外部のなさとしてのセカイ系

『社会は存在しない』を読んでいて考えたことなどを書いていく。

コードギアスR2』と『ダークナイト

笠井は、「セカイ系と例外状態」の中で『コードギアス』を画期的な作品だとしたうえで、R2のラストについても論じている。例外状態において親殺しによる成熟は不可能である。それは社会という秩序が予め失われているからであり、父を殺したところでその末に登録される社会領域はない。ルルーシュもまた、父を殺しても秩序へと回復することができない。
ルルーシュは、汚辱と罪を背負っている。皇帝になることは自ら否定した父の姿を反復することに他ならず、秩序の再建のためにはルルーシュは去らねばならない。これは、オイディプス神話における予言の自己成就的な状況でもある。
例外状態の収束のために、例外状態における汚辱を自らに集中させて去るのである。
ところで、渡邉の議論はアメリカ映画にも及ぶ長いリーチをもつものであるが、収録された渡邉論文ではアメリカ映画は注釈において触れられているだけである。その注釈の中で、『ダークナイト』の名があったことで気付いたのだが、『コードギアスR2』と『ダークナイト』の終わり方は限りなく近い。
笠井は、『コードギアス』を評価しつつも、この終わり方は回答の一つに過ぎないとしている。
さて、『コードギアスR2』は僕も評価しているのだが、この終わり方についてid:K-AOIid:SuzuTamakiはどうもご都合主義的だとして批判的である。
また、『ダークナイト』に関していえば、あれは現在において秀逸なアメリカ批判になっているとも思うのだが、一方でダークナイトになることを織り込んだアメリカなるものを想像したとき、それは非常にグロテスクな権力になってしまうのではないかとも考えられる。
これは何故か。
ルルーシュバットマンの最後の選択にはどこかナルシスティックなヒロイズムを嗅ぎ付けることが可能だからではないか。
おそらくそれは、彼らが最後に外部へと去ってしまっているからだ。
しかし、そもそもセカイ系的世界において外部はないのではないだろうか。そこに何かしらの問題が生じている。

ダブルブリッド

以前、ソフラマ! に『ダブルブリッド』論を寄稿したことがある。
そこでは、恋愛と戦争が重なるものとして(非日常の常態化)セカイ系を論じた。
ダブルブリッド』はセカイ系とは目されないであろうし、そもそもあの作品はセカイ系ではなかった。1巻から3巻まで、日常と非日常は区別されており、社会領域も機能している。
ところが、主人公、片倉優樹の異母弟である高橋が山崎によって殺されるところから事態は変わっていく。高橋はいわば生きる例外状態、ホモサケルのような存在なのだが、彼の存在は優樹の日常と非日常の区別を維持していたといってよい。しかし、その殺害がその区別を崩壊させていく。
山崎は、優樹に好意を寄せているのだが、それゆえに高橋殺害に至った。ところが、そのことは優樹にとって脅威となる。優樹と高橋は、共にダブルブリッドという人間ではない、一種の化け物的存在なのだが、山崎がそのダブルブリッド殺しとなったからである。
好意は同時に殺意でもありうる。
ダブルブリッド』は、そのことを優樹・山崎以外のカップルでも描くことによって、恋愛と戦争(殺し合い)を一体化させていくのである。
中状況がないという消極的な意味合いではなく、小状況(日常)と大状況(非日常)が一体化してしまっているという積極的な意味合いでセカイ系である*1
ところで、このことが中状況を密かに潜り込ませている。
優樹はそもそも社会というものへの感覚が欠落しているところがある*2。それゆえか、この作品世界に影を落とす父に優樹は全くもって興味を持たないのである。
この父は、この世界に張り巡らされた陰謀論の元締めである。エヴァにおけるゲンドウ、ギアスにおける皇帝的な立場にある。この父を殺すことに意味がないことをギアスは示しているわけだが、とにかく優樹は最初から父に興味を持っていない。しかし、そのことが父による優樹の搾取を可能にする。
こうして、小状況(日常)と大状況(非日常)を結託させるセカイ系的構造は、容易に中状況(社会)からの搾取を可能にするということを明白に示している*3
ここまでが、ソフラマ!で掲載された論で論じたことである。この時点で、最終巻はまだ刊行されていなかった。
しかし、このシリーズの最終巻はさらにこの構造を転換させてしまう。
優樹と山崎は、かなりご都合主義的な展開ながら、秩序の回復(日常と非日常の分化)に成功する*4。そして、優樹はそれと同時に死を迎えることになる。一方、優樹の父はまんまと生き残ることに成功する。もっとも非常に弱体化してしまっているわけだが、それでも再び復活する可能性は残されている。そして何より、優樹の父こそが、小状況(ミニマムな人間関係)と大状況(世界の命運)を短絡させてしまっているセカイ系的心性の持ち主であることが明らかになる。
つまり、セカイ系的構造を搾取していた社会的権力もまた、セカイ系的構造を反復していたのであり、優樹と山崎のあいだのセカイ系的関係は清算され秩序が回復したように見えるが、その実、セカイ系的関係は別の場所で温存されており、完全な秩序の回復には失敗してしまっているのである。


また、『ダブルブリッド』では、優樹にとって重要なポジションを占めるのが、キミボク関係の相手となる山崎であり、異母弟の高橋や片倉晃である。繰り返し述べているように、父親は彼女にとって重要な位置を占めない。
親子関係という垂直関係ではなく、水平関係への興味の移行もまた、ゼロ年代的なのではないかと個人的には考えている。このことは既に、『筑波批評2008秋』所収の論文において論じたことがある。
笠井が整理したように、親殺しがセカイ系的状況において無意味なものとなるということを踏まえるのであれば、垂直関係から水平関係ということもそれほど的を外していなかったと思う。
また、垂直性とは「産む−産まれる」関係であり、いわばメタへの志向でもある。メタへの志向が脱臼されてしまっているところに、外部のなさがある。


ダブルブリッド』における優樹の父は、かなりの陰謀を巡らしていたようだが、その全貌は全く明らかになることなく物語は終わる。これを伏線の処理に失敗したと評価することもできるが、これもまたセカイ系的必然ともいえる。
メタへの志向の脱臼は、大塚英志がいうところの「物語消費」的な大きな物語の不可能性としても現れているのである。
これは、上遠野浩平の「ブギーポップ」シリーズに見て取ることができるだろう。
エヴァにおいてゼーレや人類補完計画などの陰謀は、サンプリングの集積とはいえ、それを体系立てて解釈していくことが可能なのに対して、ブギーポップにおける統和機構は必ずしもその限りではない。上遠野自身には、体系化の志向があるようにも思えるのだが、ブギーポップシリーズ自体は決してそのような方向性を持っていない。
これをさらに追求していったのが、西尾維新戯言シリーズ佐藤友哉鏡家サーガにおける祁頭院財閥などに見られるだろう。
この極北としては『永遠のフローズンチョコレート』も挙げられるだろう。この作品は明らかにブギーポップを意識して書かれているが、もはや統和機構のような「大きな物語」の影的なものすらもなくなって、データベースからのサンプリングに溶けきってしまっている。
そしてそのことは、非日常の常態化が一体どういうことであるかを端的に現しているだろう(ブギーポップにおける能力者のあり方と、フローズンチョコレートにおける能力者のあり方の違い)。


そういえば、セカイ系についてはセカイ系とかについての整理 - logical cypher scapeというのも書いたことがある。押井守が原型になったよね、というだけの話がが。

追記

捕捉的な何か
セカイ系とか佐藤友哉とかが気になっているのは、自分の中のフィクション論的な問題と「文学」・実存的な問題との接点になりうると思っているからだが、それをどう繋げばいいのかというアイデアがなかなかなかった。『社会は存在しない』を読んで、何か繋がるような予感を持った
その予感を感じさせたのが、今回ブログで連発した「外部のなさ」なのであって、これはもはやセカイ系だけの問題ではない
「外部のなさ」っていう言い方は、そもそも「外部」って言葉が何をさしているのか分からないので、マジックワードになってしまうからよくないよね。
一つにはメタ志向を封じることで、もう一つは例外状態ってことなんだけど。藤田さんが強調するフラットさ、とかね。
他者がいないとか、そういう話ではない。
いや、他者もよく意味のわからん言葉だけど
ああ、そうだ。外部の一つとして死があるんだけど、ここらへんも何かある程度脱臼できんじゃねーかなと思う。宇野批判としても、これが必要。死を畳み込んだ共同性による小さな成熟、とかが次の想像力であってたまるか。伊藤計劃のことを考えるとそう思う。
「外部のなさ」というかなり抽象的で漠然とした言葉を選んだのは、セカイ系以外のものへの接続も考えて(別領域というよりは、ポスト・ゼロ年代への接続)。あと、セカイ系の教科書的整理によってその定義を示すのに飽きたから。
セカイ系は、「小状況と大状況が直結していて、最終兵器彼女がその一例で」とかではなくて、「外部のなさを示す想像力の一種である」とした方が、次への広がりがあるんじゃないかと思った(だから、外部のなさ、というのはセカイ系に限った特徴ではないだろう。ただし、セカイ系において典型的にそれを見出すことができるのではないか、と。見出した後は、セカイ系から先にどんどん進んでいけばよし)

ダブルブリッド〈10〉 (電撃文庫)

ダブルブリッド〈10〉 (電撃文庫)

*1:ところで、そのような意味合いで、ミニマムな形で完成されているのが藤野もやむの『ナイトメア・チルドレン』であると個人的に思っている。もっともそのように思うのは、僕が思春期初期をエニックスマンガばかり読んで過ごしてきたからであるせいだと思うが

*2:これは彼女の中に、アヤカシという超個人主義的な生き物の血が半分入っているから、と設定上は説明することができるだろう

*3:またこのことが、選択の不可能性を呼び寄せている。セカイ系に影響を与えた『ビューティフル・ドリーマー』や、またいくつかのセカイ系作品においては、日常か非日常かの選択が与えられている。日常への回帰を選ぶのがプレ・セカイ系で、非日常への耽溺を選ぶのがセカイ系であるとも整理されるかもしれない。しかし、そもそも非日常が常態化してしまった状況においては、このような選択肢は存在し得ないのである。セカイ系で描かれる非日常への耽溺は、「ひきこもり」的心性による堕落とは限らないのである。そのことを徹底的に突き詰めた作家こそが、伊藤計劃である。

*4:ダブルブリッド』最終巻は賛否両論を呼んでいる。というのも、あまりにもご都合主義的、あるいはあまりにも伏線を放置しすぎているのではないかという批判がある。そのような問題点はしかし、そもそもこの作品はセカイ系ではなかったのにも関わらず、セカイ系化していったことの必然的帰結ではないかと考えている。この最終巻には批評的意義は十分にある。ところで、同様にセカイ系化してしまったがゆえに、物語としては十分なカタルシスを得ることなく終わってしまった作品として、衛藤ヒロユキの『魔法陣グルグル』がある。この作品は、早すぎたセカイ系として批評的に評価されるべき作品であり、既に別の場所で論じたことがある。『魔法陣グルグル』から遠く離れて - logical cypher scape