三浦俊彦『虚構世界の存在論』

分析哲学のアプローチによる虚構世界論。
と言われたところで、ほとんどの人には何のことかさっぱり分からないだろうが、問題設定自体はそれほど難しくない。
哲学には分析哲学と呼ばれるジャンルがある。
このジャンルは、もともと言語哲学というところから端を発しており、文が何を意味しているのか(真か偽か)を明らかにすることを目的の一つとしている。
そんな分析哲学言語哲学にとって、厄介な文がある。
シャーロック・ホームズの背中にはホクロがある。」
多分、コナン・ドイルのホームズをどれだけ読んだところで、この文が真か偽か分からないだろう
ところで、この文は以下の文とは異なることに注意しよう。
坂本龍馬の背中にはホクロがある。」
やっぱり坂本龍馬の伝記をどれだけ読んだところで、多分真か偽かは分からない。
しかし、坂本龍馬に関していえば、彼の背中にはホクロがあったかなかったかどちらかである、ということは言えるだろう。もしタイムマシンが完成すれば、幕末に行って確認することができる。一方で、シャーロック・ホームズに関していえば、そもそも背中のホクロに関する記述などないのだから、真か偽かどちらかだと言うことすらできないのではないか。
だとすると「シャーロック・ホームズの背中にはホクロがある。」という文は一体何を意味しているのだろうか。
また、こんな文も厄介である。
シャーロック・ホームズはべーカー街に住んでいた。」
これは、コナン・ドイルのホームズを読めば、確かにそうだということが分かる。だから、真……といえるだろうか。
そもそもホームズは実在しない人物なのだから、シャーロック・ホームズがべーカー街に住んでいたことなどない。だから、偽ではないだろうか。
そしてやっぱりこの文に関しても、真とも偽とも決めることは出来ない、と考えることすらできる。


芸術へのアプローチに3つの異なるレベルがあるという。
一つは批評、これは個々の作品に対して行われる。
次に批評理論、これは批評を一般的にどう行うか、というものだ。
そして芸術哲学あるいは美学、そもそも「芸術」とか「作品」とか「虚構」とかは一体どういうものなのかを研究する。
そういうわけでこの本は、最後のレベルからのアプローチを試みるのである。
文学とか表象文化論とかいわれるものは、大抵批評と批評理論を扱っているのみである。そこはそこでかなり面白い分野ではあるのだが、そもそも「虚構」とは何なのか答ええない点で不満足な部分があった。
この本の行おうとしている目的は、まさに自分の目的ともかなっていた。
ただし、その過程に関しては、決して十全に理解できるものではなかったのも事実である。
まずは論理学、分析哲学的な考えの進み方に不慣れなせいで、何を言っているのか分からない部分があり、それ故に、その議論は何だかテクニカルなものに過ぎないのではないか、と思ってまうと読み進めるのが困難になった。
それから、やっぱり自分は存在論に関しては興味が薄いのかもしれない、ということ。ただし、可能世界説が出てくると俄然盛り上がってくるので、単なる好き嫌いの問題かもしれない。

第一章虚構作品とは何なのか

虚構の存在論的な立場を問う前に、作品を如何に指示するか、という話から始まる。
ここではある極端な思考実験をすることになる。
ここに作品a(例えば『モナリザ』)と作品b(例えば『泣く女』)があったとしよう。ところで、実は作品a,bは、後から少しずつ修正が加えられていることが分かった。修正された箇所を少しずつ元に戻していってオリジナルに近づける試みがなされた。その結果、作品aは、今まで作品bと呼ばれていた作品と全く同じ見た目の作品a’となり、作品bは、今まで作品aと呼ばれていた作品と全く同じ見た目の作品b’になってしまったとする。
さてこのとき、作品a、bとはそれぞれどちらのことを指すのだろうか。
二つの考え方がある。
外延主義:時空的な連続関係を根拠に、どれだけ見た目が変わろうとも作品a’こそが作品aである、と考える。
現象主義:作品にとって重要なのは見た目、現象的特徴であるとして、作品aの現象的特徴を持っている作品b’が作品aである、と考える。
三浦は、現象主義に軍配をあげる。

第二章虚構世界とは何なのか:不完全性

芸術作品、特に小説が表しているとされる虚構世界とは一体何なのか。
その特徴として、不完全性と矛盾が指摘されている。
不完全性とは上述した「シャーロック・ホームズの背中にはホクロがある。」のようなものである。もし実在する人物であるならば、ホクロはあるかないかどちらかに決めることが出来る。これを完全性と呼ぶが、虚構の人物はそもそもどちらかに決めることが出来ない。これを不完全性と呼ぶ。
これは、未規定箇所、不確定性などとも呼ばれる。
確定性、不確定性はいくつかのレベルに分けることが出来る。
1次レベル:はっきりとテクスト中で書かれていること
2次レベル:書かれてはいないが、一義的に導き出せること(例えばその世界の技術レベルとか、その登場人物が日本人である、とか)
3次レベル:書かれてはいないが導き出せること、ほとんどの読者で意見が一致するが必ずしも一つに決定できないこと
4次レベル:読者のあいだで一致しないが、物語にとって興味深いこと(いわば、読者や批評家がもっとも語りたがること)
5次レベル:登場人物の背中のホクロ、血液型、髪の毛の本数など、全く分からないこと
ここで問題になるのは、4次、5次レベルの不確定性である。
3つの考え方がある。
言語説、状況説(解釈ニヒリズム):書かれていないことは存在しない、分からない。書かれていないことについて議論するのはナンセンスである。
集合説(解釈相対主義):書かれていないことは、どちらもあり得る。あり得る可能性の集合が虚構世界である。ホームズの例で繰り返すならば、私たちが読んで知っているホームズは、背中にホクロのあるホームズと背中にホクロのないホームズの両方の集合である。
一世界説(解釈リアリズム):書かれていないことも存在する。虚構世界は、実は完全であるが、私たちがそれを知り得ないだけである。
論理学で重要な、排中律や二値性ということをキーワードにしてこれらの説のどれが妥当かを考えていく。
あるいは、これらの説のどれかが正しいとすると、作者が行っていることは一体どういうことなのだろうか。
三浦は、集合説もしくは一世界説が、もっとも妥当な説だと考える。
また作者が行っていることは、「創造」なのか「発見報告」なのか、という問いに対して、「選定」なのだと答える。全くの無から作り上げているのでもないし、どこか別の世界を「発見」しその世界について「報告」しているわけでもない。様々な特徴を創造的に列挙しながら、それらの特徴に合致する可能世界を「選び」だしているのだ、というわけだ。

第三章虚構世界とは何なのか:矛盾

ここでは、ブラッドベリの「雷の音」が具体例に上げられる。
作品の中に含まれる矛盾をどのように理解すればいいのか、ということだが、作者のケアレスミスによって発生してしまった矛盾に関してはここでは無視し、矛盾することが作品の本質に関わっている作品、つまり「雷の音」を取り上げるのである。
この章は、先ほどあげた、芸術へのアプローチの3つのレベルについて考えるならば、芸術哲学というよりは批評、批評理論に近いところがある。
というのも、この章は最終的には、「雷の音」の解釈に落ち着くからである。
「雷の音」は、いわゆるタイムパラドックスものである。このタイムパラドックスをどのように理解するか、ということが核となっている。結論から言えば、タイムパラドックスが発生したのではなく、該当する登場人物たちの記憶が変換されてしまった、という解釈がなされる。
問題は、その解釈に到った道筋である。
矛盾とそれに類する概念の整理をまずしなければならない。
強い矛盾と弱い矛盾
強い矛盾のある体系とは、PかつnotPが真であるような命題を含む体系である。
弱い矛盾のある体系とは、Pが真であり、なおかつnotPも真であるような命題を含む体系である。
強い完全性と弱い完全性
強い完全性をもつ体系とは、Pが真であるか、notPが真であるか、少なくともそのどちらかである体系であある。
弱い完全性をもつ体系とは、PまたはnotPが真であるような体系である。
強い論理的閉鎖と弱い論理的閉鎖
強い論理的閉鎖とは、P1、P2、P3……Pnが真であり、P1、P2、P3……PnからPn+1が導き出せるなら、Pn+1が真である。
弱い論理的閉鎖とは、P1が真であり、P1からP2が導き出せるなら、P2は真である。
虚構世界において、強い矛盾もしくは弱い矛盾を認めるのか、認めないのか。あるいは、虚構世界において、強い論理的閉鎖が成り立つのか、弱い論理的閉鎖が成り立つのか。
そのようなことを、再び集合説などに基づきながら検証していく。
そして、虚構世界とは、現実世界ともっとも近い世界=最小離脱世界である、との考えから、虚構世界も論理的に閉鎖しており、かつ矛盾は認められない、との結論へと達するのである。
そしてその結果として、虚構世界でも矛盾は認められないのだから、矛盾しているかのように思える作品でも実は矛盾していないという解釈をしなければならない。ここから上述の「雷の音」解釈へとつながっていくのである。
ここで行われていることは、「虚構世界なんだから矛盾しててもいいんじゃない」という考えの拒否である。まず、そもそも強い矛盾を認めてしまうと、任意の命題全てが真になってしまうので、これは絶対に認められない(かなりのニヒリズムを受容するなら別だが)。また、論理的閉鎖を認めると弱い矛盾を認めるのも難しくなってしまうのである。

第四章虚構的対象とは何なのか 諸説概観

ここまでは、言語説、状況説、集合説、一世界説という四つの説しか上げられてこなかったが、この章では、虚構的対象をどのように考えるか、様々な説が紹介される。
ここは、かなり濃いので、読んでいて一番しんどかったし、そもそもここで取り上げられている説の全てが重要だとは思えなかったが、とりあえず紹介する。

記述理論(ラッセル)

言語哲学の基礎ともいえる。これから上げられる諸説の基礎ともなっているわけだが、ラッセル自身がどれだけ虚構的対象について考えていたのかはよく分からない。
ラッセルの考え方では、「ハムレットは男性である」という文に出てくる「ハムレット」は指示対象を持たない、ということになる。これは真とか偽とか決定できない、いわば考えても仕方のない文ということになってしまう。
あえてラッセルの考え方で虚構的対象を捉えようとすると、「シェイクスピアの書いた文章の中には、ハムレットが男性である、ことを意味する記述がある」という文にして考えなければいけない。

偽装主張説(サール)

例えば作者が、「べーカー街にホームズがいる」と書いたとしよう。しかしこれは「永田町に安部晋三がいる」という文とは異なる。「安部晋三」という語の指示対象は実在するが、「ホームズ」という語の指示対象は実在していない。ラッセル的に考えると、だから前者の文は無意味な文になってしまうのだが、サールは前者は、指示している「ふり」をしている、と考えた。「永田町に安部晋三がいる」は確かに指示をしている。「べーカー街にホームズがいる」はそれの「ふり」をしているのである、と。ただしこれはあくまでも「ふり」なので、やはり真か偽かは決定できない。
ただし、その後批評家が「ホームズは結婚していないからホームズ夫人はいない」と主張したとすれば、この文の真偽は決めることが出来る。何故なら、批評家は指示の「ふり」をしているのではなく、虚構存在であるホームズを「現実に」指示しているからである。
問題点は、ではその虚構存在とは何か、ということをサールが明らかにしていないことにある。

還元主義(ライル)

これは、ラッセルの記述理論の最後で書いたように、「シェイクスピアの書いた文章の中には、ハムレットが男性である、ことを意味する記述がある」という文にして考えなければいけない、という考え方だ。
つまり、虚構についての文を完全に現実へと還元してしまうものだ。
しかしこのようなパラフレーズがいつでもうまくいくのか、問題が残っている。

マイノング主義(パーソンズ

上の3つの考え方が、虚構的対象を表す単語には指示対象がない、としていたのに対し、マイノング主義はあらゆる指示句には必ず指示対象がある、と考える。
つまりこの考え方は、「現実には存在しないものがある」と考える
これは虚構的対象を考えるに際して、直感的には正しいように思える。「ホームズ」は現実には存在しないかもしれないが、いないなどと言われるのは直感に反する。
しかしこの考え方は色々な矛盾を生じそうである。
パーソンズは、核性質と核外性質との区別を行う。
核性質とは、その対象が本質的に持っている性質であり、核外性質はそうでない性質、例えば「存在する」(存在論的)「可能である」(様相的)「誰かによって想像されている」(志向的)といったものである。
そして対象は、核性質の集合と対応し、核外性質はその集合に含まれない。
また、実在と非実在の関係も問題となる。
「火星人はニューヨークを破壊した」という文だが、これはどのように考えればよいのか。「〜は〜を……した(最後の……が核性質)」を核関係と呼ぶが、この核関係もパーソンズは解決する。結論だけ言えば、存在物は非存在物と核関係を持つことは出来ないが、非存在物は存在物と核関係を持つことが出来るのである。ここは論理式を見ないとよく意味が分からない部分ではあるが。
また、作者の創造について。キャラクターは、作者が執筆しようがしまいが、核性質の集合としてある。作者が行うことは、そのような対象を虚構的存在にするということである。
マイノング主義は、虚構的存在について様々な解決策を与えてくれる。だがその代わりに、核性質と核外性質との区別といった形式的複雑さをもっている。

理論的実体説(ヴァン・インワーゲン)

これはいわば文字通りである。虚構的存在を理論的実体と捉える。
存在しないがある、というものを認めない、あるものは存在するのである。だから虚構的存在も現実的存在と同様、存在する。しかし、その存在様式が違うのである。
つまり具体的個物なのではなくて、性質の集合という抽象的実体なのである。
これはこれで色々な利点は持ちつつも、虚構に対する直感的理解とはかけ離れてしまう。

種類説(ウォルターストーフ)

これもよく似た考えである。
虚構的存在を種として考えるのである。
例えば「馬」という種があって、そして現実世界にはその種の具体例としてそれぞれの馬がいる。
一方「ペガサス」というのもやはり「馬」と同様に種として存在しているのだが、現実世界のその種の具体例としてのそれぞれのペガサスがいない、というわけである。

寓意説

これは、プランティンガが提示した説だが、プランティンガ自身はこの説にコミットしていない。
これは、虚構的存在は存在するし、またその様式も抽象的な実体であったり種であったりするのではなく、具体的個物として存在しうる、と考える。
これは、可能世界という考えを導入することによって成立するので、後に可能世界の諸説において詳しく検討されることになる。

代入的量化説(ウッズ)

この説がどういう説なのか、いまいちよく分からなかった。
「虚構において」という演算子を使うことで、虚構論理学なるものを構築しようとしたようだが、存在論に関してはどうも言語説のようだ。

状況説(ハインツ)

まずは、虚構世界論を単純に8つに分類する。
1,完全な、無矛盾の、一つの世界である
2,不完全な、無矛盾の、一つの世界である
3,完全な、矛盾しうる、一つの世界である
4,不完全な、矛盾しうる、一つの世界である
5,完全な、無矛盾の、多数の世界である
6,不完全な、無矛盾の、多数の世界である
7,完全な、矛盾しうる、多数の世界である
8,不完全な、矛盾しうる、多数の世界である
完全な世界を世界、不完全な世界を状況、無矛盾な世界を可能世界、矛盾を許す世界を虚構世界と呼ぶことにすると、これらを以下のように呼ぶことが出来る。
1可能一世界説、2可能状況説、3虚構一世界説、4虚構状況説、5dedicto可能多世界説、6dedicto可能虚構多世界説、7dere可能多世界説、8dere虚構多世界説
2または4を状況説、2、4以外を世界説
1または3を世界説、5〜8を多世界説
1、5、7を可能世界説などと呼び表す。

dere可能多世界説(クリプキ

dereとdedictoの区別だが、これは様々な可能世界にまたがる文をどのように理解するか、に基づいている。
dere解釈では、その文で対象となっている存在を同定するが、dedicto解釈は、その文の同定しか行わない。
例えば「シャーロック・ホームズは探偵である」という文に対して、シャーロック・ホームズが探偵である全ての可能世界において、指示されているシャーロック・ホームズは全て同一である時にこの文が真となる、と考えるのがdere解釈で、シャーロック・ホームズが探偵である全ての可能世界において、この文の状況が成り立っている時にこの文が真となる、と考えるのがdedicto解釈である。
dere可能多世界説が成り立つと、虚構的存在に関する考え方は随分とすっきりするのだが、dere同定が実際に可能なのかどうか、ということで問題が生じる。
クリプキは、指示の因果説という説を唱えるに至って、dere同定を諦める。
可能世界と可能世界の間にはいかなる因果関係もないため、dere同定をしようと思っても、指示の因果が成り立たないからである。

物理主義(クリプキ、カプラン、ドネラン)

dere同定は出来ないという立場である。
これによって、虚構名は結局何も指示していない、という立場に逆戻りすることになった。
これでは、可能世界説を虚構的存在について考えるのに使うことが出来ない。

dedicto可能多世界説(ルイス)

dere同定できないのであれば、dedicto同定できればいいのではないか、という説。
ここでもやはり、虚構名は何も指示していない。だが、dedicto同定さえでれきばいい、という立場になると、これは無意味ということにはならない。
ホームズという虚構名は、それぞれの可能世界でホームズ的役割を果たしている人物の集合を意味している、ということになる。
ホームズを、ただ一人の対象へと絞り込むことができないという決定的な欠点を持ってはいるが、可能多世界を扱うことが可能になる。

dedicto超世界説(スタルネイカー、カリー)

dedicto可能多世界説をさらに発展させた二つのバージョンである。
スタルネイカーは、ホームズという名の指す対象をある程度絞り込める方法を模索する。
ルイス説では、ホームズという名の指す対象が、それぞれの可能世界において別々であった。だが、スタルネイカーは、そもそも自分たちがどの可能世界にいるかは分からない、という立場にたち、「ホームズは存在しない」という文について考える。そうすると、どの可能世界にいたとしてもその文は同一の命題を表すことができる、という考えに到った。
カリーは、虚構的対象が現れる仕方をいくつかに分類する。一つは、作品の中で現れる場合。これに関してはルイス説と同じである。一方で、作品の外で現れる場合がある。例えば「ホームズの方法とポワロの方法は似ている」などのように、複数の作品の虚構的対象を比較する場合、貫虚構用法の場合である。
カリーは、このような場合には、虚構的対象を関数として考えることを提案する。これは、ヴァン・インワーゲンの理論的実体説の発展でもある。
だが、作品の中で現れる場合と外で現れる場合で、虚構的対象はそのあり方を変えてしまうものなのだろうか。

メイクビリーブ説(ウォルトン

メイクビリーブとは、「ごっこをする」というような意味である。これは、サールの偽装主張に近いが、それをさらに拡大している。またこれは、dedicto多世界説の一種でもある。
虚構世界の中の文を、現実のものと捉えるというメイクビリーブをしている、という構造になっている。
メイクビリーブしているという演算子で囲ってしまうことによって、虚構世界の中で起こっている出来事も、現実世界で起こっている出来事と同じように扱うことが出来るようになる。
メイクビリーブは、さらに複数の階層でかけることによって、虚構の中の出来事への感情移入、虚構の中の出来事に対する批評、虚構作品への批評、貫虚構用法など様々な現象を全て一括して扱うことが出来てしまうのである。
ただし、これもdedicto説の一種であるため、虚構的対象の同一性を確保することが困難である。
また、メイクビリーブが無限に拡大していってしまう可能性がある。

dere心眼説(ハウエル)

dere説は、指示の因果に基づくdere同定が失敗するために、dedicto説に道を譲ったが、dedicto説にも問題があることが判明してきた。出来ることならば、dere説を採用したい。
そこで出てきたのはこれである。
指示の因果に基づかずにdere同定を行うこと。そのためにハウエルが持ち出したのは、作者による「注意の場」である。「注意の場」は各世界を貫くために、同定が可能になる、というのだ。
これがもし可能であるとすれば、相当の利点がえられるのだが、しかし果たしてこの方法は可能なのか、という問題がある。

限界仮説と唯一仮説(スタルネイカー)

ここまで扱ってきた可能世界説は、全て多世界説であった。しかし多世界である限り、貫世界同定の問題がつきまとい続ける。そこで、可能一世界説を試みるのである。
スタルネイカーは、虚構ではなく反実仮想に関してこの説を試みているが、ここでは虚構に対してもそれが採用しるうと考えて進められる。
限界仮説と唯一仮説というものを取り入れることで、最小離脱世界をただ一つに定めることが可能なのではないか、という説である。しかし、それは恣意的にではなく定めることは可能なのか。

ここまで見てくると、スタルネイカーの理論は一世界説によりも、メイクビリーブ理論の方によりいっそう似てみえてきたではないか。唯一完全世界の選択とはそもそも実際に決して成功しないものなのだろうか。その通り、決して成功しない。しかし一つの完全世界が選出されていることだけは確かなのだ。しかしその世界がどの世界なのかは、誰にもわからないのみならず、答えが存在しないのだ。
(中略)
しかしほんとうは答えが存在しない、とはどういうことなのか。われわれはあらゆるメイクビリーブの外に脱して超越的な真理主張を行えるとでもいうのだろうか。むしろわれわれはつねにメイクビリーブの中で、虚構世界の本性を決定的唯一存在として理解せざるをえないのではないか。

第五章虚構理論とは何なのか

ここで、第一章で論じられた作品とは何か、と第二章から第四章で論じられたことが合わせられる。
三浦は、現象主義=一世界説VS外延主義=現実定位主義という対立を示し、前者にコミットする。
つまり一つの作品には一つの世界が対応しているのであり、またその作品のいくつかの特徴が変化した場合、対応している世界もやはり異なる世界になる、というのである。
さて、本当に作品と世界は一対一対応しているのだろうか。これを検証する術はない。そこで出てくるのがメイクビリーブである。
だが、三浦はこのメイクビリーブを拡張して消去してしまう。
まずは、虚構についての一世界説=虚構実在論を主張する。私たちは全知の存在ではないので検証しようがないという点でメイクビリーブであるが、しかしそれ故にメイクビリーブを越えた信念となりうるのである。
メイクビリーブは無限に拡大しうる。そしてその最大限の外周がどこか確定することは出来ない。逆に言えば、それ以上拡大しうるのかどうかわからない場所までくれば、そのメイクビリーブは真理であると考えてしまってもよいのではないだろうか。というよりも、そう考えざるをえない。
ここに到るまでの過程に関しては、正直理解のおぼつかない部分が多々あったのだが、最後に到達した結論に関しては僕は強くコミットする。

虚構実在論は、「現実世界に関する理論的描像から相対的にみて、虚構はいかにも現実的なものである」という理論である。(中略)現実が外的世界であるにせよ心的観念であるにせよ、その現実と同じ意味での存在性を虚構は現実外において持つ、という理論を、われわれは虚構実在論と呼んだのである。いずれにせよ虚構は、現実よりも影の薄い異質の反実在ではない。虚構は現実世界の描像に倣って同じ描像が当てはまるという意味で実在なのだ。逆に言えば、現実は虚構と同じくらい虚構的である――現実についてのわれわれの実在感如何も、虚構世界についての実在感如何に倣う。

これは、僕自身が持っている、虚構世界に対する直感、実感と完全に呼応している。


虚構世界の存在論

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