『シビル・ウォー』

『シビル・ウォー』見てきた
これは確かに映画館のデカい音で見るのがいい映画だ
しげるさんが、アメリカ版パト2的なボンクラ性のある映画って言ってたのがきっかけで見に行って、実際そういう映画だなあとは思った
あと、『地獄の黙示録』ってあんまりよく覚えてないのであってるかどうか分からんけど『地獄の黙示録』みあった。トワイライトゾーンめぐり。
あと、曲がよい
https://bsky.app/profile/sakstyle.bsky.social/post/3l6h5leq3jx2s

この作品は、アメリカが内戦状態になった中で、戦場カメラマンたちによるロードムービーとなっていて、シリアスな作品ではある。
ただ、それはそれとして(シリアスであることとボンクラであることは両立するわけだけど)、やっぱこう、ワシントンD.C.上空に戦闘ヘリが飛んだりホワイトハウスに戦車が突っ込んでいったりするシーンが見たいよねっつう作品でもある。
(パト2も作中で色々テーマっぽいこと言ってるけど、結局のところ、首都高を走っている戦車が見たいっつう映画ではある)
もっとも、ラストのD.C.の戦闘シーンは見応えがあるものの、全編通してそういう戦闘シーンが見れる映画か、といえばそうではない。
これはすでに散々指摘されていることだが、内戦状態になったアメリカが舞台ではあるが、ポリティカルなリアリティを期待して見るとそうではないし、あるいは、戦闘シーンバリバリの戦争映画だと思っても期待外れになるだろう。
すでにあちこちで言われていることではあるが、この映画はジャンルとしてはロードムービーなのである。
道々で主人公たち(と観客である我々)は、不可解な状況に出くわす。そして、その不可解さは基本的に不可解なままで、わかりやすい説明はなされない。
戦場における不可解・不合理・不条理な状況を味合わされる作品なのだが、再び話を戻すと、それでもやっぱり戦闘シーンを見たいよね、という欲望がある。少なくとも観客である自分にはある。
で、この作品の主人公というのは、戦場カメラマンであるリーとジェシーということになるのだろうが、記者であるジョエルもその点ではなかなか重要な登場人物だと思う。
ロイターの記者であり、リーと組んでニューヨークからD.C.への道行を企図したのがジョエルで、この旅の目的は、1年以上取材を受けることを拒んでおり、近いうちに殺されるであろう大統領への単独インタビューをすることであるのだが、ジョエルはある種の戦争ジャンキーであることも示されている。
ジョエルは、夜間の砲撃戦を見ながら勃起してると言う。もっとも、彼が本当に戦闘を見ることで性的興奮をしているのかどうかは微妙で、一種の韜晦というか、彼なりの戦場への適応としてそういう冗談を言っている感じはするのだが、ただ、戦場を見すぎたせいでそれがストレスとして蓄積されているリーに対して、ジョエルはいくらかは戦場を楽しんでいるように見える。
そして、このリーとジョエルの違いは、戦争報道の持つ二面性を表しているようにも見える。
つまり、戦争報道というのは、一方では戦争の悲惨さ・非道さを明らかにして世に対して訴えるものではあるが、他方では、安全なところから戦争を楽しみたいという物見高さという俗情との結託という面もあるだろう。
ジョエルは最後、大統領に何か一言とコメントを求め、命乞いの言葉を聞くと、それで十分だとインタビューを終える。大統領の俗物性を暴き出したインタビューともいえるが、どちらかといえば話にオチをつけたというか、戦争を見世物にする演出めいたところがあって、ジョエルという登場人物が何を象徴しているのかを考えさせられる。
D.C.で市街戦やってるとこ見たいよねというボンクラ的な欲望をかなえてくれる作品であると同時に、そういう欲望があることを見透かしたうえで織り込み済みのようにも思える。


物語はニューヨークから始まる。
ベテランの戦場カメラマンであるリーは、ロイター記者のジョエルとともに、大統領へのインタビューを画策し、D.C.行きを計画する。
そこに、ニューヨークタイムズの記者であるサミーと、戦場カメラマンに憧れるジェシーが同行することになる。
サミーはすでに高齢でその肥満とあいまって走ることも難しい身体で、ジェシージェシーで初めての経験に浮足立つ全くの子供である*1
リーは、プロフェッショナルに徹していてどんな残酷なシーンにも動じずシャッターを切る。が、その内心では、すでに限界が来ていることが最初の方から示されている。また、付き合いの長いサミーも、そのことに気付いている。


ガソリンスタンドにて、拷問されて吊るされている男を見せられる。それを見せた男は、高校の同級生だという。ジェシーは言葉を失い写真も撮れないが、リーは事も無げに対応し、写真を撮る
ショッピングモールの駐車場に焼け落ちたヘリコプター
戦闘に立ち合い取材するシーン、兵士たちに完全密着取材というか、本当に至近距離で同行していて、なんというかすごい。すごいというのは、なんかこう作り物めいている感じというかなんというか。
で、兵士たちはこともなげに捕虜を処刑にする
国連が運営している難民キャンプに立ち寄るシーンもある
かと思えば、内戦前と何ら変わらぬ状況を維持している村に迷い込むくだりもある(「トワイライトゾーン」)。住人は「関わらないようにしている」とだけさらりというが、村としてはひそかに武装している。ジェシーはつかの間のショッピングを楽しむ
空き地(?)に、ガラクタが散乱していてクリスマスソングだけが流れている。様子が変だぞと思いながら車をおそるおそる進めていくと、狙撃される。慌てて身を隠すと、アンブッシュしている兵士が2人。奥にある家に狙撃兵がいるのだという。相手は一体どの勢力なんだと根掘り葉掘り聞こうとするジョエルに「お前、バカだな」と返す兵士。
本作は、内戦状態になっているアメリカを描くが、どういう内戦が起きているのかについて詳細な説明はなされていない。そしてここでは、現地で戦っている者たちもほとんど頓着していない様子をうかがわせる。
後ろから猛スピードで追い上げてくる車、すわ何事かと思ったら、ジャーナリスト仲間だった。完全にお祭りテンションになっていて、走っている車相手に乗り移る。それを見ていてジェシーもテンションがおかしくなっていて、向こうの車へと勝手に乗り移る。
そのままどこかへ走り去って行ってしまったので、必死で追いかけると、ジェシーと運転していたもう1人のジャーナリスト仲間が銃を突きつけられているところに出くわす。
ここが、CMなどで一番有名になっていると思われる「どんな種類のアメリカ人だ」のシーンとなる。
サミーは出ていかない方がいいというが、ジョエルは記者証も持っているからといって出ていくが、相手のピンクサングラスの男は、まあ話が通じない。喚くとか騒ぐとかそういうタイプではなく、冷静に淡々と話してくるのだが、何を答えればいいのか分からない。というか、何を答えると助かって、何を答えると殺されるのかが分からない。このシーンは、確かに異様な緊張感がある。
最終的にサミーが車で突っ込んで助け出してくれるのだが、サミーは撃たれてしまう。
夜間、山火事で火の粉が舞い散る中を車で走りながら、サミーが車中で亡くなるのだが、このシーンの美しさも印象深いところだろう。


リーとジェシーは、最初と最後で逆転している。
リーは写真が撮れなくなり、ジェシーはバシャバシャ撮れるようになる
「私が死ぬところも撮るんでしょ」というようなことをリーに対して言っていたジェシーが、逆にリーが撃たれて倒れる一部始終を写真に収めることになる。
なんといってもリーは、サミーの死によって、戦場カメラマンであることを保っていた糸が切れてしまったのだろう。
これを、リーが人間性を取り戻すというように読み取る向きもあるようで(サミーの写真を消すところとか)、実際、それはそうなんだが、じゃあそれが肯定的に描かれているのかというと、結構アイロニカルだと思う。
リーは、ガソリンスタンドの件があった際に、戦場ではあんなの序の口でありもっと非道いものを見ることになる、と指摘している。その点を踏まえれば、サミーの死というのは、非常にありふれた出来事でしかないとは言える。実際、リーは、サミーはもっと非道い死を迎える可能性もあったので、全然マシな死に方だったとも認識している。
無論、ここで重要なのは、無残な死に接したかどうかではなく、身近な者の死に接したかどうかではある。
しかし、これまた多くの人が既に指摘していることだとは思うが、本作で描かれる様々な暴力は、世界に目を向ければありふれたものである。その悲惨さの理解も、リーにとっても結局は、母国アメリカで起きたこと、そして身近な者の死によって得られたとも言える。
もちろんこれもまた、自分事となれば受ける衝撃が異なるのは当然であるとは言える。しかし、リーは自らの仕事を、母国への警告のつもりだったとも述べていた。
堂々巡りな話をしてしまっているが、リーが母国での内戦やサミーの死にショックを受けてカメラマンとしてふぬけてしまうのは、個人の心情としてはよく分かるものではあるのだが、こんなんでショック受けてもらっちゃ困るっていうリーからジェシーへの指摘は、今度はリーに刺さりはしないか、ということである。戦場カメラマンの使命感という意味もあれば、アメリカっていう国が他の国でやってきたことを考えろよという意味もある。
しかし、じゃあ、最後のジェシーのようになるのが正しいのか、あるいはジョエルはどうなのか、と言ったときに、彼らのありようも手放しには受入れられないだろう。
おそらく、一番真っ当なバランス感覚を持ち合わせていたのはサミーだろう。しかし、彼は年齢的にも肉体的にも現場に行くのはもう難しく、本来ならリタイアしていてもおかしくない身であり、結果的には亡くなってしまった。
というわけで、主人公4人組は、4人それぞれに異なる有り様を示しているのだけど、そのどれもが一長一短あるというか、どの人物の道が正解だったとかそういうことがなく、どの道も行き詰まり感がある(2人は死んでいるし)。
それでいてエンドロールでは「夢を見続けよう」という歌が流れてくるわけである。


話戻って、リーたちは、シャーロッツビルの前線基地へと辿り着く。ヘリ、戦車、大勢の兵士たちが集まり、突然戦争映画の世界になる。
従軍ジャーナリストから、すでに西部連合はD.C.に到着し、大統領周辺にはごく少数の護衛が残っているのみだという。
そしてシャーロッツビルからD.C.へと進軍する。
それでもまだ最後の抵抗は激しく市街戦が展開される。写真を撮りまくるジェシーと、ふらふらついてくるだけのリー
国会議事堂への攻撃、そしてホワイトハウスへの突撃
装甲車の陰に隠れながら進んでいったり、ホワイトハウスから飛び出してきた車列を銃撃したり
リーは、その車には大統領は乗っておらず、まだホワイトハウスに残ってるはずだと直観し、ジョエル、ジェシーとともにホワイトハウスへ向かい、それを見ていた他の兵士たち何人かもついてくる
果たしてその中には大統領がいたのだが、銃撃戦の中、ジェシーをかばってリーは銃弾に倒れるのだった


この映画はカメラマンが主人公ということもあり、リーやジェシーの撮った写真と映画の画面が一致するシーンが度々あり、つまり、絵になるような構図が度々出てきてうまいのだが
一番最後は、ジェシーが撮った、大統領の遺体を囲んで笑う兵士たちの写真で終わる
SNSで誰かが、これは未来を予測させる作品というより、既視感を覚える作品じゃないかと言っていたのを見かけたが、これなんかも、実際には見たことないのに、既視感を覚えさせる写真で、このいかにもありそう感が、アイロニックだなと思う。
また、SNS上で誰かがポスト『虐殺器官』というようなことを言っていたのも見かけたが、確かに、この内戦下のアメリカというのは、虐殺の言語が解き放たれたアメリカのようにも見える。
作中のアメリカの政治的状況はあまり詳しくは語られないし、既に見てきたように、描かれるそれぞれのシーンにおいて、銃を持った者たちが一体どの陣営なのかはほとんど明示されない。彼らはただ、殺し合う一線を越えてしまったがために、ただ殺し合い続けているように見える。
ラスト、西部連合がD.C.を陥落させ、「悪の」大統領を倒したところで終わっているが、この世界のアメリカは、実際には西部連合と合衆国に二分されているのではなくて、「四」分されている。つまり、西部連合がD.C.を陥落させたからといって、内戦そのものが終わるとは限らない
そういうあたりも、はっきりとした答えの示さない作品だったなあと思う。

*1:23歳だ、というセリフがあるので、成人しているが、リーからは「子ども」と評されている