マンガにおける「分離された虚構世界」と「視覚的修辞」

まえがき

分離された虚構的世界と視覚的修辞 - logical cypher scape2 の続き、というか、最後に触れたイノサンの例についてもう少し膨らませて書く。

 

マンガは、絵を使って、とあるフィクション世界を描く形式である。

なので、絵の内容は、その世界の出来事をあらわしている、と考えられるわけだが、実際には、絵の内容がそのままその世界の出来事として成り立っているわけではなさそうなケースもよく見られる。

そういうケースを説明するのに、いくつか概念を作ってみよう、みたいな話をするつもり。

 

  

以下、『イノサンRouge』を例に出していくが、あくまで例として使っているだけであり、『イノサンRouge』論にはなっていないのであしからず。

(こういう概念を作るのであれば、何某か作品の解釈に有用なものにしたい、という思いがあるのだが、今回その点についてはうまくできてないというか、作品の解釈には使えていない、と思う)

なお、『イノサンRouge』は、フランス革命期の死刑執行人シャルル=アンリ・サンソンを主人公とした作品。

下記に出す例は、大体マリー・アントワネット絡み

 

 画像の引用について

ページをスマホのカメラで撮っただけの写真を使っているので、紙面が曲がっていてやや見づらいのだが、ご容赦を。

 

分離された虚構世界と視覚的修辞

分離された虚構世界

「分離された虚構世界」というのは、自分が、『フィクションは重なり合う』で提唱した概念なので、詳しくは下の本の2・3章を参照のこと

あるフィクション作品の内容であるのに、その作品の物語世界の出来事ではないような出来事のことを指す。

 フィクションは重なり合う: 分析美学からアニメ評論へ

 

なお、分離された虚構世界は、単にそういうレイヤーがある、ということを述べているだけで、「これがある作品はよい作品だ」とか「これがあると必ずこのような効果が生じる」という主張は含意していない。

作品は、これを様々な目的のために使用することもできるし、特に何の効果ももたらさないという場合もありうる。

また、分離された虚構世界がないフィクション作品も当然ある。 

 

 

視覚的修辞

「視覚的修辞」は、id:Aiziloさんこと村山さんが、下記の記事およびそのリンク先pdfで論じている現象

 

aizilo.hatenablog.com

 

描写内容と画像内容が非標準的関係にある現象を視覚的修辞と呼ぶ。 

 

非標準的関係:逸脱的性質を媒体として獲得される性質が画像内容に含まれる。 

 

• 『心配事』の視覚的修辞:〈万力に頭を挟まれること〉は画像内容に含まれず、それを媒体として獲得される〈頭を締めつけられる感覚〉は画像内容に含まれる。

 

 

視覚的修辞の必要十分条件:
画像に視覚的修辞が成立するのは、その画像内容に、その逸脱的性質を媒体として獲得される高次性質が含まれるとき、かつそのときにかぎる。

 

 

描写内容の理論 - 9bit の記事にある図をちょっと参照して説明すると、視覚的修辞は、描写性質と描写対象の関係についての話となる。

描写性質が逸脱的性質である場合、それは描写対象に帰属しないが、その描写性質の高次性質を「画像内容」として含む場合、これを視覚的修辞と呼ぶ(のだと思う)。

この「画像内容」というのは下記の図には出てこない。なぜなら、高次性質の話はこの図ではされていないからだが、下記の図でいうところの描写内容をアップデートしたものと考えればよいと思う。

(再認内容の横に「高次性質」を置き、描写性質から線を引く。画像内容+高次性質=画像内容、という整理になるのではないだろうか、と思うが、直接、村山さんや松永さんに確認していないので、分からない。ただし、少なくとも自分はそういう理解をしているので、以後、その理解のもとで話を進める)

http://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/8269d40b6451298b5cb5d2dc5838de61/1506597174

 

分離された虚構世界と視覚的修辞 

自分が『フィクションは重なり合う』を書いたとき、視覚的修辞のような例はあまり念頭においておらず、あまり区別していなかったように思う。

しかし、この2つは区別されるべきものである。

 

 

視覚的修辞は、描写の働きの中で説明されるものである。

つまり、描写性質と描写対象の関係がしかじかのとき、それは視覚的修辞だ、と。

 

 

一方、分離された虚構世界は、描写内容ないし画像内容が一体何であるか確定したのちに、それがどこに帰属するのか、というプロセスの中で出てくる概念である。

画像がある内容をもつ時に、その内容が、物語世界の中の出来事であるのか、そうでないのか、という判断をする際に出てくる。

 

 

ところで、すでに述べた通り、分離された虚構世界は作品によってそれぞれ目的・効果が異なるわけだが、修辞的な表現・比喩などに使われることも多いのではないかと思う。

その点で、視覚的修辞と、その効果の点においては似てくるのではないか、と思われる。

今回取り上げる『イノサン』の例は、視覚的修辞の例と、分離された虚構世界の例がそれぞれあるが、作品の中での使われ方(目的や効果)はどちらも修辞・比喩であるという点では同じだと考えられる。

 

 

視覚的修辞だと思われる例

f:id:sakstyle:20200418211603j:image

 5巻より

 

 

アンリ・サンソンとルイ16世を描いているのだが、バラの蔦のようなものが2人に絡まっており、その周囲には骸骨もある。

ここのシーンは、ルイ16世が、処刑人(つまり「死神」)であるサンソンとの会合を通して、古い因習にとらわれた王しては死に、新しい王として生まれ変わる(ことをサンソンの前で宣言することになる)というシーンである。

であれば、この蔦や骸骨というのは、「死」を象徴的に描いたものだといえる。あるいは、その後、死刑をより人道的なものへと改革していくという点で通じ合った2人の「繋がり」が生まれたことを比喩的に描いたとも言えるかもしれない。

いずれによせ、この蔦は、実際に2人に絡まったわけではなく、ルイ16世の部屋に実際に骸骨があったわけでもない。

これらのコマで描かれた絵は、「ルイ16世とサンソン」を描写しているが、「蔦に絡まったルイ16世とサンソン」を描写しているわけではない。一方で、蔦や骸骨は、描写対象ではないが、これらが象徴していると思われる「死」が2人の間に伝わっていくことが、この絵の画像内容となっている、と言えるのではないだろうか。

 

 

例えば、少女マンガで、美しい人物が現れた時に、画面が花でいっぱいになるような絵になっていることがある。

この場合、実際にそこに花がたくさんあるわけではなくて、その花は、その人物の美しさを修辞的に表現するために描かれている。

そこまで象徴的な意味合いはなく、単なる画面の装飾として描かれていることもあるかもしれないが、いずれにせよ、実際にその場にあるわけではないもの(花や蔦)を描くことを、修辞的な表現として使う、というのはマンガにおいては(あるいはマンガに限らない絵画においても)時々見かけるものではないかと思う。

 

 

上記の例も、一般的なマンガのリテラシーが備わっていれば、少なくとも蔦が実際に2人に絡まっているわけではない、ということは共通見解になるはずだ。

(この蔦がおそらく何かを象徴しているであろうことも多くの人は理解できるだろう。ただし、先ほど、この蔦は死を象徴していると述べたが、これが一体何を象徴しているかという点については、本当は解釈が分かれるところかもしれない。それが『イノサン』という作品を読み解く上での魅力となっていると思うが、ここではこれ以上は触れない)

 

 

分離された虚構世界だと思われるもの

f:id:sakstyle:20200418235808j:image

11巻より

 

 

上図で示したページから、巻をまたいで約70ページにわたり、現代の日本の高校と思われるところを舞台に、制服を着たマリー・アントワネットを描いたマンガが展開される。

イノサンRouge』は、フランス革命期のフランスを舞台にした物語であり、現代の日本は(この箇所を除けば)登場しない。もちろん、マリー・アントワネット現代日本に転生していた、というような物語でもない。

おそらく、物語の流れからいうと、マリーの回想のようなものにあたるシーンだと考えられるが、『イノサンRouge』の物語の中において、「マリー・アントワネットは女子高生であった」という事実はない。

この一連のシーンが一体何であるのかを厳密に解釈するのは難しいのだが、おおよそ、マリー・アントワネットのベルサイユ宮殿での友人たちとの生活を、日本の高校生活に喩えて描いている、といえる*1

その意味では、これらのシーンもまた、比喩ないし象徴であり、ある種の修辞的な表現なのである、とは言えそうである。

 

 

しかし、先ほど挙げた蔦の例とはだいぶあり方が異なる。

というのも、もし『イノサンRouge』という作品を全く知らない人が、上述のページだけを見た場合、「マリー・アントワネットが女子高生である」ような世界を描いた物語であると理解するだろう、ということだ。

イノサンRouge』の物語全体を知っていれば、この物語において「マリー・アントワネットが女子高生である」ことは事実でないことはわかっているので、マリー・アントワネットが女子高生として描かれていたとしても、そのまま受け取るようなことはせず、上述したように、何らかの修辞的な表現なのだろうという形で理解することができる。

しかし、物語全体を知らなければ、そのように理解することはおそらく難しい。

この絵だけについて言えば、「マリー・アントワネットが女子高生である」ことが描写内容になっているのだ。

 

 

先ほど挙げた蔦と骸骨の例は、『イノサンRouge』という作品を全く知らなかったとしても、一般的にマンガを読んでいる人であれば、実際に蔦と骸骨があるわけではない、ということは理解されるように思える*2

対して、この高校のシーンについていえば、マンガを読みなれていたとしても『イノサンRouge』という作品を知らなければ、実際には、マリー・アントワネットが女子高生ではないということを知ることはできないだろう。

 

 

自分が「分離された虚構世界」という言葉で言い表したいのは、この「マリー・アントワネットが女子高生である」ことが物語内の事実ではないのにも関わらず、そのような内容を描写しているケースである。

イノサンRouge』で描かれている、「マリー・アントワネットの高校生活(のようなもの)」を、『イノサンRouge』における分離された虚構世界、と呼ぶ。

 

 

f:id:sakstyle:20200418211532j:image

ところで、この高校のシーンは、数ページ読み進むだけで、即座に異様な様相を呈していく。

この高校に、フランス革命の民衆たちが襲い掛かってくるのである。

この襲撃も、物語内の事実をそのまま描いているとは言い難いところがあるのだが、ここで描かれる民衆の姿は、女子高生姿のマリー・アントワネットと違って、物語世界内にもいる民衆といってもよい姿をしている。

夢のような生活(高校生活)に現実(フランス革命の民衆)が押し寄せてくる、という状況を、これまた比喩的に描いている、とは言えるわけだが、その比喩を成り立たせるための描写のされ方・あり方みたいなものが、視覚的修辞の場合とは異なっている。

視覚的修辞の場合、例えば先ほどの例でいうところの「蔦」は、描写内容には含まれない。一方、それが象徴していると思われる高次性質が画像内容に含まれる。と理解される。

上述の絵の場合、「高校に血まみれの民衆が押し寄せている」というのは、紛れもなく描写内容だろう(それを描写内容としない場合、この絵の描写内容がなくなってしまう)。

一方、その描写内容をそのまま物語世界内の事実、として受け取ることはできないので、これを物語世界とは別の何らかの虚構世界として措定しておく、というのが、分離された虚構世界という考え方だ。

 

 

で、さらに言うと、自分としてはこのシーンは、分離された虚構世界(高校の世界)と物語世界(フランス革命の世界)が重なり合ってしまっていて、境界線がわからなくなってしまっているところだ、というふうに思っている。

自分は「物語世界」とか「虚構世界」とかいう言葉をとりあえず使ってはいるが、そういう世界が予め確定的にある、とは思っていない。

メイクビリーブ論でいうところのプロップ(この場合は、マンガのそれぞれのコマの絵)が、次々と虚構を生成していき、生成された虚構を受け取った読者が、それらを整合的に組み立てていったものが「物語世界」になっていくのだと思う。

イノサンRouge』の読者は、読み進めていく中で「この作品の物語世界は、フランス革命期のフランスである」というのを組み立てていくので、それを踏まえれば「この世界に高校は存在しない」という虚構的真理も当然に生じてくる。

一方で11巻の中には「マリー・アントワネットが女子高生である」「民衆が高校を襲撃している」という描写内容を持つ絵がプロップとして出てくるので、「マリー・アントワネットが女子高生である」「民衆が高校を襲撃している」という虚構的真理もまた生成されてしまうように思える。そしてその場合、「この世界に高校は存在しない」という虚構的真理と衝突してしまう。

しかし、そうやって衝突することで、「物語世界」なるものが確定的にあるわけではなかったんじゃないか、ということに気づかされるのではないだろうか。

また、そこに、分離された虚構世界と物語世界の重なり合った、よく分からない謎の世界が生じてくる、というのが、フィクションならではの面白さなのではないだろうか、とも思っている。

(もっとも、そういう経験の生じないフィクション作品もたくさんあるわけで、別にこれはフィクションであるための必要条件ではないし、そういう経験を生じさせるかどうかが、その作品の価値を決定するわけではない。しかし、そういう経験を効果的に使える作品は、面白いものになるのではないか、とは思っている)

 

 

SNSを用いたもののうち視覚的修辞と分離された虚構世界

イノサンRouge』の中には、SNSを用いた表現もたびたび登場する。

もちろん、18世紀にSNSは存在しないわけで、これも何らかの比喩や修辞として使われているのだと思われる。 

 

f:id:sakstyle:20200418211637j:image

4巻では、twitterが出てくる。

このフォロワーの莫大な数、というかFF比によって、王妃という存在がどれだけ宮廷で注目を集める存在なのか、を表しているのだろう。

 

f:id:sakstyle:20200418211549j:image

10巻ではLINEが出てくる。

マリア・テレジアからのアントワネット宛の手紙が、LINEで送られているかのように描かれている。

 

 

ところで、同じSNS描写でも、下のような絵は少し雰囲気が異なる。

f:id:sakstyle:20200418235718j:image

4巻のtwitter

f:id:sakstyle:20200418235801j:image

10巻のLINE

 

繰り返しになるが、『イノサンRouge』はフランス革命期を舞台にしているので、実際にはこの世界の中にはtwitterもLINEも存在していない。

だから、上の絵も下の絵も、どちらも比喩的な表現であるという点では同じ、ということになるだろう。

ところで、もしそれぞれの絵が、現代を舞台にした作品で使われているとしたら、どうだろうか。

上の2つの絵は、現実に存在しているtwitterやLINEの画面をそのまま模した絵になっている。 twitterやLINEが存在している世界を舞台にした作品であるならば、これらの絵は、その世界内の出来事を表している絵*3、として見られることになるだろう。

 つまり、現代を舞台にした作品で使われた場合、比喩表現にはならない。

 

一方、下の2つの絵はどうだろうか。

実際のtwitterやLINEで、このようにフォロワーやメッセージが画面に表示されることはない。

めちゃくちゃ特殊なプラグインを使っていて、こういう表示ができるようになっている、などという設定がなされていない限り、実際に登場人物たちにこういうふうに画面が見えているわけではないだろう。

多くのフォロワーの中に埋もれてしまって目立っていない様子、あるいは、一斉に「ともだち」が離れていく様子、という、実際に起きた出来事として描こうとすると1枚の絵には収まらないだろうところを、1枚の絵に収まるように描いている。

これを同様に「視覚的修辞」といっていいのかどうかは分からないが(ここから高次性質を抽出する、というのは難しいと思う。「一斉に「ともだち」が離れていく」は高次性質ではないだろう、多分)、これもまた、画像を使った修辞的表現の一種、と言うことはできると思う。

つまり、実際にこういう表示がされているところを描いているわけではないということだ(だから、これらの絵の描写内容は「メッセージウィンドウが無数に開いている」というわけではないだろう。形態的内容としては、メッセージウィンドウが何重にも重なっている、ということになるかもしれないが、「メッセージウィンドウが無数に開いているスマホ画面」を描写対象としているわけではない)。

この絵は、SNSが存在している世界を描いたマンガで使われたとしても、「メッセージウインドウが無数に開いている」ことを描写していることにはならず、「一斉に「ともだち」が離れていく様子」を修辞的に描いている、ということになるはずだ。

イノサンRouge』の場合、修辞的に表現された「一斉に「ともだち」が離れていく様子」の絵が、さらに物語の一部としては、革命が進行して貴族たちがベルサイユの宮廷から逃げ出していく様子の比喩として使われている、という二重に修辞的な表現になっていると言える。

 

 

SNSが出てくるシーンは、『イノサンRouge』において、いずれにせよ「分離された虚構世界」として位置づけられるが、描写の働きが違う絵が混ざっているといえる。

なお、もし小説だと、この違いを出すのは難しい、もしくは不可能ではないかと思う。かなりマンガ独特の表現なのではないか、という気はする。

 

 

スマホを使うマリー・アントワネット

f:id:sakstyle:20200418235745j:image

これは10巻で、マリア・テレジアから来ているLINEを眺めているマリー・アントワネットの絵なのだが、これは一体どのように説明すればいいのだろうか。

11巻で女子高生になっているマリー・アントワネットとは違い、姿形は、物語世界内のマリー・アントワネットと同じで、もしこれで、スマホではなくて、手紙を持っているのであれば、素直に、「マリー・アントワネットマリア・テレジアからの手紙を読んでいる」という物語世界内の出来事を描いた絵として見ることができそうだ。

だが、この絵でマリー・アントワネットが持っているのは手紙ではなくスマホである。そして、スマホはもちろんこの時代にはないので、持っているはずがない。

しかし、この絵の描写内容が「マリー・アントワネットスマホの画面を見ている」であるのは間違いないだろう。

スマホを持っていること自体が、何か描写上の修辞的表現になる、というのは考えにくい(例えば、この絵が、マリー・アントワネットのコスプレをしている女性を描いた現代を舞台にした漫画に描かれていたならば、この絵は、この絵の内容の通り受け取られると思われるので、絵それ自体の描写内容は「マリー・アントワネットスマホの画面を見ている」としてよいはずだ)。

しかし、すでに述べた通りスマホを持っているはずがないので、その内容を物語世界に帰属させることはできず、分離された虚構世界に帰属させるしかない、ように思える。

 

 

ところで、これを「マリー・アントワネットが、マリア・テレジアから送られてきた諫言を読んでいる」と抽象化するならば、それ自体は、物語世界内の出来事としてよいだろう。

 さて、そのように一旦内容を抽象化して、物語世界の出来事として捉えることができるのであれば、そもそも分離された虚構世界なる概念をいったん経由する必要はないのではないのではないだろうか。

しかし、この作品の鑑賞経験を考えるならば、読者は単に「「マリー・アントワネットが、マリア・テレジアから送られてきた諫言を読んでいる」ところを(フィクショナルに)見ているわけではなくて、「マリー・アントワネットスマホの画面を見ている」ところこそ(フィクショナルに)見ているはずだ。

というのも、このシーンを読んでマリー・アントワネットに対して何らかの感情を抱くとすれば、まさにこの暗がりの中で、スマホ画面の光によってぼうっと照らされる様子にこそ心を動かされるのであって、単に「諫言を読んでいる」ところに心を動かされるわけではないはずだからだ。

それは、メイクビリーブによる心理的参加であり、その参加の前提として、「マリー・アントワネットスマホの画面を見ている」をメイクビリーブしている必要があるのではないだろうか。

 

 

コマ空間?

平松さんが、マンガを論じる上で「解釈空間」「コマ空間」「場面空間」「物語空間」という概念を用いている。

自分は平松和久「キャラクターはどこにいるのか――メディア間比較を通じて」(『サブカル・ポップマガジンまぐまPB11』) - logical cypher scape2 で概要を読んだだけなので、この概念をまだ理解できていないのだが、面白そうなものではあるので、ちょっと言及してみる。

ところで、「場面空間」と「物語空間」はあわせて「フィクションの空間」とまとめられているので、ここでもこの両者をあわせて扱う。これはおそらく、こっちでいうところの「物語世界」と同義なのではないかと思う。

一方の「コマ空間」のことなのだが、これは紙面とも言い換えられているので、再び松永さんの概念図に登場してもらうが、絵の表面のことを指しているようにも思うのだが、一方で、空間という言い方からは、描写内容のことも含んでいる概念のようにも見える。

なので、個人的には、コマ空間という概念は、さらに細分化して理解する必要があるのではないだろうか、とは思っている。

 

http://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/8269d40b6451298b5cb5d2dc5838de61/1506597174

 

そういうわけで、平松さんが考えているコマ空間がどのようなものなのか、正直、うまくつかめていないので、平松さんの意図とは離れてしまうかもしれないが、コマ空間としか言いようのなさそうなものの例が、やはり『イノサンRouge』の中にあるので、紹介してみたい。


f:id:sakstyle:20200418235723j:image

 

5巻より。

現代のパリの様子を描いたコマの上に、ルイ16世の血の滴が降り注いでいる、という絵である。

 もちろんこれも実際に血が降り注いでいるわけではなく、一種の象徴的な表現で、王を処刑したことによって現在の民主主義のフランスがある、ということを、現代のパリに王の血が降り注ぐように描くことで表しているのだと思われる。

ここで目に付くのはやはり、血の滴が、コマ枠の上へとはみ出していることである。

なので、パリの街中に血の滴が降っている様子、というよりも、パリの風景を写した写真の上に血の滴を降り注いている様子、のようにも見える。

パリの風景も、血の滴も、どちらも三次元的な奥行きのあるものとして見ることができるのだが、パリの風景に注目すると血の滴が、血の滴に注目するパリの風景が二次元的に見えてしまう、というようような感じすらある。

ともかく、このページは、このページ全体で「パリの風景の上に血の滴が降り注いでいる」となっている、とはいえるだろう。

それを帰属させる先として「コマ空間」という概念があってもいいのかもしれない、というのを何となく思った。

このページの絵については、伊藤剛の「フレームの不確定性」概念ともかかわっているだろうし、あるいは鈴木雅雄編著『マンガを「見る」という体験』 - logical cypher scape2鈴木雅雄+中田健太郎編『マンガ視覚文化論 見る、聞く、語る』 - logical cypher scape2に出てくる「超越論的イメージ」とかともかかわってくるのではないだろうか、という気がする。 

 

 

 この「コマ空間」なるものがあるとして、それは「分離された虚構世界」ではないのか、といえば、少なくともこのパリの風景と血の滴についていえば、形態内容と描写内容の間で何かがギクシャクしている例なのではないか、という気がしていて、その点で「分離された虚構世界」ではない、と思っている。

絵は、松永さんの図にあるとおり、まず絵の表面があり、そこから形態的内容が見て取られ、さらにそこから描写性質や描写対象が見て取られ、それらがあわさって描写内容となる。

ただし、形態的内容がそのまま描写性質と描写対象に、あるいは描写性質がそのまま描写対象に帰属するか、といえば、それは必ずしもそうでない場合がある。それが、ここまで「描写上の修辞的表現」と呼んできたものでもある。

そして、そういうすったもんだはあるかもしれないが、とにかく、絵の描写内容がひとまず確定すると、今度はそれが物語世界の中にちゃんと位置づけられるか、そうでないかという判断があって、そこで「分離された虚構世界」という概念が登場してくる。

で、このパリの風景と血の滴は、物語世界の中に位置づけられるかどうか以前に、まず絵の描写内容としてどうなっているのかというレベルで考えないといけない問題だと思われる。

そして、マンガの場合、マンガ以外の絵と違って「フレームの不確定性」という特徴があって、それを踏まえないと理解できない絵になっており、そういうマンガというメディウムならではの内容になっている、という意味で「コマ空間」なる概念が使えるのかもしれない、と思った。

平松さんの言うところの「コマ空間」という概念から離れてしまったかもしれないが、ただ、平松さんの「コマ空間」には、効果線やセリフの吹き出し、描き文字などを要素として含むということなので、何某か通じるところもあるのではないかとも思う。

 

*1:もう少しいうと、マリー・アントワネットとマリー・サンソンとの出会いを、高校を舞台にしたラブコメ風のマンガで比喩的に描いている

*2:マンガをあまり読みなれていない人の場合、実際に蔦があると見て取ってしまう可能性はもちろんあるが

*3:本論とは直接関係しないことだが、別の意味で面白い「絵」になっている。スマートフォンのフレームとコマ枠のフレームが一致するように描かれているのである。このため、これらの絵は「奥行き」が生じない。Seeing-inがない、とすらもしかしたら言えるかもしれない。『分析美学入門』でジャスパー・ジョーンズの旗の絵に二面性はあるのか、という話が載っていたかと思うのだが、おそらくそれと同種の絵なのではないか、と思う

伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史3』

3巻は「中世1 超越と普遍に向けて」
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史1』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史2』 - logical cypher scape2
本書で展開されるこの時代のキーワードは、註解
中世の哲学は、古典に対する註解により展開される。
といっても、単に古典の訓詁・解説をしているだけではなく、それを通して、新しい考えも展開されている。
また、論争も色々と起きているという印象
もちろん、古代において論争がなかったわけではないが、より活発になっているというか。
第1章は(どの巻でもそうだが)全体のまとめなので別として、2、3、4、5、7章がヨーロッパ(ギリシア哲学とキリスト教の広がった地域)の話で、6、8、9、10章がアジアだが、それぞれイスラム、中国、インド、日本である(6章のイスラムは地域としてはアジアだが、ギリシア哲学の影響という意味では、分類的には前者に近いかもしれない)
「註解」というキーワードが特に当てはまるのはやはりヨーロッパだが、アジアの各地域もそれなりには当てはまる。
論争を通じて、概念をより鍛えていっている感じ


10章の空海の話が面白かった
5章と7章も、中世ヨーロッパ哲学が、どういう形態で発展していったのかというのが分かるものでよかった


世界哲学史3 (ちくま新書)

世界哲学史3 (ちくま新書)

  • 発売日: 2020/03/06
  • メディア: 新書

1 普遍と超越への知 山内志朗
2 東方神学の系譜 袴田 玲
3 教父哲学と修道院 山崎裕子
4 存在の問題と中世論理学 永嶋哲也
【コラム1】 ローマ法と中世 薮本将典
【コラム2】 懐疑主義の伝統と敬称 金山弥平
5 自由学芸と文法学 関沢和泉
6 イスラームにおける正統と異端 菊地達也
7 ギリシア哲学の伝統と継承 周藤多紀
【コラム3】 ギリシアイスラームをつないだシリア語話者たち 高橋英海
【コラム4】 ギリシア古典とコンスタンティノポリス 大月康弘
8 仏教・道教儒教 志野好伸
9 インドの形而上学 片岡 啓
10 日本密教の世界観 阿部龍一

1 普遍と超越への知 山内志朗

2 東方神学の系譜 袴田 玲

ビザンツ帝国は、制度や法はローマ、文化としてはギリシア、宗教としてはキリスト教が基盤で、ビザンツの知識人のアイデンティティはこの3つが混じって複雑
表向きは、キリスト教が真理なので、ギリシア哲学は焚書されたり禁忌とされたりもしたけれど、実際には世俗の学問として生き残り、またキリスト教父たちも、ギリシア哲学の概念をもって理論を作った


アトス山の修道士たちの実践であるヘシュカスムを巡るヘシュカスム論争
祈りから「神化」し、光として神を見る体験をするという実践
論争は、ヘシュカストである修道士パラマス側の勝利で終わる
東方神学における、西方とは異なる「東方世界観」の中心をなすのは「神の受肉
キリストという、神が受肉した存在への衝撃が、神化という思想へとつながる
教会や司祭によらず、自己の祈りにより救済へと至るという考えが、のちに近現代のキリスト教世界に影響を与える

3 教父哲学と修道院 山崎裕子

2章が、東方の神学、修道士の哲学を扱ったのに対して、こちらは西方の神学・教父哲学について
11世紀、カンタベリーのアンセルムス、12世紀のスコラ神学シャルトル学派、同じく12世紀の修道院神学サン=ヴィクトル学派がそれぞれ紹介されている。


修道院は教育の場で、本も多くあった


アンセルムス
神の存在証明や悪の問題


12世紀
修道院付属学校の修道院神学と、司教座聖堂付属学校でなされたスコラ神学という、2つのスタイルの神学に分かれた
「巨人の肩にのる」という比喩、シャルトル学派からでてきたらしい

4 存在の問題と中世論理学 永嶋哲也

中世において、論理学は、12世紀半ばを境に「旧論理学」と「新論理学」に分かれる。
旧論理学:古代西ローマ帝国ボエティウスラテン語に翻訳したアリストテレスの論理学。代表はアベラール
新論理学:12世紀半ば以降、これまで西欧に残っていなかったアリストテレスの著作が入手できる以降の論理学。代表はオッカム


ボエティウス
『カテゴリー論』『命題論』『分析論前書』および、『カテゴリー論』の入門書であるプルフェリウス著『エイサゴーゲー』をラテン語に翻訳
『エイサゴーゲー』において、類・種は実在するのか、実在するとしたらどのようにか、という問いが書かれており、これがのちの普遍論争へつながる


アベラール
筆者は、アベラールを狼に喩えている(一匹狼、あるいはエロイーズを引き立てる悪役としての狼)
普遍論争で、普遍は事物なのか音声なのか問われ、正統的な見解は前者だったが、アベラールは後者にたつ
なお、当時はまだ音読が重要だった時代で、ここでいう音声は言葉と同義


アベラール以後
残りのアリストテレスの著作が入ってくる
また、中世論理学独自の理論である代表理論も、精緻化されていく


本章では最後に、中世論理学が現代論理学とも呼応していることも指摘している
プライアーやギーチや注目していること
アベラールの付帯性理解がトロープに似ているとか、同じく彼の意味理論が指示の因果説に似ているとか、そういう主張をしている研究者もいること

【コラム1】 ローマ法と中世 薮本将典

中世ローマ法学と教会法学

【コラム2】 懐疑主義の伝統と敬称 金山弥平

5 自由学芸と文法学 関沢和泉

自由学芸(アルテース・リベラーレース)について、2つの伝統がある
1つは、人物を形成するものとしての自由学芸。曰く「リベラルアーツは人を自由にする」というのが、語の由来となったとする考え
対してもう一つ、書物を読み書きする技術として自由学芸を捉える伝統がある。
これによれば、liberalisは、自由リーベルliberではなく書物リベルliberに由来するという(5~6世紀のカッシオドルスによる)
現在、自由の「i」と書物の「i」は長短が異なり由来が異なることがわかっているので、この語源は間違いらしいのだが、筆者はしかし、このカッシオドルスの考え方が12世紀まで変奏されていくので重要だと述べている。


文法学の重要性
ラテン語文法学は、ヨーロッパの諸言語やその後、ヨーロッパ人が出会う他の言語を同じフォーマットで文法学化していく
8世紀、カロリング・ルネサンスの時に活躍したアルクイヌスは、文法学と論理学の整合性をとろうとした
12世紀以降、残りのアリストテレスの著作が入ってくると、諸学問においてラテン語への翻訳が行われ、文法学が、言語をこえた普遍性を担保するものとされる

6 イスラームにおける正統と異端 菊地達也

イスラームは、キリスト教のような一元的な権威がなかったので、「正統」と「異端」の境界は曖昧で流動的
その例として、シーア派イスマーイール派が取り上げられる。


イスマーイール派は、8世紀頃に興り、10世紀には躍進し著作が多く残される。一方、9世紀の著作は少ない。
9世紀のイスマーイール派は、極端派と呼ばれた過激シーア派と近いとされていた
それは、周期的な思想(7代目のイマームムハンマドの次の告知者となる)で、さらにメシアとして再臨し、イスラーム法は廃棄されるという過激な思想を有していた
これが10世紀のファーティマ朝、政治的に成功した時代になると、その成功の反面、メシア再臨しないという現実の前に、教義は修正を余儀なくされる。また、もともと内包されていた極端派的だった教義を「異端」として、その線引きを変更するものでもあった。


また、この章では、イスマーイール派宇宙論の中に、新プラトン学派やプトレマイオスなど、古代ギリシア哲学からの影響があることも論じられている。

7 ギリシア哲学の伝統と継承 周藤多紀

註解書について
中世は、哲学に限らず聖書や文学、法学などあらゆる分野で註解が書かれて、それがいわば教育や学問のスタイルだったらしい。
この章では、一般に註解書がどのようなスタイルで書かれているのかを解説している。
註解なので、もちろん元となるテキストの解説なのだが、それにとどまらず、そのテキストと関連するが直接書かれていないような問題についての議論も書かれていた、と。
哲学においてもっとも註解が書かれたのは、アリストテレスプラトンも権威だったが、プラトンラテン語翻訳は少なかった)

【コラム3】 ギリシアイスラームをつないだシリア語話者たち 高橋英海

6世紀、東ローマ帝国支配下で、シリア語話者たちが、アリストテレスなどギリシア語文献をシリア語に翻訳する
9世紀、アッバース朝バグダードにおいて、古代ギリシア学術書は、シリア語を介してアラビア語に翻訳された

【コラム4】 ギリシア古典とコンスタンティノポリス 大月康弘

9世紀のコンスタンティノポリスの大学教授フォティオスは、2度コンスタンティノポリス総主教にもなっており、ギリシア古典の書評集を著している。コンスタンティノポリスには、ギリシア古典の蔵書があった。
なお、フォティオスはローマ教皇と関係が悪く、むしろアッバース朝と交流があった。

8 仏教・道教儒教 志野好伸

中国に仏教が入ってきたことで、既存の思想である道教儒教との間で、どのような対立・論争が生じたか


道教と仏教との間の問題として取り上げられるのが、経典をどのように考えるか
言葉というのは手段であって、内容が伝われば必要なくなるという考えと、確かに言葉は手段だがなくしてしまっても構わないとは言えないという考えがある。
元々道教(というか玄学)は前者で、仏教は後者だが、道教側にも後者の考えの人がいたり、仏教でも禅宗は前者よりだったりする。


神滅不滅論争
そもそも仏教は、輪廻転生から解脱するという考えだけれど、中国には輪廻思想がなかったので、まず輪廻というものがありますよね、というところから説明しなければならず、結果的に、輪廻する主体としての霊魂がある・ないという論争が生じた
「神」というのは、霊魂のこと
ところで、これ以前、老荘思想を注釈を完成さた王弼の玄学においては「本末関係」というのがベースになっている。根源たる無(本)とそれから生じる有(末)という関係
これに対して、神滅不滅論争の中で、「体用関係」という概念が生まれてくる。精神の実体が「体」、働きが「用」とする考えで、これが色々な説明に使われるようになる。
本末関係は仏教と相性が悪く、仏教を受容する中で中国側が編み出した概念が「体用関係」だという。
で、朱子学もこれを踏襲している、と


仏教と儒教の間の論争にはほかに、孝に関するものがある、と
仏教が中国に入ってきたとき、剃髪と出家が孝に反すると批判される。
これに対して、仏教は、仏教もちゃんと孝を守ってるんですよ、という形で、融合が図られていく

9 インドの形而上学 片岡 啓

インドは人名が覚えにくい……。
この章は、おおむね仏教とバラモン教六派哲学ミーマーンサー派とニヤーヤ派)の対立・論争として論じられている
ミーマーンサー派のクマーリラと仏教のダルマキールティが主要な登場人物となる
後5~12世紀の認識論、存在論、意味論、論理学を扱う


原子論や全体と部分の関係についての存在論


インド哲学では、文法学がアイデアの源となる
普遍論争がインドにもあり、普遍の実在を認めるバラモン教諸派と認めない仏教徒との対立
仏教側のディグナーガは、牛という語の意味を、「牛性」という普遍ではなく、「非牛の排除」(アンヤ・アポーハ)とする
これがのちにダルマキールティにより、意味論だけでなく、存在論などにも基礎づけられるアポーハ論と発展していく


推論について
「あの山には火がある、煙があるから」という論証を行う際に、「火がなければ決して煙はない」という関係が必要となる。この関係をインド哲学では遍充関係という
これをどう説明するかで、普遍実在論にたつバラモン教のクマーリラと、普遍を認めない仏教のディグナーガで違いがある
また、認識について、クマーリラは、認識は自律的に正しいとして反証可能性の疑いはあっても3回までとするが、ダルマキールティは反証可能性の疑いはいつまでもなくならないと反論
さらに認識について、認識の錯誤や、認識には外界の対象が対応物としてあるかどうかということについて、やはりバラモン教と仏教で対立があり、このあたりの議論は、ヨーロッパの哲学の認識論なんかとも似てそうな話をしているなという感じだった


直接的な言及は特になかったが、最後の認識論のところに限らず、他のところも、ヨーロッパの哲学との類似点を色々見出せそうな感じはして、難しいけど、面白くはあった。

10 日本密教の世界観 阿部龍一

何故、空海? 一応、日本も入れておこうということか、と読む前は思ったのだが、読んでみると、世界哲学史(というか東アジア哲学史)の中のピースの一つとしてピッタリとはまっている。
8章で見た通り、中国では仏教と儒教の間に対立があるわけだが、本章の筆者は、空海を、儒教を仏教(密教)の中に包摂する・仏教中心で儒教がそれを補佐する体制を実現させた人物として論じるのだ


空海の生きた時代は「文章経国的時代」
奈良時代に仏教の力が強くなりすぎて、遷都したのち、平安時代の初期は儒教中心の体制となり、また、学問によって立身出世が可能だった。「文章」こそがエリートの証。この時代、勅撰漢詩集がよく作られているのも、漢詩ができるというのが政治的エリートであることと同義だったから。
で、空海は、文章の力で身を立てたエリート中のエリートで、留学先の中国でも認められていたし、帰国後も天皇や官僚から頼りにされていた。
だが、空海は、中国で密教を学び、そういう価値観から外にでていく。
彼にとって、自然そのものがテクストそのもの、というのが真言の考え方。
儒教の正名理論を、密教の枠組みの中に包摂してしまう。


次は
sakstyle.hatenadiary.jp

ミゲル・シカール『プレイ・マターズ 遊び心の哲学』(松永伸司・訳)

タイトルにある通り、遊び・遊び心についての本である。
ジャンルとしてはゲームスタディーズにあたり、本書もビデオゲームの例が多くあるが、筆者によれば、本書はあくまでも「遊び」についての本であって、ゲームについての本ではない。ゲームは、遊びの一種という位置づけ。
遊びについてはいくつかの特徴づけがされているが、本書で特に重要なのは「流用的」という特徴である。
つまり、違う文脈にあるものを、別の文脈に流用するということである。
本書ではまた、「遊びplay」と「遊び心playfulness」が区別されている。
遊びは、活動・実践
遊び心は、態度
仕事や政治などは、遊びではないが、遊び心という態度をもって臨むこともできる。

本書の読み方
Chapter1 遊び
Chapter2 遊び心
Chapter3 おもちゃ
Chapter4 遊び場
Chapter5 美
Chapter6 政治
Chapter7 デザインから建築へ
Chapter8 コンピュータ時代の遊び
原註・訳註
訳者あとがき 松永伸司
参考文献

プレイ・マターズ 遊び心の哲学 (Playful Thinking)

プレイ・マターズ 遊び心の哲学 (Playful Thinking)

Chapter1 遊び

  • (1)遊びは文脈に依存する
  • (2)遊びはカーニバル的である
  • (3)遊びは流用的である
  • (4)遊びは(流用的であることの帰結として)攪乱的である
  • (5)遊びは自己目的的である
  • (6)遊びは創造的である
  • (7)遊びは個人的なものである(個性がでる/自分自身の問題である)

Chapter2 遊び心

遊びは活動
遊び心は態度(活動に向かう姿勢)
遊び心は、遊びの特性のいくつかを遊びでない活動に投影するもの
もともと遊び以外の目的でなされていた活動を流用する
流用することで、攪乱的になりカーニバル的にもなるし、それによる創造ができたり、(元々個人的ではないものが)個人的なものになる
(例えば、ある種のデバイスとかは、機能を果たすという点でいえば個性はないが、遊び心を発揮することによって個性的になる(あるいは、元々個性のないような個々のデバイスを個性のあるものにするのが、遊び心だといえる))
本来、何か目的のある活動に対して、遊び心が発揮されるので、自己目的的ではない

Chapter3 おもちゃ

おもちゃは、文化的な側面(表現としての側面)と技術的な側面(物としての側面)がある


おもちゃは、おもちゃ自身の中にある遊びの世界を開くものと、遊びの外にある世界を遊びに流用するものがある


機械的なおもちゃ・プロシージャルなおもちゃ
=人間がいなくても勝手に動くタイプのおもちゃ(鉄道模型シムシティなど)


おもちゃは遊びの物質化(matter)
訳注によると、これは形式(form)との対比(matter=質料)が想定されている。7章で述べられるとおり、筆者はゲームを遊びの形式formと考えており、遊び論の中で、ゲームとおもちゃを対比している。
でもって、それが重要であるmatter、というのもおそらくある。

おもちゃの側面を、フィルタリングの側面と具現化の側面に分ける
フィルタリングの側面=遊びの文脈に注意を向けさせる=おもちゃの機能のこと(おもちゃの素材は関係がない。ボールが布製だろうと革製だろうと、ボールである限り、フィルタリングの側面は同じ)
具現化の側面=掴んだときの感覚やそれにまつわる思い出など=この側面においては素材が重要=プレイヤーの反応を理解する上で重要な側面


Chapter4 遊び場

ここで遊び場の例として挙げられているのは、デンマーク発祥の「冒険遊び場」というものである。
おそらく日本に全く同じものはないのではないかと思うが、本書の中にある説明と一枚の写真から一言で言ってしまうと、公園の遊具のなんかすごい版という感じ。ここで出てきている例は、沈没船を模した遊具で、子どもたちはこれによじ登ったり潜り込んだりして、様々なごっこ遊びができる。
また、スケートパークや、ビデオゲームにおけるサンドボックスゲーム(いわゆるオープンワールドのゲーム)も、遊び場の例としてあげられている。
筆者は、ゲーム空間と遊び空間というものを区別する。前者は、特定のゲームを遊ぶ目的のためにデザインされた空間(普通のビデオゲームはこちら)、遊び空間は、流用に対して開かれた空間。
スケートボードやバルクールのプレイヤーは、都市空間を流用して遊び空間にしてしまう。
冒険遊び場やサンドボックスゲームは、様々な遊びに流用できるようにデザインされた空間

Chapter5 美

遊びの美的経験について
この章では、以下の3つの美学を参照している
ブリオーの関係性の美学
ケスターの対話の美学
カプロ―によるパフォーマンスアート(ハプニングアート)に関する美学
これらの美学と、遊びの美が共通しているのは、物ではなく、文脈や人々の活動・対話・実践などに依存して美的経験が生じるという点

Chapter6 政治

イングランド戦におけるマラドーナのゴール、メタケトル、ハクティヴィズム、Newstweekなどの例が紹介されている
政治的な遊び、あるいは遊び心のある政治とは一体何か

遊びが政治的なものであるのは、遊び道具や遊びの文脈が見るからに政治的だからではない。また、社会問題に意識を向けた行為だから、あるいはアクティヴィズム的な行為だからというわけではない(p.131)

いわゆる、政治的なゲームというものを、政治的な遊びにはなっていないと筆者は言う。

遊びが政治的なものであるのは、それが批判的なかたちで文脈に積極的に関与するからである。政治的な遊びは、文脈を流用し、遊びの自己目的的な特性を利用して、そこで行われる行為を両刃の意味をもつものに変える。(p.131)

政治的な行為としての遊びは、自己目的的な遊びと意味のある政治的な活動のあいまでどっちつかずの状態にあるという意味で、つねに両義的である。(p.132)

Chapter7 デザインから建築へ

章のタイトルからは分かりにくいが、ゲームについての章
筆者は、ゲームを遊びの形式と呼ぶ
ゲームは、遊びの中心的な例とみなされがちだが、筆者はそうではないという
ゲームはルールによって、遊びをカプセル化し整える。
しかし、遊びというのは、流用的なものなので、これに反発する。
ルールによって遊びが可能になるのではなく、ルールと遊びは補いあったり対立しあったりする関係だ、という。
章タイトルは、ゲームデザインという呼び方から遊びの建築へと変えるべき、という筆者の主張

Chapter8 コンピュータ時代の遊び

システム的な思考と、遊びの思考というのは相反するもので、コンピュータはシステムと相性がいいんだけど、
しかし、コンピューティングって結構遊びと共通しているところが多い、と。

感想

読んでる途中にこんなツイートをした


まあ、脚注についてはその通りなんだけど、この後、もうちょっと面白く読めたし、全般的に、ノリきれなかったとしたらどちらかといえば自分の側の集中力の問題だったかもなとは思う。
とはいえ、もう一歩なんというか解像度が足りないという感じもする。
高田さんが以前から、ポップカルチャーを遊びで説明できるのでは、という話をしていて
また、個人的に、オタク文化的実践とメイクビリーブについて考える時に「玩具」はキーワードになるかもと思っていて*1
そういう興味関心から本書を手に取った、という下心(?)みたいなものがあって、それに対してどうだったかという点で、物足りなさがあったと。まあ、これもまた、本の問題ではなく、自分の問題ではあるが。
確かに「流用的」というキーワードなんか、例えば聖地巡礼なんかに応用できそうな気はするのだけど、しかし、「それはそう」っていうレベルの話で、大枠としてはそりゃそうだろうけど、分析に使えるのか、という感じがする。それが、解像度が足りないのではという感想につながる。
まあ要するに、シカールの遊び論の使い勝手がいまいちよくわからん、というところなのだと思う。
こういうのは、後になってしみてくる、という可能性もあるので、まあ保留


また、この本はゲームスタディーズの本であり、当たり前だが、分析美学の本ではない。
分析美学の本でないのは別に構わないとして、この本、ゲームスタディーズの中で書かれてはいるが、「ゲームは重要ではない」という論陣を張っていて、これまでのゲーム研究とは違う立場から書かれているぞ、というスタンスの本なのだが、自分の側に、ゲームスタディーズの蓄積がないので、そこらへんについてのこの本の読みどころ、みたいなのもつかめていないのかな、という気がする。
あと、色々なものが参照されているので、人によっては、「お、ここでこれがでてくるのか」というのがあったりするのかもしれないけれど、自分としてはそういうのがなかった。
そもそも入門書として書かれているので、別に、そういう既存の文脈みたいなものを知らなくても読めるようにはできているわけだが
自分と違って、そこらへんもっと面白がって読めた人もいると思うので、そういう人の感想も聞いてみたい

*1:最近読んでた美学関係のことについて - logical cypher scape2で触れたテーマ2に関わって、また、オタク文化と玩具という点では マーク・スタインバーグ『なぜ日本は〈メディアミックスをする国〉なのか』(中川譲訳、大塚英志監修) - logical cypher scape2がとてもよい本で面白いのだけど、何で俺はブログに内容をまとめてないんじゃ!

最近読んでた美学関係のことについて

たまたま目についたもので自分が読めそうなものを読んでいる、というところがあって、全然体系だった勉強になっておらず、正直、勉強としてはあんまりうまくいってないところもあるのだけど、自分がどういう方向をやりたいと思っていて、それでどういう論文を読んだのかという話
4月から生活スタイルが変わり、読書量が減ることが予想されるので、その前に駆け込みで慌てて読んでたというところもある。

【テーマ1】「画像的ないし映像的フィクションの非物語世界について」

やはり、主な関心は画像的ないし映像的フィクションにあるのだが、それをやるのに、フィクションの哲学よりは描写の哲学の方もやらないとなと思うようになった。のは『フィクションは重なり合う』で積み残した課題がそこらへんにありそうだから。
分離された虚構的世界と視覚的修辞 - logical cypher scape2で書いた話とか
あと、【告知】『PRANK! Vol.6 特集:日本アニメの新世紀』に寄稿しました! - logical cypher scape2で書いたあたりの話とか


で、まずは(?)ちょっと抽象絵画のことをどう捉えるのか、調べてみたかった
抽象絵画自体が好き、というのも大いにあるが、OPやEDあるいはそうでなくても、物語に関わらない虚構には、抽象的というか何を表しているのかわからない記号のような絵が出てくることもあるのではないか、ということ(上で論じた渦巻きのような)
Michael Newall ”Abstraction” - logical cypher scape2
Elisa Caldarola "Pictorial Representation and Abstract Pictures" - logical cypher scape2


それから、OPやEDについて考えるなら、MVについてもだろう、と
エクリヲvol.11 - logical cypher scape2
で、スーリオをほんのちょっとだけ眺める
エティエンヌ・スーリオ「映画的世界とその特徴」 - logical cypher scape2


それから、映画の哲学のあたりからいくつか。あまり自分の関心意識と一致するわけでもなさそうだったが
R.Hopkins ”Depiction" - logical cypher scape2
Rafe McGregor "The Problem of Cinematic Imagination" - logical cypher scape2


あと、ちょっとズレるが、画像の起源を探る認知考古学的研究。
自分としては、画像や描写とは何か考えるためのヒントとして。
Derek Hodgson "The Visual Brain, Perception, and Depiction of Animals in Rock Art" - logical cypher scape2
Derek Hodgson ”Seeing the 'Unseen': Fragmented Cues and the Implicit in Palaeolithic Art" - logical cypher scape2

【テーマ2】「主に現代オタク文化に見られる様々なメイクビリーブ実践と虚構的真理の関係」

『フィルカルVol.2No.2』 - logical cypher scape2で書いた声優ライブとか、今後出る予定の『ガルラジ合同』で書いた聖地巡礼とか、まあその手の奴について。あるいは、二次創作とかも含めての話


James Harold "The Value of Fictional Worlds (or Why 'The Lord of the Rings' is Worth Reading)" - logical cypher scape2
Craig Derksen & Darren Hudson Hick "On Canon" - logical cypher scape2



ちょっとズレるが
Deena Skolnick and Paul Bloom ”The Intuitive Cosmology of Fictional Worlds" - logical cypher scape2


これはちょっと違う話
https://sakstyle.hatenadiary.jp/entry/2020/03/25/232837


話題としては、描写・画像の話に近いのだが、この中で使われていたプロップ概念の区別は、こっちのテーマでも使えるかもしれない。もちろん、画像・表象の話としても面白く、テーマ1にも無論関わる

分離された虚構的世界と視覚的修辞

『フィクションは重なり合う』のAmazonページに、実はレビューが書かれているのを最近知って、ちょっとそれに対する応答をしつつ、ちょっと気になっていることをメモしておきたい。

2.2.分離された虚構世界の
> 例えば、TVアニメ『四月は君の嘘』の22話(最終回)「春風」における演奏会演奏会のシーンを取り上げてみよう。主人公の有馬公生が演奏会でピアノを演奏しているのだが、シーンの途中から公生とピアノがステージ ではなく、水面上に置かれている映像へと変わる。ホールの様子は消えて、水平線の広がる水面上で公生が演奏している映像である。

この映像について、著者はこれをフィクションの世界の中で起きていることだと主張しています。
『フィクションは重なり合う』カスタマーレビュー「大事なところを「明らかだ」で済まされてしまった」


この点について、2つの応答の仕方がある。

  • 四月は君の嘘』の映像において、「水面上で公生が演奏している」が虚構的であるのは自明である。
  • このレビュアーの指摘はかなりよいポイントを突いていて、論じ切れていない点が残っている。

相反するような応答なのだが、どちらも自分にとってはこうだろうと思われることです。

(応答1)「水面上で公生が演奏している」が虚構的であるのは自明

これは正直、用語法の問題みたいなところがあって、こういう定義でこの用語を使うと自明にならざるを得ないのではないか、と思っているのだが、まあしかし、その定義を採用するのが適切だったのか、みたいな問題はあるので、説明は必要であった。
まず、本論では、「Pがこの画像・映像の内容である」ということと、「Pがこの画像・映像を用いた作品において虚構的真理になっている」ということをほぼ区別していない。
というのも、本論はウォルトンのメイクビリーブ論に大きく依拠しており、ウォルトンの従うのならば、画像・映像の内容=虚構的真理である。
ウォルトンによるこれは、問題があって、本当はちょっとこのままでは採用できない。
ただし、一般にウォルトンのこれが問題なのは、ノンフィクションの画像・映像もあるから、という理由による。
四月は君の嘘』がフィクション作品であることは予め分かってるし、フィクションの画像については、メイクビリーブ説あり、という意見もある(このまとめ方、ちょっと雑だが)。
で、「Pが、あるフィクション作品Wに使われている画像・映像の内容である」ならば「Pは、あるフィクション作品Wにとって虚構的真理である」というのは、僕自身は、あまり問題ないのではないかと思っている。
ここで、「Pは虚構的真理である」という時に僕が想定しているのは、「Pは事実ではない」ということと「Wについて記述する際にPが用いられる」というようなことである。
後者についていうと、「『四月は君の嘘』の22話には「水面上で公生が演奏している」シーンがあった」という記述が、正しい記述になっている、ということである。
一方で、例えば「『四月は君の嘘』の22話には「山の上でで公生が演奏している」シーンがあった」とか『四月は君の嘘』の22話には「水の中で公生がダイビングしている」シーンがあった」とかいった記述は、間違った記述であり、当然ながら「山の上でで公生が演奏している」や「水の中で公生がダイビングしている」は虚構的真理にはならない。


ただし、このラインの説明については、実はすでに松永さんからもツッコミが入っている。

「分離された虚構世界」概念を使って説明したい事柄はよくわかるが、それを「虚構世界」(あるいは「虚構的真理」)と呼ぶ必要性がよくわからない。つまり、ふつうに「内容」じゃだめなのかということだ※4。

単純な例を出せば、当の虚構世界上で明らかに偽の事柄q(たとえばある人の妄想の中身)を偽として描く場合にも、受け手はqを想像する必要がある。で、ふつうそのqを「虚構的真理」とは呼ばないだろう。

シノハラユウキ「フィクションは重なり合う」について - 9bit


で、この指摘に対しては、「うーん、確かにそれでも別に、論旨にさほど影響は与えないな」と思う気持ちと「もうちょっと頑張りたいな」という気持ちがある。
前者についていうと、そもそも、そうかqは虚構的真理とは呼ばないのか、というのをこの指摘をされて気付いた、というところがある。
ウォルトンは、虚構的真理をMMBでは想像するよう指定されている内容、というふうにしか定めていないので、qも虚構的真理のように見える。
もうちょっというと、「q」という虚構的真理と、「qが妄想である」という虚構的真理があって、入れ子構造になっているイメージ。
これ、真理っていう言い方がわかりにくさを増している気がして、フィクションの中にさらにフィクションがある、というイメージ。
逆に(?)、ある作品の大部分(例えば、主人公が大冒険をする)が主人公の夢で、最後に「実は全部夢でした、主人公は冒険していません」というオチだけが付けられているとき、主人公が冒険していない世界の中に、主人公が冒険した世界(主人公の夢の中の世界)がある、という入れ子構造になっているという想定をしており、そのどちらの世界の出来事も、その作品の虚構的真理と言ってもよいのではないか、というふうにも思う。


一つの虚構作品の中に、世界が一つしかない、とは考えていなくて、世界が複数あると考えている。
で、『フィクションは重なり合う』で一番言いたかったことは、そういう複数の世界の関係は、必ずしも順序だった入れ子構造はしていないのではないか、ということだったりする。
妄想とか夢とか作中作とかは、基本的には、順序だった入れ子構造をとる(そうなってない場合もあるけど)。
で、そういう入れ子になっているわけではなくないか、というのを「分離された虚構世界」と呼ぶことにした、という話である。
SHIROBAKO』で、ミモジーとロロが喋っているシーンは、宮森の幻覚という形で、あの作品が主に描いている物語世界の下位に位置づけられる、わけではなくて、ミモジーとロロが喋っている世界が、別個に・並列に成り立っている、というイメージ。
でもって、二つの並列している世界が干渉しあうことがある=フィクションは重なり合う! という話がしたかったのである。


ただ、このような話をするにあたって、別に「世界」という概念を持ってこないとできないか、といえばそういうわけではない。
あるフィクション作品が描いている「内容」の中に、物語世界の中で成り立っている事柄と、成り立っていない事柄がある。
物語世界の中で成り立っているわけではないが、その作品の描いている「内容」であるには違いないだろう、と。


『フィクションは重なり合う』のポイントは、フィクション作品の中にある、物語世界の中で成り立っている出来事の部分と、物語世界の中では成り立っていないだろうという部分とを腑分けして、その上で、後者が前者とどういう関わり合いをしているのか、というところにある。
なので、2節はその準備段階として、『SHIROBAKO』には、どう見てもぬいぐるみのミモジーとロロが喋っているシーンがありますよね、『四月は君の嘘』には、どう見ても水の上でピアノを弾いているようにしか見えないシーンがありますよね、ということを確認している、くらいに捉えてもらって、「虚構世界において成り立っている」という言い回しを、それをなんか言い直しているだけと思ってもらっても、よいのかもしれない。

もうちょっと頑張ってみる

先ほどのレビューに戻ると、最後にこのように書かれている。

「公生が水面上で演奏している」も物語とは直接関係のない、たんなるきれいな絵だと考えられないでしょうか。非常に洗練されており、フィクションの世界との継ぎ目に気づかない、そういうしかけになっているとは考えられないでしょうか。
一般論として、作家には「この部分は視聴者に物語を忘れて音楽に集中してほしい」という意図がありうることは(こちらこそ)明らかです。「水面上でピアノを演奏している」ことのおもしろさと、視聴者が能動的に演奏を聴く体験では、正直比べるまでもないかと思いますが。著者の分析が誤りだというのではなく、ためにする分析には意義は少なく、しかも鑑賞を遠ざけるということです。

まず、ここでは、虚構的真理であるかどうかは、それが物語世界内で真であるかどうかとは無関係であるというだけでなく、作品の面白さとも無関係。
繰り返すけれど、「水面上でピアノを演奏している」という内容の映像があり、しかし、その内容は物語世界内では成り立っていない、ということをまずは言いたいのであって、「水面上でピアノを演奏している」ことに、特に面白さはないと思っている。
一方で、その映像を一体どのようにして使うのか、というのはまた別問題で、それは3.1節で論じているところで、そこに面白さがあると思っている。


で、ああいう映像が、物語から離れて演奏に集中させる的な使われ方をされることが一般的、という、このレビュアーの指摘自体はもっともだと思う。
ホールにいる客を描くのではなく、なんか抽象的な空間を描いた「きれいな絵」にしてしまう手法は当然ある。ただ、『四月は君の嘘』のあのシーンは、そういう手法で使われていないように思える。
先に言ったように、画像・映像の内容=虚構的真理という定義にのっとれば、理屈の上では、仮に「たんなるきれいな絵」であっても、その絵の内容はやはり虚構的真理であり、分離された虚構世界を作っていることになる。
ただ、そのこと自体は何一つ面白くはないので、そういう作品だったら、自分はここで取り上げていないし、分離された虚構世界論なんてものも作っていない。
「たんなるきれいな絵」を使って音楽に集中させる、というのではない、映像の使い方をしていると思われたからこそ、「分離された虚構世界」論の一例として、このシーンを紹介した。


この最終回のシーンが「たんにきれいな絵」ではないのは、公生が、いままさに死の床についているかをりと出会って合奏するシーンがそこで描かれているから。
あのシーンは、フィクションを忘れて音楽に集中してほしい、というシーンではないと思う
公生とかをりの間の音楽で結ばれた絆、とでもいうべきものを描こうとしているシーンで、だからこそ感動的なのではないか、と。
公生はホールで演奏している、かをりは病院で今まさに死んでしまうところである。だから、実際には2人は合奏できない。
しかし、一方で公生は確かにあの場にかをりがいて、一緒に演奏してくれたかのような実感を抱いただろう。
ところで、それを公生の全くの空想の産物であったとか、公生が単にそう感じていただけに過ぎないとかではなく、実際に2人が一緒に演奏している世界を見せることで、2人の合奏が、ある意味では、より確かな事実であると思わせるところが、あのシーンの感動的なところなのではないかと、と言うのが自分の解釈。
もちろん、「ある意味では」というのがポイントで、物語世界内でかをりが突然病気が回復して会場にやってきたとかそういう話ではなく、物語世界内では2人の合奏は全く事実ではない。
しかし、視聴者の見た内容としてはそれは事実であった、ということにできてしまうのが、フィクションの面白いところなのではないか、と。
つまり、『四月は君の嘘』という作品は、物語としては「公生とかをりがもう一度合奏すること叶わず死別してしまう世界」を描くと同時に、他方で、「どこでもない水面上で、公生とかをりが合奏することのできた世界」を描いているのだろう。そういう世界を、物語上は一切成り立っていないにも関わらず(そしておそらく公生の妄想だったというわけでもなく)、しかし鑑賞者は直接見ることができてしまった、という点に感動のポイントがあるはず。
で、後者の世界は物語世界では当然ないのだが、虚構世界ではある。
「非常に洗練されており、フィクションの世界との継ぎ目に気づかない、そういうしかけになっているとは考えられないでしょうか。」と言われているけれど、むしろ逆で、「きれいな絵」だと思っていたら継ぎ目に気付かないままに別のフィクションの世界に連れ込まれていた、というのが僕のあのシーンに対する解釈だ。
そして、こう解釈するためには、やはり単に「内容」というより「(物語世界ではないが)何らかの虚構的な世界で成り立っている」という言い方をしたくなる。
なので、概念を先に持ってきて、それを当てはめるために分析しているわけではなくて、鑑賞した際の感動を説明しようとした時に、こういう概念が必要になってきた、というつもりではある。
ただ、概念の作りが甘いだろう、といえば、それは認めざるを得ないところなのだが。
また、一応このあたりは、松永さんにも多少フォローしてもらっているかな、と思っている。

シノハラさんが「分離された虚構世界」の事例として挙げるもののいくつかに関しては、そう言いたくなる理由はなんとなくわかるが、明確に述べられているわけではない。

(応答2)このレビュアーの指摘はかなりよいポイントを突いていて、論じ切れていない点が残っている。

ここまで「水面上で公生が演奏している」ことが、あの映像の内容であることは自明であることにして、話を進めてきた。
そして実際、あの映像の内容自体は、「水面上で公生が演奏している」以外に記述しようがなくて、どうしてそういう内容だと言えるのか説明しろ、と言われることかなり困る。
しかし、とはいえ、実際に何が映像の内容と言えるのか、というのは本来フォローすべき論点だったと思う。


このレビュアーは3つの例を挙げてくれている。
(1)

古い映画では上映時間が長くなり、途中で「休憩」がはさまることがありました。(中略)休憩中は画面に大きく「休憩」と出ます。さてこれはフィクションの世界の中で起きていることでしょうか。カメラの前あたりと思われるところに「休憩」という字が空中に出現したのは虚構的真理でしょうか。

(2)

アニメにはアイキャッチがあります。これも同様に、真っ白なフィクションの世界が突如出現し、番組ロゴが立ち人物がにこやかにほほえむことが虚構的真理でしょうか。

(3)

ウルトラマン」ではハヤタ隊員が変身ポーズを取ったあと、赤い画面の奥手からウルトラマンがパンチのポーズで現れる映像になりますが、これも真っ赤なフィクション世界が突如出現し、ウルトラマンがポーズをキメるのでしょうか。

(2)について

アニメのアイキャッチ画像において、「真っ白な空間で、ロゴが立っていて人物がにこやかにほほえんでいる」ことが虚構的に真なのは、トリビアルに正しいと思う。
「真っ白な空間で、ロゴが立っていて人物がにこやかにほほえんでいる」ことは、このアイキャッチ画像の内容に他ならないし、その内容は、事実ではないという意味で虚構なので。
こういうミニマムな虚構、というのは、あちこちにあるだろうと思う。
ただただ「真っ白な空間に人物がほほえんでいる」という内容だけしかもたない虚構であり、そういう虚構があること自体は、それほど驚くべきことではないように思う。
こういう虚構は、あまり他の虚構ともかかわりが薄いように思える。
ただ、「真っ白なフィクションの世界が突如出現し」という言い方はちょっと気になるので、訂正しておくと、「「真っ白な空間に人物がほほ笑んでいる」ということが、ある虚構世界において成り立っている」ことは、「どこかの世界において、突如真っ白な世界が(新たに)出現する」ということは別に意味していない。
例えば、『はてしない物語』の作中には、ファンタージェンという世界が成り立っているが、僕が『はてしない物語』を読むとき、突如ファンタージェンの世界が出現してくるわけではない。

(1)について

文字の話はちょっと面白いところではあると思う。
ここで例に出ている「休憩」の場合、しかし、普通に文字が投影されているわけであって、文字が宙に浮いているという内容の映像になっているわけではないと思う。なので、文字が空中に出現したことが虚構的真理になっているわけでもないだろう。
例えば、普通の本を読むときに、文字の書かれているページは、白い空間上に字が浮いているという画像だとは普通認識されない。
これが紙ではなく、スクリーンやモニタになっても同じことだろう。
ところで、これが例えば「皆の衆、休憩すべし」というような文だったとしたら、登場人物のセリフだと解釈して、「その登場人物が「皆の衆、休憩すべし」と言っている」ことが虚構的真理になる可能性はある(とはいえ、これももちろん文字が空中に浮かんでいることが虚構的真理になっているわけではない)。
一方、個人的に、ややこしいなと思う例はむしろ、スターウォーズの冒頭のあらすじ字幕である。
宇宙空間の上で、文字が奥の方へと飛んでいくように流れていくアレである。
あれもまた、文字送りな特殊なだけで、ページ上に印刷された文字列と同じもの、として見ることもできるし、実際そのように見ている人も多いと思うが、「宇宙空間を文字型のオブジェクトが隊列をなして次々に飛んでいく」という内容の映像として見ることも不可能ではない。
この場合、スターウォーズはその冒頭において、「文字が宇宙を飛んでいる」という虚構が成り立っている、という奇妙な主張が可能になる。
これは奇妙な主張なのだが、僕は現時点で、この主張をうまくブロックできない。

(3)について

これについて、(2)と同様に、そういうミニマルな虚構が成り立っているという考えることもできなくもないと思う。
が、そもそも「赤い空間をウルトラマンが飛んでくる」という内容の映像なのかどうか、という点が気になる。
例えば、白黒写真は、「白黒の人間がいる」という内容を持つわけではない。白黒写真であっても「肌色の人間がいる」ということがその写真の内容となる。
あるいは、ピントをわざと甘くしてぼやけた映像にしたり、ノイズを入れたりするような画像・映像も同様だろう。これらは映像の上にかけられた効果であって、「輪郭がギザギザしている顔の人間がいる」ことを内容としているのではない。
ウルトラマン変身シーンの、画面の赤さもこれに類するケースのように思われる。


ここで、自分が画像の内容になっているかどうかの指標として考えているのは、奥行きの知覚経験があるかどうかである。
これは、定義であるとか必要条件であるとか考えると、ちょっと問題があるので、あくまでも指標・手がかりとして考えるにとどめるけれど
画像には、フラットなものである表面と奥行きのある描かれた対象の、二面性がある、と。
で、画像の内容というのは後者を指す。
文字表象は、奥行きのある知覚経験がなく、二面性をもたないので、画像ではない。だから、画像の内容も持たない(文字としての内容はもちろん持つ)。
ところが、文字が宇宙空間を飛んでいく様子自体は、奥行きのある知覚経験をもたらしていて、画像になっているように思える。
逆に、わざとぼかしたピントやノイズ、あるいは画面を赤くすることは、画像の表面に属する性質であると思う。だから、ピンぼけは、その画像が持つ性質ではあるけれど、その画像の内容ではない。

視覚的修辞

さて、ここにきてようやくタイトル回収なのだが、画像の内容を特定するにあたって、視覚的修辞が問題になってくるように思える。
aizilo.hatenablog.com
上記の記事で紹介されている、アボガド6の『心配事』について、村山は「『心配事』の視覚的修辞:〈万力に頭を挟まれること〉は画像内容に含まれず、それを媒体として獲得される〈頭を締めつけられる感覚〉は画像内容に含まれる。」と述べている。
〈万力に頭を挟まれること〉は、表面に属する性質ではなく、明らかに奥行きのある知覚経験の中で捉えられていることであるが、しかし、これを画像による修辞として捉え、画像内容に含めない、というのが視覚的修辞の考えである。
この考えは、確かにある種の画像を説明するのに、適切な概念であるように思う。


アボガド6の絵のように一枚絵の場合、特に問題はない。
しかし、例えばマンガ作品の中で、ショックを受けたことを示すために、銃で心臓を撃ち抜かれているところが描かれたシーンがあるとする。
これは、視覚的修辞であり、「銃で心臓を撃ち抜かれている」ことを画像内容に含めないのは妥当であるように思える。
一方で、分離された虚構世界論の枠組みを使うと、「銃で心臓を撃ち抜かれている」ことを画像内容に含めると考えてもよくて、「銃で心臓を撃ち抜かれている」ことが成り立っている虚構もあって、その虚構が、物語の中で登場人物がショックを受けていることを比喩的に表すために使われている(これもある意味では、重なり合っている)と言えなくもなさそうなのだ。
もちろん、こういう一枚の絵でおさまる場合、視覚的修辞で説明する方が絶対合理的だと思う。


しかし、分離された虚構世界なのでは、と思う例もあると思う
例えば『イノサン』で、マリー・アントワネットが日本の高校に通っているシーン
むろん、『イノサン』はアントワネットが日本の高校に通っているという物語ではないし、また、アントワネットの妄想や夢のシーンというわけでもない(アントワネットが現代の日本の高校を知っているわけではないし、そもそも出来事自体は、親しかった者が立ち去っていくというアントワネットの身に実際に起きたこと)。
あれは、シーン全体として、物語内のアントワネットに起きた出来事についての修辞的表現になっているだと思う。アントワネットが仲良くしていたお友達に逃げられることやアントワネットの幼さやを、高校生の友情の薄さ(?)や高校生の幼さに喩えている、のではないかと。
ただ、視覚的修辞の例と違うのは、この数ページだけを取り出すと、アントワネットが日本の高校に通っているマンガとしても読めてしまうこと。『イノサン』という作品全体がどういう物語か知らないと、あれが修辞なのか、「もしアントワネットが日本の女子高生だったら?」的なマンガなのかが判断できない。
つまり、「アントワネットが日本の高校に通っている」という内容の虚構があって、それをさらに、『イノサン』の物語の中で起きたアントワネットの出来事の比喩として用いている、のではないか。
分離された虚構世界の用いられた方の一つの例では、と。
視覚的修辞は、一枚絵として見て、それと一応判断できるはず(そもそも分離だし)。
(これ、松永さんが、分離という現象と類比が成り立っていないよね、と言っていたことそのものかもしれない)

追記(20200401)

四月は君の嘘』の最終回のシーンも、ある種の修辞として理解できるかもしれない。実際、『フィクションは重なり合う』では、隠喩のようなものになっているのかもしれないということを書いた記憶がある。
比喩と虚構の関係というのも、考えてみないといけないのかもしれない。
ウォルトンは、比喩をメイクビリーブで説明しようとしていたりするが。


アイキャッチの件
アイキャッチの画像が表象しているのが、ミニマルな虚構世界である、ということ自体は、まあそりゃそうだよねくらいの話だと思うのだが、まあ、それをわざわざ指摘したところで、特段面白いアイキャッチ論は書けなさそうだな、という点で取り立てて主張しようとは思わない話ではある。
ただ、例えばアニメのOPやED映像もやはり何らかの虚構世界を描いているとはいえ、ただし、それは必ずしも物語世界を描いているわけではない。
ある作品は、物語世界についての虚構と、物語世界についてではない虚構を描く。その上で、そうした虚構同士がどのような関係にあるのか、その関係はどのような効果をもたらすのか、というのはある程度論じて面白くなるかもしれないところではある。
ただ、アニメのOP映像やED映像は、全て見た通りのものが虚構になっているかは怪しい。
サンライズ作品によく使われる、登場人物たちが横並びに並んでいく映像。しかし、あれは、あれらの人々が並んで立っているという内容の映像ではないと思う(それゆえに、そういう虚構も成り立っていない)。各人の画像を「切り貼り」して並べたもの、といった方が適切であるように思える。その場合、これは画像の表面の性質だろう。


画像の表面の性質は、普通画像の内容に含まれない。ただ、場合によってはうまく区別するのが難しいケースがあるかもしれない。
さらに、画像の表面ではなく、奥行きをもった三次元的な内容であっても、画像の内容にはならないという特殊ケース(視覚的修辞)もある。
そのあたり、どのように整理できるのか、というのは気になっている。

平松和久「キャラクターはどこにいるのか――メディア間比較を通じて」(『サブカル・ポップマガジンまぐまPB11』)

以前、松下哲也「ビアズリーの挿絵はマンガの形式に影響をおよぼしたのか?」(『ユリイカ2019年3月臨時増刊号』) - logical cypher scape2で読んだ平松論文で、平松の4空間論というのが気になったので、こちらも読んでみた。
タイトルにある通り、キャラクター論であり、4空間論を踏まえつつ、マンガに限らないキャラクター論の枠組みを考えるというもの

はじめに
マンガと他ジャンルの違い
異世界構築とキャラクター
小説と他ジャンルとの違い、そして図像無きキャラクターについて

4空間について

まず、平松のいう4空間とは何か
「解釈空間」「メディウム空間」「場面空間」「物語空間」の4つ
まず、「解釈空間」というのは、簡単に言ってしまえば現実世界のことで、読者・鑑賞者が存在する世界のこと
メディウム空間」というのは、マンガであれば紙面、映画であればスクリーンなどのこと(マンガであればコマ空間、映画であれば映写空間と平松はメディアごとに呼び分けている。なお、小説についてもこの空間があるとされ、これを散文空間と呼んでいる)。
「場面空間」と「物語空間」は、二つ合わせて「フィクションの空間」ともされている。作品によってあらわされている虚構世界のことを指している。「場面空間」と「物語空間」の違いは、この論文だけだとあまりよく分からないのだが、おおよそ、場面空間が空間に、物語空間が時間に対応しているように思われる。


ここでのポイントは、解釈空間からは、メディウム空間を見ることはできるが、フィクションの空間を見ることはできず、
また、フィクションの空間からは、解釈空間はおろか、メディウム空間も見ることができない、ということだろう。


この論文タイトルにある「キャラクターはどこにいるのか」に対する答えは、本論文の半分当たりで出てくる。
後半は、やや応用的な例をいくつか挙げている。

キャラクターはどこにいるのか

答えから先に書くと、メディウム空間にいるということになる
答えというか、平松論ではそのように定義されている、という方がよいか。
まず、平松論では、登場人物≠キャラクターとなっていて、区別されている。
登場人物はフィクションの空間に存在していて、鑑賞者からは直接見ることができない。
鑑賞者から直接見ることができるのはメディウム空間で、メディウム空間にあって、フィクションの空間にいる登場人物を指示しているもの=キャラクター、ということになっている。


マンガのおいて、キャラクター図像はコマ空間にある、と
さらに、別のメディアではどうかということで、映画・舞台・アニメーションが検討されるが、例えば、映画の場合は、登場人物を演じる俳優の映像が、キャラクターの図像と同等なものにあたる。
ここでは、金田一耕助石坂浩二が演じていたり古谷一行が演じたりしている例をあげている。鑑賞者からは、金田一耕助石坂浩二の顔として知覚されるが、フィクション世界の登場人物たちからは、おそらく金田一耕助石坂浩二の顔はしていないだろう、と。すなわち、金田一耕助を演じている石坂浩二というのはメディウム空間に位置するのだ、と。

擬人化キャラクターと擬獣化キャラクター

ディズニーに出てくるようなキャラクターと、アート・スピーゲルマンのコミック『マウス』に出てくるようなキャラクターが対比されている。
前者は、動物が人間の表情豊かなキャラクターとして描かれているもの
基本的に、キャラクターと登場人物は同じ見た目である保証はないが、ディズニーなど動物を擬人化したキャラクターの場合、限りなく等しいと考えられる。
サンリオのキャラクターやくまモンひこにゃんのようなゆるキャラなど、物語がなく着ぐるみなどでのみ存在しているようなキャラクターを、ここでは、ノンフィクショナルキャラクターと呼んでいて、物語がなくとも成立するキャラクターだとしていて、そういうキャラクターのあり方をしているから、フィクションの世界とも見た目が一致するだろう、ということらしい。
また、こうしたキャラクターのいる世界は、現実世界とはかなり様子の異なる異世界になっているだろう、とも。
一方、『マウス』に出てくるキャラクターは、動物の擬人化というよりは、むしろ人間の擬獣化で、人間の姿で頭だけネズミになっているのだけど、むしろこれは人間を比喩的に表現しているのであって、フィクションの空間では人間の姿をしているのだろう、と述べている。

感想

  • 「キャラクター」について

既に述べた通り、平松論では「登場人物」と「キャラクター」が区別されている。
ただ、あまり一般的な区別ではないように思える。確かに、ゆるキャラなど、物語の登場人物ではないキャラクターもいるので、区別したい気持ちも分かるし、日本語の語感だと確かに何となく違うものを指しているようにも感じられる。
とはいえ、登場人物を英訳するとcharacterなので(このことについても言及はされているが)、ややこしさがある。
個人的には、松永さんのDキャラクターとPキャラクターの区別を用いてもいいのではないか、と思った。
「登場人物」がDキャラクター、ここでいうキャラクターが「Pキャラクター」
『フィルカルvol.1no.2』 - logical cypher scape2

この論文では「キャラクター」と「キャラクター図像」という言い方が両方出てくるが、どのように区別されているのが読み取れなかった。
この二つはもちろん違うもので、Pキャラクターは、キャラクターの図像ではない。
ここで気になってくるのは、メディウム空間というものとしてどういうものが想定されているか、ということである。
マンガの「コマ空間(紙面)」や「映写空間(スクリーン)」という表記があり、いわば、画像の表面が想定されているようにも思えるのだが、そうだとすると空間という言い方とは齟齬をきたす。
(マンガであれ映画であれ)画像というのは、その表面(二次元的なそれ・平面・線や染み)と、画像によって描き出されている三次元的な対象との二面性がある、とされる。
コマの枠線であったり吹き出しであったりは、表面に属するように思われる(もっというと、そもそもそれらは二面性を有しているわけではないので、画像ではないが)
キャラクターの図像という時、何を指しているかは微妙で、文字通りキャラクターの画像という意味であって、その画像の表面だけを殊更指しているわけでもないように思えるだのが、あえて図像という場合、二次元的なそれであるということを意味しているようにも見える。
そして、キャラクターは実際には立体的なものである。Pキャラクターというのも、画像によって描き出されている立体的なものの方のことだろう。

  • フィクションの空間について

平松は「場面空間」と「物語空間」とに分けている。
上述したように、この区別が厳密に何を指しているのか分からなかったのだが、空間と時間を指しているように思える。
しかし、だとすれば、どちらも等しくフィクションの世界の要素なのであって、空間が二つあると考える理由がよく分からない。
これ、由来するものの違いを反映しているのかな、とは思った。
「場面空間」を指示しているのはマンガにおける絵の部分
「物語空間」を指示しているのはマンガにおける言葉の部分、というようように。
ただ、それは、コマ空間によってそれぞれ異なる領域なのであって、フィクションの空間において異なる領域に分かれているのかどうかはよく分からない。分かれていないような気がするのだが……。

これ面白くて、同じ動物を人型に模したキャラクターだけど、片や人間を比喩的に表現したもの、片や本当にそういう二本脚で歩く動物となっているというのと、一体どうしてそういう違いが生じるのかという問題
個人的に今「視覚的修辞」と「分離された虚構世界」の関係に悩んでいて、それとパラレルな問題のように思えている。

日経サイエンス  2020年5月号

インドネシアで見つかった最古の洞窟壁画 K. ウォン(SCIENTIFIC AMERICAN編集部)

www.nikkei-science.com
獣と人の組み合わせである獣人を描いた絵として最古であるし、狩りの「場面」を描いているものとしても
年代測定に幅があって、その一番古い方の値をとると、最古ということになる
7mだかの洞窟の中でも高い位置にあり、また、それ以外に人が住んでいた痕跡はない。
ヨーロッパの場合、洞窟の奥深くに描かれているが、こちらは洞窟の入り口付近。しかし、いずれにせよ、壁画のためだけに使われている特別な場所っぽい。
骨は出ていないので、描いたのが誰なのかはわからないが、さすがにホモサピだろう
一方、疑いの意見も出ている。
まず、壁画全体を年代測定したのではなく、一部を測定しただけ。人と思われる部分と動物と思われる部分で大きさが違いすぎていて、あとから書き足されている部分があるのでは、と。ヨーロッパの壁画でも数千年後に描き足されているとかあるらしい。「場面」を描いているとは言い難いのではないか、とか。
あと、そもそも人を描いていると言えるのかも怪しいという意見もついているようだ。

生と死の境界を考える C. コッホ

www.nikkei-science.com

死というのが不可逆な過程であるとして、技術の進歩によりそれは変わりうる
脳死は今は人の死とされているが、技術の進歩でそれも変わるかも。というのも、首を切断されたブタの脳が、その後、再び活動したという実験結果がある。
栄養を消費した、というような活動であって、高度な神経活動が復活したわけではないのだけど、ただそれは、神経活動を抑制するような薬を入れての実験だったからであり、もしそうでなかったらどうなったかは分からないとかなんとか。
ところで、コッホはヴィーガンらしい