女の子になりたい

男性性からの逃避願望――女装少年ブームについて(arctan 1=π/4)


永山薫は、網状言論F改しか読んでいないけれど、非常に気になっている論者の1人。
「女の子になる」という「快楽」あるいは「なりたい」という「欲望」っていうのは、結構気になっている。


ここで少し、自分のことを言っておくとと、
生物学的性、性自認、共に男であり、セクシャリティヘテロ。女装癖、女装願望などのトランス・ジェンダーの傾向もなし。
それから、やおい、ショタ、女装少年、ふたなりを扱った、マンガ、アニメ、ゲームなどを受容した経験も特にない。
こういう話をするときに、「真っ当」とか「普通」とかいう言葉を使うと差別的になるかもしれないが、他に言葉が使わないので敢えて使うと、少なくともこういう件に関しては「普通」で「真っ当」な男である自分にとっても、「女の子になりたい」という感覚が分かる、というか、ある。


しかし、最初、永山の文章を読んだときは、自分にはそういうのはないなあ、という感想だった。
でも最近になって考えると、全くないなどとは言い切れない。
ただ、これは多分当たり前のことなのだろう。
僕は性というのはある程度グラデーションがあると思っている。男性っぽい男性、女性っぽい男性、男性っぽい女性、女性っぽい女性、さらにその間にも細かい色々な段階があるだろう。
自分は、先述したとおり、性自認は完全に男だけど、こういうところは女っぽいなあと思ったりすることがある。


で、最近、Perfumeを見ていて気付いたこと。
まあハルヒダンスでもいいのかもしれないんだけど、Perfumeのあの踊りがしたい。
あのダンスは、一つには自分の身体を精密に動かすっていう、機械になりたいという欲望と、かわいらしい動作をしたいという、女の子になりたい欲望の両方を刺激される感じがする。
つまり自分にとって、「女の子になりたい」という欲望があるとしたら、それは別に女装したいというのでも女の子言葉を使うのでも女の子的な考え方をすることでもなく、動作に対してなのではないか、ということに思い当たった。
身体性、その中でも特に動作、身振り。
そういうのを、自分の好みとマッチングさせることができるというのが「快楽」の正体なのではないのか、ということ。