『論考』の入門書で、『論考』やウィトゲンシュタインをあまりよく知らない人でも読めるようにと書かれており、実際、とても読みやすい。
自分は、ウィトゲンシュタインについて多少興味があって入門書くらいは読んでいたりするけれど、わりと『探求』の頃の、いわゆる後期ウィトゲンシュタインにより興味があって、『論考』はあんまりよく分かっていない。ところどころ知っている部分が、つながった感じがした。
あと、ウィトゲンシュタインは、前期と後期とに分けられるものの、解説書なんかでも連続性があることが指摘されていることがあり、実際読んでいて、後期と似てるなと思うところがあり、ベースとなる部分は一貫しているのだなと思った。
つまり、哲学的問題とされるものは、言葉を間違って使っていることから生じているので、その間違いを解き明かしていけば哲学的問題も消える。そうやって、哲学的問題は解決されるという考え。
あと、哲学で何ができるのか、ということに対して禁欲的というか、限定しようとしているところとか。
最近、下記の本を読んだので、ちょうどこれで前期と後期について触れられたかな、という感じ。まあ、下の本は3巻本の1巻目なのだけど。
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はるか昔に、下記の2冊も読んだことがあるが、はるか昔すぎてあんまり覚えていない
今回、古田本でもこれらの本には時折言及があったので、該当箇所だけ読み直したりした(ほんの数ページ)。
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はじめに
凡例
人と作品
『論理哲学論考』
§0 『論理哲学論考』の目的と構成
§1 事実の総体としての世界、可能性の総体としての論理空間
§2 事実と事態、事態と物(対象)
§3 不変のものとしての対象、移ろうものとしての対象の配列
§4 現実と事実
§5 像と写像形式
§6 像とア・プリオリ性
§7 思考と像、像と論理空間
§8 命題と語
§9 名と要素命題
§10 解明と定義
§11 シンボル(表現)と関数
§12 日常言語(自然言語)と人工言語
コラム1 記号論理学
§13 個別性の軽視、個別性の可能性の重視
§14 言語の全体論的構造節
§15 「言語批判」としての哲学
§16 命題の意味の確定性と、命題の無限の産出可能性
§17 『論考』の根本思想
§18 否定と否定される命題の関係
§19 哲学と科学
§20 要素命題とその両立可能性(相互独立性)
§21 真理表としての命題
§22 トートロジーと矛盾
§23 命題の一般形式1
§24 推論的関係と因果的関係
§25 操作、その基底と結果
§26 操作の定義
§27 世界のあり方と、世界があること
コラム2 倫理学講話
§28 独我論と哲学的自我
§29 命題の一般形式2
§30 論理学の命題および証明の本質
§31 説明の終端
§32 意志と世界
§33 永遠の相の下に
§34 投げ棄てるべき梯子としての『論考』
§35 『論考』序文
文献案内
用語の対照表
あとがき
内容をまとめていくのはちょっと大変なので、印象にのこったポイントだけ書く
像は現実を写し取る模型のようなもの。像と現実とのあいだで共有されているものが「写像形式」
像は自身の写像形式を写すことはできない
像の真偽は、現実との一致・不一致で、アプリオリに真なる像は存在しない
「名」や「要素命題」とは一体何か
これは、分析されきった状態のもので、『論考』の目的から要請される概念だが、具体的にこれが「名」だとかは例示できない。
「新幹線」という言葉があって、これは例えば「日本で一番速い列車」のように分析できる。これがいわば新幹線の定義だとして、さらに「日本」とか「列車」とかも分析できる。究極なところまでいきついたのが「名」
だからもう、定義はできないのだけど、論理空間の中でどのような使われ方をされるのか(形式)は定まっている
例えば、仮に「新幹線」が名だとして、「新幹線」は「新幹線はとても速い」とか「新幹線は列車だ」とか「新幹線はアメリカで走っている」といった命題にあらわれる。なお、3番目は偽なる命題だけど、論理空間の中にそういう事態はある。だけど、「新幹線が輸血する」とかそういった命題にはならない。そういった形式というのは既に定まっているもので、命題を見ていくことで「解明」される。
既に述べた通り、「名」が具体的にどのようなものかは示されていない。
これは、どれだけ分析できるかはアポステリオリな問題だからで、アプリオリにこれが「名」であるとは言えないからだと、説明されている。
(世界をどれくらいきめ細かく分けられるかは、経験的な問題)
「名」が具体的に何であるかはアプリオリには言えないが、『論考』は、極大の表現力を有した言語が目的で、その言語がどのような言語であるかというところから要請される概念でもある。
ところで、この、『論考』において「名」が具体的に何か示されない問題について、
野矢は、複合命題を分析してできた単純なものについて、どっちがより単純なのか決められないものがあるから、という説明をしていて、これがのちに、ウィトゲンシュタインが『論考』が誤りだったと認めることになる要素命題の独立性の問題につながるとしている。
一方、鬼界は、単純を「分析的単純概念」と「論理的単純概念」に分け『論考』の「単純」は後者だという(そしてこれに従えば、上の説明はむしろ前者に近いように思える)。で、後者の「単純」においては、論理操作を行う「私」が背後に隠れている、と。
ウィトゲンシュタインも、命題を関数と考えているが、フレーゲやラッセルの考えとは異なっている。
例えば、フレーゲの場合、変項になるのは対象で、出力値は真理値だが、ウィトゲンシュタインの場合、変項になるのは表現で、出力値は命題
「新幹線x」という関数があったとして、xに「が速い」という変項が入ると、「新幹線が速い」という命題がその値となる
『論考』のウィトゲンシュタインは、日常言語の分かりにくさは、記号論理学による人工言語によって分かりやすくなると考えている
『論考』は、その人工言語の条件を明らかにしようとする書物でもある。
ところで、人工言語の方が、日常言語よりも論理的だ、と言っているわけではない。日常言語はすでに完全に論理的なのだが、それが読み取りにくいので、人工言語を使ってあらわすと、日常言語の論理性が読み取りやすくなる、と
形式の話とか論理空間の全体論的ネットワークの話とか、なんかウィトゲンシュタイン以外にも言っている人いそうだなという感じで
形式の話は、なんとなくチョムスキーみを感じる。チョムスキーのことあまりよく分かってるわけではないけど
(ところで、野矢本にも、チョムスキーっぽいという書き込みをしていた、自分)
哲学と科学の違いということにも触れられている。
真なる命題の総体が科学。科学というのは、何が真なる命題なのかという探求だが、哲学はそうではない。哲学の成果は哲学的命題ではない。
哲学は、何が命題で何が命題もどきなのかの明晰化。語りうることとそうでないことの線引きをすること
語りえないことの一つが論理形式。論理形式は命題に反映されているが、命題として語ることはできない
語りうることの限界を示すためには、表現力が極大の「究極の言語」を想定しないといけない。究極の言語においては、あらゆる命題が要素命題の結合として捉えられる
要素命題には、相互独立性(両立不可能ではないこと)が要請される。例えば「太郎と花子は夫婦である」と「太郎は独身である」は、両立不可能である。前者が真なら後者は偽だし、後者が真なら前者は偽だから。要素命題は、このような関係にない=相互に独立している。
しかし、果たしてそんな命題は本当に存在するのか。
実際に、ウィトゲンシュタインはこの相互独立性を撤回することで、いわゆる前期から後期へと転換していくことになる
ただ、例えば野矢は、相互独立性が維持できなくても『論考』の考え自体は維持できる、という立場をとる
真理表が出てくる
ウィトゲンシュタインの独創性として、真理表それ自体を、命題記号として捉えるところにあると説明している
そしてそれは、命題の意味とは真理条件である、ということにつながっている
なお、真理表を発明したのはフレーゲとのこと
これに続いて、トートロジーと矛盾の話
真理表の右端が全て真になるのがトートロジー、全て偽になるのが矛盾
トートロジーと矛盾は、論理空間の中のある範囲を指定するような表現ではない(論理空間全てを指定するかどこも指定しないか)。で、現実の像たりえない。
しかし、一方で「無意味unsinnig」というわけではない。ウィトゲンシュタインは、矛盾やトートロジーは「意味を欠くsinloss」という。
これは命題の限界事例で、現実の像ではないが、命題に論理形式が反映されていることを示す事例
論理定項は、何か指示対象をもっているわけではない、というのをウィトゲンシュタインは『論考』の根本思想としている
で、論理定項とは、操作であるとしている
このあたりも、分かりやすく説明されていて面白いけど、詳しいところはここに書くのは大変なので省略
あらゆる命題は、要素命題にある操作を複数回適用したものである、と言うことができる
語りえないものとして、ここまでで論理形式が挙げられていたけれど、次に出てくるのが「世界がある」ということ
語りうること(=思考しうること)というのは、命題になるもので(これはもうかなり前の方で出てきている話)、命題というのは論理空間の特定の場(事態)を指定するもの
「新幹線が東京駅に停車している」は、論理空間の中で「新幹線が(品川駅でも横浜駅でもなく)東京駅に停車している」という事態を指定している
しかし、「世界が存在している」はそうではない。「新幹線が東京駅に停車している」ならば「世界は存在している」し、「地球が太陽系にある」ならば「世界は存在している」し、とにかくあらゆる事態から「世界が存在する」ことは帰結する。つまり、特定の事態を指定するようなものではない=命題ではない。だから、語りうることではない。
トートロジーに似ているがトートロジーでもない。トートロジーは記号の組み合わせだけで真だとわかるが「世界がある」はそういうものではない。
ただ、「世界がある」ということは、論理にも先立つ。だからこそ、我々は「世界がある」ことに驚く。「世界がある」ことは、事実でも虚構でもなく、神秘なのだということになる。
「なぜ世界はあるのか」と問うても、それは有意味な問題にはなりえない。しかし、我々は「世界がある」ことに驚いてしまう。そして、「世界がある」というのは命題にならない(思考しえない)ので、そもそも何に驚いているのかもわからない。だからこそ、それは神秘としてしか触れることできない。
『論考』に影響をうけたとされる論理実証主義者たちは、ハイデガーを強く批判したことで知られているが、ウィトゲンシュタイン自身はこうした点でむしろハイデガーにはある種の理解と敬意を示していた、と注釈されている
ウィトゲンシュタインの『論考』期に行われた講演の記録として『倫理学講話』がある。
ここでいう倫理学は、美学も含めた価値についての話で、ここでウィトゲンシュタインは、価値とは何か考える時に「世界があることに驚く」ことを想起してしまうと語っている
いずれも、言語の限界に突進していく行いだ、と。ただ、ウィトゲンシュタインはそれを咎めたり貶めたりしているわけではなくて、そこに重要なことが示されていると考えている、と
ところで、ここでウィトゲンシュタインがしていた価値の話について、筆者による解説論文が紹介されているので、あとで読みたいと思う。
JAXA Repository / AIREX: 絶対的価値と相対的価値: 宇宙開発の意義についての一視点
世界の次に、語りえないものとして見いだされるのが「私」である
もし仮に『私が見た(聞いた・触れた)世界』という記録を残すとして、そこには、私の手とか脚とか鼻とかは出てくるだろうし、私が楽しかったとか悲しかったとかいったことも書かれるだろうけれど、それを見ている私のことは書くことができない、と。世界の中にある私ではなくて、その世界を認識している主体としての私。世界というものが世界の中にはないように、私もまた世界の中には現れない
ウィトゲンシュタインは、必然性を論理的必然性しか認めない。
論理空間という観点から見れば、何が現実に成り立っていて、成り立っていないかは偶然に過ぎない
だから、自然法則に基づく物理的必然性なんかも、ウィトゲンシュタインからすれば、偶然的なことということになる
また、同じようにして、倫理的に「~すべきだ」「~しなければならない」という実践的必然性もやはりないことになる
倫理や美といった価値もまた、語りえないことだということになる
次に、「倫理の担い手たる意志」というのが出てくる。意志は世界に何の影響も与えない。しかし、意志は世界に強弱を与える。
ここからウィトゲンシュタインは、幸福な生の条件とは何かということへ探求を進める
それは、「永遠の相の下に」世界を直観するということ*1
「永遠の相の下に」というのはスピノザ由来のフレーズだが、ここでは論理空間という観点から世界をとらえているということ
生の問題は、その問題が消滅することで解決する。
謎の解決は、謎を解くことではなく謎を謎として、神秘として受けれいることでもたらされる
『論考』の最後でウィトゲンシュタインは、『論考』のことを投げ捨てるべき梯子であり、読者はこれらの諸命題を葬り去るようにと述べている*2
そもそも『論考』は、『論考』自身が語りえないこととした、世界の外に位置するのようなことについて語ってきてしまっている。そういう意味で、葬り去るべきものだと。
またもう一つ、哲学という病を治療しおえたならば、本書はその役割を終えるのだ、とそういう意味でもあるのだ、と筆者は解説している。
また、「語りえぬことには沈黙しなければならない」というのは、語りえないことは語りえないという諦念のような認識であると同時に、語ってはならないという倫理的な態度の表明でもあるのだ、と
ある種の問題や謎は、語ろうとすればするほど、もとの問題から離れていってしまって解決不可能になってしまうから。