シンタクスからセマンティクスへ。あるいは量的な差異から質的な差異へ。

シンタクスからセマンティクスを導けるかどうか、というのは、サールの「中国語の部屋」の話。サールはそんなことはできない、といった。
ならば、セマンティクスはどこからもたらされるのか。
例えばそれは、環世界(ユクスキュル)やら脳の来歴(下條)だったりするのだろうが、果たしてそれだけか。
例えば、岩井の貨幣論というのは、貨幣という記号が現実の価値から完全に独立した体系(ここでいうシンタクスに相当か)としての運動を行いつつ、そこに現実世界の価値(同セマンティクス)が付与されたりする、という話らしい。
セマンティクスがどこからもたらされるのか、というのは、自分の文脈の中では、以前書いた自由を供給するものはどこからくるのかという問いに相当する。
量的な差異、質的な差異、というのは『物理学はいかにして創られたか』によく出てきた表現。物理学の歴史とは、質的な差異(例えば質量とエネルギー)と思われていたものが、量的な差異に過ぎなかったことがわかっていくという過程でもある。
ベルグソンは、時間を質的なものとみなして微積分(量的なもの)に還元できないと主張していたわけだけど、彼は時空連続体も計算機科学も知らないわけだし。
また、量的な差異が質的な差異になる、というのは、無論のことながら複雑系の科学でいうところの、創発という現象に他ならない。
シンタクスからセマンティクスが創発する、ということが起こったりしないのだろうか。

補記(20060501)

補助線をいくつか
量的な差異が質的な差異になるという点で、東浩紀の「郵便的」という概念もまた、創発という概念と似ている。
西垣通は、シンタクスからセマンティクスが生まれることは決してなく、セマンティクスからシンタクスが生まれてくる、と考えている。そしてその際に重要な役割を果たしたのが、「フィクション」である。
「フィクション」を表現するためには反実仮想を行わなければならないが、そのためには文法、シンタクスが必要だから、ということ。