「乳と卵」川上未映子(『文藝春秋三月特別号』)

書店の棚にだだんと文藝春秋が積まれているのはいつものことだが、さらにでかでかと川上未映子のポスターが貼ってあって目をひく。
実は、芥川賞直木賞の際のテレビ報道を直接見ていないのだが、彼女がとにかく映されていたというようなことは聞いた。歌手であるだけに、という言い方はおかしいかもしれないけれど、普通の(新人)作家とは比べものにならないくらい、自分のビジュアルをデザインないしプロデュースすること、あるいはされることに長けているのだろうな、と思った。
要するに美人だ、という話になってしまうのかもしれないけど、あのポスターからは、作家というよりは歌手とかモデルとかという感じがしたという話である。


女性意識についての現象学
もちろん、これは小説であって現象学のげの字も出てこないけれど、読んでいる最中に何となくそう思った。
それは特に、小学生の緑子が綴るノートである。彼女は、周囲の友達の生理が始まる中、自分の女性性に対して「厭」な気持ちを覚えてそれを綴っているわけではあるが、そこに綴られていることは、彼女なりの心身二元論であるように思える。彼女の具体的な体験を記述しながらも、根源的で普遍的なことを考えようとしている感じがする。
しかし、そういったこと自体は、別に珍しいことでも目新しいことでもない。
読んでいて、結局、自意識についての話と女性性についての話を組み合わせたような話という印象を受けてしまうと、途端につまらなくなってしまう。
僕はこれを、かなり緑子視点から読んだけれども、これは緑子だけの話ではなくて、巻子、緑子親子とその妹(叔母)である「わたし」の話である。
この親子に対する、「わたし」の絶妙な距離感が描かれているところが面白い。
豊胸手術をするために上京してきた巻子と2人でお風呂屋さんに行く。巻子があまりにも他の人の裸を見るので、「わたし」も見ることになるのだが、段々ゲシュタルト崩壊していくくだり
あるいは、巻子、緑子親子の緊張関係が一気に頂点に達する、クライマックスシーン。事件らしい事件が起こらないような小説が、芥川賞近辺だと多いような気がするが、この作品もその中の一つなのかもしれないと思って読み進めていると、このクライマックスシーンによって、物語的カタルシスが得られる。それがあるだけでも、わりとよいなと思ったのだけど、この直後に「わたし」のやや引いた視線が加わる。この組み合わせはなかなかうまいなあと思った。
この親子がそれぞれもっている問題を、うまい具合に相対化してくれる。
ただそうなってくると、この「わたし」とは一体何者なのだろうか、という疑問が出てくる。
その疑問には、あんまりちゃんと応えてくれていないように思う。
で、この「わたし」について考えるとなると、やはりこの大阪弁の文体について考えることになる。
これについては、正直よくわからない。この文体で、色々描写していく様は確かにそれだけで面白いのだけど、馴れるまで読みにくさが残るのも確か。
「〜部」という語彙は、全く聞き慣れないもので、なかなか面白いなあと思った。
先に現象学と書いた。もちろん、これはいわゆる現象学では全くないが、この文体によって色々記述していくあり方は、うまく説明できないが、現象を記述している感じがした。もっとも、そんなこといいだしたら、文学作品というのはおおむねそういうものだという気もするが。


それで、インタビューを読むと、哲学が好きだという話があって、何だか納得する*1
大阪弁に関しては、プリミティブな存在である女性に大阪弁を、男性には標準語を割り振ったと言っているのだけれど、その説明はあまり納得がいかない。
その他、色々な経歴を経ている人なので、その点でもインタビューは面白かった。
『乳と卵』に関していえば、それなりに面白かったけど、好みではない感じかなあという印象だけど、インタビューを読むと、何となく好ましく思えてくる。メディアで人気が出るのも何となく分かる気がする。


選評はそれほど面白くなかった。
常々、芥川賞は選評の方が面白い、などと吹聴している手前、何だか気が引けるが(^^;
『乳と卵』に関していえば、都知事が酷評、他の審査員は絶賛という構図なのだけど、それはいつものことだし、特に面白いことも言っていない。
今回は受賞作よりもむしろ、楊逸『ワンちゃん』が物議を醸した模様。

文藝春秋 2008年 03月号 [雑誌]

文藝春秋 2008年 03月号 [雑誌]

*1:とはいえ、それを踏まえてから、緑子の<じゃ、言葉のなかには、言葉でせつめいできひんもんは、ないの>という台詞を読むと、ちょっとあざとい感じがしてくるなあ(^^;