エクリヲvol.11

ミュージックビデオ論とかは、気になっているジャンルだったのだが、全然分からない部分でもあったので、勉強になった
扱われているMVをほとんど知らないので、それをいつかちゃんと見なきゃいけないなあと思いつつ*1
ecrito.fever.jp

【特集 I 聴覚と視覚の実験制作——ミュージック×ヴィデオ】
《Interview》山田健人 音楽と映像の蜜月——MVが表現しうるもの
《Critique》
ミュージックヴィデオには何が表現されているのか——レンズ・オブジェクト・霊 荒川 徹
《Appendix》
ミュージックヴィデオ史 1920-2010s——聴覚と視覚をめぐる試み歴史
MVエフェクティヴ
《Critique》
アニメーテッドMV、第三の黄金時代アニメーテッドMV、第三の黄金時代——マイケル・パターソン『a-ha “Take On Me”』からAC部『Powder “New Tribe”』:松 房子
映画音響理論はどこまでミュージック・ヴィデオを語れるか――宇多田ヒカル『Goodbye Happiness』を例に:長門 洋平
誰のためのパフォーマンスなのか?——ミュージックヴィデオの現在:小林 雅明
なる身体になる―メシュガーMV論―:吉田 雅史
《Series》〈三体〉から見る現代中国の想像力
第一回 『三体』における閉域(ルビ:ヴァーチャル・リアリティ)と文脈(ルビ:コンテクスト)主義:楊 駿驍
【特集 II インディゲームと動詞】
《Interview》
ALTER EGO』大野真樹
『Baba Is You』Arvi Teikari
『KIDS』Mario von Rickenbach & Michael Frei
『The Stanley Parable』/『The Beginner’s Guide』Davey Wreden
『The Tearoom』Robert Yang
《Appendix》
インディーゲーム 動詞リスト
《Critique》
ルーカス・ホープと「楽しむ」ことの終わりに:横山 祐
動詞とパターン――ゲームとシミュレーションの関係をめぐって:松永 伸司
《Special Text》
ヴァーチャルなカメラとそれが写すもの:谷口 暁彦
《Critique book Review》
『vanitas』No.006
石橋英敬×東浩紀『新記号論

ミュージックヴィデオ史 1920-2010s——聴覚と視覚をめぐる試み歴史

折り込みで年表がついている
タイトルにある通り1920年からで、もちろんその頃に、いわゆるミュージックビデオはなく、この年表の前半はMV前史とでもいうべき映画・映像史年表になっているのが、よい

MVエフェクティヴ

MVで使われる特徴的な技法として、例えば「カメラ目線」とか「長回し」とか「幾何学模様」とか「線画アニメーション」とか14の技法がコラム形式で解説・紹介されている。

アニメーテッドMV、第三の黄金時代アニメーテッドMV、第三の黄金時代——マイケル・パターソン『a-ha “Take On Me”』からAC部『Powder “New Tribe”』:松 房子

ノルウェーのアニメーション研究者グンナル・ストロームによる、アニメ―テッドMVについての論文を紹介し、その枠組みをさらに作品分析に応用するというもの
ストローム論文の中には、MVの歴史やMV研究史もまとめられていて勉強になる
MV研究においては、キンダーによる三つのカテゴリー分析というものがあるらしい。MVには「パフォーマンス」「ストーリー」「夢幻的視覚」の三つのカテゴリーがあるというもので、ストロームもこれを発展的に継承している。ストロームは、キンダーの3つを「コンサート」「コンセプト」「コラージュ」と言い換えた上で、さらに「アーティスト」「レコード会社」「ディレクター」、「言葉」「音楽」「映像」という3つをそれぞれ組わせて3×3で分析する

映画音響理論はどこまでミュージック・ヴィデオを語れるか――宇多田ヒカル『Goodbye Happiness』を例に:長門 洋平

映画音響理論による、ディエジェティック・サウンドとノンディエジェティック・サウンドの区別によって、MVを分析できるか、という試み
とても面白かった
ミュージカル映画について、物語世界と非物語世界の区分が溶解してしまうことを、リック・アルトマンが「オーディオ・ディゾルブ」という概念で捉えた、とか
元々、ディエジェティック・サウンドとノンディエジェティック・サウンドの区別はゴーフマンによるものとされているが、ゴーフマンはジュネットのナラトロジーに多くを負っている。これに対して、スーリオによる「フィルミック・リアリティ」という概念を重視し、新たなモデルを提案するウィンターズの議論、とか
そのあたりの話面白そう。
なお、本論のさしあたっての結論は、MVは、サウンド付きのサイレント映画である、というもの

誰のためのパフォーマンスなのか?——ミュージックヴィデオの現在:小林 雅明

YouTube時代のMVについて

なる身体になる―メシュガーMV論―:吉田 雅史

リップシンク(口パク)ならぬ、フィンガーシンク(指パク)、エフェクトシンクなどを用いて、ポリリズムな楽曲と映像の同期など

《Series》〈三体〉から見る現代中国の想像力 第一回 『三体』における閉域と文脈主義:楊 駿驍

『三体』は、SFを「射撃手・農場主(Shooter・Farmer)」とする作品だと論ずる。
文革時代、VRゲーム「三体」の世界、現実世界を「閉域」として捉える。それは、その世界の法則や秩序が偶然的であるということ。科学法則ですらも偶然的なものとして描かれる=「射撃手・農場主(Shooter・Farmer)」的世界観

動詞とパターン――ゲームとシミュレーションの関係をめぐって:松永 伸司

「インディーゲームと動詞」という特集の中で、その特集のテーマである「動詞の観点からゲームを見ていく」こと自体を相対化する記事。
動詞から捉えることを「シミュレーション主義」的な見方だと整理し、それ自体はよくある見方であるし、間違ってはいないが、あくまでも見方の一つでしかない、と。
その上で「パターン主義」的な見方があり、ゲームを語る上では、時にはこちらの見方の方がよいこともあるのだと論じている。
「シミュレーション主義」というのは、ゲームを現実の何かのシミュレーション(としての表象)と見る考え。「このゲームは「食べる」ゲームだ」とかそういう言い方は、「「食べる」という現実にある行為を何らかの点でシミュレーションしているゲームだ」という風にゲームのことを見ている、と。
一方、ゲームの特徴を言い表す時に、パターンの組み合わせとして捉えるやり方もある。
例えば、あるゲームジャンルの特徴を言い表すのに「パーマデス」「グリッドベース」「ターンベース」など、ゲームメカニクス上のパターンで示すことがある。
ところで、僕自身はゲームをほとんどしない人間*2ではあるのだが、ここ数年は、例外的にスマホアプリのアイドルもの音ゲーだけはやっており、その感覚からしても、このパターン主義というのはしっくりくる。
アイドルものゲームは、アイドルを「プロデュースする」「育成する」ゲームと説明されることが多いが、正直、あまりそういう感覚はないし、リズムゲーム部分に関していえば、そもそもあれはなんだ? 「演奏している」わけでもなさそうだし、というところがあって、動詞で考えると言われてもピンと来ないところがあった。
また、あの手のスマホゲーは、大体ゲームシステムが共通していて、つまり、ガチャやってカード集めて、経験値になるカードを消費して他のカードをレベルアップさせて、というような。
特にこの中で「経験値になるカードを消費してレベルアップさせる」というのが、ゲームによって「レッスンする」とか「育成する」とか呼ばれるが、呼ばれ方はまちまちで、そこがどういう動詞で呼ばれるかは、ゲーム経験にほとんど何の影響も与えない。
経験値になるカードがどのように入手できるか、それらを消費する時に一括選択ができるかとか、そういったことがゲーム経験の質に大きく関わる。
このジャンルのことを、「プロデュースする」「育成する」ゲームというよりは、ある一定のゲームメカニクスのパターン群からなるゲームとして理解しているし、その中で各ゲームの差異は「メカニクスaとこのメカニクスbは使われているけれど、メカニクスcは使われていない」というような形で把握していることが多い。

ヴァーチャルなカメラとそれが写すもの:谷口 暁彦

インゲームフォトグラフィー(ゲームの中での写真撮影)について、
これ、エクリヲvol.9*3のセス・ギディングス論文でも扱われていた奴(本論でもギディングス論文が参照されている)
インゲームフォトグラフィーと、普通の写真との違いとして、「瞬間」という概念がなくなっている、変質していることをあげている

*1:この「いつか見る」は大抵いつまでも見ない奴になりがち……

*2:ゲーム自体は子どもの頃からやっていたし、ゲーム文化と無縁だったわけではないのだが、平均的な同世代の人と比較すると全然やっていないも同然。親から禁止されていたというわけでもなく、ほんとただ個人の好みとして子どもの頃からゲーム自体をあまりしていない。でも、好きなゲームとかがないわけではない

*3:写真のメタモルフォーゼ特集を半分くらい読んだのだが、途中で読むのが止まってしまいブログにできていない