伴名練『なめらかな世界と、その敵』

寡作ながら年刊SF傑作選常連の伴名練、初の短編集
読もう読もうと思いつつ、すでに発行から1年くらい経ってた。
伴名練は、作風が幅広い感じもするのだが、こうやってまとめて読むと、傾向が見えてくるというか。世界の変化を引き起こす者と変化に振り落とされる者、というモチーフが繰り返されているようにも見える(ぴったりそれに当てはまらないものもあるが)
「なめらかな世界と、その敵」がパラレルワールドもので、「ゼロ年代の臨界点」「ホーリーアイアンメイデン」「シンギュラリティ・ソビエト」は偽史というか歴史改変SF
女子高生の一人称からノンフィクション風、書簡体など、語り口が色々あって読んでいて飽きない


収録作品6作中3作は既読
過去に何読んだことあったかなと調べていて、本短編集に未収録の作品もちらほらあった
『NOVA10』 - logical cypher scape2収録の「かみ☆ふぁみ!」は、自分が初めて伴名練に注目した作品(それ以前にも読んだことはあったのだが、特に「これはかなり面白いのでは?!」と思い始めたのはこの作品からだったと思う)
逆に大森望・日下三蔵『折り紙衛星の伝説 年刊日本SF傑作選』 - logical cypher scape2の「一蓮托掌(R・×・ラ×ァ×ィ)」はあまりよくわからなかった奴かな。ラファティ自体あんまよくわからん
カモガワSFシリーズKコレクション『稀刊 奇想マガジン創刊号』の「聖戦譜」も面白かった

なめらかな世界と、その敵

なめらかな世界と、その敵

なめらかな世界と、その敵

パラレルワールドもののSFは数あれど、パラレルワールドを行き来できる能力を持っているのがデフォルトの世界を描いた作品、というのは珍しいのではないかと思う*1
主人公の通う高校に友人のマコトが転入してくる。ところが、そのマコトはある事件のせいで、乗覚障害という、他の世界を認識できない障害になっていた。
どうすれば、真の意味でマコトを助けることができるのか。
全ての人があんな風にパラレルワールドを行き来できてしまうと、かなり色々と大変なのではないかと思うが(主人公はパラレルワールドを乗り換えることで次々と都合の良い展開を引き寄せていく。ただし、世界をまたいで知識を持ち越すことに制限があったりもする)、パラレルワールドを次々と切り替えていく様を当たり前のこととして描写していくのは、読んでいて楽しい
大森望・日下三蔵編『年刊日本SF傑作選 アステロイド・ツリーの彼方へ』 - logical cypher scape2で読んだことあり

ゼロ年代の臨界点

ゼロ年代といっても舞台となるのは、1900年代(明治35年〜)
当時女学生であった、日本SFのパイオニアたる富江、フジ、おとらの3人をノンフィクション風*2に描いた日本SF偽史

美亜羽へ贈る拳銃

タイトルから分かる通り、伊藤計劃『ハーモニー』リスペクトの作品。
インプラント技術で世界的な地位を占める神冴脳寮は、神冴家の次男でありながら神冴から反乱した志恩率いる東亜脳外と対立していた。
神冴家の末息子で、兄弟の中で唯一医学の道に進まなかった実継は、志恩の養女で天才の名を恣にする北条美亜羽と出会う。
交通事故(に見せかけた謀略)で志恩夫婦は死に、美亜羽は重傷を負う。美亜羽と実継は政略結婚をすることになるが、美亜羽はインプラントにより自らの人格をズタズタにする。つまり、憎しみの対象であった神冴実継を愛し、代わりに自らの天才を封じてしまう。
インプラントによって制御された人格と愛憎
初出である『伊藤計劃トリビュート』で読んだことはあったのだけど、なにぶん9年も前なので、内容は全く忘れていた。

ホーリーアイアンメイデン

死んだ妹から姉に向けての手紙、という形式で語られる、太平洋戦争末期、日本が異なる形で降伏した歴史改変もの
語り手の姉である鞠奈は、抱きしめるだけでその人の攻撃性を失わせ、穏やかな人格に変えてしまうという特殊能力の持ち主。陸軍の宗像大尉がその能力に目をつける。
一方、大尉により姉の能力と、その能力が自分には及ばないことを知った妹は、姉を畏れるようになっていく。


能力が効かない主人公は、「美亜羽へ贈る拳銃」で主人公の実継がインプラントの効かない手術を受けてるのと似ている。
いずれも、世界がいくばくかの自由意志を捨てる代わりに幸せを得ていく時に、主人公だけはその世界には入り得ないという設定になっている。

大森望・日下三蔵編『プロジェクト:シャーロック 年刊日本SF傑作選』 - logical cypher scape2にて既読
 

シンギュラリティ・ソヴィエト

アメリカが宇宙開発に邁進した一方で、人工知能研究に全振したソ連は、1969年代、シンギュラリティに到達。月着陸の偉業はソ連に取って代わられる。
1976年のモスクワの夜、帰路を急ぐ博物館職員であるヴィーカの前に拘束されたアメリカ人男性が、赤ちゃんの行列によって連れてこられる。
ソ連のシンギュラリティAIヴォイジャノーイは、ヴィーカに、アメリカのAIリンカーンの配下であるその男への対応を命ずる。
ソ連人民は、脳の半分をヴォイジャノーイに提供 しており、階級に応じて、労働者現実や党員現実にアクセスできる。
一方アメリカでは、リンカーンによって、自由主義諸国が共産圏に勝利した仮想現実が作られた、希望する州の国民から順に仮想現実で暮らすようになっていた。
男は、ソ連の勝利が実は決定的ではなかったことを証明するためにモスクワへやってきた。それは、ヴィーカの勤める博物館の展示物である自動化された戦闘機、そしてヴィーカと彼女の義姉の過去に関わっていた。

ひかりより速く、ゆるやかに

インフルエンザで修学旅行に行けなかった主人公
しかし、修学旅行から帰る新幹線が、前代未聞の事故に巻き込まれる。新幹線とその内部の時間の進み方が、2600万分の1になってしまったのだ。名古屋駅に停車するのは西暦4700年頃……。
主人公のハヤキの一人称で語られる現在と、遠い未来、この新幹線が白い竜として語り継がれている文明の退化した時代とが交互に描かれる。が、この遠未来の方は実は仕掛けがある。
高校時代のハヤキが使っているのはLINEだが、その10年後には全く別のウェブサービス名が出てきていたりする。
この新幹線「低速化」災害によってもたらされた世界の変化についての描写が、コロナ禍の起きた2020年に読むと、なかなかリアルに感じられる。もちろん起きていることは全然違うのだけど、どんどん色々なことに波及して、生活のありようが変わっていく感じが。

*1:自分が知らないだけかもしれないので「珍しい」と書いたが、他に例を見ないのではという気もする

*2:脚注まで付けられている

伴名練編『日本SFの臨界点[怪奇編]ちまみれ家族』

1961年の作品から2016年の作品まで、ギャグ的な作品も含めて、広い意味でSFホラー作品を集めたアンソロジー
上に1961年からとは書いたものの、収録作の大半は90年代及び2000年代の作品である。この時期の作品が多い理由は、編集後記に書かれている。
上に「ギャグ的作品も含めて」と書いたが、このアンソロジー、振り幅が激しく、バカSFやギャグ作品が入っている一方で、シリアスかつバッドエンドに近い作品も多い、というかむしろそのどちらかしかないと言ってもよさそうなラインナップとなっている。
もっとも、それこそ怪奇編という名にふさわしいのかもしれない(実際、バッドエンドをどう捉えるかにもよるだろうが、大団円となるような作品はない)


津原泰水石黒達昌の名前に惹かれて手に取ったのだけど、それ以外にも色々な作家を知れて面白かった。
また、アンソロジーというのは大抵、各作品の解説がついてるものではあるが、このアンソロジーはとにかくそれが手厚い。作品というか、作者についての情報が細かく、特にどのような短編集や未収録作品があるのかなどが解説されており、読書ガイドとしてすぐに使える
巻末の編集後記も、編集後記とあるが、完全に読書ガイドである。


恋愛編もあるのでそちらも近いうちに読むつもり


中島らも「DECO-CHIN」

初出2004年
インディーズバンドやサブカルを扱う雑誌編集者の主人公
レコード会社が売り出そうとしているバンドの取材を編集長から言われていやいや行い、案の定つまらないライブに閉口していたら、その直後、事前に告知のなかったバンドのライブが始まる。
それは、小人症、巨人症、シャム双生児らで構成されたロックバンドで、そのあまりのテクニックと音楽的センスに主人公は一発でハマってしまう。
彼は、そのバンドのメンバーになるべく、ある決心をする。というわけで、タイトルへと繋がる

山本弘「怪奇フラクタル男」

初出1996年
本アンソロジーの中で、ある意味一番ホラーというか、絵的にゾッとするのはこれかもしれない。ただし、オチはギャグ。
いや、オチだけでなくそもそもからギャグみたいなネタなのだが、その様を想像すると結構気持ち悪い

田中哲弥「大阪ヌル計画」

1999年初出
こちらもバカSF
落語として高座にかかったこともあるらしいが、テンションの高い語り手の語りで進められていくので、(落語のことはよく知らないが)たしかに落語にもあいそうである。
過度な人口密集地になり、鮫肌水着から着想を得た摩擦がゼロになる素材の服を着ないといけなくなった大阪
なお、タイトルのヌルは、ヌル(0)と見せかけてヌルヌルのヌル

岡崎弘明「ぎゅうぎゅう」

1997年初出
何故そのネタもかぶるのか。こちらも人口密集ネタ
人口があまりにも増えすぎたため、みんな立って生活しており、動き回ることができない。食糧が頭上を手渡しで送られてくるほか、情報は全て口による伝言で送りあっている。
死ぬと遺体が、やはり頭上を手渡しで西へと送られていく。
主人公の幼馴染の少女が、さそりに刺されて急死してしまい、西へ送られてしまう。
ところが、何年も経って実は生きているという伝言が伝わってくる。主人公は、禁忌とされているリョコウをして彼女に会いに行くことを画策する。
一見、バカっぽい話なのだが、結構ブラックな感じで終わる。

中田永一「地球に磔にされた男」

2016年初出
誰かと思ったら乙一の別名義だった。今は、乙一含む3つの名義で作家活動しているらしい。さらにもう一つ別の名義含む4つの名義でそれぞれ書いた短編を集め、本名名義で解説を書いたアンソロジーがあるらしい。
パラレルワールドを次々と旅することになった主人公は、少しずつ異なる人生を送る自分に出会う。最初、成功した自分を見つけて入れ替わっってしまうことを画策したが。

光波耀子「黄金珊瑚」

初出1961年
SF作家第1世代、『宇宙塵』創刊メンバーの中にいた知る人ぞ知る女性作家(自分は知らなかった)
いくつもの短編を書き、商業誌掲載作品もあり、梶尾真治の「SFのお師匠」でもある彼女だが、家庭との関係の中で作家業は続けていけなくなってしまったとのこと。
人間たちの意志を操るケミカルガーデン。その調査に町へと赴いた主人公たち
なにぶん1961年の作品なので、良くも悪くも古さはあるが、アイデアも話も面白い

津原泰水「ちまみれ家族」

初出2002年
津原泰水が、田中啓文から自分はギャグを書いてるが津原のは所詮ユーモアと言われたのをきっかけで書いたというギャグ作品
簡単なことですぐに出血してしまい、家が血まみれになっている家族の話

中原涼「笑う宇宙」

初出1980年
アリスSOS!』の原作シリーズの作者。SF作家としては短編・ショートショートを多く手がけていたらしいが、93年に主要な掲載誌であった『SFアドベンチャー』の休載と〈アリス〉シリーズの人気により、それ以降は短編・ショートショートの発表は激減し、2013年に亡くなったとのこと(ちなみに1957年生まれとのことなので、若くして亡くなったといえる)
本作は、新人賞を受賞したデビュー作
主人公は〈妹〉〈父〉〈母〉と共に宇宙船で恒星間航行をしているが、この3人は主人公の本当の家族ではなく、彼らが勝手にそう称しているだけなのである。
主人公の一人称による語りで、〈妹〉や〈父〉は狂っていると述べられて進められていく。主人公と彼らとの会話は確かに全く噛み合わないが、読んでいるうちに、むしろ主人公こそが狂っているのでは、と思えてくるサスペンスな作品。

森岡浩之「A Boy Meets A Girl」

初出1999年
編者解説に藤崎慎吾「コスモノーティス」に先駆ける作品とあり、宇宙生命体を主人公とした作品
惑星系で家族ともに過ごし、成長するとともに翼に光を受けて、1人恒星間に旅立つ。
仲間と思い近づいた先は惑星で、そこにいた少女から自分たち種族の正体を知る

谷口裕貴「貂の女伯爵、万年城を攻略す」

初出2006年
日本SF新人賞でデビューするも、主な活動の場であった『SF JAPAN』誌の休刊とともに活動が激減し、2013年を最後に執筆が途絶えているとのこと
本作の初出は、上田早夕里「魚舟・獣船」も掲載されていた『異形コレクション』の進化論の巻だったらしい。
さまざまな獣人が跋扈する世界で、人間は奴隷の地位に甘んじている。貂の女伯爵率いる軍勢が、亀の立て籠もる万年城へと攻め入る。女伯爵軍の中にいる人間たちは、密かに亀たちと通じ、亀たちが残していて過去の史料から、やはりかつては人間のみが知性を持っていたと知る。 がしかし……。
長編の冒頭かと見紛うかのような作品となっている。

石黒達昌「雪女」

初出2000年
石黒達昌は、以前読んだ「冬至草」がとても面白かったのだが、結局その後他の作品を読まずにずるずるきてしまった
海燕出身者で、芥川賞候補に何度も上がっていたというのを恥ずかしながら知らなかった。2010年に『群像』に掲載された作品を最後に作品発表が止まっているらしいが、全作電子書籍化もされているということなので、今度読んでみたい。
本作は、1926年、芦別の診療所に現れた記憶喪失の女性とその治療を担当した医師の記録である。驚くべき低体温でいながらも、普通に(睡眠時間が長いなどはあるが)生きているその女性は、昔話の雪女のようでもあるが、医師は彼女が何者かを調べていく。

編集後記

まず、光波耀子を収録しつつも、他の女性作家を入れられなかったことに触れ、新井素子栗本薫登場までの、初期日本SFにおける女性SF作家の歴史がまとめられている。
その後、過去の日本SFを知るために、とアンソロジーブックガイドが掲載されている。
その上で、このアンソロジーに込めた編者の目的・思惑も解説されている。

『SFマガジン2020年8月号』

特集・日本SF第七世代
ここでは、北野勇作野尻抱介を第4世代、冲方丁小川一水、上田早夕里、伊藤計劃円城塔を第5世代、宮内悠介、酉島伝法、小川哲を第6世代とした上で、それ以降を第7世代としている。
まあ、世代分けにどれくらいの意味があるかはともかく、これに従えば自分は第5、第6世代ばっか読んでるということになる(瀬名秀明を除くと、第4世代以前はマジで全然読んでない……。あ、あと飛浩隆は4なのか5なのか)
で、第7世代も多少読んだことはあるけど、ほとんど手を出してないというのが正直なところ
そんなわけで読んでみようかなと

SFマガジン 2020年 08 月号

SFマガジン 2020年 08 月号

  • 発売日: 2020/06/25
  • メディア: 雑誌

高木ケイ「親しくすれ違うための三つ目の方法」

飛さんがTwitterで、タイトルの英訳が第三者接近遭遇になることを指摘していたが、エイリアンの噂話のある田舎に取材に行く若者の話
主人公の祖父(故人)は若い頃にエイリアンに遭遇したことがあると話していて、その話を祖母に聞きにいったところ、それを上回る話を聞かされてしまう。
取材と称して親しくなったUFO愛好家グループの1人である女性に好意を抱き始めていた主人公は、祖母から聞いた話を彼女に打ち明ける。


麦原遼「それでもわたしは永遠に働きたい」

この作者のデビュー作は以前読んだことがあったが、難しくてあまりよく分からなかったという印象(体調があまり良くない時に読んだこっちも悪かったとは思うが)
対して、こちらの作品は読みやすかった
労働ディストピア

草野原々「また春が来る」

フィクションが季節ごとに収穫される世界

三方行成「おくみと足軽

伊藤さんが扉イラスト描いてた
ロボット大名行列SF
大名が巨大ロボット、足軽は多脚式運搬ロボット
その世界観が面白かった

津久井五月「牛の王」

コルヌトピア読みたいと思いつつまだ読めてない
第2長編の冒頭先行公開
面白かった。続き楽しみ。こういう雰囲気の作品好き

劉慈欣「クーリエ」

アインシュタインのもとを訪れる時間移動者

伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史7』

7巻は「近代2 自由と歴史的発展」

伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史1』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史2』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史3』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史4』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史5』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史6』 - logical cypher scape2


19世紀を取り上げており、前の巻に引き続き、ザ・哲学といったビッグネームが並んでいる
ドイツ観念論ショーペンハウアーニーチェマルクス功利主義プラグマティズムベルクソン……
アジアからはインドと日本。インドは久しぶりの登場かなと思う。相変わらず(?)固有名詞が難しいけど、なかなか面白い


欧米の各哲学については、全部とは言わないが、カントとの違いで特徴付けられるものが多い印象
しかしまあ、色んな哲学が出てきたという感じあり、この巻を通じたキーワードはあまり思いつかなかった(タイトルや1章にある通り、編集サイド的には「自由」ということなのだろうけど)

第1章 理性と自由 伊藤邦武
第2章 ドイツの国家意識 中川明才
コラム1 カントからヘーゲルへ 大河内泰樹
第3章 西洋批判の哲学 竹内綱
コラム2 シェリングの積極哲学の新しさ 山脇雅夫
第4章 マルクスの資本主義批判 佐々木隆
第5章 進化論と功利主義の道徳論 神崎宣次
コラム3 スペンサーと社会進化論 横山輝雄
第6章 数学と論理学の革命 原田雅樹
コラム4 一九世紀ロシアと同苦の感性 谷寿美
第7章 「新世界」という自己意識 小川仁志
第8章 スピリチュアリスムの変遷 三宅岳史
第9章 近代インドの普遍思想 冨澤かな
第10章 「文明」と近代日本 苅部 直



第1章 理性と自由 伊藤邦武

自由について、一般的に2種類の自由(自発性の自由と無差別な選択の自由)に分けられることを踏まえつつ、第3の自由があると言う
それは、習慣形成によって得られる自由で、この自由は非西洋世界とも共鳴するだろうという話をしている。この巻では儒学についての章はないが、ここまで世界哲学史を読んできていると儒学っぽい話だと感じられ、「伏線回収(?)だ!」とちょっと興奮してしまった。


その他、ロマン主義というのは原義はローマへの回帰だけど、文芸運動的には、冒険や英雄譚、恋愛物語に没入するという意味だよねとあり、ついついロマン主義のロマンとはローマのことで〜と思いがちなので、思い直した。

第2章 ドイツの国家意識 中川明才

主にフィヒテの政治哲学について
まず、ドイツ・ロマン主義について紹介し、その後、カントの政治哲学と対比する形でフィヒテの政治哲学・道徳哲学が説明される。
フランス革命とナポレオンの影響が強い。


ドイツ・ロマン主義は、シュレーゲルが創刊した雑誌を牙城としたが、この雑誌の終刊後、シュレーゲルはインド思想を研究するようになり、これが後にショーペンハウアーニーチェとつながっていくらしい。


カントは、革命権を否定しており、それが君主制の容認と繋がっている、と。
カントは、支配権が何に帰属するかで、君主制、貴族制、民主制の、支配権がいかに行使されるかで専制、共和制の区別をなす。
共和制は、行政権と立法権の分離なので、民主制は共和制ではないとし、代議制のもとでの君主制において共和制は成り立つと考える、らしい
ここらへん、『永遠平和のために』に書いてあるらしい。カントで唯一通読した本だけど、忘れてる。


フィヒテは、あらゆる君主制が自由と相容れないとして否定し、また革命権を正当化するフランス革命論を書く。
理論哲学と実践哲学を統合すると原理として「自我」とし、自我のあり方の自由という観点から道徳性を捉える(自律こそ自由、というのはカントっぽい気がするが)

コラム1 カントからヘーゲルへ 大河内泰樹

『カントからヘーゲルへ』は1924年に書かれた哲学史の本のタイトル。
一方、2003年には『カントとヘーゲルの間』という哲学史の著作が書かれている。
単線的な発展の歴史ではなく、相互影響があったという史観の更新について

第3章 西洋批判の哲学 竹内綱

ショーペンハウアーニーチェについて


ショーペンハウアーの意志が何か、初めて少し分かったような気もしたのだが……
いわゆる知的作用としての意志ではなく、自分の身体が動いていることを内的に感じることを「意志」と呼んだらしい。
もしかしてそれって、自己主体感とか自己所有感とかのことか? なるほど、それなら分かるぞ、っていうかショーペンハウアーなかなかいいとこ突いてんじゃん、と思ったのも束の間、これを身体だけでなく世界全体に適用する、となって一気に訳わからなくなった
ショーペンハウアーは、同情から自分と他者が同一の意志であるとする倫理、というのも説いているらしい
また、仏教から影響を受けたと解されることが多いが、インド哲学や仏教には、後から出会って自分の思想と近くて驚いた、ということらしい。


ニーチェについては、ショーペンハウアーとの違いという点から解説されている


最後に、本シリーズ第1巻のインドの章で出てきたドイッセンはニーチェの友人で、彼ニーチェの勧めでショーペンハウアーを読み始めたのだけど、その弟子である姉崎は日本のショーペンハウアー研究を始めた人だよ、という繋がりが紹介されている

コラム2 シェリングの積極哲学の新しさ 山脇雅夫

シェリングよく分からない……


ドイツ哲学ってカントまではまあ何となく分かる気がするんだけど、カント以後、19世紀のってずっとよく分からない……。まあちゃんと勉強してないせいもあるけど
今回、フィヒテのところは政治哲学なこともあって、割と分かる感じがしたけど

第4章 マルクスの資本主義批判 佐々木隆

まず、マルクスの思想と「マルクス主義」を区別する。後者は、エンゲルスマルクスの思想を広める上で通俗化したものだ、と。また、マルクスの思想には近代批判があるが、マルクス主義は近代イデオロギーの1つになってしまっている、といい、マルクスの元々持っていた近代批判について紹介する章


マルクスヘーゲルの影響を受けていたのは確かだが、弁証法で何でも説明できると考えていたのはエンゲルスの方で、マルクスは「「弁証法的運動法則」について語ったことは一度もない」というのは、軽い驚きだった。


マルクスは、青年ヘーゲル派のバウアー、フォイエルバッハからそれぞれ影響を受けつつ批判することで、自らの「哲学」を形成していく。ここでカッコでくくったのは、マルクスはその後哲学批判に転じていくから。
マルクスのいう哲学というのは、世界を解釈し、それを啓蒙することで世界を変革しようとするものであり、超歴史的に普遍的に説明しようとする理論。
しかし、マルクスはそういう体系を作ることを目指すのではなく、変革の契機とするために批判を行う。理論そのものによって変革はならない。


次に、マルクスの経済学批判について
商品形態論と、そこから導き出される労働の再生産と搾取について
筆者は「マルクス経済学」ではこうした観点が抜け落ち、単なる私的所有批判と国家による収奪に堕してしまっているとしている
マルクス自身は、政治権力による変革ではなく、社会運動や協同組合による変革を考えていたらしい
協同組合かー!


後期マルクスの思想として、物質代謝論というのが紹介されてる

第5章 進化論と功利主義の道徳論 神崎宣次

章タイトルに進化論と入っているが、話の枕程度で、メインは功利主義
(近年の倫理学の自然化についても紹介したかったのかなと)


功利主義というと、それと対立する立場は義務論、だと反射的に答えてしまうが、この対立図式は20世紀に作られたもので、歴史的には、功利主義vs直観主義というのが伝統的な対立図式らしい
というかベンサムが仮想敵にしてたっぽい
直観主義というと多様な立場が含まれてしまってあまりはっきりと定義できないようだが、ベンサム道徳感情論などを批判していたようだ


本章では、ベンサムとミルがそれぞれ紹介される。2人とも、功利性の原理そのものの正当化はうまくできていないが、しかし功利主義自体には説得力は確かにある、と。

コラム3 スペンサーと社会進化論 横山輝雄

スペンサーの社会進化論は、社会ダーウィニズムなどと呼ばれ、ダーウィン進化論が元になっていると思われがちだが、実際はラマルク進化論だし、あんまりダーウィン関係ない、というのはまあ知られるところだが、スペンサーの生きてる時からある誤解で、スペンサー本人が、俺ダーウィンより前から進化論唱えてたから
、と言ってたのは知らなかった

第6章 数学と論理学の革命 原田雅樹

19世紀の数学の話
数学全然分かってないのでむずい……


一般に、19世紀の数学は、(非ユークリッド幾何など)カント哲学を覆すものと捉えられているが、ここでは、エピステモロジストのヴュイユマンによる、フィヒテによるカント哲学の方法論的転換が数学の進展を可能にしたという主張をベースに論じられる。


五次以上の方程式の一般解について
ラグランジュから始まり、アーベル、ガロアがそれぞれ証明する
で、ここでは、ラグランジュフィヒテが、どちらも、存在と対象だけでなく、形式と操作を主題化したという。


リーマンによるリーマン面の導入
その弟子デデキントによる代数学の抽象化
ここにも、カントからフィヒテへの移行と類似した移行があるという

コラム4 一九世紀ロシアと同苦の感性 谷寿美

第7章 「新世界」という自己意識 小川仁志

プラグマティズムについて


プラグマティズムの特徴は、反デカルト主義と、事実と価値の区別の否定


パースは、デカルトの明晰判明を個人の主観にすぎないと批判(これ、ライプニッツも言ってなかったか*1 )
パースが自然科学ベースに考えていたのに対して、ジェイムズがこれを広く応用。これがのちの対立のもとに
事実と価値の区別をもとにした対立は、気質的な対立だと(この話前にも出てきた*2 )
純粋経験と多元論
純粋経験というのは主客未分離での質の感受(西田っぽいなと思ったら、西田に影響与えているらしい)
ジェイムズの多元論が、もしかしてグッドマンにも影響したんだろうか(この章にグッドマンは名前も出てこないが)
デューイは、さらに道徳や政治にもプラグマティズムを持ち込もうとする。実験して検証するのが民主主義


この3人は古典的プラグマティズム
次に、クワイン、ローティ、パトナムらのネオ・プラグマティズムがあり、最近は、ミサックやブランダムのニュー・プラグマティズムがある
ニューの方は、古典的プラグマティズムの再評価を行なっている、と

第8章 スピリチュアリスムの変遷 三宅岳史

フランス・スピリチュアリスム、具体的には、メーヌ・ド・ビラン、ヴィクトル・クザン、フェリックス・ラヴェッソン、アンリ・ベルクソンについて*3


スピリチュアリスムはかつて唯心論と訳されていたが、それだと心的一元論を含意してしまうが、実際には二元論の立場も含むので、近年はスピリチュアリスムと訳されているとのこと。
そもそも色々な立場を含み、歴史的にも変遷があるとのことだが
まず、19世紀のフランスは、フランス革命とナポレオンを経て、保守派と革新派の2つのフランスに分裂していた時期で、これは哲学思想的には、宗教を重視する立場と科学を重視する立場の対立となっていた。スピリチュアリスムは、この2つの融和を目指す立場で、また、まだ科学として成立途上にあった生物学や心理学と関係していた。
また、カント的な物自体についての不可知論を避け、実在について論じようとする点で、ドイツ観念論からの影響も受けている、と。


ビラン
意志に対して抵抗するものとしての身体=原初的事実(これちょっとショーペンハウアーの意志と近いのでは? と思った)
原初的事実から諸概念の構成
現象学への影響


クザン
七月王政期の哲学者・政治家
実証主義と対立し、精神は脳に還元されないというクザン派の心理学
ヘーゲルの歴史哲学の影響を受けた、エクレティスム(折衷主義)
ただし、ドイツ観念論と違って、心理学から出発する
政治家として、ライシテを推進。フランスの高校に哲学科目があるのはクザンによるもの。また、高等師範学校の改革を行い、人事権を振るって実証主義人脈を排除
第二帝政の成立とともにクザン派は退潮。エクレティスムからスピリチュアリスムへ。


ラヴェッソン
第二帝政期、クザン派の退潮に伴い、非クザン派として台頭。クザンを強く批判したが、実際にどれくらい違うのかは要検討とのこと。
『習慣論』において、ビランの議論をアリストテレスおよびライプニッツ存在論と接続
スピリチュアリスム実証主義


ベルクソン
ビランやクザンと同様、心理学から出発するが、習慣や努力ではなく、持続を見出す
エラン・ヴィタルは、クザンやラヴェッソンの自発性に類似した概念

第9章 近代インドの普遍思想 冨澤かな

19世紀から20世紀前半のベンガルルネサンスについて
インドのキーワードである「スピリチュアリティ(精神性・霊性)」と「セキュラリズム(世俗主義)」について
ヴィヴェーカーナンダや、ローイ、タゴール、セーンというブラーフマ・サマージの系譜、そしてラーマクリシュナが取り上げられる。


ヴィヴェーカーナンダとスピリチュアリティ
スピリチュアルな国インド、というのは如何にもオリエンタリズムなイメージなようだが、実はインド人自身が結構アイデンティティとしている。これは、西洋のオリエンタリズムを逆手に利用した戦術、アファーマティブオリエンタリズムだとする議論もある。
しかし、筆者は本当にそうなのか、と疑問を呈す。
スピリチュアリティという言葉を積極的に使い始めたヴィヴェーカーナンダの用例や、その周辺の用例を調べる。具体的には、何回か使っているかとにかく数えまくるという手法を取る。
結果、ヴィヴェーカーナンダの欧米渡航の最終年から急増したことが分かった。やはり、欧米由来の概念だったのか。今度は欧米での用例を数える。すると、この当時、スピリチュアリティという単語はほとんど使われていないことが判明
スピリチュアリティという語の使用は、ヴィヴェーカーナンダが独自に編み出したものであり、必ずしもオリエンタリズムを逆手にとったものとは言えなさそう、と論じている。
ヴィヴェーカーナンダのスピリチュアリティは、東西に共通する普遍的なものをさす概念として用いられている


偶像崇拝多神教カーストやサティ、幼児婚などを批判し、一神教的普遍宗教を目指したローイは、ブラーフマ・サマージという組織を作る
ローイの後を継いだタゴールは、崇拝と瞑想を用い、ローイとは取り組みが異なっていた。社会的には保守的
タゴールの後を継いだのがセーンで、彼は社会変革的という点でローイと近かったが、偶像崇拝などを取り入れるようになる。


このセーンに影響を与えたとされるのが、ラーマクリシュナ
先述のヴィヴェーカーナンダは、もともと ブラーフマ・サマージにいたが、ラーマクリシュナの弟子になっている。
ラーマクリシュナは、無学で、社会改革にも興味を持っていたわけでない、神秘主義的な宗教家だが、ブラーフマのメンバーを始め、インドの知識人が集っていた。
筆者は、インドの普遍主義、つまり東西対立を超えるものでもあり、インド内部の対立を解消するものとしての普遍主義は、共有できる何かとして、世界に空いた〈穴〉を求めており、それがラーマクリシュナに求められていたのでは、と論じている。

第10章 「文明」と近代日本 苅部 直

「文明」「文明開化」という言葉が明治から昭和にかけてどのように用いられてきたか。


もともと、シヴィライゼーションの訳語として福沢諭吉が用いる。
明治19年には既に、徳富蘇峰により、物質的文明はただの西洋模倣として批判的に用いられている。
大正期には、文明に対して文化を礼賛する、阿部次郎や和辻哲郎などの教養派が登場。岩波書店とともに教養ブームが到来
もともと文明はフランス由来で、文明と文化の対比はドイツ由来らしい
昭和に入り教養派は衰退するが、日本浪漫派や「近代の超克」座談会など、文明批判は続く。


文明について、明治期の庶民は肯定的に捉えていたこと
文明という言葉にはもともと道徳性のニュアンスが持ち込まれていたこと
「近代の超克」座談会の参加者でもある鈴木成高と、それを批判した丸山眞男の対立に、19世紀という時代の位置付けをめぐる対立を見る。19世紀を近代の問題点が集約された時代とみなす鈴木と、19世紀に現代の始まりを見る丸山


次は
sakstyle.hatenadiary.jp

*1:伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史5』 - logical cypher scape2の第7章

*2:伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史6』 - logical cypher scape2の第1章

*3:ベルクソン以外知らなかった……。というか、ベルクソンはこういう流れに位置付けられるんですね。ミネルヴァから出た『現代フランス哲学入門』の目次見たら、当然全員載ってた

デイヴィッド・ライク『交雑する人類』(日向やよい訳)

サブタイトルは「古代DNAが解き明かす新サピエンス史」てまあり、遺伝学による人類史研究の本
筆者は一時期ペーポの研究所にいた人で(今は独立した研究室を持っている)、この本のタイトル的にも、ネアンデルタール人やデニソワ人と現生人類との交雑の話かなと思って手に取ったのだけど、まあ、それらについての話題も結構ページ数割いてちゃんと書かれているが、メインとなる話題は、それよりももう少し後の時代(1,2万年前〜数千年前)で、現生人類内での集団間の交雑が扱われている。
河合信和『ヒトの進化七〇〇万年史』 - logical cypher scape2を読んだのは、この本の予習(「ゲノム革命」以前の定説の確認)の意味もあったのだが、扱われている時代について重複があまりなかった。まあ、700万年のうち、DNA使って遡れる期間のこと考えてみると当たり前っちゃ当たり前の話なのだが……。
旧石器時代あたりをまとめている本があれば、ちょうどよかったのかもしれない。ただ、軽くググってみた程度だと、そのあたりの手頃な入門書が見当たらないのだが……。


本書は三部構成になっている。
第1部は、ゲノムを使った研究がどのようなものかという理論的な説明と、ネアンデルタール人やデニソワ人などと現生人類との交雑の話や、ホミニンの出アフリカは4回ではなく3回だった説などが論じられている。
第2部は最も長くてメインとなる箇所で、ヨーロッパ、インド、アメリカ、東アジア、アフリカといった諸地域についてそれぞれ論じている。
第3部は、ゲノム研究と差別に関わる問題を扱っている


この本はまず、これまで考古学、人類学、言語学などによって担われてきた人類史研究に、新参者たる遺伝学がどのような寄与ができるのか、という観点から書かれている。
新参者としての謙虚さを兼ね備えつつも、遺伝学がこの分野に対して決定的に重要な役割を担うという強い自信が垣間見える。というか、そういう遺伝学プレゼンの本だと思う(筆者はゲノムデータ分析を、放射性炭素年代測定にも喩えている(どのような影響をもたらすか、今後どのような地位を得るかについて))。
では、遺伝学、ひいてはゲノムワイドなデータを用いることでどのようなことが分かったか。
遺伝学は、人類集団の交雑の来歴を明らかにし、どれくらいの時期にどのような移動をしてきたかということを明らかにすることができる。
そこから、人類の各集団はかなりダイナミックな移動と交雑を繰り返しており、5000年から1万年ほど遡ると、今とは全く異なる集団の構成になっていたことがわかってきたという。その中には、現在にはもう存在していないし、考古学・人類学的にも確認されていない「ゴースト集団」の存在も含まれる。
こうしたことは、純粋に学術的な観点で、新説を生み出しいることなどから興味深い(新説を出しているだけでなく、従来からあった説の裏付けとなっているケースも無論ある)。
が、それだけでなく、政治的・社会的観点からも、かなり重要な問題提起をしている。
すなわち「人種」についてである。
例えば、現在ヨーロッパに住んでいる、いわゆる「白人」ないし「コーカソイド」であるが、ゲノム研究により、複数の集団の交雑によって生じた集団だということが分かってきた。「金髪」「碧眼」「白い肌」といった特徴も、それぞれ別の集団から引き継いできた形質らしい。
既に述べた通り、ゲノム研究は、人類の中には今は消えてしまった「ゴースト集団」があったことを示唆している。こうしたゴースト集団は、もし現在まで残っていたら、それ自体1つの「人種」と見なされていたであろうと考えられるほど、他の集団と違いがある。
こうした研究結果は、人種の「純血性」なるものが全くの間違いであったことを示している。
一方、集団間に差異があることについても分かってきている。もっともそうした差異は、レイシストなどが考えているようなものとは違う、と筆者は述べている。
筆者のライクは、当然ながら人種差別には否定的であり、そうした動きについては警戒している。また、おそらくそのような問題を解決したいと思っており、自分の研究がそれに役に立つと考えているのだろう。
そうした立場に間違ったところはないと思うが、あえて批判的なことを言うならば、楽観主義的なところがあるかと思う。楽観主義そのものは決して悪いことではないが、科学的に正しいことが明らかになれば、当然、人種差別という非科学的なものはなくなるというのは、危うい気はする。
科学的に正しい知識自体はもちろん必要だが、それだけではおそらく足りないのではないかと思う。もっともこの本は、あくまでも遺伝学についての本なので、それを踏み出すことまで求められていないし、その意味では十分踏み出している本だと評価することもできる。
この本に書かれている「ゲノム革命」によって分かってきたことは、いずれも面白いことばかりで、今後の進展が楽しみな分野ではあるが、こと「人種」問題に関しては、パンドラの箱感もあるなーとは思った。最後には希望が残っているとして、今の人類、ちゃんとこれ使いこなせます? 的な一抹の不安というか。
もちろんそれは、遺伝学側の問題というよりは、それを受け取るこちら側の問題であるわけだが。


冒頭に書いた通り、元々ネアンデルタール人とサピエンスの交雑の話だと思って読み始めたところがあり、それについても書いてあったから別によいのだが*1、それ以上にホモ・サピエンス内の話だったし、さらには人種差別と遺伝学の関係について考えさせる本であり、想像以上にハードな本だった。


人種関連の話が長くなってしまった。
この本は、ホモ・サピエンスの出アフリカから各地で文明が出現する前までの時代を主に扱っている。
要するに石器時代なのだが、自分はこの時代のこと、石器時代ということ以外は全然知らなかったなあということを思い知らされた。
ヨーロッパだと特に研究が進んでおり、土器の形状などから様々な何とか文化がある。ここらへんはもちろん考古学によって既に明らかにされてきたことで、この本にとっては前提にあたる部分だが、どれも全然知らなかった。

序文
第1部 人類の遠い過去の歴史
 第1章 ゲノムが明かすわたしたちの過去
 第2章 ネアンデルタール人との遭遇
 第3章 古代DNAが水門を開く

第2部 祖先のたどった道
 第4章 ゴースト集団
 第5章 現代ヨーロッパの形成
 第6章 インドをつくった衝突
 第7章 アメリカ先住民の祖先を探して
 第8章 ゲノムから見た東アジア人の起源
 第9章 アフリカを人類の歴史に復帰させる

第3部 破壊的なゲノム
 第10章 ゲノムに現れた不平等
 第11章 ゲノムと人種とアイデンティティ
 第12章 古代DNAの将来

序文

この分野の創始者であるカヴァリ=スフォルツァについてなど

第1部 人類の遠い過去の歴史

第1章 ゲノムが明かすわたしたちの過去

この章の中で面白かった話として
誰しも親は2人、祖父母は4人、曽祖父母は8人いて、世代を遡るにつれて祖先の人数はどんどん増えていく。しかし、組み換えによって生じるDNA鎖の数は、ある段階で祖先の数より少なくなる。
で、例として、エリザベス女王の24代前の祖先はノルマンディ公ウィリアムで、この家系図自体は正しいとしても、エリザベス女王がウィリアムの持っていたDNAを受け継いでいる可能性はほぼないという。というのも、24代前の祖先は1600万人以上いるが、そのうちDNAに寄与しているのは1750人程度のためだ。
ところで、時を遡れば遡るほど、DNAは分散していく。上の例にあるとおり、1000年程度だと1700人からDNAを引き継いでいるが、5万年遡ると10万人以上となる。ところが、これは当時のどんな集団よりも人数が多い。
現代の人々のDNAから、過去の情報を得ることはできるのだが、これには限界がある、という話でもある。
なお、遺伝学と人類史の話だと有名なのはミトコンドリア・イブだろう。ただ、ミトコンドリアDNAで遡れるのはあくまで母系だけ。実際にはゲノムは、非常に多くの祖先から受け継がれており、ゲノムレベルで調べるともっと多くの情報が得られるし、この遡れる限界もミトコンドリアDNAだけより、ゲノム全体を使った方がより古くまでいける。


なお、この章、本題はもう少し別のところにあるのだが、ちょっと省略

第2章 ネアンデルタール人との遭遇

古代DNA研究について
ミトコンドリアDNAの方が抽出しやすいが、ミトコンドリアDNAだけでは、ネアンデルタール人と交配があったかどうか確定できない
ペーポはネアンデルタール人のゲノム抽出に挑んだ。2010年以前はPCRが使われていたが、2010年以降、ターゲットを絞らず全DNAをシーケシングする手法が使われるようになった。
また、厳重な汚染対策も。
交配があったかどうか調べる「4集団テスト」
共有している変異の数が等しいかどうか
非アフリカ人とネアンデルタール人の距離は、サハラ以南のアフリカ人とネアンデルタール人の距離より近い(交配がなければ同じになるはず)
筆者たちは、最初、ネアンデルタール人どの交配に否定的(もともと、強いアフリカ単一起源説を推していた)であり、この結果を疑ったが、否定できなかった
どこで交配が起きたかは遺伝学からは分からない。考古学では、中東でネアンデルタール人と現生人類が交錯していた時期が2度あることが示されており、中東で交配が起きたと考えると、アジア人もヨーロッパ人もネアンデルタール人のDNAを持っていることの説明もつく。
ルーマニアで発見された骨格について、ネアンデルタール人と現生人類の交雑個体と主張されていたもので、実際、DNAのデータからも祖先にネアンデルタール人がいることが分かったが、この系統は現代にDNAを残しておらず、ヨーロッパでも交配は起きていたが、それが現代の人類につながるものではなく、やはり、現代にネアンデルタール人のDNAを残したのは、中東での交配っぽい
また、ネアンデルタール人のDNAは、自然淘汰を受けていて、少なくなっているというのも分かっているらしい。
ネアンデルタール人の集団は規模が小さく、不利な遺伝子が残っており、現生人類どの交配後、淘汰されしまったようだ。

第3章 古代DNAが水門を開く

この章は、デニソワ人発見のエピソードから始まる。
デニソワ人は、タイプ標本になるような骨格が十分に見つかってないので「新種」とはされていないが、この点について、がっかりした同僚がいたことにも触れつつ、自分たち遺伝学者は「種名を使うことに積極的ではない」と述べているのは面白い


デニソワ人は、今の人々の中では、ニューギニア人への寄与が少し多い。ニューギニア人との祖先と交配していたことを示すが、デニソワ人はシベリアで発見されており、一体どこで、という問題がある。
ニューギニア人の祖先と交配したデニソワ人のグループとシベリアで発見されたデニソワ人も遺伝的には少し異なるグループで、さらにその祖先となる集団がいて、シベリアへ向かったグループと南に向かったグループへと分岐したようだ。デニソワ人と一言で言っても多様性のあるグループだったのでは、と。
ネアンデルタール人やデニソワ人の祖先として、ホモ・エレクトスではなく、ホモ・ハイデルベルゲンシスの系統が早くから東ユーラシアに来ていたのではないかとか。
また、サハラ以南のアフリカ人について、ネアンデルタール人からもデニソワ人からも受け継いでないので両者との距離は等しくなるはずだが、デニソワ人の方が少しだけ遠い。このことから、デニソワ人はさらに別の集団と交配していることが示され、筆者はこの集団を「超旧人類」と名付け、ゲノム解析から存在が示唆されるが化石による裏付けのない「ゴースト集団」の1つとみなす。


ホミニンの進化の過程で、4回の分離があったとされる
(1)180万年前 ホモ・エレクトスの分離
(2)140〜90万年前 超旧人類グループの分離
(3)77〜35万年前 ネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先の分離
(4)47〜38万年前 デニソワ人とネアンデルタール人の分離
(1)〜(3)はそれぞれアフリカで生じ、分離した系統はそれぞれ出アフリカをした。(3)で分離してアフリカに残っていた現生人類の祖先が、5万年前に出アフリカをした(ホミニンは4回の出アフリカをして、最後に出たのが我々の直接の祖先)というのが、一般的な説とされる。
これに対して筆者は、(2)と(3)の分離がユーラシアで起きたという新説を唱える。
(3)の分離で生じた現生人類の祖先系統がいったんアフリカへ戻ってきて、5万年前に3度目の出アフリカをしたという考え
出アフリカの回数を減らせるという倹約的な説であること、この時期はアフリカで発見される骨格がユーラシアで発見されるそれと比べて明らかに現生人類に近いとはいえないこと、この説は考古学・人類学では少数派だが、100万年前のスペインで発見されたホモ・アンテセソールがネアンデルタール人と現生人類の共通祖先とする説があって、ユーラシア進化説がないわけではないことなどを、挙げている。

第2部 祖先のたどった道

第4章 ゴースト集団

ここから、さらに話は複雑になってくるが、細かに追うと訳分からなくなるので、ブログ上でのまとめはなるべく簡潔にしたいと思う。


北ヨーロッパ人は、サルディーニャ人だけでなく、アメリカ先住民とも変異を共有していることが分かった。これは、北ヨーロッパ人とアメリカ先住民の両方に寄与した祖先集団がいることを示している。
北ヨーロッパ人は、その祖先集団とヨーロッパ人の祖先集団との交雑によって生まれた。
この、北ヨーロッパ人とアメリカ先住民の両方に寄与したと考えられる集団というのが「ゴースト集団」で、筆者はこれを「古代北ユーラシア人」と名付けている。
古代北ユーラシア人はゴーストだったのだが、2013年に、シベリアのマリタ遺跡から発掘された2万4000年前の骨のゲノムが、北ヨーロッパ人とアメリカ先住民とのつながりが強く、現在のシベリア人とはつながりが弱いことがわかり、この骨がまさに古代北ユーラシア人だと考えられる。
その後、さらにマリタ、ヨーロッパ狩猟採取民、東アジア人が分離する前に分岐した「基底部ユーラシア人」というゴースト集団も示された。基底部ユーラシア人のゲノムはまだ発見されておらず、どこに住んでいたのかは不明だが、北アフリカに住んでいたのではないかとされる。


この章ではさらに、約4万年前から約1万4000年前までの間のヨーロッパの狩猟採集民の歴史や、中東での農耕の広がりについて説明している。
ずっと同じ集団がいたわけではなく、様々な集団が入れ替わり立ち替わり現れていたこと、現在の西ユーラシア人が、様々な集団の交雑によって生じたことが述べられている。
また、考古学的な証拠だけでは、ある文化の広まりが、それを担う集団自体の移動によるものなのか、知識の伝播によるものなのかは判別できなかったが、ゲノム解析は、それを明らかにすることができる、と。

第5章 現代ヨーロッパの形成

5000年前のヨーロッパには、今のヨーロッパ人の祖先はまだいなかった
(例えば、ストーンヘンジなどの巨石文明を作った人々と現在のヨーロッパ人は遺伝的に異なる集団)
現在のヨーロッパ人へとつながるポイントとして、東のステップからの集団の移住がある。
馬と車輪を使用したヤムナヤ文化の登場
縄目土器文化とヤムナヤ文化のつながり
コッシナの居住地考古学=縄目土器文化が移住によってもたらされたという考えで、ドイツ固有の領土の正当性を主張し、のちにナチスドイツにも利用された。このため、考古学では文化の伝播を移住によって説明することを警戒するという。
遺伝学がもたらすステップからの移住という説明は、このタブーを犯している。
しかし、筆者は、居住地考古学とは違い、ヨーロッパ内の移住ではなくヨーロッパ外からの移住であること、度重なる移住は集団間の交雑を伴っていることなどを挙げて 、ナチス的な純血主義とは相容れないと強調している。
ヤムナヤ、縄目土器文化、さらに後続する鐘状ビーカー文化、そしてインド=ヨーロッパ語族の広がりに、ステップからの移住という大きなトレンドが関わっていたのだという

第6章 インドをつくった衝突

筆者は、インドの研究者グループと共同でインド人のゲノム解析を行い、インド人が2つのグループの交雑によることを突き止めた。
ところで、この報告をインド側の共同研究者に伝えたのが、研究者人生で最も緊迫したと書かれている。当初、筆者はこの2つのグループのうち片方を「西ユーラシア人」と呼称していたのだが、インド側はこれに反対したのである。
結果として、筆者らは「祖型北インド人(ANI)」と「祖型南インド人(ASI)」という名前をつけることになる。
この手の研究が、政治的・社会的に非常にセンシティブなところに抵触する可能性が高い1つの例となっており、また集団の名前をなんと名付けるかは、かなり配慮の必要なところとなる。


さて、このANIとASIの交雑だが、インド人のあらゆるグループが両方のDNAを持つが、混合率が異なる。
インド=ヨーロッパ語族を話すグループはANIの比率が高く、ドラヴィダ語族を話すグループはASIの比率が高い。また、カーストが高位な集団ほどANIの比率が高い。さらに、Y染色体はヨーロッパ人とつながりを有する率が高いが、ミトコンドリアDNAはどのグループでもASI由来。
これらのことが示すのは、元々ASI集団だったところをANI集団が征服し、高い社会的地位を占め、ANI由来の男性とASI由来の女性の組み合わせがより多く子孫を残したということである。
第3部において改めて論じられるが、このような男女差は世界の様々なところで見られ、支配者集団と被支配者集団の間の差別的関係があったことを示している。


ANIとASIの交雑が始まったのは4000年前以降で、インド北部で繰り返し交雑が起こり、移動が生じたことで、現在のインド北部と南部の差が説明できるという。


カースト制度について
インドに古くからあるのか、近代のイギリス支配によって固定化されたのか議論があるが、筆者はゲノム解析が前者を支持するとしている。
ジャーティグループ間の遺伝的差異が大きく、族内婚を繰り返していたという。
変異頻度の差から、人口ボトルネックが推察される。先祖集団の大きさが小さくその隔離が続くと、たまたま先祖の持っていた珍しい変異が子孫にもずっと残り続けるという現象で、インドのジャーティは古くから人口ボトルネックが生じていることが分かった。
ここで筆者は自らがアシュケナージユダヤ人であることを明かし、族内婚の伝統が長期に渡って続くことがあることを直観的に理解できたと述べている。
また、潜性遺伝による遺伝病について、ユダヤ人について研究が進み医学的成果が上がっていることを述べ、インドでも同じことが可能だろうと述べている。


ANIとASIもそれぞれ交雑集団であり、インドとヨーロッパの歴史が似ているという。
ANIもASIもいずれもイラン由来のDNAを持つ。
ASIは、インドに元々いた狩猟採集民ではなく、9000年前にイランから移住してきた農耕民との交雑集団
ヨーロッパでは、9000年前にアナトリアから農耕民が移住している。
その後、5000年前にヤムナヤ牧畜民が移動。東に移動し、元々いた農耕民と交雑したのがANIに
西に移動したヤムナヤがヨーロッパで縄目土器文化を担う集団になった、と。

第7章 アメリカ先住民の祖先を探して

南北アメリカについて
この章はちょっと整理しきれなかったので詳しいことは割愛
アメリカ大陸にいつ渡ってきたのか(クローヴィス文化が最初というクローヴィスファースト史観に異を唱えるなど)とかや、先住民の言語を大きく3つの語族に分ける言語学上の説について、遺伝学から検証するなど。


この章で印象に残るのは、北アメリカのネイティブ・アメリカンの中に、白人による研究調査に非協力的なトライブがあって、DNAサンプルの採取が進んでいないという話だろう。
これは、かつて協力した際に約束していた見返りが得られなかった、裏切られたという過去があるため。
一方、遺骨や遺物を先住民に返還する法律というのがあり、返還が進んでいるのだが、直接文化的・生物学的なつながりがあることが返還の条件になる。
解剖学的なつながりがなく返還が認められなかった例について、DNA解析によりつながりを示し、返還につなげた例が出てくる。
このように、ネイティブ・アメリカン側に、民族アイデンティティ上のメリットがあることを示して、DNAサンプルを採取する研究者がおり、筆者もそういう新しいモデルを作って研究を進められないだろうかと論じている。

第8章 ゲノムから見た東アジア人の起源

この章についても、詳細は割愛
東アジアの現生人類の後期石器時代の文化が、西ユーラシアとは異なること
オセアニア方面について、デニソワ人との交雑の影響
揚子江ゴースト集団と黄河ゴースト集団
太平洋の島々への広がりなど

第9章 アフリカを人類の歴史に復帰させる

この章についても詳細は割愛
アフリカは人類史において、発祥の地として重要視されているが、その反面、出アフリカ以後のアフリカの歴史は省みられてこなかった。
農耕の広がりに伴い集団の移動や交雑が進み、過去が分かりにくくなっているらしい。
その一方で、個々の集団も分離していて、例えば鎌状赤血球変異は3つの地域で生じているのだが、それぞれ独立に生じた変異らしい(それだけ有利な変異なのだが、集団間の行き来がなくて広まらなかった)
アフリカにもやはり、ゴースト集団はあったらしい
古代DNAについて、暑い地域では発見が難しかったが、近年、抽出技術の改良で見つかるようになったとか(これはアジアの章で太平洋の島々についてのところでも書かれていた)

第3部 破壊的なゲノム

第10章 ゲノムに現れた不平等

インドの章でも触れられた性的バイアスの話
インドだけではなく、同様の事例が世界各地にある。
例えば、アフリカ系アメリカ人では、ヨーロッパ系の遺伝子は男性からの寄与が大きく、アフリカ系の遺伝子は女性からの寄与が大きい。ジェファーソンとヘミングスのような例が珍しくなかったことが、遺伝学的に判明したのだ。
他にも、モンゴル帝国時代のモンゴル人男性が、現在のユーラシア人のDNAに広く寄与していることが分かっている。
さらに古く遡って、現生人類と他の人類との交雑に性的バイアスがあった可能性もある。
また、太平洋の島々には台湾から東アジアのDNAが広まっているが、こちらは女性からの寄与が大きい。これは、まず東アジア系が広まった後に、パプア人系が後から入ってきたのではないかとか。

第11章 ゲノムと人種とアイデンティティ

1942年、人類学者のモンタギューが人種概念には実体がないと主張し、1972年、レウォンティンがタンパク質のデータをもとにそれを根拠付け、集団間に差異はない、あっても個人差よりも小さい、というのが正統派の見解となった。
ほとんどの形質についてその見解は間違っていないが、しかし、ゲノム革命は実際に集団間の差異があることを見つけ出して始めている。
そのような集団間の差異を見つけるような研究が、人種差別に利用されてしまうのではないかという危惧は、筆者も抱いている。
ここで出てくるのは「ゲノム・ブロガー」と呼ばれる者たちで、彼らはデータを読むことのできるリテラシーと右寄りの政治思想を持ち合わせており、まさしく、ゲノム研究のデータを人種差別的な主張に利用している。
だからこそ、筆者は、集団間の差異を頑なに認めない正統派のあり方を批判する。実際にある差異を見て見ない振りをするから利用されてしまうのだ、と。
筆者は、ステレオタイプな「人種」が正当化されることはないという。既に見てきたように、今ある「人種」と呼ばれる集団は、かつてあった集団の交雑により生まれてきており、「純血」な集団は存在しないというのが1つの理由だ。
また、差異を生み出す遺伝的な仕組みも、決して単純なものではないのであり、ステレオタイプ的な思い込みは覆されるとも。
上述のゲノム・ブロガーだけでなく、幾人か、遺伝学をステレオタイプな人種概念の正当化に用いようとしている著述家と彼らの間違いを指摘している。
挙げられている名前の中には、ワトソンもいる。ある会議で、初めてワトソンに会った筆者が「ユダヤ人の優秀さをいつになったら証明するんだい」と囁かれたというエピソードが紹介されている。


最後に、自分のルーツ探しに遺伝学を利用する動きについて触れられている。
アメリカには、アフリカ系アメリカ人に自分のルーツが何族か調べてくれる調査会社があるという。
しかし、データベースが十分でないこと、アフリカ系アメリカ人アメリカに奴隷として連れてこられた際にアフリカ各地の集団と混ざってしまったことから、もはやルーツをある地域に絞って特定することは難しくなってしまっているという。
こうした調査は、ルーツを感じる「気分」を与えてくれるが、データの正しい解釈は難しい。
筆者は、自分の研究室では、自分の出身グループとは異なるグループについての研究を薦めているという。
筆者は、自分のアイデンティティは1つのルーツだけに由来するのではなく、遺伝的にも遺伝以外の要素においても、さまざまな集団の混ざり合いによって作り出されているのだと述べている。

第12章 古代DNAの将来

ゲノム革命を、筆者は放射性炭素年代測定法が考古学にもたらした革命になぞらえている。
知らなかったのだが、放射性炭素年代測定はそれをサービスとして提供する研究室があって、古代DNAのデータ分析もそういう研究室が出てくるようになるかもと。
この章では、今後研究が進むかもしれないテーマをいくつか挙げている(病原体の進化とか)
また、筆者はこの分野でパイオニアであることもあって、相当広い範囲をカバーしているが、今後専門化していくだろうと述べている。
地域ごとに分かれていくだろうし、また、例えば言語学(あるいは考古学、人類学)について相当専門的な知識が必要になってくるので、言語学との共同研究に特化するなど。


最後に、古代DNAの研究は、古代の人々の墓から骨を掘り出してくる、いわば墓を暴くことで成り立っていることについての葛藤のようなものについてエピソードが述べられている。
筆者はユダヤ人だが、子どもの頃エルサレムを訪れ、遺跡発掘の抗議デモを見ていた。ユダヤ人にとって遺跡発掘も先祖の墓荒らしなのだ。筆者は、親戚のラビに相談する。すると、人々の間の障壁を取り除くのに役に立つのなら、墓をあばくことも許されると答えてもらったという。

感想

たまたま本屋で科学の人種主義とたたかう: 人種概念の起源から最新のゲノム科学までという本を見かけ、もしやと思って探してみたら、本書の筆者であるライクへインタビューしている章があり、そこだけ少し眺めてみた。
この本はそこだけを少し読んだだけなので、サイニーがどのような主張をしているのかは、Amazonの内容紹介以上のことは分からないのだが、ライクの態度が人種差別と戦う上で不十分と感じているようだということは察せられた。
ライクの師にあたるカヴァリ=スフォルツァは、明確な反人種主義だったが、ライクは後退しているのではという印象を受けているようだ。
そこには、本書にもでてくるワトソンがライクに話しかけたエピソードにも触れられている。ライクは、ゲノム科学が進展することでステレオタイプな人種主義は間違っていることは自ずと明らかになるという考えだが、ワトソンのような優秀とされる科学者がいまだに差別主義者のままなのはどうしてか、とサイニーはライクに尋ねている。
ライクの答えは1つは「分からない」である。もう1つの反応は、いわゆる切断処理で、ワトソンはもうあっちにいっちゃった人だから手がつけられん、というものだ。
ワトソンがもう手に負えないのは事実なのだろうが、サイニーが言いたかったのは、科学の進展に任せるだけではそういう手に負えない人物の出現を防げない、ということだろう。
もっともそれを防ぐのは必ずしも科学の役割ではないとも言えるので、ライクの「分からない」という答えはある意味誠実でもある。
また、ライクほど楽観的にはなれなかったとしても、科学の進展が間接的には人種差別への堤防になることは十分考えられる。少なくとも「純血」主義に関しては確かに科学的に誤りだと指摘できるわけだから。


本書を読む限りにおいて、ライクは善良な科学者だし、政治的な問題を抱える研究についての配慮をきちんと行っている研究者なのだとは思う。
しかし、穿った見方をするならば、気になるところはないわけではない。
ネイティブ・アメリカンの件に関していえば、やはり研究が進められないことをよく思っていないのは明らかで、ゲノム研究は、ネイティブ・アメリカンにとってもよいことがあることを主張し、研究への協力を取り付けたいというようなことが述べられている。
もちろんこうした態度が悪いといえるわけではないが、研究者サイドの言い分でしかないという側面はあるかと思う。
インドの章では、遺伝学的研究が医学的にも貢献する旨が書かれている。そこでは、アシュケナージユダヤ人は、基本的にお見合いをしており、現在では遺伝子検査を行い、潜性遺伝の遺伝病の変異を持つ者同士は引き合わせないようになっていることを挙げ、インドでも同様のことができるのではと述べられている。
このあたり、一概に良い悪いといえる話ではないが、かなりギリギリの線ではないかと思える。
医学的に役に立つのではという話は後半でも全然別の流れで出てきて、ライクの研究へのモチベーションの1つっぽいし、またライク自身には善良な意図しかないと思うのだが、しかし、こうした発想と優生思想との距離というのは結構測り難いものがあると思う。
もちろんこんなことは、自分なんかより実際の研究者の方がよっぽど考えているだろう、と考えたいが、その一線がどこにあるのかというのはかなり見定めが難しい問題のような気がする。
ゲノム・ブロガーやステレオタイプを煽る著述家などの問題は、別にライクのような研究者に悪いところは全くないし、似非科学との戦いなので、科学研究進めるのが大事というのは正しいと思うが、しかし、この手の人種主義的似非科学を止めるのは大変そうだな、という意味でパンドラの箱が開いてしまった感はある。
ライクは、ルーツ探し調査会社の件に対して、そもそも自分のことばかり探求するのってどうなのよ(だから研究室では自分とは他のグループを研究することを勧めている)という論陣を張るわけだが、科学者についてはともかくとしても、そういうルーツ探しを求めてしまう心情自体は普通の人々の中にはあるわけで、だから似非科学スレスレの調査会社にも需要があり、その延長線上に人種主義が待ち構えているとも言える。
ライクの言うことは正しいが、十分な処方箋足り得ていない感じはする。
さらに穿ったことを言うが、ライク自身がかなりユダヤ人というルーツにアイデンティティを委ねるのではないか、と感じないわけでもない。もちろんユダヤ人だからこそ人種問題に思うところもあるだろうと思うが。
正直、一番最後のラビに相談したエピソードはちょっと謎である。親戚のラビからの許しは倫理的正当化になるのか。
もっともこのエピソードは、倫理的正当化を図るためのものというよりは、自分の心構えを示すものとして挿入されている感じもするので、何とも言えないところではあるが。


人種問題について、かなり文字数を割いてしまった。
デニソワ人を巡る様々な議論はかなり面白いし、今後の考古学的・人類学的発見が期待されるところ
ユーラシア進化仮説も面白いが、ただ、4回の出アフリカが、3回の出アフリカと1回のアフリカ帰還になることが、倹約的なのかどうかはいまいちピンとこなかった


第2部は相当面白かったのだが、そもそも前提となるべき考古学・人類学・言語学のベースがなさすぎて、ついていくのが大変だったし、そもそもゲノム革命が面白いのか、ゲノム革命以外の考古学・人類学・言語学で明らかにされてきたことが面白いのか、自分の中であまり区別がつけられなかった
ヤムナヤも縄目土器文化もどっちも知らなかったからなあ……(ググった感じ、ヤムナヤは最近の話っぽいが、縄目土器文化はナチスドイツに利用されていたくらいなので、単に自分が無知だっただけで)

*1:というか、それを主題的に読みたいのであれば、そもそもペーポ自身の書いた本があるみたいだった……

スティーブン・ミルハウザー『私たち異者は』

日常の中に紛れ込んだ奇妙なものを描くミルハウザーの短編集
原著は2011年
標題作をはじめ「私たち」という一人称複数形を使う語りによる作品が多く(7作中5作)印象的だった
帯にも引用されている訳者あとがきに「ミルハウザーといえば「驚異」がトレードマークとなってきたが、この短編集では驚異性はむしろ抑制され」とあるように、大掛かりな仕掛けのようなものはないが、「ミルハウザーってこんな作品も書くのか」というよりは「ミルハウザーっぽい作品だなあ」と思わせるものばかりだった。
ミルハウザーっぽいとは何か、というと難しいが……


スティーヴン・ミルハウザー『バーナム博物館』 - logical cypher scape2
スティーブン・ミルハウザー『魔法の夜』 - logical cypher scape2
スティーブン・ミルハウザー『三つの小さな王国』 - logical cypher scape2
スティーヴン・ミルハウザー『マーティン・ドレスラーの夢』 - logical cypher scape2
スティーブン・ミルハウザー『十三の物語』 - logical cypher scape2
最近どうも年1くらいのペースでミルハウザーを読んでいるのだが、新刊も年1のペースで出ている模様。18年に出た本を19年に、19年に出た本(これ)を20年に読んでおり、ちょうどこのタイミングでまた新刊が出ているっぽい。
なお、邦訳された既刊でまだ読んでないものは他にもある。「ミルハウザー全部読むぞー」と思っていたわけではなく「ちょっと読んでみるか」「あ、面白いからもうちょっと」みたいな感じで読んでいたので。


ミルハウザーは、20世紀初頭くらいを舞台にした作品も多いが、この短編集の作品はいずれも現代を舞台にしているっぽい(というかあまり年代を明らかにはしていない)が、何となくアメリカの白人中流階級の社会が前提になっている風なところはある。それについてのよしあし自体は自分には判断できないが、読んでいて不意にそれが気になってしまうこともある。

平手打ち
闇と未知の物語集、第十四巻「白い手袋」
刻一刻
大気圏外空間からの侵入
書物の民
The Next Thing
私たち異者は

私たち異者は

私たち異者は

平手打ち

とある郊外のベッドタウンに、突如、無差別平手打ち犯が現れる。不意に現れ、平手打ちをして去っていく謎の男
次々と、様々な住民が被害に遭っていく過程が断章形式で書かれるとともに、一連の犯行に対する住民たちの反応や憶測が「私たち」という一人称で語られる。
「私たち」の「私」が誰かは特定されないで進むのが、単数形の一人称とも三人称とも違う雰囲気を語りに与える。
この街の住人たちという集合が、主人公であり語り手になっている。

闇と未知の物語集、第十四巻「白い手袋」

タイトルにある「闇と未知の物語集」が何なのかはよく分からず。
男子高校生の「僕」は、エミリーという女の子と仲良くなり、彼女の家によく遊びに行き、彼女の両親とも親しくなるような関係を築くのだが、ある時から、彼女は突然左手に白い手袋をするようになる。
何故白い手袋をするのが、彼女も彼女の両親も教えてくれない。その秘密が、僕と彼女の間の隔たりになっていく。

刻一刻

奇妙な要素が全くない作品なのだが、読んでいてとてもミルハウザーみを感じた。
これも人称が独特
9歳か10歳の「こいつ」が、家族とともにキャンプに来て、川に泳ぎに入る瞬間までをそれこそ「刻一刻」と描いた作品
待ちわびた瞬間がやってくることに期待を膨らませつつ、むしろ、それが訪れてしまうとあとは終わっていく一方であるので、来ないでくれ、出来るだけ遅らせてやれ、という心情が描かれている。
大したイベントも起きない、それほど長くもない時間(半日程度)を、やや大仰な感じもする心情描写とともに克明に描いていくところに、ミルハウザーみを感じているのかもしれないし、いわゆる文学と呼ばれる小説の面白さの一端もある気がする(例えば磯崎憲一郎とか)。

大気圏外空間からの侵入

「刻一刻」とこの作品が、この短編集の中でももっとも短い気がする。ショートショートっぽい
ある時、地球にUFOが訪れ、すわ未知との遭遇か、となるのだけど、黄色い粉が降ってくるだけという、肩透かし感のあるものだったという話
これもまた「私たち」という、街の住人たち全体が語り手になっている。

書物の民

13歳になった学徒たちに、我等書物の民の秘密を教えるスピーチ

The Next Thing

この短編集の中でもっともミルハウザー的「驚異性」の高い作品かもしれないが、訳者あとがきにある通り、ある種のリアリズムがあり、寓話っぽくもなっている。
この作品もまた「私たち」という複数形の一人称が使われているが、主人公かつ語り手として1人の人物が明確に特定されている。作中でも「私」という単数形の一人称の方がよく出てくる。
The Next Thingという施設が建てられる。当初、目新しいショッピングモールみたいな感じで現れる。
一階にはたくさんのブースがあり、エスカレーターで地下に降りると、巨大な商品棚がずらりと並んでいる。違うところも多いけど、何となく着想源はIKEAなのかなと感じるとこがあった。
The Next Thingは単なるショッピングモールではなくて、次第に地下に街を作り始める。どことなくマーティン・ドレスラーっぽいというか、ミルハウザーの他作品を彷彿とさせる。
で、今の仕事よりもっといい仕事ありますよと斡旋され、転職し、地下に移住してくる(というかさせられてくる)
The Next Thingの上級職はむしろ地上に引っ越してきて、元々地上に住んでいた中級・下級職の人(「私」もその中の1人)は家を売って、地下の賃貸に暮らすようになり、もっといい仕事ありますよと言われていたはずなのに、以前よりノルマのきつい仕事させられている、という辛い話(まあでも地上にいた時も大変だったし、時代が変わっただけ、と主人公が受け入れているあたりもつら)
ただ、The Next Thing自体は、地下に巨大なショッピングセンター作って、さらに街を作ってといつところにワクワク感があり、読んでいて楽しい

私たち異者は

主人公のポールはもともと50代のバツイチ男性開業医だったのだが、突然死して「異者」となってしまう
作中では一貫して「異者」と称され、決して「幽霊」という言葉は使われないのだが、有り体に言ってしまえば、異者というのは幽霊のことである。
で、40代の陰キャ独身女性モーリーンの家の屋根裏に入り込み、そしてどうも彼女に気に入られてしまい、不思議な共同生活が始まるのだが、やはり陰キャの彼女の姪が遊びに来て、崩壊していく。
「私たち異者」は、「あなた方」つまり生者に対して強い好奇心や欲望を抱いているのだけど、それは生者同士の間にあるそれとは全く異質のもので、自分たちがもう持ちえない性質へと昏い憧れのようなものなのである。
これ、モーリーン視点だと、孤独な生活送ってたら家に謎の気配がするようになり、怖っと思ったら、よさげな男性だったのでむしろ嬉しくなってきたのだが、姪にちょっかいを出し始めて「は、何それ? 死んでやる」という話にもなり、三角関係メロドラマ的な話でもあるのだが、ポールの方は「自殺できるなんていいね」(なお女性の自殺自体は失敗する)とか「私たちは有害なんだ」とか、そういうようなこと言って逃げだすというウジウジした感じの話だが、でも最後の私たちに近づくなという旨のことを叩きつけてくる文章は小気味よい感じの終わり方ではある。

河合信和『ヒトの進化七〇〇万年史』

ちくま新書kindleセールで購入
そのタイトル通り、700万年のヒト(ホミニン)の進化史についての本だが、記述の主軸はむしろ発見・研究の方にある
誰がどこでどのように発見したのかという観点から進んでいく感じ
そのため、若干構成の難しさがある。
章わけ自体は、人類史の年代順に進む。ただ、章の中では、発見場所や研究グループごとの記述になっていることが多く、そして同じ場所から別の年代の種が発見されている場合、それもまとめて記載されている(なので、例えば「ホモ属については後の章で詳しく述べるが、ここではホモ属の化石も発見されており〜」みたいなところが時々ある)。
あと、これは化石標本扱っている学問だと致しかたない話だが、標本番号がもうとにかくやたらと出てくる。
と、慣れないと若干の読みにくさはあるが、面白く読めた。


古人類学(に限らず古生物学ではよくある話かもしれないが)、属名がなかなか安定していないのがあって大変だなという感じ。
というか、研究者の間の対立がそこに反映されててなかなか大変。
ある標本について、発見者は慎重を期して種名を特定していなかったところ、別の研究者が新種認定してくるとか
同じ種なのだけど、研究者によって呼び方が違う奴がいる。例えば、ホモ・エルガスターという種があるのだが、アフリカ型ホモ・エレクトスとする説もある。あるいは、ホモ・ハビリスについて、アウストラロピテクス属だとする説もあるらしい。


あと、リーキー家という学者一家がすごい
東アフリカのオルドヴァイで、1959年に頑丈型猿人のパラントロプスを発見したリーキー夫妻から始まり、親子三代に渡って東アフリカで古人類学研究をしている。


第1章 ラミダスと最古の三種―七〇〇万〜四四〇万年前
第2章 アファール猿人―三九〇万〜二九〇万年前
第3章 東アフリカの展開―四二〇万〜一五〇万年前
第4章 南アフリカでの進化―三六〇万?〜一〇〇万年前
第5章 ホモ属の登場と出アフリカ―二六〇万〜二〇万年前
第6章 現生人類の出現とネアンデルタールの絶滅―四〇万〜二・八万年前
第7章 最近まで生き残っていた二種の人類―一〇〇万?〜一・七万年前

第1章 ラミダスと最古の三種―七〇〇万〜四四〇万年前

サヘラントロプス・チャデンシス、オロリン・ツゲネンシス、アルディピテクス・カダッバ
そして、アルディピテクス・ラミダス


サヘラントロプスはその種小名から分かる通りチャドから発見されており、東アフリカ発祥説を覆した


オロリンは、発見者のエピソードが印象に残る。
「お行儀のよくない」研究者で、他人のフィールドで発掘を行い、雑誌掲載前に大々的に記者会見で発表。当時、最古と考えられていたラミダスをさらに遡り、人類最古を更新した。
ところで、実はそれより少し前に、やはりラミダスより古い人類であるカダッバを発見していたグループがいるのだが、ネイチャー投稿中で掲載を待っている間に、先に発表されで話題を取られた形になったらしい
オロリンが本当に新属なのか、また本当にホミニンなのか批判もあるらしいが、標本が少ないせいで、決定打がないらしい

第2章 アファール猿人―三九〇万〜二九〇万年前

かの有名な「ルーシー」の話
アファール猿人は、セラムという幼児の標本も見つかっているらしい。
ところで、ルーシーは、ジョハンソンという研究者が、ハダールで発見したのだが、ハダールで発見されたのがアファール猿人1種なのか、それとも2種が混ざっていたのかで、リーキー家との対立があるらしい
アファール猿人としてまとめられている標本は、かなり多様性があるとか

第3章 東アフリカの展開―四二〇万〜一五〇万年前

リーキー家次男リチャード・リーキーが開いたフィールド、ケニアトゥルカナ湖での発見について
トゥルカナ湖東岸

(1)パラントロプスのオスとメス発見
(2)パラントロプスとホモ・エレクトスの共存実証
(3)ホモ・ルドルフェンシスの発見
(4)脳の小さなホモ・ハビリス発見

トゥルカナ湖西岸

(1)最古の頑丈型猿人エチオピクス発見
(2)完全なるホモ・エレクトス骨格「トゥルカナ・ボーイ」
(3)アウストラロピテクス・アナメンシス
(4)ケニアントロプス・プラチオプス

それから、ホモ・ルドルフェンシスをケニアントロプスに変更している。実はこのルドルフェンシス、元の標本はリーキー家が発見していたのだが、ホモ・ハビリスっぽいが年代があわないので種名を特定していなかったところ、全然別の研究者に新種設定されてしまったというものである。
リーキー家が名前を一部取り戻した、という顛末なのだが、ケニアントロプス属はアファレンシスなのでは、という疑義が出ていて安泰ではないらしい。

第4章 南アフリカでの進化―三六〇万?〜一〇〇万年前

ダートやブルームによる南アフリカでの発掘・研究
セディバや「リトル・フット」なと

第5章 ホモ属の登場と出アフリカ―二六〇万〜二〇万年前

第6章 現生人類の出現とネアンデルタールの絶滅―四〇万〜二・八万年前

ネアンデルタールとサピエンスと交雑について、ペーボによるDNA解析の話まで載っているが、どちらかといえば、それぞれの石器文明から影響関係があったようだという研究の話にページが割かれている印象

第7章 最近まで生き残っていた二種の人類―一〇〇万?〜一・七万年前

主にフロレシエンシスの話だが、デニソワ人の話も。