ラマルク+オルセン編『美学と芸術の哲学:分析的伝統:アンソロジー』

原題は"Aesthetics and the philosophy of art : the analytic traditon : an anthology"で、編者はPeter LamarqueとStein Haugom Olsen。
英語の本なので、ブログ記事タイトルは自分の勝手な翻訳。以前、洋書のタイトルをそのままブログのタイトルにしたら、何か反応が悪かったような疑いがあるので、あえて訳してみた。分析的伝統は日本ではあまり使われない言葉。日本では「分析美学」と言った方がまだ通じやすいと思うが、向こうではあまり使わないらしい*1
46本の分析美学論文が収録されているアンソロジー
だが、実は収録論文をまだ1本も読んでいない!
各章に簡単なIntroductionがついており、まずそれらだけを読んでみた。ので、今回の記事はIntroductionのみの紹介となる。
各論文については、これから追々読んでいく予定。正直、全部読み終わるのに何年かかるのか、そもそも全部読み終わるのかは不明。論文1つ読んだらエントリーを1つあげていくことができればと思っている。その際、このエントリにリンクをはってまとめて見れるようにもしておく予定。

この記事(と日本の分析美学)について

分析美学、あるいは「分析」のつかないただの「美学」についても、世間一般的にはかなりマイナーな感のある学問である。
さて、試しに「分析美学」でググってみると、
今井さんのこれから美学を学ぼうと思う人へ、そして自らのためにも―美学主要文献(第1回) - 死に舞
森さんの分析美学の教科書紹介 - 昆虫亀
がトップに出てくると思う*2
検索結果をさらに掘り起こしてみると、他のページも色々出てくるには出てくるのだが、森さんのブログ(昆虫亀)が圧倒的に多い。
さて、この森さん、現在、分析美学の研究会などを行っており、さらに分析美学の教科書の翻訳を進めているそうで*3、この動きによって今後、日本でも分析美学が盛り上がっていくのではないかと予想される。
というわけで、今回の記事は、今後の分析美学の盛り上がりを応援し、(分析美学へ興味を持つ人を増やすことで)来るべき分析美学教科書の売り上げにも僅かながらでも貢献でれきば、という思いを込めている。
(2013年7月追記→教科書出た!ロバート・ステッカー『分析美学入門』 - logical cypher scape
分析美学でググった時に教科書案内が出てくるのは非常によいと思うけど、分析美学についての解説が日本語で読めないというのもちょっと寂しいというのもあった。
語学力という点でも、分析美学についての知識という点でも、甚だ心もとないので、そこらへんは割り引いて読んでもらいたい。変なところがあれば、指摘もしてほしい。

General Intorodction

このアンソロジーの目的
「美学と芸術の哲学(分析的伝統)におけるキーテキストのいくつかを一冊で示すこと」
「1950年代の始めから現在に至るまでの発展を示すこと」
「理論的な一般的な話題から特定の芸術形式に関わる個別の話題まで、分析美学の幅広いトピックを示すこと」
「研究と教育のための価値あるリファレンスを提供すること」
同じ、ブラックウェル哲学アンソロジーシリーズから、『大陸系美学――ロマン主義からポストモダンまで』というものも出ていて、それと対になっているのが、このアンソロジー


分析哲学の歴史について軽く触れられている。「分析」ということについて、フレーゲラッセル・ウィトゲンシュタインとライルがそれぞれ挙げられているっぽい。その後、分析的手法の特徴とかが列挙されている。
・論理と概念分析の顕著な使用
・合理的手法へのコミットメント
・客観性と真理の強調
・過度にレトリカルで比喩的な言葉を避け、リテラルな散文体を好む
・用語を定義することを必要とし、論題を明示的に表現しようとする
・仮説/反証/修正といった、準科学的な論証の方法
・しばしば論争をすることを通じて、問題を明らかにしていくことに取り組む傾向
・模範として科学的言説を扱う
存在論的「倹約」の傾向(科学的実在論、物的一元論)
・哲学的問題は、無時間的で普遍的であり、少なくとも単なる歴史的文化的な構築物ではないという信念


続いて、分析美学について
1940〜50年代まで、分析哲学者は美学に関心をもつようになっていなかった。
1954年にウィリアム・エルトンが編集した『美学と言語』というアンソロジーが出る*4。「美学の混乱を明らかにし、分析的手続きのモデルを哲学者と学生に提供する」
シブリーの「美的概念」が1959年、ビアズリーの『美学』が1958年に出ている。
2つの方向の動きによって、美学は分析的伝統のメインストリームへと統合。
1つは、美学に深く関わっていない哲学者による他のトピックでの話題が美学の議論になったもの。マクダウェル、C.ライト、ペティット実在論のテストケースとして美的性質を利用した。D.ルイスは可能世界論をフィクションの意味論に適用した。インワーゲンとサロモンは虚構的対象と存在論について書いた。ウィギンは美的判断の主観主義を擁護した。
もう一つの方向は、美学から他の哲学へいったものである。シンボリズムのグッドマン、ごっこ遊びのウォルトン、美的概念のシブリー、識別不可能性のダントー存在論のレヴィンソン、解釈のマーゴリス、美的文化のスクルートン、フィクションのカリー。
言語哲学は美学においても意味と真理の問題に興味を向けた。虚構性というものへ注目が向いた。グッドマンやウォルトンが、存在しないものについての絵や文学作品についてのアイデアを探求した(パート7)。言語行為論から、サールなども美学に参加した(パート6)。ビアズリーは、意図についての問題を取り上げた(パート4)。意図についての論争は、心の哲学や意味理論といった分析的伝統においてもよくあるものである。ウィトゲンシュタインからの影響もあった。ヴァイツは、芸術の定義を探求するというアイデアを批判した(パート1)。分析哲学における形而上学復権により、芸術の存在論についての仕事もでてきた(パート2)。シブリーによる美的概念についての議論が特徴的なトピック(パート3)。
最近の分析美学は、絵画、文学、音楽、映画、写真といった個別の芸術形式にも注目している。
美学が文化と結びついていること。どういう作品を取り上げてアプローチするか。分析的アプローチの特徴は、特定の芸術形式について普遍的な主張と個別の作品を参照することによる主張とのバランスをとっている。例えば、スクルートン(パート9)
分析美学は「芸術の哲学」や「メタ批評」というふうにアイデンティファイすることもあるが、美学の全てが芸術の哲学なわけではない。本書は、ヘップバーンのパイオニア的な論文を含む、自然の美学についての章も含んでいる(パート11)。アームソンやシブリーも、美学を芸術的なものに制限するのに反対している(パート1,パート5)。

目次

(以下、テキトーにそれっぽく訳。人名の音はマジでわからん。著者名後ろの注釈に入っているのはググって見つけた情報)

  • パート1 芸術を定義する
    • モーリス・ウィーツヴァイツ*5「美学における理論の役割」(1956)
    • J.O.アームソン*6「何が状況を美的にするか」(1957)
    • アーサー・C・ダントー「アートワールド」(1964)
    • ジェラルド・レヴィンソン「歴史的に芸術を定義する」(1979)
    • ジョージ・ディッキー「新・芸術制度理論」(1983)
    • モンロー・C・ビアズリー「芸術の美的定義」(1983)
    • ステファンスティーブン*7・デイヴィス「ウェイツの反本質主義」(1991)
  • パート2 芸術の存在論
    • ジョセフ・マーゴリス「芸術作品の存在論的特性」(1977)
    • ジェラルド・レヴィンソン「音楽作品とは何か」(1980)
    • ピーター・キヴィ*8「音楽のプラトニズム」(1983)
    • グレゴリー・カリー「アクションタイプとしての芸術作品」(1989)
  • パート3 美的性質
    • フランク・シブリー「美的概念」(1959)
    • ケンダル・L・ウォルトン「芸術のカテゴリー」(1970)
    • フィリップ・ペティット*9「美的実在論の可能性」(1983)
  • パート4 意図と解釈
    • S.H.オルセン*10「文学作品の意味」(1982)
    • モンロー・C・ビアズリー「意図と解釈」(1982)
    • ジェラルド・レヴィンソン「文学における意図と解釈」(1996)
    • ロバート・ステッカー「構造主義構築主義*11のジレンマ」(1997)
  • パート5 芸術の価値
    • P.F.ストローソン「美的評価と芸術作品」(1974)
    • フランク・シブリー「独自性、芸術、評価」(1974)
    • アンソニー・サヴィル「時間の試練」(1982)
    • マルコムル・バッド「芸術的価値」(1995)
    • ピーター・ラマルク「悲劇と道徳的価値」(1995)
    • ベリーズ・ゴート「芸術の倫理的批評」(1998)
  • パート6 虚構性
    • コリン・ラドフォード「我々はどのようにしてアンナ・カレーニナの運命に感動することができるのか」(1975)
    • ケンダル・L・ウォルトン「フィクションを怖れる」(1978)
    • ジョン・サール「フィクションの論理的身分」(1979)
    • ピーター・ラマルク「我々はどのようにしてフィクションを怖れたり同情したりすることができるのか」(1981)
    • ジェローム・ストルニッツ「芸術の認知的なトリビアルさについて」(1992)
  • パート7 画像的芸術
    • ケンダル・L・ウォルトン「再現representationはシンボルか?」(1974)

ケンダル・ウォルトン「表象は記号か」 - logical cypher scape

    • ロジャー・スクルートン*12「写真と再現」(1983)
    • ジャック・W・メイランド「オリジナル、コピー、美的価値」(1983)
    • マルコルム・バッド「写真はどのように見えるか」(1993)

Mulcom Budd “How pictures look” (マルコム・バッド「画像はどのように見えるか」) - logical cypher scape

    • リチャード・ウォルハイム「画像的再現について」(1998)

リチャード・ウォルハイム「画像的表象について」 - logical cypher scape

  • パート8 文学
    • ジェニファー・M・ロビンソン「文学作品における様式と個性」(1985)
    • S.H.オルセン「文学の美学と文学の実践」(1987)
    • ピーター・ラマルク「作者の死」(1990)
  • パート9 音楽
    • ロジャー・スクルートン「音楽を理解する」(1983)
    • ピーター・キヴィ「音楽の深さ」(1990)
    • ジェニファー・M・ロビンソン「音楽における感情の表現と喚起」(1994)
  • パート10 大衆芸術
    • ノエル・キャロル*13「映画の力」(1985)

ノエル・キャロル「映画(movies)の力」(『分析美学論文アンソロジー』より) - logical cypher scape

    • ブルース・ボー「ロックミュージックの美学へのプロレゴメナ」(1993)
    • スティーブン・デイヴィス「ロック対クラシック」(1999)
  • パート11 自然の美学
    • R.W.ヘップバーン「現代美学と自然美の軽視」(1966)
    • アレン・カールソン「自然環境とその観賞」(1979)
    • マルコルム・バッド「自然の美的観賞」(1996)

パート1 芸術を定義する

「何が芸術か?」は美学の根本的な問題としばし考えられている。
20世紀の初め、芸術の本質を定義しようとする無数の試みがみられた。そうした試みが行われた時代と、芸術運動の増加が見られた時代がと一致していたのは偶然ではない。しかし、1950年代の分析哲学者たちはそこに混乱だけを見ていた。
モーリス・ヴァイツは、芸術の本質を探すのは誤った考えであると主張にとって、芸術の概念とは「開かれた概念」であって、必要十分条件はなじまない。ヴァイツはウィトゲンシュタインの家族的類似を参照して、芸術と呼ばれる作品や活動はゆるく繋がっていると考えた。
ヴァイツの論文は分析美学に強い影響を与えたが、スティーブン・デイヴィスは、全ての分析哲学者がヴァイツに同意しているわけではないことを示している。芸術の本質を探す試みとして、対象の固有の性質ではなく外的・関係的な性質に関心を移すようになった。そのような探求の例として、ダントー、ディッキー、レヴィンソンがいる。
ダントーによれば、何かを芸術として見るためには、目では見つけることのできないもの、つまり芸術理論や芸術の歴史の知識・アートワールドが必要である。ウォーホルのブリリオボックスと普通のブリリオボックスと見た目で区別することができない(「識別不可能」)。何がウォーホルのブリリオボックスを芸術作品にしているのかといえば、芸術の理論である。ダントーにとって、ヴァイツに反して、全ての芸術に本質的なものはあるのである(「アートワールド」)。
ディッキーは「制度理論」によってダントーの説明を形式化した。「芸術作品とは、アートワールドの人びとに提示するために作られた人工物である。」もし芸術制度がなければ、たとえ芸術作品と我々が呼んでいるようなものがあったとしても、芸術作品はなかった。
レヴィンソンは、何かを芸術作品にするものは、以前の芸術作品との関係であるとした。
アームソンは、美的ということは芸術に限定されないと主張した。
ビアズリーもまた、美的は芸術に限定されないということに同意する一方、芸術的であることは必然的に美的であることに結びつくとした。「芸術作品は、美的関心を満たすキャパシティをそれに与えるという意図によって作られたものである。」

パート2 芸術の存在論

芸術作品には、絵画、彫刻、版画、写真、映画、詩、小説、演劇、建築、音楽色々あるけれど、これらが全て入るような存在論的カテゴリーはあるのか。
ダンス、音楽、ドラマはパフォーマンスだし、詩や小説は複写copiesだし、版画や映画は複製品reproductionsだし、彫刻や絵画は物理的対象である。
マーゴリスは、パースのタイプとトークンの区別を使って議論した。作品はタイプで、作品の上演perfomanceがトークンである。音楽やダンスは、1つのタイプにたくさんのトークンがある。同様に、小説の複写や配給された映画はトークンに分類される。
タイプであるような作品と、絵画や彫刻といったユニークな対象である作品とを対比させる人びともいる。芸術作品を抽象的存在(タイプ)と物理的対象とにわける二元論。
多くの哲学者は二元論ではなく全ての芸術を1つのカテゴリーにいれたがる。ストローソンは、絵画は個物ではなくタイプだと主張。人びとが絵画を個物だと扱ってしまう理由は、単に完全に複製するようなテクノロジーを持っていないから。
カリーもまた、作品が物理的存在であることを否定し、「アクションタイプ」という特別なタイプだと主張する。ここでいうアクションとは、音や言葉や色のある構造を発見することである。
マーゴリスもまた全ての芸術作品を統合的に説明しようとしたが、ストローソンやカリーと異なり、全て個物であり抽象的な普遍はないと主張した。
音楽作品は、形而上学にとって難しい。レヴィンソンは、音楽作品は単なる「音構造タイプ」ではないとする。純粋に抽象的な構造は無時間的な存在であり、音楽は創造されることがないし、作品と作曲者とのあいだに必然的なつながりがなくなる。音楽は、時間的であり、高度に複雑な類の音構造タイプである。
キヴィは、音楽作品のプラトニズム、無時間的で普遍的であるとする立場を擁護する。
この章は、他の章と比べてテクニカルである。カリーは双子地球の思考実験を使ったりしている。

パート3 美的性質

シブリーの論文は分析美学にとって重要である。
美的な言葉をリストした。「均整の取れた」とか「穏やか」とか「パワフル」とか「ビビッド」とか「陳腐な」とか「センチメンタル」とか。このリストは、美学aestheticsが「美しいbeauty」よりももっと様々な概念と関係していることを思い出させる。シブリーは、芸術作品に対して言われる非美的な言葉も対比させる。「丸い」とか「赤い」とか「ゆっくり」とか「単音節の」とか「ソネット形式の」とか。シブリーは、美的と非美的な概念との関係について考えている。非美的性質は普通の感覚で分かるが、美的性質は趣味やセンスを必要とする。批評の役割は作品の美的性質を見たり聞かせたりさせること。美的性質はいつも非美的性質に依存するが、非美的性質の集合は美的性質の存在にとっての十分条件ではない。
美的性質と非美的性質の関係について、スーパーヴィーニエンスという考えがある。美的性質をA性質、非美的性質をB性質と呼ぶとする。弱いスーパーヴィーニエンスは、B性質の違いなしにA性質が違うことはないという主張である。何かがA性質をもっていたら、どんな世界でもそれはB性質を持っているというのが強いスーパーヴィーニエンスの主張である。
しかし、このような主張は間違いである。ダントーは、物理的組成が同じものでも異なる歴史的文脈がカテゴリがあれば異なる美的価値を持ちうると主張。また、ウォルトンは、芸術作品の美的性質と非美的性質を、何のカテゴリーに割り当てられるかということなしに、一見して区別することはできないと主張する。様々な基準によって決められた正しいカテゴリーがあると考えている。
ペティットは、言語哲学でも問題になっていることについて。実在論反実在論。例えば、「殺しは悪である」という文は、事実を示しているのか、行動などを指示するように機能するものなのか。ペティットは、実在論から美的な特徴付けを構成してみる。

パート4 意図と解釈

作品解釈には2つの考えがある。
1つは、解釈とは、読者や観衆が作品に埋め込まれた意味を回復するものである、という考え。この考えによれば、解釈には制限がある。つまり、ある解釈はほかの解釈よりも悪いとか。
作品解釈の根拠を巡る論争として、意図主義vs反意図主義がある。これはビアズリーから始まる。ビアズリーは、作者の伝記的事実は作品の解釈や評価とは無関係と考えた。発話には、発語内行為のperfomnaceとrepresentationの2種類があり、文学作品は発語内行為のrepresentationであると主張。representationは実際の意図や事実から離れているとした。
レヴィンソンは、ビアズリーのような反意図主義に反対するが、極端な意図主義にも反対する。意図を2種類に分ける。実際の意図と意味論的意図semantic intentionsである。後者は、作品の内的構造や周囲のコンテクストに基づいて作者に仮説的に帰するような意図である。
作品解釈についての2つの考えのもう一つは、作品の意味は読者や観衆による構築物であるというものである。ステッカーがこのような立場を要約し、批判している。
解釈の理論は、意味論の語彙を使って問題を定式化する傾向にある。「意味」という語は、「意図」や「目的」と同義語として使われ、芸術作品の意味を言語的表現の意味とのアナロジーで説明しようとする。S.H.オルセンは、意味論の語彙を使うことは不適切だと主張する。このような語彙は、意図主義と反意図主義の議論を狭めてしまう。それは、文学作品を鑑賞の対象としてではなく理解の対象としてしまい、解釈の文学的様相と他の様相との違いを曖昧にしてしまう。オルセンは、文学作品は単なるテキストではなく、鑑賞する芸術作品なのだから、これはよくないと主張している。

パート5 芸術の価値

1970〜80年代にラディカルな相対主義が流行したが、分析哲学懐疑論相対主義を受け入れたがらなかった。しかし、価値的な用語に注目するのが、分析的アプローチの特徴。
シブリーとストローソン。彼らはともに、同じ特徴がある作品では価値を上げ、別の作品では価値を下げるという現象に気付いた。シブリーは、これを説明するためには作品の特徴を指摘する以上のことをしなければならないと主張し、ストローソンを批判。また、美的価値は非芸術的コンテクストに依存するとも。
バッドは、芸術作品の価値はそれがもたらす経験の価値であるとした。それは、作品の美的に関係している性質への気づきであり、そこには、意識の活性化や、人間心理、政治や社会構造、道徳などへの気づきといったことも含まれている。しかし、バッドは、美的価値と役立つという価値とを同一化することには抵抗する。メッセージや思想と芸術的価値を結びつけることにも反対している。
ラマルクは、悲劇がその道徳的な点で価値をもっているという考えに疑問を呈する。文学的価値が道徳的価値を含んでいるというのは間違っている。
一方、ゴートは、美は倫理と完全には分かたれないとした。作品の倫理的側面は美的評価の正当な一面であるというのが、彼が倫理主義といって擁護する立場。
サヴィルは、芸術作品が時間の試練を生き残ってきたということを述べる。作品が単に長い期間存在し続けていたというだけでは不十分で、時代を通して注目を集め適切な解釈の元になければならないとする。

パート6 虚構性

分析哲学は美学以前から、フィクションの問題を扱ってきた。意味が指示であるならば、フィクションは指示対象がないので、無意味になってしまう。
美学においてフィクションの問題は主に3つ。「フィクションはどのように特徴付けるのがよいか」「フィクションに対する感情的反応をどのように説明するのがよいか」「フィクションはどのように真実と関係しているか」である。
言語哲学からの貢献としては、サールの論文がある。彼は、文学とフィクションを区別して、文学かどうかは読者が決め、フィクションかどうかは作者が決めるとした。
ウォルトンは、あらゆる再現芸術に適用できる包括的なフィクションの論理の説明をした。彼はフィクションをごっこ遊びの小道具であるとした。フィクションに対する心理的反応についてじて大きなインパクトを与えた。ホラー映画を見て怖れるのは、本当の怖れではなくてごっこ遊びの怖れであり、準-恐怖であるとした。観客は、ホラー映画が危険であるとは信じていないからである。
フィクションのパラドクス。(1)フィクションだと知っているものに対して怖れや同情などの感情を抱く。(2)感情を抱くためにはその対象が存在していることを信じている必要がある。(3)読者や観衆は、存在していることを信じていない。
ウォルトンは(1)を否定したが、ラマルクは(2)を疑う。信念ではなく、vivid thoughtで十分であると考えた。
ラドフォードは、ウォルトンの論文やフィクションのパラドクスが定式化する前に発表した論文で、フィクションの登場人物の運命に心動かされるのは「自然」に見えるけれども、「矛盾」があると主張した。
三つ目の哲学的問題は、フィクション作品と真理や認識的な価値との関係である。プラトンは詩人を告発した。フィクションは、認識的にも道徳的にも正しいものから遠ざけるという告発。これに対する反論は2つありうる。1つは、芸術にも認識的価値があると主張すること、もう一つは、芸術は認識的にはトリビアルであることを認め、価値は他のところにあると主張すること。ストルニッツやウォルトンは、後者。

パート7 画像的芸術

絵画はどのようにして何かについての絵画となるのか。単純な見方として、類似説があるが、類似は十分条件にも必要条件にもなっていない(類似しているのにrepresentationでないもの、representationだけれど類似していないものがあるから)。
ある種のシンボルとして考えるものの一人としてグッドマンがいる。ウォルトンは、グッドマンがrepresentationを慣習的なものとみなしたことには賛成するが、絵と言語のアナロジーについては反対する。スクルートンもまた、絵と言語のアナロジーには反対している。さらに、慣習によるものではなく、普通の目の自然な機能によって見られるものだとする。また、スクルートンは絵と写真との違いについても述べている。representationalな絵画は、対象についての思想を包含しているが、写真は因果関係によって対象と結ばれ、思想や意図を含んでいないから、representしていないという。
バッドは、類似理論の刷新を試みる。「ヴィジュアル・フィールド」という概念を導入する。
ウォルハイムは、「seeing-in」理論をとなえる。絵が何かをrepresentしているとき、そこには視覚的経験がある。その経験は、representされているものについての視覚的気づきを含む。それは知覚能力である。
representationについての理論はたくさんある。グッドマンの記号理論、スクルートンのseeing-as理論、ウォルハイムのseeing-in理論、Schierの自然生成理論、ピーコックの感覚的性質理論、ウォルトンのごっこ遊び理論などである。
メイランドは、コピーと贋作について。オリジナルには、それがオリジナルという事実においてコピーを越えた美的アドバンテージはない。どのようにして絵は美的に知覚されるのか、絵についての非美的な事実と結びついて。

パート8 文学

文学は、そのメディアが色や音、物理的素材(ブロンズや石など)ではなく文字であるということによって、他の芸術形式よりも問題がある。意図や解釈の問題である。
分析的伝統における文学の美学は、意図や解釈、文学鑑賞の性質、文学やフィクションと真理の関係、文学が感情を引き起こすことなどの問題を扱ってきた。この章では、パート4や6で明らかになっていないものを扱っていく。
ロビンソンは、作者のパーソナリティが文学作品の特徴をアイデンティファイすると主張している。
ラマルクは、作者の死という主張を分析し、それは誤りであると指摘している。作者、作品を理解するのに関係している文化的社会的コンテクストを持った歴史的個体としての作者は、文学作品の錨として残っている。
オルセンは、伝統的な文学理論が還元的なものと非還元的なものの二種類あると指摘する。還元理論は、文学とは何かという問いに対して、あるテクストを文学作品に分類する必要十分条件となるようなテクスト的特徴を特定することによって答えようとする。非還元理論は、テクスト的特徴の集まりにスーパーヴィーニエントする「美的特徴」をあげようとする。しかし、そのどちらも、1つの作品の性質によって文学作品の性質を説明しようとする点で原子論的である。オルセンは、1つの作品単独ではなく文学作品が制度的実践のなかで演じてる役割へと注目しようとする。


パート9 音楽

古典的美学で音楽は低く見られており、分析美学でも初期では相対的に無視されていた。20世紀最後の30年間で急に注目されるようになった。音楽の美学についての中心的な話題は3つある。1つは、音楽作品の存在の問題、2つ目は音楽鑑賞、音楽のもたらす経験についての問題、3つ目は音楽の価値の問題。1つ目はパート2で、3つ目はパート10で扱う。
この章では音楽の鑑賞、音楽を理解することは何かということについて。
スクルートンは、音楽は物理的なものではなく意識的なものに属するという。科学的説明よりも比喩的な言葉の方が適している。トーンを聞くことは、単なる音soundを聞くことからは区別される。
スクルートンとキヴィはどちらも、音楽はrepresentationではないと考えている。問題は深さprofoundである。文学作品であれば主題の深さが作品を深くするが、音楽作品では何があるか。音楽的サウンドの可能性、至高の技能。
感情を表すという音楽の能力が、音楽に価値を与えており、深さについての説明にもなっていると考えられることもある。
キヴィは、オーディエンスの感じた悲しみが音楽の悲しさであるという人びと(arousal theorist)を強く批判する。ウォルトンもarousal thoryを否定するが、想像的な感情経験を音楽は引き起こしているという。
ロビンソンはそうしたそれぞれの立場を分析し、感情経験はexpressiveな音楽によってかき立てられているという。

パート10 大衆芸術

19世紀末のヨーロッパ諸国では、普遍的なリテラシーが達成され、文化が民主化し、それはさらに趣味の民主化も引きおこした。
大衆芸術とハイアートの、それぞれの鑑賞や評価の方法はどのように関係しているのか、大衆芸術は本当に芸術的なのかという問題。
大衆芸術を正当化するためには2つの方法がある。1つは、大衆芸術は実はハイアートと同じなのだという方法であり、もう一つは異なる基準を作る方法である。
ボーは、ロックとクラシック音楽とのあいだに異なる美的な基準を作る。
デイヴィスは、オルタナティブな基準の問題は、ハイアートから離れるほど美的信用が弱くなることだとした。
キャロルは、映画が広く激しく人びとを引きつけている(教育のないような人びとにも広くアクセスできる)ことを説明しようとした。画像的なrepresentationは、絵をどのように読むかということを教えなくてもあらゆる文化的背景をもった人びとに認識可能。

パート11 自然の美学

18世紀以降、美学は芸術について扱う傾向。
ヘップバーンは、自然の美的観賞について注目し、自然の観賞と芸術作品の鑑賞が異なると主張。オブジェクトではなく環境についての経験であり、フレームや完成したオブジェクトがない、芸術作品とは違う方法で想像力のスコープを提供することが違いである。芸術作品の鑑賞を訓練している人は、自然の美的観賞法も得るとも主張している。
カールソンは、環境美学の概念を提案する。鑑賞のモデルとして3つあげるが、オブジェクトモデルと風景モデルは、芸術作品からきたモデルなのでカールソンは却下し、環境モデルを採用する。また、鑑賞者の知覚は信念や概念枠組みに左右されるという。科学的知識と結びついた常識的知識が不可欠。
「自然」と「美的鑑賞」という概念についての概念分析は、バッドが行った。自然の美的観賞について重要なことは、自然であるものとして鑑賞べきだということ。バッドによれば、自然環境から切り離して自然の対象を美的に鑑賞することは全く可能である。また、自然の美的観賞と芸術の鑑賞とを再編成し、自然の美的な鑑賞とそうではない鑑賞との違いを明らかにするような美的鑑賞という概念を提供する。



Aesthetics and the Philosophy of Art: The Analytic Tradition: An Anthology (Blackwell Philosophy Anthologies)

Aesthetics and the Philosophy of Art: The Analytic Tradition: An Anthology (Blackwell Philosophy Anthologies)

*1:この本の中で、analytic aestheticsという言い方がないわけではなかった

*2:どちらも、分析美学の教科書が紹介されていれるけれど、全然日本語がないことが分かるだろう

*3:『現代美学基本論文集』の企画もあるとか

*4:ちなみに「分析美学」でググるとCiNii論文が検索結果の上の方に出てくるのだが、このアンソロジーについてのまとみみたい。未読。

*5:当初、Weitzをそのまま読んでウェイツと表記していたのだが、『西洋美学史』にはウィーツという表記があったのでそちらに変更した。しかし、コメント欄の指摘に従いヴァイツとする

*6:オースティン『言語と行為』の編者。アリストテレス研究などもしていたっぽい)

*7:コメント欄参照

*8:70年代から音楽の哲学を始め、その立場はデイヴィスに受け継がれている

*9:政治哲学とかを主にやっている人っぽい

*10:ノルウェー出身。他はみな、英米加豪新と英語圏出身なので、もしかしたら収録されている中では唯一の非英語圏出身者かも。ただし、今は香港の大学にいる

*11:コメント欄参照

*12:著作が多く小説とかも書いてるらしい

*13:かつてはジャーナリストだったこともある