『社会は存在しない』限界小説研究会編

サブタイトルに「セカイ系文化論」とある通り、セカイ系評論集となっている。
「何を今更セカイ系なんて」と思う向きにも、ちょっと立ち止まってもらいたい。
これは、セカイ系と称されてきた作品について論じる、というわけではなく、セカイ系という概念がどこまで使えるのかということをテストしている本なのである。
では、何故そのようにしてセカイ系という概念をテストしなければならないのか。
そもそもセカイ系というのは、90年代後半からゼロ年代初頭にかけてのオタク的作品に見られた傾向に対して、揶揄的につけられた呼称である。ところが、ある時期までには軽蔑的なニュアンスはある程度まで薄れて、いわゆる「時代のリアル」を映している言葉として使われるようになっていった。
例えば、印象派という言葉もまた、揶揄的につけられた呼称であった。
セカイ系印象派に喩えてみる、というのは、「何故今更セカイ系なのか」という問いに答えるために、ある程度有効なのではないかと思う。まず、その言葉が最初は揶揄として用いられながら、その後重要な運動ないしグループのようなものと考えられるようになったことである。また、印象派には印象主義後期印象派といったように、類似しながらも異なるグループが存在する。そして、のちのピカソキュビスムなど、一見、印象派とは異なった見かけをもちながらも、その問題意識などを引き継いだグループがあることである。
セカイ系に対して、宇野常寛が「古い想像力」と称して、ポスト・セカイ系として「決断主義」を持ち出したことはよく知られているが、決断主義はむしろセカイ系の亜種と見なした方が収まりがよい*1
本論集では、普通はセカイ系と呼ばれないような作品もまたセカイ系として論じられている。このようなセカイ系のインフレは、ある時期から時々見受けられるようになったことでもある*2。ただし、それはそのような作業を通して、セカイ系という概念のコアとなるものを取り出すためである。
印象派からキュビスムへ、見た目は異なっていても、問題意識のコアが受け継がれたように、セカイ系のコアを考えることによって、ポスト・セカイ系を見出すことも可能になる。
そのような概念のコアを取り出したならば、そもそもセカイ系という言葉に拘る必要性は既にないだろう。個人的には、そのようなコアは現在の小説作品などにも引き継がれていると思う。それらの作品はセカイ系とは呼ばれないし、またそう呼ぶ必要はないが、セカイ系との類縁関係を見出すことは決して無駄なことではないはずだ。
セカイ系というレッテルは最早重要ではない。
「何を今更セカイ系なんて」と思っているのであれば、それこそそのレッテルに拘っているということだろう(あるいはそのレッテルのコノテーションに)。

セカイ系概念のコアとは何か

個人的には、2つの要素があると思う。そして、この2つはいわゆるセカイ系には留まらない概念でもある。つまり、ポスト・セカイ系にも引き継がれていくであろう考え方だ。
一つは、外部のなさだ。
これはこの論集の中から浮かび上がってくる考えだ。外部のなさと言ってしまうと、抽象的で空虚な響きであるが、そうではない。例えば、笠井が論じているように例外状態とそのことを言い換えてもよいかもしれない。
セカイ系とは、その名の通り、セカイを扱っている。セカイとは全体のことであるから、外部がないということは、実はその名前がそのまま現しているとも言える。そのようにセカイ系を捉えることは、『ファウストvol.5』に掲載された元長の上遠野論や、本論集の飯田の論にも見られる。
セカイ系とは、また日常と非日常の短絡でもあるが、日常にとって非日常とは外部である。つまらない日常から、スペクタルな非日常へ脱出することの憧れがあるとして、非日常の日常化はそうした脱出への憧れを解体してしまう。ここではないどこかは、最早どこにもない。
もう一つは、不可能性である。
これは外部のなさとも関連している。
成長や成熟の不可能性である。ただし、こちらの要素は本論集においてはそれほど目立ってはいない。この点に関してはむしろ、id:crow_henmiに負うところが大きい。
成長や成熟がないところは、セカイ系が批判されていたところでもあるが、例えば伊藤計劃などを読めば、不可能性というテーマの重要性は明らかであるように思える。


この論集は、序文ではっきりと宣言されている通り、宇野常寛批判でもある。
それは、宇野によるセカイ系=レイプファンタジーという矮小化された構図への批判である。
例えばセカイ系を外部のなさと不可能性によって整理することができるのであれば、レイプファンタジーという理解は全く的を外しているものとなるだろう。

各論

笠井、飯田の両論文は必読といってよい。
セカイ系概念についての見取り図が刷新されるはずだ。セカイ系はこれまで、時系列的には非常に近視眼的な現在のみを対象に論じられるか、あるいはアナクロニズム的に適用対象をインフレさせていくかであったが、この両論文はセカイ系の歴史的位置を定めようとしている。
また、ポスト・セカイ系に対する示唆も含まれているし、それはそうした歴史的見取り図の中かから読み取られるものである。
また、藤田、岡和田、渡邉の各論文も非常に刺激的である。
藤田、渡邉の両論文に関していえば、セカイ系の外部のなさが分析されていると言ってよい。岡和田論文は、むしろセカイ系批判であると言えるが、セカイ系が対峙した状況に対してセカイ系とは異なるいかなる対峙の仕方があるかを巡って青木淳悟が取り上げられている。

タイトル通りに、セカイ系と例外状態の関係について論じられているが、現代と1930年代の類似性なども指摘されており、20世紀を例外国家の時代、21世紀を例外社会の時代と捉える歴史観がそこにはある。
セカイ系とはキミとボクという小状況と世界の命運という大状況が、社会的領域をスキップして短絡しているものだと説明されるが、その社会的領域がスキップされるとはどういうことなのかが論じられている。つまりそれは、社会契約体としての社会がないということであり、親殺しによるビルドゥングス・ロマンが何故セカイ系で成立し得ないのかということがそこから説明されている。
さて、社会契約的社会が消失しているのが20世紀的な例外国家であるとするならば、そのような例外国家が可能にした福祉社会が消失するのが21世紀的な例外社会であると笠井は言う。そしてその際、歩く例外状態として、決断主義者として振る舞ったのが宅間守や加藤智大だったのだともいう。
ここで、セカイ系とはそのような例外社会への過渡期の産物であるとしている。また、宇野のいう「決断主義」的作品もまた、あくまでも過渡期の産物であるという意味でセカイ系と同じ地平にあるともしている。ここで従来のセカイ系はひきこもり的セカイ系、宇野のいう「決断主義」的作品は頭脳バトル的セカイ系とされる。
宇野は「決断主義」の時代はゼロ年代で終わり、10年代にはまた異なる想像力の時代がくるとしているが、笠井は決断主義の時代はまだ到来していないという。
「生き残るために戦え」という宇野的決断主義のテーゼは、それが「生き残るため」という理由をもっているがゆえにまだ真の決断主義には到達していない。無根拠な決断、行為の意味ではなく強度のみによって支えられた決断こそが、決断主義の名に値する。ただ一人で、社会に対して決死の戦争を仕掛けた宅間守のように、である。
さて、最後に『コードギアス』が取り上げられる。
これもまた過渡期の作品であり、セカイ系の一つであるわけだが、新たな水準を開いた作品として論じられている。

秋山瑞人堀江貴文と、一見何の関係もなさそうな2人だが、同世代であり同じ文化からの影響を受けている。文化・思想的な意味ではこの2人は生き別れのきょうだいなのである。
同じ文化とはサイバーパンク・ドラッグカルチャーである。
サイバーパンクハッカーカルチャーについては、かつて東浩紀も「サイバースペースは何故そう呼ばれるのか」で論じていたわけが、それが思想史的文脈を追いかけるものであったとするならば、こちらは文化史的文脈を追いかけるものとなっている。
「意識の拡大」に伴う神の視点の獲得が、ホール・アース・マネジメントを生んだ。ホール・アース・マネジメントとは、googleなどのシリコンバレー企業に見られるような、世界を変革することを企業理念と掲げた経営である。
一方、そうした神の視点の獲得は、インナースペースの耽溺としてのサイバーパンクも生む。特に日本において、運動の挫折が押井守を経由してセカイ系を生むこととなる。
LSDが意識の拡大をもたらし、それは世界を覆っていく神の視点となる。アメリカでは、ホール・アース・マネジメントとしてシリコンバレー企業を生み、日本ではホール・アースな認識に留まりセカイ系を生んだ。
さて、その後はどうなるのだろうか。飯田は、秋山が『イリヤ』の後に刊行した『ミナミノミナミノ』にまずは注目する。そこには外部からの客人が描かれているのだが、それは失敗する。もはや外部などどこにもないからだ。それに変わりうる何かとは、「きみ」だ。
次に参照されるのは、麻枝准であり、エクスタシーである。
LSDが意識の拡大、飛翔をもたらすドラッグであるのに対して、エクスタシーは日常への回帰をもたらす。隣人への愛をもたらすドラッグだ。ドラッグによってもたらされるオルタード・ステイツが日常からの脱出ではなく、感覚の増幅による日常の祝福に使われる。
麻枝の作品は、次第に観念の飛翔の度合を下げていく。
野球チームのつながりを描く「リトルバスターズ」に、飯田はセカイ系リバタリアニズムを見る。あるいは、「コードギアス」にも。それは、組織をゼロから作り上げてマネジメントしていくという起業家精神だ。
ここにきて、大きく離れていたはずのセカイ系シリコンバレー精神が再び歩み寄りをはじめる。

この論は、2004年に発行された同人誌に収録されていた論の再録である。ただ、冒頭に笠井の2008年の論への言及があることから、少なくとも冒頭は多少手を入れたのではないかと思われる。
これは、宮台真司が『サブカルチャー神話解体』によって行った、80年代青少年マンガの四分類をもとに、セカイ系がそれらからどのような影響を受け、なおかつどのように違うのかを論じたものとなっている。

90年代以降のマンガの傾向を、バトル・ロワイアルものとハーレムものへの変化と捉えた上で、セカイ系が如何にバトルものと恋愛ものの要素を共存させるための物語を組み立てていったかということについて。

セカイ系の特徴の一つとして、まずは男主人公の無個性さを挙げるが、例えばエヴァにおいては、そのような無個性の主人公が選ばれる理由として「血の宿命」があるとして、これはまだ不完全であるとする。
イリヤの空』をセカイ系の完成型とみなすが、それは一つには「血の宿命」すらもなくなったからである。
しかし、『イリヤの空』はセカイ系の完成型であると同時に、最後の作品でもあるという。何故ならそれ以後の作品は、恋愛要素が強くなり、セカイ系はその恋愛要素のために奉仕するようになるからだ
最後にセカイ系を突破するものとして、『とらドラ!』や『灼眼のシャナ』が挙げられている。
個人的には、セカイ系を恋愛から捉えるということはあまりピンと来ない。
恋愛が重要な要素であることは無論確かではあるが、そうした要素が大状況と繋がってしまうところにセカイ系的なコアがあるのであって、どのような恋愛が展開されるかはそれほど重要ではないような気がしている。というか、そのような観点が、宇野のようなセカイ系=レイプ・ファンタジーという構図を呼び寄せてしまうのではないか。
これはそもそも僕が、ギャルゲー・エロゲーの類やここで言及されているようなライトノベルにほとんど触れてこなかったことにも要因があるかもしれない。
ただ、ソフラマ!のメンバーには読んでもらいたい論かもしれない。
とらドラ!』は未読なのだが、そのあらすじを教えてもらった時、これはもはやライトノベルではないなと感じたのだが、『とらドラ!』も当然のようにライトノベルと捉えて読んでいるソフラマ!のメンバーには、ライトノベルの見取り図を作ってもらいたいと思っている。
ちなみに、何故『とらドラ!』をライトノベルではないと感じたかというと、基本的に僕がライトノベルをポスト・ブギーポップだと見なしているからである。また、ここでいうライトノベル=ポスト・ブギーポップはおおむねセカイ系とも重なるはずである。その点、ブギーポップセカイ系の原点とみる元長の論を一蹴してしまうこの長谷川の論は、やはり僕としてはセカイ系を捉えそこねてしまっているように見える。

ディスコ探偵水曜日』と、ルイスによる「インデックス型」「コンテンツ型」「コンテキスト型」という可能世界の区別*3ピタゴラス派の回帰的な時間観を対応させながら読み解く。
モナド論を、英米分析哲学的なモナドジーと大陸・現象学的なモナドロギーに区別した上で、それを組み合わせようとするという議論をしていて、そういう区別があるのかと勉強になった。

セカイ系という概念のもつ普遍性をテストする試みといえるかもしれない。
『虚無への供物』をセカイ系と見なして読み解いてみるというものである。
ちなみに、冒頭でセカイ系印象派に喩えたのは、この論文からヒントを得た。

以前、佐藤友哉論を書いたことがあるが、それは『世界の終わりの終わり』と『灰色のダイエットコカコーラ』を読み解くといったものであった*4
これはその論を踏まえた上で乗り越えてくれている*5
それぞれ、雑誌連載版と単行本版ではかなりの違いがあるが、その違いも踏まえた上で、雑誌連載版にあったある種の異様さを論じてくれたのもよかった。フラットさが生む、私小説ならぬ私小説
自分にはなかった部分としては、北海道という土地性の問題を絡めたことと、『飛ぶ教室』や「333のテッペン」などの他の作品も絡めて、多重的に読んでいくことを行っていること。
これはやられたという感じで、佐藤友哉の読み方を豊かにさせてくれるこの上ない論だったと思う。
また、藤田のデビュー論文とも呼応していることを指摘しておきたい。
そもそも藤田直哉というと、ザクティ藤田ばかりが知られていると思うのだが、デビューはSF評論賞であり、そこではかなり熱い評論を書いているのである。あのデビュー論文を読んだ人は、その後のザクティ藤田的展開は正直面食らったというか残念に思うところがあったのではないかと思う。もっとまともに評論書けば面白いのに、みたいな。
佐藤友哉を「ひきこもり」系の作家と見なすことも、あるいは近年の文学へと転回していった佐藤友哉にある種の成長を見出すことも、どちらも佐藤友哉の可能性を理解できていない読みである。
そうした佐藤友哉の読み方こそ、批判したいと思っているのだが、この論文はまさにそれに応えてくれている。

それはセカイ系を食いつぶすセカイ系である。
(中略)
この「セカイから抜け出ろ」と「セカイに閉じこもれ」を同時に発言することこそ、佐藤的セカイ系であり、セカイ崩壊以後も、むしろ崩壊しているからこそ完成していると言ってよい。自己創造−破壊的なセカイ系であるのだ。

だがこの脱出できなさ(それはメタ的位置がないということ、外部がないということ)こそ、まさにセカイ系の本質ではなかったか。

セカイ系が問題化した事態に対して、セカイ系ではアプローチできないような方法で挑む作家として青木淳悟が論じられている。
セカイ系が問題化した事態とは、システム化・記号化した現代の状況において如何に主体化できるかということである。それに対して、青木は「世界視線」のハッキングによって応じる。
「世界視線」とは、吉本の『ハイ・イメージ論』による概念で、「普遍視線」「逆世界視線」と対比される。飯田もまた同じ議論を参照しながら、セカイ系を「逆世界視線」に寄り添うものと規定していた。
しかし、そのような「逆世界視線」ではシステム化・記号化への対抗はできないという認識から、岡和田はセカイ系を批判する*6
ここで青木が如何にして小説を組み立てているのか、ということがかなり子細に論じられていく。
ところで、この論は注釈による補論がかなり膨大であり、時にそちらの注釈の方が面白いというようなものすらある。注14における宇野批判などは、単に宇野は頭が悪いと言っているだけなのだが、蕩々と書かれていて笑える。

  • 渡邉大輔「セカイへの信頼を取り戻すこと」

第二節以降の作品分析が非常に面白く、特に相米慎二の作品分析を通じて「映像圏」なる概念が出てくるくだりは非常に刺激的である。
この「映像圏」という概念が、セカイ系と親和的であるのは当然として、映像作品における世界の構築ならびにそれゆえの外部のなさ、というか世界全体であるがゆえにそれそのものが外部となっているという考え方は、セカイ系という括りを越えて普遍的に通用しうるものだと思う。
またそのような概念が、物語論や社会反映論としてではなく、映像表現の内在的な問題として浮き彫りにされたということもまた重要な点である。
さて、何故相米慎二が取り上げられているのか。
その文脈として、前半の第一節、ゼロ年代日本映画史が書かれている。
この部分もまた面白いし、またこのような映画史を書きうるのはおそらく日本で渡邉しかいないであろうということを考えると、これが書かれなければならなかったのも理解できる。
しかし、その上であえて言うのであれば、第一節の存在はこの論を冗長なものとしてしまっているし、読者を混乱させてしまうか、あるいはこの論の評価を下げかねないものとなってしまっている。
つまり、その部分はやはりあくまでも映画史であって、評論とはなっていないからだ。もちろん、歴史を書くということが批評的であるとしても、だ。
さらにいえば、いささかゼロ年代セカイ系への文脈を過剰に意識しすぎている感じもある。もともとセカイ系ゼロ年代といった文脈と無縁と思われていた分野を取り上げているのだから、そうなるのは当然であるとはいえ、無理矢理ではないのかと思わせてしまうような繋ぎ方がある。
最後に、もう一点付け加えておくと、タイトルがよくない。最後の最後までタイトルの意味があまりにも分からない。この論のポイントは、「映像圏」という概念を析出してみせたところにあると思うので、セカイという語は無理に使わずにそちらへと誘導するようなタイトルの方がよかったのではないか。
この論は非常に刺激的である。
だが、その刺激的な部分に達するまでにやや迂遠なところ*7が多いというのがもったいない!

  • 小林宏彰「「セカイ」の全体性のうちで踊る方法」

舞踏・演劇を扱った論。
やはり、セカイ系とは縁遠いジャンルであるからか、セカイ系と繋げることにやや苦労している感じはあった。
ただ、ここで取り上げられていた作品が、興味深いテーマを扱っていることは何となく分かった。
舞台空間とはセカイ系的であるという議論は面白いと思ったのだが、実際の作品分析の中でどのようにそれが扱われているのかがよく分からなかった。
セカイ系的というよりは、むしろキャラクター的記号的身体の問題がずっと扱われていた。特にそのような身体が孕む、偶有性や関係性についてである。
関係性という点で、純愛やその不可能性など、確かにセカイ系的な語彙が出てくることは出てくるのだが。

追記

8月2日に青山ブックセンターで刊行記念トークイベントがあるそうです。
http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20090802/1247318755

社会は存在しない

社会は存在しない

*1:そのことは、本論集でも指摘されていることである。また、個人的見解ではあるが、宇野自身もおそらくそのことは分かっていたのではないかと思われる。ただし、宇野に問題があるとすれば、セカイ系決断主義に順序関係を持ち込んだことである

*2:「萌え」という概念のなかった時代の作品に萌えをを見出すようなアナクロニズムのように

*3:インデックス型はクリプキの、コンテンツ型はカルナップの、コンテキスト型はルイスの可能世界にそれぞれ対応する

*4:http://www10.ocn.ne.jp/~fstyle/text/monogatarino/3.htm

*5:何で踏まえたって分かるんだよ、というと実は本人に聞きましたw

*6:例えば、その背景には笙野頼子の資本主義批判などがある

*7:タイトルと構成

外部のなさとしてのセカイ系

『社会は存在しない』を読んでいて考えたことなどを書いていく。

コードギアスR2』と『ダークナイト

笠井は、「セカイ系と例外状態」の中で『コードギアス』を画期的な作品だとしたうえで、R2のラストについても論じている。例外状態において親殺しによる成熟は不可能である。それは社会という秩序が予め失われているからであり、父を殺したところでその末に登録される社会領域はない。ルルーシュもまた、父を殺しても秩序へと回復することができない。
ルルーシュは、汚辱と罪を背負っている。皇帝になることは自ら否定した父の姿を反復することに他ならず、秩序の再建のためにはルルーシュは去らねばならない。これは、オイディプス神話における予言の自己成就的な状況でもある。
例外状態の収束のために、例外状態における汚辱を自らに集中させて去るのである。
ところで、渡邉の議論はアメリカ映画にも及ぶ長いリーチをもつものであるが、収録された渡邉論文ではアメリカ映画は注釈において触れられているだけである。その注釈の中で、『ダークナイト』の名があったことで気付いたのだが、『コードギアスR2』と『ダークナイト』の終わり方は限りなく近い。
笠井は、『コードギアス』を評価しつつも、この終わり方は回答の一つに過ぎないとしている。
さて、『コードギアスR2』は僕も評価しているのだが、この終わり方についてid:K-AOIid:SuzuTamakiはどうもご都合主義的だとして批判的である。
また、『ダークナイト』に関していえば、あれは現在において秀逸なアメリカ批判になっているとも思うのだが、一方でダークナイトになることを織り込んだアメリカなるものを想像したとき、それは非常にグロテスクな権力になってしまうのではないかとも考えられる。
これは何故か。
ルルーシュバットマンの最後の選択にはどこかナルシスティックなヒロイズムを嗅ぎ付けることが可能だからではないか。
おそらくそれは、彼らが最後に外部へと去ってしまっているからだ。
しかし、そもそもセカイ系的世界において外部はないのではないだろうか。そこに何かしらの問題が生じている。

ダブルブリッド

以前、ソフラマ! に『ダブルブリッド』論を寄稿したことがある。
そこでは、恋愛と戦争が重なるものとして(非日常の常態化)セカイ系を論じた。
ダブルブリッド』はセカイ系とは目されないであろうし、そもそもあの作品はセカイ系ではなかった。1巻から3巻まで、日常と非日常は区別されており、社会領域も機能している。
ところが、主人公、片倉優樹の異母弟である高橋が山崎によって殺されるところから事態は変わっていく。高橋はいわば生きる例外状態、ホモサケルのような存在なのだが、彼の存在は優樹の日常と非日常の区別を維持していたといってよい。しかし、その殺害がその区別を崩壊させていく。
山崎は、優樹に好意を寄せているのだが、それゆえに高橋殺害に至った。ところが、そのことは優樹にとって脅威となる。優樹と高橋は、共にダブルブリッドという人間ではない、一種の化け物的存在なのだが、山崎がそのダブルブリッド殺しとなったからである。
好意は同時に殺意でもありうる。
ダブルブリッド』は、そのことを優樹・山崎以外のカップルでも描くことによって、恋愛と戦争(殺し合い)を一体化させていくのである。
中状況がないという消極的な意味合いではなく、小状況(日常)と大状況(非日常)が一体化してしまっているという積極的な意味合いでセカイ系である*1
ところで、このことが中状況を密かに潜り込ませている。
優樹はそもそも社会というものへの感覚が欠落しているところがある*2。それゆえか、この作品世界に影を落とす父に優樹は全くもって興味を持たないのである。
この父は、この世界に張り巡らされた陰謀論の元締めである。エヴァにおけるゲンドウ、ギアスにおける皇帝的な立場にある。この父を殺すことに意味がないことをギアスは示しているわけだが、とにかく優樹は最初から父に興味を持っていない。しかし、そのことが父による優樹の搾取を可能にする。
こうして、小状況(日常)と大状況(非日常)を結託させるセカイ系的構造は、容易に中状況(社会)からの搾取を可能にするということを明白に示している*3
ここまでが、ソフラマ!で掲載された論で論じたことである。この時点で、最終巻はまだ刊行されていなかった。
しかし、このシリーズの最終巻はさらにこの構造を転換させてしまう。
優樹と山崎は、かなりご都合主義的な展開ながら、秩序の回復(日常と非日常の分化)に成功する*4。そして、優樹はそれと同時に死を迎えることになる。一方、優樹の父はまんまと生き残ることに成功する。もっとも非常に弱体化してしまっているわけだが、それでも再び復活する可能性は残されている。そして何より、優樹の父こそが、小状況(ミニマムな人間関係)と大状況(世界の命運)を短絡させてしまっているセカイ系的心性の持ち主であることが明らかになる。
つまり、セカイ系的構造を搾取していた社会的権力もまた、セカイ系的構造を反復していたのであり、優樹と山崎のあいだのセカイ系的関係は清算され秩序が回復したように見えるが、その実、セカイ系的関係は別の場所で温存されており、完全な秩序の回復には失敗してしまっているのである。


また、『ダブルブリッド』では、優樹にとって重要なポジションを占めるのが、キミボク関係の相手となる山崎であり、異母弟の高橋や片倉晃である。繰り返し述べているように、父親は彼女にとって重要な位置を占めない。
親子関係という垂直関係ではなく、水平関係への興味の移行もまた、ゼロ年代的なのではないかと個人的には考えている。このことは既に、『筑波批評2008秋』所収の論文において論じたことがある。
笠井が整理したように、親殺しがセカイ系的状況において無意味なものとなるということを踏まえるのであれば、垂直関係から水平関係ということもそれほど的を外していなかったと思う。
また、垂直性とは「産む−産まれる」関係であり、いわばメタへの志向でもある。メタへの志向が脱臼されてしまっているところに、外部のなさがある。


ダブルブリッド』における優樹の父は、かなりの陰謀を巡らしていたようだが、その全貌は全く明らかになることなく物語は終わる。これを伏線の処理に失敗したと評価することもできるが、これもまたセカイ系的必然ともいえる。
メタへの志向の脱臼は、大塚英志がいうところの「物語消費」的な大きな物語の不可能性としても現れているのである。
これは、上遠野浩平の「ブギーポップ」シリーズに見て取ることができるだろう。
エヴァにおいてゼーレや人類補完計画などの陰謀は、サンプリングの集積とはいえ、それを体系立てて解釈していくことが可能なのに対して、ブギーポップにおける統和機構は必ずしもその限りではない。上遠野自身には、体系化の志向があるようにも思えるのだが、ブギーポップシリーズ自体は決してそのような方向性を持っていない。
これをさらに追求していったのが、西尾維新戯言シリーズ佐藤友哉鏡家サーガにおける祁頭院財閥などに見られるだろう。
この極北としては『永遠のフローズンチョコレート』も挙げられるだろう。この作品は明らかにブギーポップを意識して書かれているが、もはや統和機構のような「大きな物語」の影的なものすらもなくなって、データベースからのサンプリングに溶けきってしまっている。
そしてそのことは、非日常の常態化が一体どういうことであるかを端的に現しているだろう(ブギーポップにおける能力者のあり方と、フローズンチョコレートにおける能力者のあり方の違い)。


そういえば、セカイ系についてはセカイ系とかについての整理 - logical cypher scapeというのも書いたことがある。押井守が原型になったよね、というだけの話がが。

追記

捕捉的な何か
セカイ系とか佐藤友哉とかが気になっているのは、自分の中のフィクション論的な問題と「文学」・実存的な問題との接点になりうると思っているからだが、それをどう繋げばいいのかというアイデアがなかなかなかった。『社会は存在しない』を読んで、何か繋がるような予感を持った
その予感を感じさせたのが、今回ブログで連発した「外部のなさ」なのであって、これはもはやセカイ系だけの問題ではない
「外部のなさ」っていう言い方は、そもそも「外部」って言葉が何をさしているのか分からないので、マジックワードになってしまうからよくないよね。
一つにはメタ志向を封じることで、もう一つは例外状態ってことなんだけど。藤田さんが強調するフラットさ、とかね。
他者がいないとか、そういう話ではない。
いや、他者もよく意味のわからん言葉だけど
ああ、そうだ。外部の一つとして死があるんだけど、ここらへんも何かある程度脱臼できんじゃねーかなと思う。宇野批判としても、これが必要。死を畳み込んだ共同性による小さな成熟、とかが次の想像力であってたまるか。伊藤計劃のことを考えるとそう思う。
「外部のなさ」というかなり抽象的で漠然とした言葉を選んだのは、セカイ系以外のものへの接続も考えて(別領域というよりは、ポスト・ゼロ年代への接続)。あと、セカイ系の教科書的整理によってその定義を示すのに飽きたから。
セカイ系は、「小状況と大状況が直結していて、最終兵器彼女がその一例で」とかではなくて、「外部のなさを示す想像力の一種である」とした方が、次への広がりがあるんじゃないかと思った(だから、外部のなさ、というのはセカイ系に限った特徴ではないだろう。ただし、セカイ系において典型的にそれを見出すことができるのではないか、と。見出した後は、セカイ系から先にどんどん進んでいけばよし)

ダブルブリッド〈10〉 (電撃文庫)

ダブルブリッド〈10〉 (電撃文庫)

*1:ところで、そのような意味合いで、ミニマムな形で完成されているのが藤野もやむの『ナイトメア・チルドレン』であると個人的に思っている。もっともそのように思うのは、僕が思春期初期をエニックスマンガばかり読んで過ごしてきたからであるせいだと思うが

*2:これは彼女の中に、アヤカシという超個人主義的な生き物の血が半分入っているから、と設定上は説明することができるだろう

*3:またこのことが、選択の不可能性を呼び寄せている。セカイ系に影響を与えた『ビューティフル・ドリーマー』や、またいくつかのセカイ系作品においては、日常か非日常かの選択が与えられている。日常への回帰を選ぶのがプレ・セカイ系で、非日常への耽溺を選ぶのがセカイ系であるとも整理されるかもしれない。しかし、そもそも非日常が常態化してしまった状況においては、このような選択肢は存在し得ないのである。セカイ系で描かれる非日常への耽溺は、「ひきこもり」的心性による堕落とは限らないのである。そのことを徹底的に突き詰めた作家こそが、伊藤計劃である。

*4:ダブルブリッド』最終巻は賛否両論を呼んでいる。というのも、あまりにもご都合主義的、あるいはあまりにも伏線を放置しすぎているのではないかという批判がある。そのような問題点はしかし、そもそもこの作品はセカイ系ではなかったのにも関わらず、セカイ系化していったことの必然的帰結ではないかと考えている。この最終巻には批評的意義は十分にある。ところで、同様にセカイ系化してしまったがゆえに、物語としては十分なカタルシスを得ることなく終わってしまった作品として、衛藤ヒロユキの『魔法陣グルグル』がある。この作品は、早すぎたセカイ系として批評的に評価されるべき作品であり、既に別の場所で論じたことがある。『魔法陣グルグル』から遠く離れて - logical cypher scape