今月の文芸誌(新潮、文學界、群像)

『新潮10月号』

面白い!
もう、何の留保もなく、面白い!
僕はこれまで、つまり連載の第1回と第2回において、頑なに東の小説に対して「面白い」と言わずに来たのだけど*1
それは撤回する。
連載が進むにつれて、この作品は明らかにどんどん面白くなってきている。
第1回と第2回については、別に意地で面白いと言わなかったわけではなく、実際に読んでいて面白いかどうかよく分からなかった。今回は、読んでいて明らかに面白かった。
まあ、前半のスカトロとかペドとかのあたりでは、まだ何というか「うーん」という感じだったけど、これで可能世界と妄想と「事物」と「意味」が絡まり合ってきていて、いわば記憶と妄想とか混沌としはじめる、ディック的世界へと足を踏み入れてきた感じがする。
あと、ディティールまで詰まっている感じがする。
話全体だけではなく、書く登場人物の話しているセリフとかの、一つ一つがちゃんと面白い。
この点に関しては、以前から面白くはあったのだけど、それは結局、部分部分が面白いというだけであって、それであるならば、別に小説にせずともいいではないか、と感じていた。
しかし、この小説は、ディティールの面白さによっても支えられていると思う。

まず、この本が、いくぶんか捻れた文脈の上にあるので、その文脈が分からないと分かりにくい本かも知れないという指摘から入る。
つまり、東がギャルゲーやら何やらを論じてきたわけだけど、そもそもその対象はマイナーなものであった。それが現在、論じられる対象としてはメジャーになってしまったので、宇野の論じているものは、メジャーなのにマイナーとなっている。
それから、サブカルチャーの持っていた「国際性」というものが失われているという指摘。
宇野の論じる想像力は、国内のものだけになってしまっている。

文學界10月号』

時評をやれと言われていたのに、時評をやっていなかったので、ということで、今回はグーグルストリートビューから考える公共性。
そして、そこから『リアルのゆくえ』において、自分と大塚の何がすれ違っていたかを解説している。
グーグルは、確かに私企業という領域を超えて公共性を帯びているかもしれない。
しかし、そもそも人文的な意味での公共圏という概念は、何らかの「議論」を前提としている。
公共性のように感じられるが、従来の公共性という概念とは直接結びつけられない何かとしての、グーグル

『群像10月号』

今月で、ようやくアンチノミーの話へと入った。
「世界は有限である」というテーゼと、「世界は無限である」というアンチテーゼは、アンチノミーなのである、という話である。
アンチノミーというのは、互いに反対のことをいっているけれど、矛盾しているわけではないという対のこと。つまり、テーゼが真であったからといって、必ずしもアンチテーゼが偽になるわけではないようなもののこと。
カントは、上記のテーゼとアンチテーゼがアンチノミーであることから、世界は物自体の形式ではなく、観念なのであると論じるわけだが、
中島は、そもそもカントの証明に、世界は観念であるという前提が紛れ込んでいることを指摘して、これが循環論法に陥っていると述べている。


それはそれとして、これまでも度々、『群像』読者にはカントなんて分からないよね的な嫌みを紛れ込ませていた中島だが、今回は、「難しい」という批判がくると思っていたがそもそも全然反応がない、『群像』の読者はこの連載をもう読んでないのかもしれない、的なことを言い出していた。
ので、こんなところを、中島義道や『群像』の人は見るとは思わないが、ちゃんと読んでますよ、ということを一応表明しておく。
『群像』の中で、唯一ちゃんと読んでいるのが、この連載記事だったりする。なので、僕はむしろ『群像』の読者であるとはいえないかもしれないけれど。
あと、一応ノートをとって読んでたりする。自分にしては珍しい。
それから、カント初心者だけど、非常にわかりやすい

舞城は愛の作家だ! って書いてあった

  • 創作合評

先月の、青木淳悟の奴だけど、東京のマンションの話。
面白いけど、読むのが大変と2人くらい言っていたけど、僕もこれ読んで面白いけど読むのが大変になって、途中から飛ばしたのだった。
しかし、絶賛されていた。
実際面白いと思う。

その他

紀伊国屋で『エクス・ポ』買ったら、レシートに「政治社会」って書いてあった。
時々、紀伊国屋のジャンル分けは謎。
はまぞうで『新潮』が見つからない。

文学界 2008年 10月号 [雑誌]

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群像 2008年 10月号 [雑誌]

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