君たちは何故小説を書くのか/僕は何故評論を書くのか

今日は、図書館で『新潮』と『群像』(と『文學界』)を読んできた。
目当てはもちろんアレとアレなんだけど、まあそれの感想と最近思っているよしなしごとを絡めて書く。

『新潮』東・仲俣対談と佐々木敦の『1000の小説とバックベアード』論

『東京から考える』を受けての、東浩紀仲俣暁生の対談。どこかのイベントの再録。
ものすごく端折ると、東浩紀の主張は「お前らもっと広い視野を持て」ということだ。
いやこれだけだと、東には言われたくねーという反論が出てきそうなので、取り急ぎ補足しなければならないが、ここで東が「お前ら」と言っているのは、「文学(ひいては小説)」とは『新潮』とか『群像』とかに載っているものだけであり、「文化」とは美術館やオープンカフェやミニシアターにのみあるものだ、と思っているような連中である。
そんな連中はもはや絶滅寸前であって、そんなことをまだ言わなきゃいけないのかと思うと、甚だしんどいことだとは思うのだけど、どうもそういう連中はまだいるらしい。
「文学」も「文化」も様々な形態であちこちにある。シネコンも郊外型の大型書店も「文化」を担いうる。その中で、『新潮』や『群像』に載るような小説を好み、ミニシアターや古書店を好むのは、個人の好き嫌いなので全く構わないが、間違ってもそういうのが偉いなどとは思ってはならない、とそういうわけだ。
ケータイ小説ライトノベルも、所謂「文学*1」ではない。だから、ケータイ小説ライトノベルを所謂「文学」がおだてたりすかしたりする必要はない。ただ、所謂「文学」とは全く別の形の小説もこの世にはあるってだけの話だ。それを小説には所謂「文学」しかないと思っているから、ケータイ小説ライトノベルを「あんなの小説じゃない」というか「新しい文学の可能性だ」などと言ってしまう。
東浩紀がやっぱりどこかで(哲)学者だとすれば、彼はどこか*2にコミットメントを表明せずに、そういうものがあるという現状の分析をしている、ということか。
仲俣暁生は、やはりどちらかというと現場の人なのだから、どこかへのコミットメントを表明することになる。色んな小説があるのは分かるけど、やっぱり僕は阿部和重とかがいい小説だと思うな、と言ってしまうというか言わざるをえない。
さて、佐々木敦の『1000の小説とバックベアード』(略して『千バク』)論だが、佐々木は今までの佐藤友哉作品はそんなに好きじゃなかったけれど、千バクには感動した、という。
それはもう「書くしかない」というただひたすらに個人的な表明だったからだ。
佐藤友哉は何も変わっていない。彼はただひたすらに自分のことしか書くことができない。
自分の小説が『1000の小説』になれるかどうかわからない、というか多分ならない。ならなくても、ただ書くしかない。
これは、今書いている結構長い分量になる予定の評論で、後で書こうと思っているのだけど、ちょっとカルヴァニズムっぽい。
まあそれはともかく。
今現在、どれが小説でどれが小説じゃない、とか、どの小説が一番偉い、とかそういうことは全く通用しないんだけど、それでも自分の小説を書かざるをえないような人種がいる。
それは徹底的に個人的な営みにならざるをえない。
さあ、それでも何故、君たちは小説を書くのか?!
ここで少し話を変えるが、これは政治の問題とも繋がっている。
今や、〜の思想が正しいとか言えるような状況ではない。これは特にリベラルだとなおさらで、リベラルは「リベラルなんて嫌いだ」と言っている弱者の意見も尊重しなければいけないわけで、これはもうどうしたって運動として組織化するのが不可能といってもいい。
東が告発する「お前ら」の中には、明らかにそういうリベラル、つまりは「文化左翼」が含まれているだろう。もはやリベラルは多数派を僭称することができない。というかそもそも多数派じゃないし。それでもリベラルは弱者を守れるのか。
というわけで、今度の萱野稔人との対談が楽しみになってきた。まあ何の話するか分からないけど、もうフーコーとか環境管理の話されてもつまらんし、そもそも彼とどんな対話が可能なのか疑問だったのだけど、もしこういう方向にいくなら面白そうだ。
さて、何故こんな話をしたかというと、自分が文学系の学部にいて哲学なんかを専攻しようとしていると、何でこんなことをしようとしているのか悩まざるをえないからだ。
昔なら、文学も哲学も学問の王様だったわけだが、そんな感覚は自分には全くない。
それこそ徹頭徹尾、個人的な営みでしかない。
なので、自分は、東浩紀の言っていることはわかるが、個人的な立場としては仲俣暁生佐藤友哉の側に立つ。確かに「文学」も「哲学」も全く偉くはないし、そんなところに閉じこもってないで他のものも見てみろよ、って言われればその通りだ、と思うが、こっちとしてはそれこそもうとてつもなく個人的な理由でこっち側にコミットメントせざるをえない。「文学」や「哲学」が決定的に少数派であることを重々承知しながら。
中島義道が、「日本哲学学会」は「日本哲学愛好会」になればいいと言っていた(『文學界』)。哲学なんて役に立たんよって言いながら自分は哲学している人だ。
しかし一方で、「文学」や「哲学」しない人っていうのは一体どういう奴なんだ、と思う。
ある時期から、なるほど人間とは二種類あるのか、ということに気付いた。
つまり、「一体これ*3って何なんだー?!」という疑問に捕らわれたが最後、出てこられなくなっている人と、そんな疑問に全然捕らわれずに生きていける人*4
もちろん、この両者は綺麗にわけられるわけではない。
前者の人間もそういう疑問をある程度スルーできないとそもそも生きられないし、後者の人間だってそういう疑問を全く思い付かないようなタイプは少ないだろう。
ただそうだとしても、やっぱり前者は少数派で、その上で「哲学」とか始めようとする人も少数派だ*5
その中には佐藤友哉みたく、もう書くことしかできないのもいる。
じゃあ、それ以外の大多数は一体どうなってんだ、とも思う*6
今、東浩紀が興味を持っているのは、おそらくそっちの方で、それはそれで自分も気にならないことはない。
ケータイ小説なんてくだらねーよって思ってるけど、実際には滅茶苦茶売れてるわけで、それが面白いと言っている人が大多数で、じゃあそいつらは一体何考えて生きているのだろうか。
東曰く、ネットのせいで右傾化したというけどそれは嘘で、もともと大多数は嫌韓だったんじゃないか、という。それを少数派のリベラルが隠していただけで。
そういう状況下で、「いいんだ、いいんだ、俺は少数派でも」って言って立てこもり続けるか、それとも大多数のことをちゃんと調べてみるか
小説とか評論とか書いているような「お前ら」は態度を決めなきゃいけないんじゃないか!
ちなみに俺は立てこもるつもりだよ。

『群像』「具体的な手触り」

というわけで、最近何かと話題の(?)群像新人賞の評論部門で優秀作だかをとった「具体的な手触り」をようやく読んできた。
口語めいた、というかリズムを重視したような文体や、受賞の言葉を見るに、この人は別に評論を書かなくてよかったんじゃないか、とも思うが、まあそれは些細なこと。
主張している内容も真っ当というか、それほど無茶苦茶なことを言っているわけではない、と思う。
読者生成論というのは面白かった。
ただそもそもそれは、村上春樹でやることだったのか。むしろギャルゲーでやるべきだったのではないか。まあギャルゲーでやったら、二番煎じになるだけだから、雑誌に載せる文章としてはむしろダメなんだけど。
読者によって不完全な部分を補完させる、あるいは読者に責任を負わせる、というのは、ササキバラ・ゴウ東浩紀がギャルゲーについて書いたことだし、僕の先輩のりゅーさんも書いてた。
何故ギャルゲーの方が適切か。ギャルゲーの読者はプレイヤーだから。
それに対して小説の読者はあくまでも読者。
読者生成論の肝となるメカニズムが「想起」としてしか書かれていないのが、決定的な弱点。
「想起」って一体何なのか、と言わざるをえない。
もちろんギャルゲーも「読む」以外にやることがほとんどないのだから、ギャルゲーのプレイヤーと小説の読者に本質的な違いはないんだろうけれど、それでも読者ではなくプレイヤーであることが織り込まれていることは受け手の心理的には重要なのではないだろうか。
さて、読者生成論自体は、面白いのだけれど、それは結局のところ「近代」の産物ではないのか、ということも問うてみたい。ボルヘスの試みとの本質的な違いはあるのか、と*7
結局、テクストに対してメタ的な視点を設定して、そこを特異点にしてテクストを完成させる、ということではないのだろうか。
最後に、批評の役割を声高に主張しているけれど、それも批評を作品に対してメタ的に設定しているように思う。でも、批評と作品との関係はそういう垂直的なものだろうか。
読むものと読まれるもの、論ずるものと論じられるものとの間にあると思われた垂直的な関係は、実は水平的な関係だった、というのが、まあいわゆる「ポストモダン」ということではないのかなあ、と思う。
東浩紀グレッグ・イーガンもそういうもののはず。
読者は作品の不完全な部分や責任を「想起」しているのか。
作品と作品外との関係として、もっと別のものがありうるのではないか。
そういうことは、今読んでいる本が読み終わったら考えてみたい。

「グレート生活アドベンチャー」に対する反応

「文学まであと少し」(田中和生、『文學界』)は、「僕は腹が減ってきた」という文を誉めていた。
「僕は腹が減ってきたので、……」という文なら多々あるが、こういう文はない、ということ。
演劇畑の人間なので、身体がどうのこうの、とか言っていた。
『群像』の創作合評は、陣野俊史島田雅彦鹿島田真希がやっていた。とりあえず、この3人が並んでいる写真には「何だこれ」とつっこんでおく。
鹿島田と前田は一歳違いなので、鹿島田は共感しまくって読んだらしい。これ、ドラクエⅣだよなあ、私もこの頃こんな生活していたなあ、とかそういう感じ。自分たちの世代のニートは、野望がない、とも。
陣野は、前作と比べてトリックがなくなって、さわやかな青春小説になっててよい、と。
島田はつまらなかったっぽい。

その他

「物語の森に生まれて」(田中弥生、『新潮』)
島本理生の『大きな熊……』は、単行本化にあたって書き直されてよくなったらしい。
「侃々諤々」(『群像』)
ケータイ小説が流行っていることについて、批評もああいう文体になればいいんじゃねー。
もっと文学は市場の開拓しようぜ、という話。
小学館も小学生のための文学賞を作ったのだから「作るは「群像六年生」だ」
『群像』の映画評。
吉田秋生の作品が、鈴木杏主演で映画化されたらしい。鈴木杏でいいのかよ、って心配したらしいけど、よかったっぽい。特に、何でそんな喧嘩慣れしてんだよってくらい、喧嘩の強い鈴木杏がかっこいいみたい。
あと、『明日、君がいない』はやっぱり面白そうだ。
そういえば中原昌也の短編も読んだんだけど、覚えていない。こんなのは中原が書く必要がない、と思った。

今日他に手に取った本とか

IKKI
「ぼくらの」がもう残り4人になってて驚く。
ディエンビエンフー」がよかった。
『Self-ReferenceENGINE』ジャケ買い


新潮 2007年 06月号 [雑誌]

新潮 2007年 06月号 [雑誌]

群像 2007年 06月号 [雑誌]

群像 2007年 06月号 [雑誌]

*1:つまり『新潮』や『群像』に載るような

*2:ケータイ小説ライトノベルか所謂「文学」か

*3:人生でも文学でも世界でもなんでもいい

*4:宮台真司の意味系と強度系(まったり系?)って言い換えても多分いい

*5:だからこそ自分は、こんなブログを書いているのだ。他の「少数派」と手っ取り早く出会うために

*6:あたかも自分が大多数じゃないような物言いで申し訳ないが、まあ大学で哲学を専攻しようとしている時点である程度は少数派を名乗ってもまあいいんじゃないかと思うことにしとく

*7:そもそもボルヘスは何を目指していたんだろうなー