土居伸彰『21世紀のアニメーションがわかる本』

21世紀のアニメーション、すなわち2000年代及び2010年代の(主に)海外アニメーションの動向を論じている本
この本、宣伝において目を引くのは『君の名は。』『この世界の片隅に』『聲の形』なので、この3作品を主要に取り扱った本のようにも見えるのだが、実際にはそういうわけでもなくて、多くは海外アニメーション作品について論じられている。*1


本書の筆者は、海外のインディペンデントなアニメーション作品の研究者であると同時に、そうした作品の配給会社の代表をつとめ、映画祭のディレクターなどもしている人物である。
となれば、同じアニメとはいえ、『君の名は。』などとは対極の世界にいるとも言えるのだが、そんな筆者が、『君の名は。』『この世界の片隅に』『聲の形』を見たときに、海外の/インディペンデント作品の潮流とも相通じるところがあるということに気付き、衝撃を受けたところから本書は始まっている。
つまり、日本の商業アニメーションと海外のインディペンデントなアニメーションとをつなげようということが試みられている。


本書は、2部構成になっており、第1部は状況論・見取り図・ガイド的な、(インターミッションと)第2部は作品論・批評的な内容となっている。


特設ページがあって、取り上げられた作品で、youtubeやvimeoで見ることができるものはリンクがまとめられているのが、非常にありがたい。
『21世紀のアニメーションがわかる本』 関連動画まとめページ | 動く出版社 フィルムアート社


第1部のポイントは、従来「商業/アート」という二分法で語られがちだったところを、「大規模/中規模/小規模」という3分類で捉え直す点である。特に、21世紀は中規模領域が広がった時代であった、と。
また、デジタル化によて、制作と流通において敷居が下がったことで、「部外者」による潮流が生まれてきた、と。
第1部は「大規模/中規模/小規模」と「伝統/部外者」というのが大きな枠組となっている。
第1部と第2部におかれたインターミッションと第2部では、2000年代と2010年代との間の変化として、20世紀のモード(「私」)から21世紀のモード(「私たち」)の変化が見られるということが論じられている。
例えば、『風立ちぬ。』『かぐや姫の物語』『この世界の片隅に』は「私」という20世紀のモードで描かれており、一方、『『君の名は。』『聲の形』は「私たち」という21世紀のモードで描かれている、と。
あるいは、ディズニー作品においても『アナと雪の女王』や『ズートピア』は「私たち」の作品となっている。
第2部では、デジタル化したことによって変貌したアニメーション表現がどのように「私たち」を描くのかという点を、インディペンデント作品を事例にとして、「空洞化」というキーワードをもとに論じている。


一種のポスト・セカイ系論としても読める本になっている
渡邉大輔さんの映画論と相通じるものを感じる、というか。またそれは、超平面性ともおそらくつながる話。

21世紀のアニメーションがわかる本

21世紀のアニメーションがわかる本

はじめに 2016年、日本。

    • 2016年年、日本。その分岐点
    • 筆者の立場 
    • 日本と海外のシンクロ 
    • 「個人的な」作品の拡張と変容 
    • 君の名は。』と『この世界の片隅に』―― 世界や事実は果たして唯一なのか? 
    • 1980年代と2000年代、自主制作の二つの世代 
    • 聲の形』――「私」が「私たち」となった時代に 
    • デジタル化以後の表現を探る 

第1部 「伝統」vs「部外者」――環境の変化

  • 1 長編アニメーションの場合
    • 21世紀、長編アニメーションの時代 
    • 大規模作品―― CGアニメーションが全世界に広がる 
    • 小規模作品――個人制作長編の流れ 
    • 中規模作品(1) 巨匠たちの新たなステージ
    • 中規模作品(2) グラフィック・ノベルとアニメーション・ドキュメンタリー 
    • 中規模作品(3) アメリカン・インディーズ
    • 「部外者」による小規模作品 
  • 2 短編アニメーションの場合
    • 短編アニメーションのドラスティックな変化
    • 2000年代の「伝統」(1) 「自主制作」と「アニメーション作家」
    • 2000年代の「伝統」(2) DVD、ミニシアター、そして「アート・アニメーション」
    • 2000年代の「伝統」(3) 映画祭文化が支える「アニメーション作家」の世界 
    • 「部外者」の歴史(1) ドン・ハーツフェルトとインターネット
    • 「部外者」の歴史(2) 動画サイトとSNSが作る「第三」の歴史 
    • 動画サイト以後の新しい歴史観

インターミッション 21世紀のモード――「私」から「私たち」へ 

    • 「大人」向けアニメーションが描く「私」の世界 
    • 「私」vs「世界」の図式と、その終焉 
    • アニメーションの「ゾンビ化」 
    • 2010年代の小・中規模作品(1)―― 深みのある「私」から、空洞の「私たち」へ
    • 2010年代の小・中規模作品(2)―― 棒線画としての人間
    • 2010年代の小・中規模作品(3)――「私」でも「普遍」でもない「中間」の存在 
    • 2010年代のディズニー・ルネサンス―― 無数の「私たち」を呑み込む方法論
    • 新海誠はいかなる意味で「ポスト・ジブリ」なのか 
    • 21世紀のモード――『コングレス未来学会議』

第2部 空洞と空白のイメージ――表現の変化 

  • 1 デジタル時代の孤独な「私たち」
    • 匿名の運動が辿り着くところ
    • 異質な何かがうごめく
    • 「外部」が消えていく 
    • 自分自身の檻から抜け出すことができない 
    • 生命が邪魔になるとき 
  • 2 空洞化するイメージとファジーな「私(たち)」
    • 象徴としてのアニメーションはその背後に意志を隠している
    • 空洞化する「私たち」にはあらゆるものが流れ込む
    • ファジーな現実、ファジーなアニメーション
    • デイヴィッド・オライリーの「野生」のアニメーション 
    • 「私たち」は自分自身の夢を見る 
  • 3 YOU ARE EVERYTHING
    • 空洞は万物を呼び込む 
    • 空洞を埋めつくす無数の吸着点
    • フリーズと再起動によって浮かび上がってくるもの
    • 他人の痛みを宿らせる
    • 無に浮かぶ抽象的な「あなた」が「私」を「私たち」にしてくれる

おわりに 再び2016年、日本。そして2017年。

    • アニメーションの変化とは「私たち」の変化である 
    • 君の名は。』――「私たち」を効率的に救う
    • この世界の片隅に』――「私」の時代の瀬戸際
    • 聲の形』――さわがしい「私たち」へ 
    • 2017年の新たな一歩―― 湯浅政明 
    • 空白にざわめきを見出す

あとがき 

第1部 「伝統」vs「部外者」――環境の変化

1 長編アニメーションの場合

2000年代以降の特徴として、中規模作品の隆盛をあげる
ヨーロッパにおける助成金や国際共同製作などがこれにあてはまる
その中でも、これまでアニメーション制作に携わっていなかった「部外者」からの流れとして、「グラフィック・ノベル」と「アニメーション・ドキュメンタリー」が挙げられる
グラフィック・ノベルからの流れとしては、『ペルセポリス』や『はちみつ色のユン』など
アニメーション・ドキュメンタリーとしては『戦場でワルツを』や、上にもあがっている『はちみつ色のユン』などである
また、アメリカで現れた「部外者」としては、リチャード・リンクレイターをあげている。アニメーションの「伝統」においては、運動を創造することを評価するため、ロトスコープは忌避されてきたところ、リンクレイターはロトスコープによるアニメーションの可能性を示した、と。


2 短編アニメーションの場合

短編アニメーションについて、まず「自主制作」と「アニメーション作家」という2つの流れがあることが確認される
「自主制作」は、短編を通過点として、将来的に商業アニメーションへと向かう人々のことで、代表的なのは新海誠
一方で、「アニメーション作家」は、短編がいわば完成形で、映画祭などで評価されることを目指す人々で、山村浩二が代表例
特に後者について、2000年代の状況が説明される
まず、日本の芸大・美大でアニメーション教育が行われるようになる
次に、DVDの登場
これにより、短編アニメーション作家の作品が日本でも簡単にみられるようになった。加えて、短編なので一つのDVDに複数の作品が収録され、ここにキュレーション・文脈が生まれた、と。
また、2000年代はまだ、ミニシアターで映画を鑑賞する文化が残っていたことも挙げられている。
さらに、世界的にも、1990~2000年代は、映画祭文化が盛んであった、と
アニメーション映画祭の歴史としては、1950年代に第二大戦の終了によりマーケットが正常化、共産圏は国営スタジオが制作を行い、多様なアニメーション作品が流通し始め、1960年に第1回アヌシー映画祭が開催される
ところが、2010年代から、商業とアートというふたつの流れ(これらを「伝統」と呼ぶことにして)に対して、「部外者」による第3の流れが登場する
インターネットによって、映画祭やDVDを介さずとも、作品が流通するようになる
第三の流れを代表する作家として、ここでは、ドン・ハーツフェルトが紹介される
流通スタイルもそうだが、作品それ自体も、棒線画を用いた作品で、アニメーションは「運動を創造する芸術」であると考えてた「伝統」の価値観からは離れた作品であった
映画祭自体の役割も、才能を発掘する場から、すでにバズった作品を「祝福」る場へと変化していると述べられている

インターミッション 21世紀のモード――「私」から「私たち」へ

2000年代の作品と2010年代の作品との違いとして、「私」から「私たち」へという変化があげられている。
『はちみつ色のユン』にしろ『戦場にワルツを』にしろ、あるいは『風立ちぬ』にしろ『かぐや姫の物語』にしろ、中心には確固とした「私」がいて、その「私」が「世界」と対立する物語が描かれている、という。ここに筆者は、アニメーション・ドキュメンタリーとジブリとが相通じているととらえる。また、こうした「私」vs「世界」というモードの一変奏としてセカイ系を位置付けている。
これに対して、『君の名は。』『聲の形』、『アナと雪の女王』『ズートピア』、日本の短編アニメーション作家であるシシヤマザキ、大内りえ子、ひらのりょう、あるいはアレ・アブレウ『父を探して』、『戦場でワルツを』の監督であるアリ・フォルマンによる『コングレス未来会議』などについて、「私」という確固たる中心をもたず、匿名的であったり断片化していたりしている「私たち」の物語となっており、そしてそれは「世界」と対立するものではなくなっている、という、モードの変化を論じる。
またそれにあわせて、フラッシュアニメーションなどデジタル・テクノロジーによって、従来アニメーション作成に携わってこなかったような、いわゆる「素人」がアニメーションを作ることが可能になり、「動き」が追及されなくなったことも指摘している。ゾンビ化とも述べられており、同じリズムでかくかくと動き、生命感をもたないようなアニメーション。それは従来の「伝統」が、アニメーションにどうにかして生命を吹き込もうとしていたことと対極にある。しかし、そのような変化が、確固とした「私」を描くことから、「私たち」への変化をもたらしたのではないか、と筆者は考えているようである。

第2部 空洞と空白のイメージ――表現の変化

1 デジタル時代の孤独な「私たち」

デジタル・アニメーションの、ある意味で「低クオリティ」な動きが、どのような表現を可能にしたか
ここでは、いくつかの作品が紹介されているが、特にバスティアン・デュボア『マダガスカル旅行記』について書かれていることを以下引用する
『マダガスカル旅行記 Madagascar, Carnet de voyage』(バスティアン・デュボア、2010年)―全編視聴可【11:07】

様々な素材を自由に取り込んでコンポジットしてしまえるデジタル時代のアニメーション表現をフル活用している。コマ撮り時代、様々な手法が併存すると、そこにはシュルレアリスム的な「異化」の感覚がどうしても生まれてしまっていた。一方で、デジタル・ソフトウェア上においては、実写も含め、あらゆる出自の素材を、優劣なく用いることができる。実写とドローイングが並んでいてもそこまでおかしくないし、ひとつの絵柄で固定されず、いろいろなものが混ざり合うことのほうが自然に思えるような場合さえある。(pp.131-132)

マダガスカルでデュボアが出会った現地の人々は、水彩画がテクスチャとして貼り付けられた、かなり粗野でカウカクと動くCGキャラクターとして登場する。しかし、そのクオリティの「低さ」が、ここではとてもハマっている。この作品が描くのは、現地の人たちとの密な交流などではまったくないからだ。
(中略)
彼は最初から最後まで単なる「観光客」で「異物」のままでいつづける。互いによそよそしいままなのだ。理解しきれない異質な文化・異質な人々が、ぎこちないCGの動きが醸し出す不気味さとマッチする。(pp132-133)


また、コマ撮り時代の人形アニメーション作品において、内部と外部について描く自己言及的なテーマを語りがちだったのに対して、デジタル時代において、そのような自己言及性の有効性が失われてきているのではないか、と論じる。

コマ撮り時代においては、セル画や人形のセットなどが、自分たちと同じ物理空間に存在していた。それゆえに、少しカメラをずらして、作品世界の外部に注目してみることは、想像力の延長線上で自然に起こりうることだった。
(中略)
アニメーションを作るソフトウェア上では、実写を含めたあらゆる素材が対等に並び立つ。そのとき、創造主/被創造者というヒエラルキーは崩壊する。そこでむしろ起こるのは、作り手たちの想像力がスケッチを行うかのように摩耗なく具現化していくような感覚である。まるで想像力がそのままかたちとなるように、『頭山』の投身自殺のように、自分が自分のままに無限に出力されその内側へと潜り込んでいくような。(pp.136-137)


他にも、CGのぎこちない動きが、匿名的な群衆を描くのに、より向いているのではないか、という指摘など

2 空洞化するイメージとファジーな「私(たち)」

アニメーションはかつて、特定の意味をもち、何かを象徴していた
例えば共産圏では、検閲を逃れるため、ストレートには描かれなかったが、読解のコードが分かっていれば権力批判であることが分かる作品が作られていた。あるいは、高畑勲のように、自然保護や戦争反対などのテーマを訴える作品が作られてきた。
これらは、「私」には理想があり、世界は好ましくないので、これを変えていくという思想の現れである。
その点では、ディズニー長編のプリンセスものも、現実世界を理想の世界のハッピーエンドへと変えていくものとして同じである。
これに対して、2010年代は、何かを意味したりしていない作品が生まれてくる
例えば『オー、ウィリー』など、読解のコードは特にない。
デイヴィッド・オライリーの作品などは、ビジュアルはシンプルで抽象度が高く、物語は定型的であり、それゆえに、見るものは自分たちの記憶などを勝手にその作品に見出すことができる。

『RGB XYZ』(デイヴィッド・オライリー、2007年)―全編視聴可【12:19】
この点で、初音ミクも『アナと雪の女王』も『君の名は。』も同じである。
イメージが特定の意味をもたず、空洞化しているために、見ている方が自分のことを勝手に見出していく。
これが「私たち」のモードである

3 YOU ARE EVERYTHING

イメージの空洞化とは、ネガティブなようにも思われるが、そうではないと筆者は述べる
「私」を「私たち」にする空洞化したイメージは、自分とは全く違う存在を「私たち」の一部へと取り込むことを可能にする。
ハーツフェルトの「きっと全て大丈夫」三部作を取り上げたなら、自分ではないものの人生を自分のものとして取り込むことができることについて論じられる

また、アニメーション・ドキュメンタリーについて
アニメーションとドキュメンタリーというと、相反するようなものにも思われるが、21世紀にはこうした作品が増えてきている。アニメーション化という一種の抽象化を経ることによって、取材対象のプライバシー保護が図れると同時に、具体性が失われる。しかし、そこに空白が生まれることで、むしろ自分のものとして取り込まれる余地が生じる、と。

おわりに 再び2016年、日本。そして2017年。

二一世紀のアニメーションは空洞であるが、『ルーのうた』の世界は、その空白をさわがしいざわめきへと変えていく。(p.216)

*1:と、まとめてしまうと本書の趣旨からそれてしまうことにもなるんだけど。