筆者が3人いて、タグもいっぱいつけてタイトルが長くなるので、筆者名をタイトルでは省略した。筆者は土田知則、青柳悦子*1、伊藤直哉である。
いわゆる、批評理論についての概説書である。
「はじめに」と「おわりに」で、筆者ら自身が、単なる入門書にはしないということを明言しており、「自分自身の関心」「自分たちがおもしろいと思っていること」について書いていると述べられている。
しかしそのことは、この本が、何かに偏っていることを意味しない。
むしろ、「自分たちがおもしろいと思っていること」に忠実であるがために、幅広い領域をカバーしている。それは、以下にのせる目次を見れば明らかだと思う。
大雑把にまとめてしまえば、「読む」ということがどれだけ豊穣であるか、ということだ。
冒頭、ソシュールが紹介されて、現代思想とは「実体論から関係論へ」ということである、とまとめられている。つまり、例えば言語ないし記号であれば、それが指し示している実体があるわけではない、ということである。
「作品」を「テクスト」と呼びかえ、また「作者」から「読者」へと関心の軸をシフトしていく、二十世紀の文学研究というのは、特権的な「読み」の答え、ないし真理あるいは記号が指し示す実体を探求する試みではない、ということだ。
あるいは、デリダの「差延」という言葉が何度か出てくるが、意味というのは絶えず先延ばしされていくのである。それは例えば、「間テクスト性」によって引き起こされたりする。
そしてまた、「読む」ことを支えていることは一体何なのか、ということが問題視されていく。
虚構言語行為、ディスクールの権力、ジェンダー、書物というインターフェイス、そうしたものが「読む」ことを支えている。
僕たちは、ただ単純に「読む」ことができるわけではないのだ。
あるいは、そもそも「読む」とはどういうことなのだろうか、ということも問題になっていくのである。
一つの小説を読んで、様々な意味をそこから読み取れるとしたら、それは素晴らしいことのように思う。
「理論」は文学鑑賞の妨げになるという、文学研究者の間ですらしばしば耳にされるとんでもない俗説も、ここではっきり否定しておきたい。(中略)むろん作品を読む素朴な楽しみというものは、かけがえがない。だがそれは理論を学んだために損なわれるようなものではない。
(「おわりに」より)
以下、目次
注は、主に扱われてる学者
1 構造主義詩学の展開
記号とは何か?*2
ソシュール言語学から構造主義文学批評へ*3
ヤーコブソンの詩学
物語の潜在構造*4
物語論*5
2 文学理論の記号的転回
テクストと記号*6
テクストと修辞理論
メタファーとメトニミーの可能性*7
ディスクールの言語学と文学*8
現象学と文学*9
虚構言語行為論*10
3 社会のなかの文学
テーマ批評*11
マルクス主義文学批評の可能性*12
ジェンダー的読みを解き明かす
ディスクールの(権)力*13
コラム 「ディスクール」って何?
読者の誕生*14
コラム どんな種類の読者が存在するのか
欲望・貨幣・テクスト*15
作品から文学現象へ*16
4 テクスト理論の諸相
意味生成分析*17
テクストの精神分析*18
対話あるいはテクストの多声性*19
「間テクスト性」の詩学*20
作品からテクストへ*21
テクストの文体論的分析*22
メタフィクション*23
テクストのインターフェイス*24
5 新たな理論展開に向けて
テクストのなかの他者性*25
ドゥルーズとスキゾ分析
デリダと脱構築
アメリカにおける脱構築批評*26
フェミニズムと文学理論*27
レトリカル・リーディング*28
テクストから歴史へ*29
コンピュータと文学研究
- 作者: 土田知則,神郡悦子,伊藤直哉
- 出版社/メーカー: 新曜社
- 発売日: 1996/11/29
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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