルスの尻尾以外の部分のことを「ティブ」と呼ぶことにしたとする。当然、ティブルスとティブは別ものである。ティブは、ティブルスの一部分に過ぎないからである。
ところが、その後不幸な事故か何かがあって、ティブルスは尻尾を切断することになってしまった。とはいえ、尻尾を切ったからといってティブルスがティブルスでなくなるわけではない。ティブルスは尻尾のない猫となった。ところで、ティブとは(尻尾のあった)ティブルスから尻尾を取り除いた部分のことであったので、ティブルスとティブはぴったり一致することになってしまった。ライプニッツがいう不可識別者同一の原理からすれば、ティブルスとティブは同一である。
さて、ティブルスとティブは同じ存在なのか、それとも別の存在なのか。
このパラドックスは、4次元主義で解かれることになるが、それはそれとして、ティブルスが存在し、それとはまた別にティブが存在するって一体どういうこっちゃと、普通の人なら思うのではないか。
少なくとも自分はそう思っていて、面白いけど何じゃそりゃと思っていたわけ。
でも、少し分かってきたような気がしている。
例えば、人間というのは原子の集まりである。しかし、ここで人間を指さして、「ここに原子が10の26乗個あります」とは言わない*1。「ここに人間がいます」という。つまり、そこには原子が存在するだけではなくて、人間もまた存在している。
原子というのは、人間の部分である。で、人間は、原子という部分の総和になっている。部分も存在しているし、その総和である全体も存在している。
部分と全体の関係について考えることを、メレオロジーと呼ぶ。
人間が1人いるとして、そこには何個の存在が存在しているかと考えたとき、実は無数の存在が存在しているのである(人間全体と人間の各部分(腕とかトルソーとか細胞30個の集合とか)が存在している)。
ティブルスも存在しているし、ティブも存在している、ティやティブルだって存在している。
真部分をもたない存在(それ以上分けることができない部分)のことを、メレオロジー的単体と呼ぶらしいのだけど、メレオロジー的単体しか存在しないと考えるニヒリズムという立場があるらしい。この立場、一瞬もっともなような気もするけれど、この立場にたつと、人間もティブルスも存在しないことになってしまう。
メレオロジー的単体が現実には何なのか分からないけれど、まあここではクォークのことだとしておこう。そうすると、この世界で本当に存在しているのはクォークだけで、それ以外のものは実は存在していないということになってしまう。
そうすると、やっぱりメレオロジー的和も存在していると言った方がいいと思う。
ところが、メレオロジー的和が存在していることを認めると、どんどん際限なく存在が増えていく。
人間だとか机だとかいったものだと、見た目にもなんかひとかたまりの存在っぽいけど、メレオロジーって考え方にたつと、メレオロジー的和って別に空間的に離れていても成り立つ。猫のティブルスと小惑星セレスのメレオロジー的和とかだってありうる。。
そんな空間的に離れたものの和も存在しているって言っちゃっていいのか、と思うかもしれないが、言っちゃっていいし、言うしかないと思う。例えば、個人的に思いついた例としては、太陽系がある。太陽や火星が存在するように、太陽系も存在しているとやはり思いたい。
形而上学者は、世界に何が存在しているかということを考えたくて、そしてそれは人間の認識や言語の問題ではないとも考えている。
部分が存在するならば、その和も存在するかどうかっていうのは、立場がそれぞれ分かれているみたいだけれど、サイダー的には恣意的でなく存在論作るならば、和も存在するって考えているっぽい。
さらにちょっと先走るけど、四次元主義だと時空ワームというのが存在していることになるんだけど、これも無数に存在しているってことになるらしい。
まあ、メレオロジーの話だけが存在論の話ではないだろうけれど、この本ではこういうメレオロジーを使った存在論がメインになる。
というのも、この本で主に論じられることになるのは「対象は時間的部分を持つかどうか」だからである。
繰り返しになるが、メレオロジーというのは部分と全体についての関係を考えるということ。上では、基本的に空間的な部分と全体について考えてきた。尻尾と尻尾それ以外、惑星と太陽系とか。この本では、そういう空間的なメレオロジーの考え方を前提として、時間的な部分について考える。
「対象は時間的部分を持つ」という立場を「四次元主義」と呼ぶ。作者はこの立場である。
「対象は時間的部分を持たない」という立場を「三次元主義」と呼ぶ。
筆者は、この二つの立場を様々に比較しながら、前者の方が有力な形而上学理論だと主張する。
四次元主義者は、対象は時間の流れの中を「延続perdurance*2」していると考える。
一方、三次元主義者は、対象は時間の流れの中を「耐続(endurance)*3」していると考える。
正直、これだけ聞くと、四次元主義と三次元主義の考え方の違いはいまいちよく分からない。
いや、違いは分かるのだけど、どっちでもええやんと思えてしまうw
自分は中盤を越えて、ようやく違いが分かってきたのだが、そもそもそれ以前に、二つの形而上学理論について「どっちでもええやん」以上のことは言えるのだろうか。
筆者は、これに対しては序論で答えている。
この序論は、筆者の前書きでも訳者の解説でも、最初は何言っているか分からないからまずは飛ばして、あとで立ち戻って読むのがよいと言われているw
この序論は、いわばメタ形而上学(メタメタフィジクス!)になっている。
形而上学的論争に対する懐疑論=「無対立説」へ反論するのが、この序論になっている。形而上学的な対立、不一致など実はないのではないかという疑問に対して、そうではないという。
D・ルイスの意味の「最善候補理論」によれば、意味は使用と適格性の二つによって決まるという。ここで、適格性というものが形而上学的な違いに関わるとされる。
ただ、形而上学はもちろん経験的には解くことができない。決定的な証拠はないかもしれない。そういう意味では弱いのだが、弱いなりにどっちの方がよいか悪いかは言えると筆者は考えているようだ。
本書のいくつかの論点については、筆者自身が、反対説の支持者を説得できるわけではないとも述べているし、またいくつかについては自分の立場の弱点も認めている。しかし、それでも総合的に見れば、自説の方がよりよい説明を与えることができるとしている。
時間についての形而上学的理論としては、四次元主義と三次元主義とは独立に、以下の二つの理論がある。
過去も現在も未来も存在すると考える「永久主義」と
現在だけが存在、過去や未来は存在していないと考える「現在主義」である。
また、これ以外にも以下のような二つの理論がある。
「現在、雨が降っている。」「過去に恐竜が存在した。」「将来、私はユタに訪れるだろう。」といった、時制付きの判断・概念を、A判断、A概念と呼ぶ。
「2000年6月28日雨が降っている。」「恐竜はこの本が出現するより前に存在した。」など、順序や時点を使った無時制的な判断・概念を、B判断、B概念と呼ぶ。
「現在、雨が降っている。」という時制付きの判断は、時間の経過とともに真理値が変化する。この文のトークンが真であるのは、雨が降っているときである、かつそのときのみである。
一方、「時点tにおいて、雨が降っている。」という無時制的な判断は、真理値が変化しない。時点tにおいて雨が降っているならば、この文はいついかなる時も真である。
A判断をB判断に置き換えることを、時制の還元と呼ぶ。
時制の還元を認めない立場を、A理論
時制の還元を認める立場を、B理論と呼ぶ。
四次元主義と三次元主義、永久主義と現在主義、B理論とA理論は、それぞれ独立ではあるのだが、お互いに関わりあっている。
筆者が擁護するのは、四次元主義+永久主義+B理論の組み合わせである。
この本は、時間と持続に関する複数の説について比較検討していくという形で進行していく。
そのため、色々な哲学者の名前が出てきており、その中には当然ながら、日本でも有名な人もいればそれほど有名でない人もいるわけだが、特に引用回数が多いメインの登場人物を挙げると、以下の2人だろう。
つまり、筆者にとっては主な批判対象、ライバル的な存在として出てくることが多い、ヴァン・インワーゲンと
逆に、筆者の主張に対する理論的補強を提供する存在として出てくることが多い、デイヴィッド・ルイスである。
序論
第1章 四次元的な世界像
第2章 現在主義への批判
第3章 三次元主義と四次元主義を規定する
第4章 四次元主義の擁護(1)
第5章 四次元主義の擁護(2)
第6章 四次元主義に対する反論
第1章 四次元的な世界像
四次元主義についての簡単な説明と
持続にまつわるいくつかのパズルが紹介される。古典的なものとして「テセウスの船」とか、粘土の像と粘土の塊の奴とか
そういったパズルに対して、四次元主義こそがよりよい説明を与えるよ、と。
第2章 現在主義への批判
まず、先に述べた、現在主義と永久主義、A理論とB理論について紹介される。
時制の還元を認められるのは永久主義だけである。
「過去に恐竜が存在していた」というのが常に真であるということは、恐竜の存在にコミットしており、これは過去が存在していることを前提にしないと成り立たない。
現在主義者は、様相演算子に似た「時制演算子」を導入する。「過去に(恐竜が存在する)」と表現する。そして、時制演算子の作用域に対しては存在論的コミットメントがないので、過去の存在にコミットメントする必要が無い。
これは、様相の分析と並行的であるという。「可能的に(ユニコーンが存在する)」という場合、ユニコーンが存在することにコミットメントしなくてもよい。可能世界への量化に分析して、可能世界にユニコーンが存在するというのが可能主義者、そのような分析を行わず、ユニコーンが存在することにコミットメントしないのが現実主義者。可能世界が存在する、あるいは過去や未来が存在するという点で可能主義者と永久主義者はパラレルであり、それらが存在しないというする点で現実主義者と現在主義者はパラレルである。
永久主義者にも時制の還元を拒む者はいて、「移動スポットライト」説というのがある。ただし、これをペリーのいう指標的信念の例と比較して、「いま」「私」「ここ」といった指標詞について、指標詞なしに還元でき、また心理学的な態度を理解するのにも還元不可能な時制を持ち出す必要がないことを指摘している。
さらに引き続き、筆者は現在主義への批判に乗り出していくのが、ここらへんはあんまりよく分からなかった。
ニュートン時空における運動から、真理メーカーから、相対論的なミンコフスキ-時空からそれぞれ批判する。
真理メーカーっていうのは、いかなる真理Tについてもそれが存在することがTの真理の十分条件になるようなもの、のことらしい。
普通に考えて一番問題なのは、現在主義が相対論と不整合だということ。
で、まあ仮にこれを百歩譲って見逃すとしても、他のところにも難点あるということらしい。
本書では、この章をもって現在主義の検討をおえ、これ以後の議論では基本的には永久主義が正しいことを前提にして進んでいく。
第3章 三次元主義と四次元主義を規定する
四次元主義によれば、世界には、個々の時点の瞬間的段階の和から成り立つ時空ワームが無数にひしめいている。言い方をかえれば、ものは時間的部分をもち、延続する。
三次元主義によれば、ものは複数の時点において余すところなく現れている、そして対象全体が時間の中を進んでいく=耐続している。
これらを、さらに正確には何を意味しているのか、筆者は定式化を行う。
このあたりも詳細は省略する。
筆者によれば、四次元主義はしっかりと定式化できるのに対して、三次元主義はしっかりとした定式化を持っていないことになる。四次元主義への反対者の集まりが三次元主義者である、と。
最後に、四次元主義と三次元主義、永久主義と現在主義はそれぞれ独立であると述べている。ただし、四次元主義という言い方が、延続説をさすのか永久主義をさすのかが分かりにくいので混乱している、とも。筆者は、四次元主義=延続説として使っている。
永久主義+延続説、永久主義+耐続説、現在主義+耐続説、現在主義+延続説
これら4つの組み合わせは全て整合的であるという。
ただし、現代の哲学者で現在主義+延続説の立場をとる者はいない(脚注で上座部仏教の経量部はこの立場かもしれないと述べられていたりするけど)
第4章 四次元主義の擁護(1)
第4章では、延続説=時間的部分をもつことを支持する議論が紹介される。
- 1節約に基づくラッセルの議論
ラッセルによる議論は、成功はしていないらしい
- 2論理学に基づく議論
クワインによるもの
時制論理は、B理論+延続説=多様体理論を前提しているというものだが、のちにプライアーが時制論理を開発し、こちらでは多様体理論は前提されていない。
また、クワインの議論はせいぜいB理論を擁護するもので、延続説の擁護にはなっていないという。
- 3時間のA理論は不整合である
スマートによる議論も同様である。B理論の擁護にはなっているが、時間的部分を持つという延続説の支持にまではなっていない。
かつて、この二つは同じものだと思われていたので、A理論を批判すれば、延続説が支持できると考えられていたと筆者はいう
- 4四次元主義と特殊相対論
筆者は、耐続説もまた、相対論と整合的であると主張している。
ここまでは、延続説を支持しようとしている議論だが、実際には必ずしもうまくいっていないのではないかというものが挙げられてきた。
以下から少し変わってくる。
- 5空間と時間は類比的である
本章では永久主義を前提にしており、その前提のもとでは、空間と時間は類比的である。
そうであるならば、空間的部分があるなら、時間的部分だってあるでしょ、と。
空間と時間が類比的であるならば、三次元主義は、空間的部分は認めるのに時間的部分は認められないのは何故なのか示さなければならなくなる。
- 6一時的内在性質の問題
ルイスが提起した「一時的内在性質の問題」
例えば、ある人が30分間椅子に座っていて、その後30分間直立していたとする。するとその人は、30分という一時的な間だけ「曲がっている」という性質をもち、その後の30分という一時的な間だけ「まっすぐ」という性質を例化していたことになる。
ある人が「曲がっている」という性質と「まっすぐ」という性質の両方を例化しているとはどういうことなのか。
延続説であれば、それはそれぞれその人の時間的部分によって例化されている。これは、ある道路について、ある空間的部分がでこぼこという性質を、また別のある空間的部分が平坦な性質を例化しているのと同じことである。
耐続説であればどうなるのか。
この場合、現時点において「曲がっている」という性質という風に解されることになる。変化を伴う性質は、時点との関係的性質になってしまう。ところで、「曲がっている」とは内在的性質だと思われるのだが、これが関係的性質とはいかに、とルイスは議論を持っていく。
- 7風変わりな可能性に基づく議論
ここでは、まさしく「風変わりな」世界を想定して、前節の一時的内在性質の問題をさらに進めていく。
実際に読んでいくにあたり、このあたりでようやく、延続説と耐続説の違いが分かってきたような気がする。
耐続説は、一時的内在性質について時点指標をつけることで解決を目指すが、これでは内在的性質が関係的性質になってしまう。では、それの何がまずいのか。
ここでは、時間のない世界とタイムトラベルという二つの「風変わりな可能性」に基づいて検討される。
時間がない世界でも、対象が「まっすぐ」という性質を例化することは可能だろう。延続説にとっては、無時間的な「まっすぐ」であろうと時間的な「まっすぐ」であろうと変わらず例化できる。ところが、耐続説はその両者を区別しなければならない。時間的な「まっすぐ」は時点指標のついた性質だからだ。
三次元主義者の中には、持続物は耐続するが出来事は延続するという二元論者がいるが、この場合も「まっすぐ」を区別しなければならないが、その区別の仕方が謎になってしまう。
ところで、『現代形而上学論文集』の中でメリックスの三次元的存在者と四次元的存在者、つまりものと出来事は両立できない、大変だっていう論文があったんだけれど、これって二元論者にとってのみ問題なのではないか、と思った。当時、読んだ時はなんのこっちゃって感じだったけど。
タイムトラベルもまあ同様。
私がタイムトラベルして私に会いに行ったとして、片方の私は立っていて、片方の私は座っていたとする。四次元主義は、私というワームの二つの段階があるとだけ考える。三次元主義の場合、今という時点に「まっすぐ」と「曲がっている」の両方が例化していることになるし、同じ時点には「余すところなく全て現れている」はずなので、タイムトラベルしてきた私とその目の前にいる私を同一人物ということにしなければならないが、はてさてみたいな。
この議論は、タイムトラベル可能性に基づいているけど、そもそもそんな議論って説得力あるのかという反論に対して
筆者は、タイムトラベルは少なくとも形而上学的可能性がある。その可能性を拒むのであれば、三次元主義はせいぜい偶然的なテーゼとしかならない。
また、物理的な可能性についても、物理学者が真剣に検討している以上、頭から拒むことはできないのであり、それに対して開かれている理論の方が有利だろう、としている。
- 8時空に基づく議論
時空領域と時空的対象をどう区別するのか、みたいな話?
対応者理論を持ち出して答える。
対応者理論についてはまたあとで。
- 9曖昧性に基づく議論
ルイスの無制限のメレオロジー的構成の原理を支持する議論をもとにしたもの。
このあたりは、まさに分析形而上学って感じで面白かった
無制限の構成が認められるかどうか、という話をしているのだが
その前提として、曖昧性の問題が出てくる。はげ山のパラドックスとかのあれである。ここで、ルイスがとった「曖昧性の言語説」が持ち出される。曖昧性というのは、使われる語句に複数の意味があるときに生じるというものである。
量化子や同一性などの論理にはそのような曖昧性はないと認めるならば、無制限の構成も認めなければならないお論じている。
そしてさらに、無制限の構成を認めるならば、四次元主義も同様に認めなければならない、と。
無制限の構成というのは、いかなるクラスもメレオロジー的和をもつというもの
ウィギンズやバーク、ヴァン・インワーゲンは、メレオロジー的和があるようなクラスを制限したい(日常的な対象や生物のみなど)のだが、曖昧性を認めないことを認めるのであれば、そのような恣意的な制限は認められなくなってあらゆるクラスにメレオロジー的和を認める必要が出てくる。
で、これが四次元主義を含意してくるとさらに論じている。
第5章 四次元主義の擁護(2)
筆者は、第4章の最後の議論で、メレオロジー的ニヒリズム、メレオロジー的本質主義、四次元主義だけが残ったという。
そこでこれらをさらに選別するために、どれが一致のパズルについて一番優れた説明を与えるかということを、本章で検討する。
- 1一致の脅威
ティブルスのパラドックスや、粘土の像と粘土の塊の話や、木とセルロース分子の話や、人が分裂したり融合したり、超長寿だったりする話などが、一致のパラドックスとして語られる。
これらは、異なると思われる対象が、ある間、空間的にも性質的にも完全に一致してしまうような話で、一致する対象というものって一体なんだって話である。
- 2ワーム説と一致
四次元主義、つまり時空ワームが存在するという立場にたつと、一致することが容易に認められる。
二つの道路が、ある区間だけ一致しているようなもので、二つの対象がある時間的区間において一致しているだけだ、と。
とはいえ、この考えは分裂や融合などについて必ずしも、日常的な直感を満たせていないようにも思える。これについては、あとで段階説というものが検討される。
第6章 四次元主義に対する反論
力尽きた……
三次元主義への反論は置いておいて、サイダーの擁護している主張をあとふたつ、紹介しておく。
段階説
四次元主義の中で、さらにワーム説と段階説とをわける。
これは、形而上学的に何が存在しているかという点では同じ。
持続物が何かという点で異なる。持続物というのは、指示したり量化したりしている対象のこと。
ワーム説は、時空ワーム全体を支持したり量化したりしているというが、段階説では、時空ワームのそれぞれの時点での段階を指示したり量化したりしていると考える。
こうすると、分裂や融合の事例において、不自然さがなくなる。
ただ、時空ワームを指示した量化したりしてるだろうと思われる事例もあって、決定的ではない
対応者理論
様相的な問題(例えば粘土の像と粘土の塊の話など)の時に、それを解決する策として対応者理論を筆者は使う。
粘土の塊は「像ではないことがありえた」という性質をもつけれど、粘土の像はそういう性質を持たない。そういう様相的な違いに対して、粘土像と粘土の塊の過去に対する対応者を考える。
ある時点の段階に対して、他の時点の対応者を考える。この対応者同士には、擬同一性が成り立つ。
筆者は、このような時間的対応者理論を唱えるが、これはもちろん、ルイスの様相的対応者理論と同型の議論である。
ヴァン・インワーゲンなどは、対応者理論など論外と言うわけである。
これに対して筆者は、反対者は、様相実在論と対応者理論を誤って同一視しているという。様相実在論は確かに論外であると筆者は認める。筆者は永久主義者だけれど、可能主義者(様相実在論者)ではない。しかし、一方で対応者理論は可能主義と独立に成り立っているという。
最後に、監訳者解説、用語解説、訳者あとがきがついている。
関係してそうな本
『現代形而上学論文集』 - logical cypher scape2
この本の著者サイダーによる入門書
アール・コニー+セオドア・サイダー『形而上学レッスン――存在・時間・自由をめぐる哲学ガイド』 - logical cypher scape2
八木沢敬『意味・真理・存在 分析哲学入門中級編』 - logical cypher scape2
第6章同一性に出てくる議論は、この本にも出てきた。ウィギンズとかギバートとか