Derek D. Turner "Paleoaesthetics and the Practice of Paleontology(美的古生物学と古生物学の実践)"

古生物学の科学哲学の本で、その美的側面を強調している。
タイトルのPaleoaestheticsは、直訳するなら「古美学」になるだろうが、ここでPaleo-としているのは古生物学Paleontologyとかけているからであり、また、古生物学の美学、というよりは、古生物学の美的な側面を指す際に用いられているので、ここでは「美的古生物学」と訳してみた。
本書では、Paleoepistemologyという語も出てくるのだが、これも、古生物学の認識論という意味ではなく、古生物学の認識論的側面という意味で使われている。
科学というのは認識論的epistemicなもの(新しい知識を得るためのもの)と考えられがちだが、それ以外の面、つまり美的な面も持ち合わせているのだという。
さらに、単に美的な面もあるよねというだけでなく、認識論的な面と美的な面は相互依存の関係にあり、区別できないほど混ざり合っているという主張が展開されている。
また、従来の科学哲学が、理論中心的な議論をしがちだったのに対して、実践中心的な議論をするのだともしている。


このブログを読む人は、美的aestheticという語の意味は知っていると思うが、古生物学のキーワードで来た人向けに、簡単に注釈しておくと
この美的aestheticという言葉は、beautyの美とは違うものだということ。
感性的という訳語が当てられることもある。ただ、感性的より美的という訳語が慣例的によく使われているので、ここでも美的という訳語を使う。
美と美的が違うなら美的とは一体なんなのかというと、具体的には「雄大な」「均整のとれた」「かわいらしい」「けばけばしい」「醜い」などなどが挙げられ、「美しいbeauty」はこれらの内の1つ
シブリーによれば知覚されるものだが、例えば赤い色とか甘い味とか、標準的な五感を備えていれば誰でも知覚できる性質と違って、何らかのセンスを持ち合わせることで知覚できるとされる。
また、主観的なものだとされる一方で、必ずしも、人それぞれという相対主義的なものではないとされる*1


twitter.com
ある日、「恐竜の美学」ってないのかなと思い始めて、試しに色々ググっていて見つけたのがこの本(上のツイートの論文とは関係ないです)
既に述べた通り、これは美学というよりは科学哲学の本で、著者も科学哲学の人ではある。
ただ、カールソンなど環境美学に基づいた議論もされており、科学哲学と美学をつなぐような本とも言えるかもしれない。
なお、本書は生物学の哲学に関するシリーズの中の一冊
100ページに満たない本で、英語も平易なのでサクサク読めた。

1 Introduction
2 Paleoaesthetics
3 Historical Cognitivism in Aesthetics
4 Aesthetic-Epistemic Feed back Effects
5 Functional Morphology as Aesthetic Engegement
6 Explaining Historical Scientific Success
7 Fossils as Epistemic Tools and Aesthetic Things
8 The Dinosaur Phylogeny Debate
9 Why are Dinosaurs Always Fighting?
10 Conclusion

1 Introduction

Paleoaestheticsについて「歴史科学の美的次元についての研究を指す言葉として使う」とされる
ここでいう歴史科学は自然史のことを指しているのかなと思うが(ただ人間の歴史という意味での歴史を無視してはいないように思うが)、それはそれとして、この意味であれば「古美学」という直訳もあながち間違いではないと思う。ただ、やはり分かりにくいので、訳に悩むところ


この本の概観

  • 古生物学は認識論的目的だけでなく美的目的を持つ
  • あるものの歴史を学ぶことは、それの美的性質をよりよく鑑賞させる
  • 化石と風景は可変的な美的価値を持つ
  • 機能的形態学は美的探求である
  • 古生物学の実践のある側面(化石のクリーニング、3Dプリント、復元画、フィールドスケッチ)は芸術的実践であり、古生物学の認識論的成功は、これらの実践に支えられている
  • 化石についての揺るぎないメタファーは、古生物学の美的側面を見難くするが、こうしたメタファーは変えられる
  • 恐竜研究における論争が、1つの化石標本に対する研究者間での美的関与の違いによることがある
  • 美的なバイアスが科学探求へとよくない影響をしていることもある


理論中心の科学哲学に対し、実践中心の科学哲学
前者は科学のプロダクトに注目するのに対し、後者は科学のプロセスに注目する。


古生物学の認識論的次元と美的次元がどのように関係しているか、2つの見方がある。
2つは区別可能という見方と2つに明確な区別はないという見方
本書の第一の目的は、古生物学に美的次元があることを示すことだが、この2つの見方のうち後者を示すのが第二の目的


本書は、科学の美的次元を論じる本だが、科学の非認識論的価値(社会的、倫理的、美的)について論じるの最近他にもあるよね、という言及もなされている。

2 Paleoaesthetics

2つの方向性から論じられる。
1つは、どのように科学的探求が美的エンゲージメント(以後、engagementを関与と訳するが、これもなんて訳すか難しい)に貢献するか
もう1つは、どのように芸術的実践が科学的探求に貢献するか


まず、前者について
環境美学における、カールソンの科学的認知主義(Scientific Cognitvism)を下敷きに、筆者は歴史的認知主義(Historical Cognitivism)を提案する。
歴史的知識を持つことで、風景や化石の美的鑑賞がより深くなるよね、という考え
荒涼としたバッドランドの土地も、白亜紀には海沿いの豊かな土地だったと知れば、その風景の見え方が変わるよね、と。
化石も同様
ところで、美術品だと本物とレプリカだと鑑賞経験変わるけど、化石の場合、博物館にあるのは大抵レプリカだけど、それで問題なくて、美的鑑賞の対象になっていても違いがあるんだよ、という指摘とか面白い。


科学的知識が美的鑑賞に役に立つのって、科学にとってはたまたま生じた利益にすぎないのでは、という考えに対して、科学において、認識論的次元と美的次元が明確には区別できない派の筆者は反論する。
例えば博物館の化石コレクション、何を収蔵するのかというチョイスはどうなされるのか。
化石コレクションは、認識論的な考慮(新しい知識をもたらしてくれる標本かどうか)だけでなく、美的な考慮(博物館の展示に映えるかどうか)もなされて決められる。
全身骨格がどれだけ揃っているかという完全さという尺度も、認識論的なものであると同時に美的なものでもあるだろう、と。
美的って主観的ってことじゃないの、主観的なのは科学にそぐわないのでは、という反論に対して、いや、美的って意外と客観的なとこがあるんですよ、と言って、再びカールソンを持ち出している。


後者(どのように芸術的実践が科学的探求に貢献するか)について
この論点は他の章でも出てくるが、この章では化石のプレパレーションが例として出される
プレパレーションかどのようなものか、ワイリーの研究に従って紹介される。
プレパレーターが、芸術、特に彫刻のスキルを持っている場合が多いこと、化石を掘り出すに当たって、美的な判断による決断を行うことがあることなどが挙げられている。
化石のプレパレーションは、認識論的次元と美的次元が相互に働いている例

3 Historical Cognitivism in Aesthetics

美的な関与に、知識は必要か
知識なしの「ナイーブな」関与にも一定の意義を認めるが、知識があるとより深められるとする。
オークションで高値で取引されるコプライト(糞化石)の例が出されている。オークションの説明書きで、さまざまな美的な形容がなされているが、これはそれがコプライトであるからこそ意味をなす形容だとして、知識が美的な関与に影響していることを論じている。
さらにこのコプライトだが、どうも産地からして実際にはコプライトではないらしい。誤った知識により美的な関与も誤ってしまっている。
ナイーブな関与と知識により深められた関与の関係について、音楽鑑賞で喩えている。
音楽について知識がなくとも、曲の最後の和音の素晴らしさは鑑賞できるが、曲全体の中でその和音がどのようにフィットしているか分かっていると、さらに鑑賞は深まる、と。


歴史的認知主義に対する3つの異議への反論
(1)エリート主義
知識を要求するのはエリート主義では?
博物館など、むしろ知識をどんどん広める。歴史的認知主義がエリート主義になるわけではない
(2)ポジティブ美学
自然のものはなんでもポジティブな美的価値を持ってしまうのでは?
コプライトの例
(3)脱神秘化
科学は自然を脱神秘化してしまう
科学が進むとまた新たな謎が出てくる。科学的知識があるからこその芸術作品(詩)もある

4 Aesthetic-Epistemic Feed back Effects

NortonとSarkerによる可変的価値(transformative value)の議論の応用
美的な関与から認識論的活動への影響を与えることについて
美的な経験が科学探求のモチベーションになる

5 Functional Morphology as Aesthetic Engegement

機能形態学は、美的な探求でもある
機能と美の関係について、主にカールソンとパーソンズの議論に依拠しつつ、具体例としてアンモナイト研究を挙げている


ZFEL(zero force evolutionaly law)って出てくるんだけど、なんか見覚えあるような、ないような


アンモナイトの殻の巻き方の話で、ラウプの形態空間も出てきている。
近藤滋『波紋と螺旋とフィボナッチ』 - logical cypher scape2思い出したけど、この本は、ラウプモデルより岡本モデルの方がよく説明できる。という話だった(ので、あまり関係ない)

6 Explaining Historical Scientific Success

科学の成功を説明する
従来の科学哲学だと、科学的実在論の範疇で、理論が真であることによって、成功を説明してきた
これはプロダクト(理論)注目型の科学哲学で、プロセス注目型の科学哲学による議論として、カリーのものが紹介される。
筆者は、カリーの議論の美的面への拡張を目指す。
(ところで、奇跡論法が英語だとno miracles argumentだと今さら知った)


カリーは、認識論的善の多元主義(真であること以外(正確な表象など)も認識論的善とする)にたつ
歴史科学の成功に貢献する実践の特徴3つ
(1)方法論的雑食性
(2)認識論的足場
(3)経験に基づく思弁
Clelandへの言及があった。アストロバイオロジーの哲学の人だけど*2、歴史科学の哲学とかそのあたりもやってるらしい。この本の筆者は仲間とともに古生物学の哲学に関するブログをやってるが、ゲスト執筆者としてもClelandの名前があった
認識論的足場の例としてラウプの形態空間を挙げている。あれは表象ツールだけど、新しい問題設定へと開くものでもある


カリーの考えは、認識論的なものなので、これを美的な方向へ拡張するのが筆者の議論
特にpaleoart(日本語に訳すとするなら、おそらく復元画だと思う)やフィールドスケッチを例に論じている。
特にこの章はフィールドスケッチについて重きを置いている。
認識論的なものでもあるし、美的なものでもある。はっきり区別をつけられるものではない。
フィールドスケッチは風景画と違って、地質学の基礎データとなるもの
でも、それを描くのにアーティスティックなスキルはいる。また、フィールドスケッチを描くことで、風景を見る美的な知覚も養われる

7 Fossils as Epistemic Tools and Aesthetic Things

まず、科学の中で使われるメタファーについて
生きた化石とかカンブリア爆発とか系統樹とか生態学的ニッチとか
こうしたメタファーの担う意味は、理論とも関わってくる(ニッチが他の言葉(バスケットとか)だったら? という話をしてる)


本章で取り上げるのは、化石記録というメタファーについて
これはすごく根付いてるメタファーで色んな本のタイトルとかこれに基づいてると例がたくさん出されてる中に、読んだことある本もあった(マーティン・J・S・ラドウィック『化石の意味』 - logical cypher scape2)。
このメタファーは、化石から情報を読み取るとか、または、それが失われ読み出せなくなるという考えになる。例えば科学哲学でも、どれだけ化石に情報が保存されてるのか、もしくは破壊されてるのかという議論があったりする(筆者やCleland)
このメタファーは遡ると、自然は神の書いた書物という自然神学的な考えに由来するだろう。脱神学化しても、このメタファーは残った、と。


他のを考えるなんて一見できなさそうだが、メタファーなので、オプショナルである。
化石記録というメタファーを他のメタファーに変えることもできるはず
ということで筆者が提案するのが、探求のツールとしての化石、という考え方
生物学者は、このツールの開発や精錬をしているのだ、と
記録のメタファーは、そこにどれだけ記録が保存されているか、どれだけちゃんと読み取れるかという問題につながるか、ツールというメタファーは、異なる問題を提起する。このツールで何ができる? 他のツールとどのようなコンビネーションができる? やりたいことをするためにはどんなツールを作ればいい?


さらに、Rheinbergerのテクニカル・オブジェクトと認識論的事物という区別を持ってくる。
認識論的事物は、探求のターゲットとなっているもの
テクニカル・オブジェクトは、探求に使われるツールやデバイス
Rheinbergerは、認識論的事物は、新しい探求のテクニカル・オブジェクトになると論じる。
筆者は、化石というのは古生物学にとって、美的事物でありテクニカル・オブジェクトなのだと述べる。

8 The Dinosaur Phylogeny Debate

恐竜の系統研究について
恐竜は長いこと鳥盤類と竜盤類の二大分類がされてきたが、近年、竜盤類とオルニソスケリダという新しい分類が提案され、話題になっている。
もちろん反論も出されている。恐竜の二大分類を変える大きな議論だが、実は、ピサノサウルスの標本の特徴をどう記述するのかの違いだったりする。
古生物学における特徴の記述について引用して、ワインの記述や美術評論の記述(ディスクリプション)に喩えている。で、これは、化石に対する知覚的関与(美的関与)だよね、と。


系統樹の分析、詳しく知らないけど、各種について特徴*3を数え上げて、この種には「これとこれとこれがあって、あれとあれとあれがない」みたいにして数値化して計算しているという雑な理解をしているけど、そもそもその特徴の有無を判断するのって、どうなってんだろうなーとは気になってたところで
この標本は新種ですって判定するのも、この突起が曲がってるから、とかそういうのだったりする(カムイサウルス)
それって「ここの長さは30cmです」みたいな誰でも調べられるものじゃなくて、プロのスキルが必要なものだろう。無数の標本を見てきたことによって、そうじゃない人には見分けられない区別を見分けられるようになっている。
これは、まさにシブリーが言うような「美的」な能力のように思える。
フィールドスケッチも同様な話だと思うし、古生物学は化石と風景に美的関与する実践だ、という本書の主張は、鑑賞眼を涵養することもまた古生物学にとっての(認識論的ゴールとは別の)もう1つのゴールなんだ、という話なのかなあと思う。

9 Why are Dinosaurs Always Fighting?

筆者の議論へのカウンターになりそうな例
ティラノサウルストリケラトプスが一騎打ちしているイラスト
少なくとも1906年のチャールズ・ナイトのものまで遡る。
面白い指摘として、恐竜のイメージをがらりと変えたバッカーの『恐竜異説』も、表紙は獣脚類とケラトプス類の闘うシーン
実際のところ、この二者が決闘したような証拠はなく、人間の決闘や一騎打ちが反映されてしまっているだけなのではないか、と。
戦う武器を持ってる動物が好まれる傾向があるのではないかと(恐竜の歯や角など、武器のメタファーをされることが多い)
(武器のない恐竜でも人気のあるものとして、マイアサウラが挙げられるが、よかな母親という意味の名前で、これはこれで、20世紀のジェンダー規範を読み取ってるケースではないかという指摘)
(ジュラシック・パークのディロフォサウルスも、観客の期待にそうものとして、毒という特殊武器をもつように描かれている、と)


で、こういう美的なバイアスが問題だとすると、やっぱり古生物学から美的な価値を外在化した方がいいのではないか、と
これに対して、非認識的価値から自由でいられる科学はないというアンダーソンの主張や
復元画や映画などは、間接的に科学のプロセスに影響してくるというカリーの主張などをもとに、
美的な価値が入ってくることが問題なのではなくて、特定の価値が時代遅れになっていくことが問題だとしている。
で、解決策として、他の復元画を描けばいいという話になっていく。
ティラノサウルストリケラトプスが、同じ画面上にいるが、別に戦ってはいないような絵がたくさん描かれれば、バイアスは弱まるだろう、と。
実際、筆者自身が描いたそういうイラストも添えられている。

10 Conclusion

2〜9章のまとめ

感想

冒頭に「ある日、「恐竜の美学」ってないのかなと思い始めて」と書いた。
きっかけになる具体的なトピックはあるのだが、しかし、それが一体どういう問いになりうるのかというのは判然としてない状態で。
この本を読むと、色々なアプローチやトピックがありうるなーと感じた。
個人的には、復元画に興味があるが、本書ではあまりページ数を割かれていなかった。ただ、参考文献に復元画関係の記事があったので、あとで読みたい。
また、冒頭にあげたツイートて触れている、青田さんの動物を鑑賞することについての美学に関する論文で、パーソンズが機能に触れていたことが書いてあったが、本書でも、パーソンズを引きながら、機能と美の関係を指摘している。このあたりも、勉強したいところ。
また、本書9章は、バイアスがあるならそれを打ち消すような絵をもっと描いていけばいいんだ、みたいな議論をしているが、それはそれとして、恐竜が戦ってるとこ見るのみんな好きだねってとこも、何かしら掘り下げられたら面白いかなーと思う。
恐竜やその復元画は、科学的な面と文化的な面の両方を持ち合わせているわけで、「科学的に間違ってるのは正しましょうね」っていうのはもちろん正しいが、仮に間違ってるとしてもその文化的な側面は一体どういうものなのか、ということも考えどこのような気はする。


科学哲学と美学の交錯するところ、何か面白いのではないかとは思っていたのだが、
そういうのだと、科学理論や数式の美やエレガンスみたいな話が多い。それはそれで興味がないわけではないが、自分には手に負えない話だなあと。
まあこっちの話題も手に負えるか、といえば難しいところだけど、美やエレガンス以外にも、科学と美的な何かが関わってるとこはあるよなと思ったら、古生物学というところでこんなに色々出てきて面白かった。
科学哲学と美学の交錯点というと、表象や描写の哲学関連もある。この本ではそこまで論じられたわけではないが、フィールドスケッチのあたりで、地図とかとの比較もあって、少しそういう方向への道もありそうだった。

関連しそうな記事

科学における美とは何か - logical cypher scape2
これは、科学と美学について興味持ち始めた頃に、思いつきを色々並べた記事
Milena Ivanova「科学の美的価値」 - logical cypher scape2
科学理論の美について
本書の参考文献にこの論文入ってた
科学とイラストレーションについて - logical cypher scape2
復元画とか科学イラストとか気になる
ジョン・カルヴィッキ『イメージ』(John V. KULVICKI "Images")後半(6〜9章) - logical cypher scape2
この本の7章が科学的イメージについて
ロペスが石のイラストについてなんか述べてるのか、気になる
『現代思想2017年8月臨時増刊号 総特集=恐竜』 - logical cypher scape2
恐竜の文化的側面もフィーチャーしている特集

*1:「この山々の姿は雄大だなあ」という判断は主観的なものだが、もし同じ風景を見て「なんてみみっちい景色だ」と思う人がいたとしたら、その判断はおそらく間違っている。つまり、美的な判断にはある程度正誤がある。対して、例えば好き嫌いの判断は、人それぞれで違っていても問題ない。「私はこの景色が好きだ」という人と「僕はこんな景色嫌いだ」という人がいたとしてもどちらも間違ったことは言っていない。

*2:参照アストロバイオロジーの哲学 - logical cypher scape2

*3:正確には派生的な特徴

リチャード・ウォルハイム『芸術とその対象』(松尾大・訳)

芸術作品とは一体どのようなものなのかというテーマを取り上げながら、美学の様々な論点を論じていく。
原著は1968年刊行だが、1980年の第二版より6つの補足論文が追加されている。
本論文は、65の節からなるが章わけなどはされていない。ただ、目次代わりにつけられている梗概と、訳者解説に載っているアウトラインにより、大雑把な構成は掴める。
大きく分けて2つの部分からなり、前半は芸術作品は物的対象であるという仮説をめぐるもの
後半は、芸術概念について、ウィトゲンシュタインがいうところの生活形式であるということや、その歴史性などについて論じている。
その前半において、再現(representation)や表現(expression)についてや、タイプとトークンについてなどが論じられている。
なお、ウォルハイムというと〈の内に見ること(seeing-in)〉が有名だが、これは補足論文で出てくる。


ウォルハイムは以前、リチャード・ウォルハイム「画像的表象について」 - logical cypher scape2を読んで、その際、自分の英語力では難しいと書いたが、日本語で読んでも難しかった……
難しかった理由は諸々あって、何がどう難しかったのか説明しにくいのだが
何を論じているのかは分かるのだが、どういう結論にいたったのかを掴めなかったところが結構あった。
「あれ、この話ここで終わるのか」というのがところどころあったりとか、
自分の美術史教養がないせいなのだが、具体例がいまいちよく分からなかったりとか
正直、1人で読むのはわりときつくて、読書会とかで人の助けを借りて読みたい感じがすごくする本だった……
一応最初から最後まで目は通したわけだが。


すでに内容をまとめた書評記事が出ている
obakeweb.hatenablog.com

芸術とその対象

(以下、訳者解説によるアウトラインを元にこのブログ記事用に作成した目次)

  • 物的対象仮説の検証
    • 時間芸術について
    • 空間芸術について
      • 物的対象仮説批判への防御(1)再現について
      • 物的対象仮説批判への防御(2)表現について
      • 対抗理論への攻撃(1)観念説批判
      • 対抗理論への攻撃(2)直観説批判
    • 時間芸術について再び(タイプとトークンについて)
  • 芸術の公共性

補足論文1 芸術の制度理論
補足論文2 芸術作品の同一性の基準は美的に関与的か
補足論文3 物的対象仮説についての覚書
補足論文4 回復としての批評
補足論文5 〈として見ること〉、〈の内に見ること〉、および絵画的再現
補足論文6 芸術と評価

芸術とその対象

芸術とその対象

物的対象仮説について

芸術作品は物的対象だ、というのが本論で検討される仮説である。
この仮説への反論は2つある。
ます、小説や音楽などの時間芸術は、そもそも芸術作品と同定される物的対象がない、という反論
一方、絵画や彫刻などの空間芸術は、作品として同定される物的対象はあるように思えるが、それは作品ではない、という反論
ウォルハイムは、前者の反論は特に否定しない。
むしろ、後者の反論に答えるのが、美学的には重要、という感じ

時間芸術について

個々の本や上演、演奏は作品そのものではないし、あるいはそれらの集合もやはり作品そのものではないよね、というよくある話

空間芸術について(1)

絵とか彫刻とかは、物的対象であるように思える
これに対して、
芸術作品がもつある属性(再現的な属性)と物的対象がもつ属性は両立しないという批判と
芸術作品がもつある属性(表現的属性)は、物的対象は持ちえないという批判が考えられ、それぞれ検討される。

物的対象仮説批判への防御(1)再現について

「再現的な〈見ること〉」(ここでは〈として見ること〉と言い換えられているが、補足論文5により、むしろ〈の内に見ること)の方がより適切であったと変更される)は、キャンパスが物的対象であることと両立することが論じられる。また、類似による説明がうまくいかないことと、
「再現的な〈見ること〉」は、描き手の意図と結びついていることが述べられている

物的対象仮説批判への防御(2)表現について

芸術作品の表現的性質は、芸術家の制作時の感情であるという考えと、観者に喚起させる感情であるという考えそれぞれが批判されるが、仮説的なもの(もし私がその状態ならば、持ったであろう感情)に修正される。
上述の2つの考えに対応する新しい考えとして「自然的表現」と「照応」というのがそれぞれ提案され、物的対象が表現的であることができることが示される


再現についての説明や表現についての説明としては、ふむふむと読めたのだが、それらと物的対象との両立についてがどう繋がったのかが、今ひとつ分からなかった。

空間芸術について(2)

物的対象仮説については、「物的」かどうかと「対象」かどうかの両面について問う必要がある
前者は、物的なのか心的なのかといった問い
後者は、個物なのか普遍なのかといった問い
ここでは、前者に対する対抗仮説(つまり芸術作品は物的ではないとする説)が検討される。
1つは、芸術作品は観念とする説
もう1つは、芸術作品は直観とする説
ここで、観念と直観という訳語について、下記の森さんの記事が役に立つ。特に直観がpresentationの訳であるというのは重要
morinorihide.hatenablog.com

対抗理論への攻撃(1)観念説批判

観念説というのは、芸術作品は、芸術家の心の中にあるものを指すというもの
これが外化されて、我々が普通芸術作品と呼ぶものが産まれるけど、あれらは本当は芸術作品ではない。本当の芸術作品は芸術家の内にしかない、という説
クローチェやコリングウッドというひとたちが唱えていたらしい
真の芸術作品にはアクセス不可能になる点
それから、媒材を無視している点が問題
ウォルハイムは、芸術家が心の中に作品のイメージを持つためには、それに先立って芸術の媒材がある必要があると、媒材の重要性を強調している

対抗理論への攻撃(2)直観説批判

直観説は、芸術作品は直接知覚される性質のみを持つという説
これに対して、ウォルハイムは2つの反論をする
1つ目は、直接知覚されているのか、そこから推論されているのか区別できない性質があるという反論
2つ目は、芸術作品は直接知覚される性質以外の性質も持っているという反論
直観説への反論は結構ページ数が割かれているところなのだが、正直今ひとつよく分からなかった


1つ目の反論は、再現的性質と表現的性質についてそれぞれなされる。
再現的性質については、描かれた運動は知覚できるのかという議論がされている。
また、「脱線」として、絵において三次元性はどうして意識されるのかという問題が取り上げられ、バークリーに由来する「触覚値」による説明が紹介されている。個人的にここは興味のある話題なのだが、やはり分からなかった。
表現的性質については、ゴンブリッチの議論を経由して論じられるのだが、ゴンブリッチの論自体が直観説に反するものになっているような気がするのだが、ウォルハイムはそれをさらに批判しているので、ここも正直話が追いにくい。
表現的性質は、芸術家がどのようなレパートリー・選択肢の中から選んだかによるというゴンブリッチの議論に対して、ウォルハイムは、芸術作品はイコン的であるという話と、レパートリーというのは決定不可能であり、レパートリーではなく様式で説明する話をしている。

2つ目の反論について
引き続き、様式の話
知覚の認知的侵入みたいな話をしている気がする
芸術作品を理解するためには、直接知覚される以上のものを「持ち込む」必要がある、と
パノフスキーの見解などが引かれている。

時間芸術について再び(タイプとトークンについて)

タイプと似たものとして普遍やクラスがあるが、それらとタイプは何がどう違うのか
属性をメンバーと共有するか、転移されるかなど
ここで時間芸術が対象ではないものの物的ではありうるということが言われている(タイプにはトークンの属性が移ることができるので)


上演芸術と解釈について

芸術の公共性

  • 芸術概念について

芸術概念の機能主義的定義を退け、美的態度により定義する
美的態度について、ウィトゲンシュタインの『茶色本』で出てくる「独特の」「特別な」の他動詞的用法と自動詞的用法(前者の場合、置き換え表現が可能、後者は、それに注意を向けるための用法)の区別を参照して、美的態度というのはどちらなのか曖昧だが自動詞的だ、と。
また、芸術が生活に依存していることについて
(芸術がもたらすのは新しい知覚や感情ではなかく、既に存在する諸要素の新しい結合)

  • 生活形式であることを芸術家の観点から

芸術は、ウィトゲンシュタインが言う意味での生活形式(習慣・経験・技能の複合体)
芸術の制度から独立に同定できる芸術的衝動はない

  • 生活形式であることを観者の観点から

イコン的記号について
(精神分析論的に言うと)芸術は夢よりも洒落に近い(夢は私的て、洒落は公的)

  • 芸術とコードの類比

情報理論を芸術に適用することへの反論

  • 芸術と言語の類比

芸術と言語を類比させる際の限界
(1)芸術には言語で作られたものもある(ので言語と類比するのに無理が生じる)
(2)言語には文法があるが、芸術にはそのような法則のようなものはない

  • 芸術の歴史性

芸術作品の一貫性とか統一性とかいった秩序概念を、数学や心理学に出てくる概念(ゲシュタルトなど)と同一視するような考えは、限定的な有効性しか持たない
何故なら芸術作品における秩序は、歴史的先例に依存し、また歴史的に変化していくから

補足論文1 芸術の制度理論

制度理論批判
アートワールドの代表者が芸術作品の身分を授与するという考えに対して、授与するには正当な理由がいるはずだが、だったら、その理由を芸術の定義にすればよいのでは、と

補足論文2 芸術作品の同一性の基準は美的に関与的か

ウォルハイムは、芸術作品が個物であるような芸術と、タイプであるような芸術という区分をした。
グッドマンは、これとよく似ているが違う区別である、オートグラフィックな芸術とアログラフィックな芸術という区分をしているが、これに対する批判
オートグラフィックは制作の歴史が関与するが、アログラフィックはそうではない。
絵画や彫刻には贋作があり、それは誰が作ったかという制作の歴史によって決まる。
音楽には贋作はない。そっくり同じ演奏を別の誰かがした場合、それはその作品の別のトークンであって、贋作になるわけではない。
前者はオートグラフィックな芸術、後者はアログラフィックな芸術ということになる。
個物であるような芸術は全てオートグラフィックであり、これはウォルハイムも同意する。また、版画はタイプであると同時にオートグラフィックでもある。が、上で述べたように、音楽はタイプでありアログラフィックである。
これに対してウォルハイムは、音楽や詩などタイプの芸術にも、制作の歴史が本質的に関わるとする(贋作の例は分かりにくいとして、もし別の時代に全く同じ文字列の詩が作られたとしたら、これらを同じ作品とみなすだろうか、というボルヘスみたいな例が出されている)
また、複製技術について(ベンヤミンに少し触れている)
建築について(建築は個物なのか、タイプなのか)、も論じられている

補足論文3 物的対象仮説についての覚書

物的対象仮説の対抗理論になりうる「美的対象説」をとりあげ、これを批判している。

補足論文4 回復としての批評

批評とは、創作過程の再構成・回復である、という主張
なお、創作過程は、芸術家の意図よりも広いものとされる

補足論文5 〈として見ること〉、〈の内に見ること〉、および絵画的再現

「芸術とその対象」では、「再現的な〈見ること〉」を〈として見ること〉と特徴付けていたが、これの〈の内に見ること〉への変更
また、「再現的な〈見ること〉」の中にはさらに「再現に適した〈見ること〉」があって、それには「正しさの規準」が適用される。この規準は作者の意図に由来する。
〈の内に見ること〉への変更における利点
(1)個物だけでなく事態も見る対象になる
(2)局地化の要件を満たす必要がない
(3)二重性の主張
((2)がどういう話なのかいまいちよくわからない。第11節で再現は局所的帰属で云々と言っていた話とはどう関係するのか、とか)


〈として見ること〉は視覚的関心や好奇心の一形式
〈の内に見ること〉は視覚的経験の陶冶


この論文では扱えなかった課題
(1)〈として見ること〉を喚起することもあれば〈の内に見ること〉を喚起することもあるような対象について(例えば雲を見ること)
(2)ジャスパー・ジョーンズの旗の絵について
(3)彫刻について

補足論文6 芸術と評価

「芸術とその対象」では、評価については触れておらず、論文の最後に、意図的に触れなかったと述べているほどなのだが、この点で批判もあったらしく、補足論文を書いている
美的価値の出現範囲について
美的価値の身分について
後者は、実在論、客観主義、相対主義、主観主義を比較している。

伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史6』

6巻は「近代1 啓蒙と人間感情論」

伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史1』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史2』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史3』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史4』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史5』 - logical cypher scape2

世界哲学史シリーズもいよいよ近代へ突入。
メジャーな哲学者も多数登場し、哲学史としては馴染みのあるラインナップになってきた感もあるが、ニュートンの自然神学やアメリ独立運動のフランクリンやジェファーソンの思想など、やはりオーソドックスな哲学史ではなかなかこうはならないだろう章立てにはなっている。
非西洋では、イスラム、中国、日本がそれぞれ一章ずつあり、それぞれ独特の面白さがある。


サブタイトルにある通り、この巻のテーマは「啓蒙」と「感情」で、どの章も少なくともどちらか一方はテーマになっている。
主に18世紀を扱っている。まさに啓蒙思想の時代であり、ある意味、「理性」重視・偏重の時代にも思われがちだが、「感情」を重視する、あるいは理性と感情の双方的な関係を考える議論がなされていたことにも注目する。

第1章 啓蒙の光と影 伊藤邦武
コラム1 近代の懐疑論 久米暁
第2章 道徳感情論 柘植尚則
コラム2 時空をめぐる論争 松田毅
第3章 社会契約というロジック 西村正秀
コラム3 唯物論と観念論 戸田剛文
第4章 啓蒙から革命へ 王寺賢太
コラム4 世界市民という思想 三谷尚登
第5章 啓蒙と宗教 山口雅広
第6章 植民地独立思想 西川秀和
コラム5 フリーメイソン 橋爪大三郎
第7章 批判哲学の企て 長田蔵人
第8章 イスラーム啓蒙思想 岡崎弘樹
第9章 中国における感情の哲学 石井 剛
第10章 江戸時代の「情」の思想 高山大毅

第1章 啓蒙の光と影 伊藤邦武

第1章なので、本書全体の序論的位置付け
啓蒙思想を、スコットランドのとフランスのに分類するが、対立していたわけではなく共存もしていた例としてコンドルセが挙げられている。
理性を疑い感情を重視した代表例としてルソーとヒューム
理性か感情かどちらを重視するかといった対立が理論的なものというより、哲学者の気質によるものだ、とジェイムスが『プラグマティズム』の中で論じているらしく、ちょっと気になる

コラム1 近代の懐疑論 久米暁

第2章 道徳感情論 柘植尚則

ハチスン、ヒューム、スミスの道徳感情論の系譜
ハチスンは、道徳が感覚で捉えられるとした
ヒュームも、これを踏襲するが、ハチスンのように直接徳を感覚する能力を想定するのではなく、共感の作用から説明する
また、理性は行動をモチベートしない、情念が行動に結びつくという情念論も
スミスは、共感について、ヒュームが他の人の表出を観察することによってと考えていたのに対して、立場を交換することを想像することによってと考える。
なるほどと思ったのは、人間は快いことに共感したいし、不快なことには共感したくないので、金持ちや地位の高い者に共感しがちで、金持ちや地位の高い者を道徳的だと勘違いしてしまう、というスミスの論


感情とか情念とかとemotionとかsentimentとか訳語がどう対応してんのか、気になった

コラム2 時空をめぐる論争 松田毅

ニュートンライプニッツ

第3章 社会契約というロジック 西村正秀

ホッブズスピノザ、ロック、ヒュームの社会契約論が紹介されてる。
スピノザの社会契約論知らなかった。
前二者は、自然状態は戦争状態なので、理性によって社会契約に至るというもので、理性への信頼がある。
後二者は、自然状態は必ずしも戦争状態とは考えていない。
ホッブズスピノザは、個人が自然権を放棄して主権者に預ける、主権者は法的な制限を受けないという点で同じ。ホッブズは社会契約で生まれるのが絶対君主制と考えるのに対し、スピノザは共同体が主権者となる「民主制」を考えている
ルソーの一般意志論は、スピノザの民主制と同じ発想
ロックは、政体は選択されるもので、また主権者も制限を受けるとする。
また、ロックは、キリスト教を社会契約論の中に理論的に組み込んでいる

コラム3 唯物論と観念論 戸田剛文

第4章 啓蒙から革命へ 王寺賢太

いかに自律を実現するか
モンテスキュー、ルソー、ケネー、ディドロコンドルセロベスピエールが紹介される
ケネーって『経済表』でしか知らなかったけど、合理的専制として当時の中国の政体を評価してたらしい。
この流れの最後にロベスピエールいるの納得感あるけど、そういえばロベスピエールを政治思想という観点では全然よく知らなかった。
恐怖政治って、後からの評価を表す言葉だと思っていたのだけど、自称のようなものだったのか
モンテスキューは、政体の原理として、民主制は「徳」、専制は「恐れ」だとした。これに対してロベスピエールは、平時の民主制の原理は徳だが、革命時の民主制の原理は徳と恐怖である、とした。
主権は不可分であり、立法も行政も司法も主権者である人民が担うべきなので、これ全て人民の代表である救国委員会が行うということで、政治的自律を求める論理が専制的逸脱へつながった例として、ここでは論じられている
ルソーがイメージしていたのと同様、ロベスピエールも人民が無媒介に人民に現前する共和国のイメージを持っていたが、そのためには代表が無化されなければならず、まず救国委員会が排除されなければならなかったのだ、という結び、ちょっとエモい

コラム4 世界市民という思想 三谷尚登

ヌスバウム世界市民擁護論など

第5章 啓蒙と宗教 山口雅広

自然神学について
ニュートンの自然神学(理神論との類似と相違)
ライプニッツとの往復書簡
ニュートン主意主義的でライプニッツ主知主義的。
ニュートンの神は宇宙を「リフォーム」する(「時計の針を巻く」など、宇宙に介入してくる)のに対し、ライプニッツの神は創造以外は何もしない(最善の可能世界を選んでいるので、途中で介入する必要がない。なお、最善であるかどうか諸可能世界ですでに計算済みなので、神のすることは本当に少ない)
ヒュームとカント
いずれも自然神学批判をしているが、自然神学の余地が残されている。

第6章 植民地独立思想 西川秀和

ベンジャミンとフランクリン
ヨーロッパの啓蒙主義を受容し、アメリカの啓蒙思想
科学分野のベンジャミン
政治分野のフランクリン

第7章 批判哲学の企て 長田蔵人

カントの『純粋理性批判』と『実践理性批判』について
カントにとって啓蒙とは、自分の知性を用いることができること
批判哲学は、そのような知的自律を目指す。
理性は、理性によって自己批判が可能であり、それが理性の信頼性を支える
道徳について、カントはスコットランド啓蒙思想の影響を受けているが、感情や感覚は自己批判ができないので、やはり理性ということになる
あらゆる人間が尊厳を持つことを神抜きに証明しようとした


やはりカントは、ここまでの総まとめみたいな人だなと感じさせる章

第8章 イスラーム啓蒙思想 岡崎弘樹

アラブ圏で 「啓蒙」という言葉はあくまでも西欧のことを指す言葉であり、それほど広く用いられていたわけではなく、19〜20世紀初頭のアラブの思想は「ナフダ」(目覚め、復興)と呼ばれるとのこと
ナフダにはさらに第1世代から第3世代に分かれる
第1世代
ヨーロッパの概念(自由など)をアラブ・イスラム世界の伝統的な語彙に「置き換え」る
自分たちにもそういう概念はあるのだと主張
しかし、人民主権などには至らず限界も
第2世代
「置き換え」ではなく政治思想を論じる
イスラムの教えを理性によって検討する
第3世代
専制ヒジャブなどを、宗教ではなく慣習の問題として捉える。宗教から切り離して社会的な問題として改革する
1910年代以降、啓示への回帰やジハドと暴力を結びける傾向が出てきて、「啓蒙」の時代は終わる。しかし、1990年代から再び脚光を浴びている。

第9章 中国における感情の哲学 石井 剛

清代の儒学者、戴震による「感情の哲学」について
教条主義に陥り立場の弱い者を苦しめるようになった朱子学を批判し、『孟子』をベースにしつつ、そこに荀子の礼を組み込む
孟子は、性善説を唱えたが、しかし、悪というのは厳然としてあって、この悪をどう捉えるのかが儒学ではずっと問題だったよう

第10章 江戸時代の「情」の思想 高山大毅

「人情」理解論について
儒学において、『詩経』は悪についての内容もあり、これは色々な立場の人の心情を知るためにある、とされている。
支配階級が、他の立場の心情を知ることで役に立てる、と。
本居宣長の「もののあはれを知る」も実はこれと同型の論
さらに、当時の遊郭などにあった「粋」や「 通」という概念も、情(この場合、特に恋の情)を知ると人格者になるというもの
(忠臣蔵の登場人物がみな「通」だったら、諍いも事件も起きなかったという作品があったりするらしい。あと同じ趣向の作品で、賄賂を使って諍いを防ぐのが通、という話もあったりするとか)
18世紀の日本では、こういう「人情」理解論が広がっていた
ところが、19世紀になるとこれが一転。筆者が「振気論」という考えが広まる。過激な政治行動や熱烈な詩歌に、人は自ずと鼓舞される、という考え
人情理解論は、背景に身分社会がある。身分の違いがあり、考え方・感じ方が違う者の心情を推し量る、というもの。
振気論は、むしろ人はみな同じであり、自然と共感するというもの。江戸末期から明治近代にかけてのもの。
この中で直接言及されてないが、天誅とかのテロの思想っぽいな、と(戦後にも似た考えありそう)
最後に筆者は、惻隠、人情理解論、振気について、現代的な具体例を挙げ、これらが3つとも「共感」と呼ばれうるものだが、それぞれに性質が異なる点を指摘し、共感概念をこれらで分析できるのでは、という提案をしている。



sakstyle.hatenadiary.jp

冲方丁『マルドゥック・アノニマス5』

バロットが過去と和解し、ハンターが過去を隠されていたことに気付くまでの話

冲方丁『マルドゥック・アノニマス1』 - logical cypher scape2
冲方丁『マルドゥック・アノニマス2』 - logical cypher scape2
冲方丁『マルドゥック・アノニマス3』 - logical cypher scape2
冲方丁『マルドゥック・アノニマス4』 - logical cypher scape2

4巻に引き続か2つの時間が交互に進む構成
つまり、バロットとウフコックが再会した直後の話と、バロットがウフコックを探している時期の話


バロットたちはウフコックを助け出すために、ガンズ・オブ・オウスと戦うことで、クィンテットのバジルに貸しを作る。
何故クィンテットにハンターがいないのか、ガンズ・オブ・オウスは一体何故バジルと対立しているのか。
時間を遡り、バロットがウフコックを探している頃、その一方でハンターはシザース狩りを宣言していた。その際、突出した動きをしようとするのがガンズ・オブ・オウスだった。
バロットは、ハンターもシザースなのではないかという推測に至り揺さぶりをかけようとするが……。


味方でとても優秀なのだが、しかし、何考えているのか分からず、悪い奴のようにも見える、というキャラクター、冲方作品に時々出てくるような気がするのだが、ライムが、とても優秀でオフィスにとっても代え難い存在でありながら、バロットは気にくわないでいる、というのが、ちょっとブルーに似ているかもと思った
ただ、ライムは、バロットからは嫌われているが、読者からするとあまり怪しい人物には見えない(ブルーは、ウフコックが嫌がっており、そのために、読者からも怪しく見えるキャラクターだった)


レイ・ヒューズがバロットのメンターになってくれる展開、「おおお、あのレイ・ヒューズをメンターに」ってなる。


あのハンターが、この巻では、なんかよくわからん洗脳みたいなので操られ、組織が自壊しそうになっていく展開が続き、正直、ハンター側の話はあれあれって感じになるのだが、最後の最後で、やっぱハンターはそうでなきゃなと復活してきたとこで終わる
次巻、バロットとハンターが再びあい見える!

『フィルカルvol.5 no.1』

全部は読んでなくて、一部読んだので、読んだとこだけメモ


2019フィルカルリーディングズ

気になる本が増えますね

特集1 いけばなの美学

座談会だけ読んだ
全然知らない世界なので、へーっと

ポピュラー哲学の現在

前回も読んだので今回も

特別連載 ウソツキ論理学 哲学的論理学入門第1回 矢田部俊介

今度出る予定の本の導入部分の抜粋、らしいです

特集2 学問と勉強のジェンダー・ギャップ

谷川さんと酒井さんのを読んだ
酒井さんが報告している件は、以前twitterで少し見ていた

特集3 「ELSI」というビッグウェーブ

長門さんのだけさらっと見た

分析系ニーチェ研究の招待 大戸雄真

そのタイトル通り
馴染みのないところなので、基本的なところから説明があって勉強になった

メアリー・ミッジリー:人間本性と想像力の哲学者 イシュトン・ゾルタン・ザルダイ(木下頌子訳)

全然知らなかったのだけど、エリザベス・アンスコム、フィリッパ・フット、アイリス・マードック、メアリー・ミッジリー、メアリー・ワーノックという、オックスフォードに同時期に5人の女性哲学者がいた、と
この5人は、いずれも同じようなトピックに関心を持ち、親しい関係でもあったので、哲学グループを形成していたのではないか、という風にこの5人を捉えるプロジェクトが発足し、その一環で書かれた文章
ミッジリーは、59歳の時に最初の著作を書いており、『獣と人間』で、人間の悪いところを「獣的」と称するような誤解を解く本だという。
動物行動学の学位も持っていたらしい。
これと相前後して、 動物の美的価値 : 擬人化と人間中心主義の関係から 青田麻未を読んでたら、ミッジリーへの言及があったので、これも読んだ

ワークショップ「描写の哲学研究会」

これが一番の目当てだったところある。
各発表については、3人それぞれのブログで確認していたが、質疑応答などの様子も報告されており、助かる
ほんとは行きたかったけど、確かこの日は風邪か何がで行けなかった……

美学相談室 第1回

ナンバさんが連載始めとる

源河亨『悲しい曲の何が悲しいのか』書評 木下頌子

鬼界彰夫ウィトゲンシュタイン 思考の生成原理』書評 菅崎香乃

書評内容の詳細は省くが、いずれも読みたいと思っている本なので参考になった

Paul Dawson "Ten Theses against Fictionality"

muse.jhu.edu
フィクショナリティの修辞的アプローチについて
以前、下記の記事を読んだ際にこの考えに興味を持ったのでちょっと調べてみよう第二弾

euskeoiwa.com


第一弾として読んだHenrik Skov Nielsen, James Phelan and Richard Warsh "Ten Theses about Fictitonality" - logical cypher scape2と同じ号のNarrative誌に掲載されているが、about論文への言及も多くなされている。
そして、やはり同じ号に、about論文の著者の1人であるSkovによる、Dawsonへの返答も掲載されていたようだ。
なお、この論文の存在は大岩さんに教えてもらった。
twitter.com


この論文は、フィクショナリティの修辞的アプローチを相対化するもので、修辞的アプローチで何かいいことあるの、と問うている


例によって、英語が全然読めてないので、読めたところだけざっくりと要約する

1) Semantics versus pragmatics is borrowed and boring
2) How many degrees of fictionality does it take to change a genre?
3) Fictionality is a signifier without a referent
4) The new approach to fictionality is an old approach to fiction
5) Signposts are signposts
6) Fictionality both inherits and undermines the unnatural
7) Narrativity is always already fictionality, except when it’s not
8) Fictionality wants to have its postmodern cake and eat it too
9) Fictionality has become the bastard child of the narrative turn
10) Who cares why we read fiction(ality)?

まず、Walshは、フィクショナリティの意味論ではなく語用論をやるべきだー、と言ってるけど、その区別の仕方間違ってるんじゃね、という指摘


修辞的アプローチは、ノンフィクションな言説の中にもフィクショナリティがあり、そのことによってノンフィクションな言説がフィクションになるわけじゃないとしている。で、フィクショナリティの程度が問題だ、としている。
でも、フィクショナリティの程度によって、フィクションがどうか区別できるのでは? とか


フィクショナリティの修辞的アプローチは、フィクションそのものの理解には何か新しいとこあるの? 今まで別の人たちも同じこと言ってないか、とか


フィクショナリティの修辞的アプローチは、不自然なナラトロジーというのと関係していて、不自然なナラトロジーを提唱してた人たちが修辞的アプローチもやってる感じらしいのだが、Dawsonによると、不自然なナラトロジーってフィクション言説に見られる不自然さに着目してたのに、ノンフィクション言説に手を広げちゃうと、不自然さというのがボケないか? と言いたいっぽい


あと、外在的な批判っぽい話もあって
ナラティブ・ターンと動きが似てるのではないか、と。
で、ナラティブ・ターンというのは、ディシプリン横断型の研究で、ナラティブというのは色々なところにあって色々なディシプリンで研究されてるから、学際的にやろう、という流れ
で、これって、ナラトロジーインパクトというより、大学で学際的な研究センターを作ろうという需要によるものでは? みたいなこと言ってて、フィクショナリティ研究もそういうとこあるよね、みたいな話だと思う


何故人はフィクションを読むのか
これについて、文学的ダーウィニズムとか認知的ナラトロジーとか呼ばれる分野があるらしいのだが*1、フィクションが色々役に立つことがあるよ、という話があって、修辞的アプローチも、フィクションの役に立つ価値を示しているんじゃないの(新しい哲学的観点とか、新しいテクスト分析とかじゃなくて)


これを読んでいると、修辞的アプローチでなくとも、ナラトロジーの中でフィクショナリティへの注目は他にもあるのかな、という感じがした。
個人的には、むしろ不自然なナラトロジーの方が興味出てきた

*1:正確にいうと、ディヴィッド・ハーマンという人が、何人かの研究者をそのような名前で分類している

Henrik Skov Nielsen, James Phelan and Richard Warsh "Ten Theses about Fictitonality"

muse.jhu.edu
フィクショナリティの修辞的アプローチについて
以前、下記の記事を読んだ際にこの考えに興味を持ったのでちょっと調べてみよう第一弾

euskeoiwa.com


どうも、文学研究ないしナラトロジーの分野で、近年、「フィクショナリティ」「修辞的アプローチ」というのが出てきているらしい。
フィクショナリティを、フィクション作品の性質と考えずに、修辞の一種のように捉える、というものらしい。
この論文では、オバマが選挙戦で相手を批判する際に用いたジョークが主な例として出てくる。
オバマのジョークは無論小説などのフィクション作品ではなく、選挙戦の相手を批判する政治的主張の一環である。が、そういった、ノンフィクショナルな言説の中にもフィクショナリティは現れるのだ、と。


タイトルにある通り、10のテーゼからなる論文だが、ここでは10のテーゼを一つ一つ紹介するのではなく、ざっくりと要約していく


フィクションとフィクショナリティとを区別する
フィクショナリティは、様々な目的のために使用される
フィクショナリティは、実在するものを指示することなくコミュニケーションしたりする、根本的な認知能力を用いている


フィクショナリティは、想像する能力に関わるが、それは現実を理解するための能力でもある
フィクションがどうかは、テクストの特徴よりもコミニュケーションの意図によって定まる。
フィクションかどうかという区別より、フィクショナリティの程度が大事
送り手は、様々な方法で(パラテクストだったり声音だったり)フィクティブであるという意図を伝える。
フィクティブな意図を伝え、それを受け取ることは、ノンフィクションの言説に対する態度とは異なる態度を引き出す
例えば、ある言説をアイロニーとして受け取った場合、文字通りの意味ではないことを意味していると捉える
同様に、ある言説をフィクティブなものとして受け取った場合、指示的な主張をしているわけでなく、一部または全部が作られたもの、現実世界では不可能なものだと捉える
フィクティブなコミニュケーションは、現実にはないものを現実へと投射する(例えばユートピア/ディストピアもの、あるいはキング牧師の「私には夢がある」スピーチ)。真ではないが、現実世界についての信念形成に影響する。
フィクショナリティの使用は、送り手のエートスに影響を与える(ジョークを言えるウィットがある、とか(ネガティブな影響もある))
フィクションとフィクショナリティの理論は分かれるべき。何故なら、フィクション以外のところで使われているフィクショナリティが見逃されているから。
哲学的なフィクション論は抽象的でコンテクストや経験的な現れに注意を払っていないし、文学研究・物語論は、フィクティブな言説のより広く根本的な説明に注意を払わない(修辞的アプローチならその点……)

1) Fictionality is founded upon a basic human ability to imagine


2) Even as fictive discourse is a clear alternative to nonfictive discourse, the two are closely interrelated in continuous exchange, and so are the ways in which we engage with them


3) The rhetoric of fictionality is founded upon a communicative intent


4) From the perspective of the sender, fictionality is a flexible means to accomplish a great variety of ends


5) From the perspective of the receiver, fictionality is an interpretive assumption about a sender’s communicative act


6) No formal technique or other textual feature is in itself a necessary and sufficient ground for identifying fictive discourse


7) Signaling or assuming a fictive communicative intent entails an attitude toward the communicated information that is different from attitudes toward nonfictive discourse


8) Fictionality often provides for a double exposure of imagined and real


9) The affordances of fictionality have—for better or worse—consequences for the ethos of the sender—and often for the logos of the global message


10) The importance of fictionality has been obscured by our traditional focus on fiction as a genre or set of genres


もともと、大岩さんの雪火頌では、フィクションがどのように形作られるか=エフェクトという観点から、フィクションを論じるとされていて、エフェクトの類義語としてフィクショナリティも挙げられている
ただ、この論文を読んでみると、どのように作られるか、というよりも、どのように使われるか、という感じだった
フィクションは、一般的にフィクションとされるもの(小説やマンガや劇など)以外の場所でも使われており、様々な用途がある、と。


個人的な興味関心の問題だが、この論文で出てくるオバマキング牧師の例の分析にあまり面白さを感じられなかった。
フィクショナリティという概念を用いることで、どういうおいしさがあるのが分からなかったというか。それらの例がフィクションの一種なのは分かるが、生じているとされる効果を説明するのにフィクショナリティ概念を経由する必要があるのかどうか。
一方、典型的なフィクション以外のところにもフィクションは現れる、ということ自体は首肯するところで、そういうのを説明する枠組みの必要性も分かる。
手前味噌で恐縮だが、それこそガルラジ合同本『___・ラジオ・デイズ』に「質感から考える メディアなきフィクションとしてのガルラジ」書きました - logical cypher scape2質感旅行論とかはそういう面はある。旅行の中にもフィクショナリティは生じる。
しかし、質感旅行において生じるフィクショナリティは、このフィクショナリティ論とは相容れなくて、それは質感旅行は別にコミュニケーション行為ではないから。


ウォルトンは、それこそノンフィクションの中にも部分的にフィクションになってる部分が出てくる旨の指摘を行なっており、フィクショナリティ論と通じるところはあると思う。
ウォルトンは、メタファーをメイクビリーブで説明しようとしたりもするし。
ただ、この部分的なフィクションみたいな考え方が、美学系フィクション論の中でどれくらい受け入れられているのかは謎


メイクビリーブの拡張という意味では、科学におけるモデルをメイクビリーブで説明しようとする議論もあるけど、まあでもそれは、レトリックとしてのフィクショナリティという考えとは結構違うような気がする


話を戻すと、質感旅行はコミュニケーション行為じゃないわけだが、ウォルトンのメイクビリーブ論は、プロップによってフィクショナリティが生じるので、質感旅行みたいなものに応用しやすいのである。モノさえあれば、意図とかはあまり気にしなくてよいので。
一方、カリーのメイクビリーブ論はむしろ、コミュニケーションにおける意図を組み込んだ議論だったはずなので、このレトリックとしてのフィクショナリティ論は、そのあたりはカリーと似てるのかもなーと思いながら読んだ。