Transformation越境から生まれるアート展ほか

ブリヂストン美術館がアーティゾン美術館になってから初めて行ってきた!
エントランスからのエスカレータに以前の面影が少しあるような気がしたが、とにかく、全面ガラスに吹き抜けドン! と大きく印象が変わっていた。
今回の目当ては「Transformation越境から生まれるアート」でのザオ・ウーキーだったが、同時開催されていた他の展覧会もシームレスにつながっていたので、あわせて見た。

写真と絵画−セザンヌより 柴田敏雄鈴木理策

タイトルに「セザンヌより」とあるが、セザンヌだけでなくクールベ、モネ、カンディンスキー、ボナール、雪舟などの絵画作品に対して、柴田と鈴木2人の写真家がそれぞれ作品を撮ってくるという企画

  • 《水鏡14》

以前、「モネそれからの100年」展 - logical cypher scape2で見たことがあった
鈴木作品

  • 《水鏡17》

リヒターをみたあとで写真作品を見ると、ボケの使い方に目がいく
鈴木作品

  • 《White19》

クールベ作品に対して
誰も何もいない雪原を撮影した作品
鈴木作品

  • サント=ヴィクトワール山

セザンヌで有名だが、そういえば実際にどのような山なのか見た記憶があまりない
おお、こういう山だったのかーという感想
鈴木作品

柴田作品

こういう具象画を描いていたのか、という感想

柴田作品
作業用の階段を撮影したもので、階段のジグザグした感じが、遠目に抽象絵画っぽくも見えて面白い

  • 《知覚の感光板18》

鈴木作品
ピンボケした葉が最前面にあって、ピントのあった奥側の風景を隠してしまっているが、少し離れて見ると、そのピンボケした葉にも手前に写っているものと少し奥に写っているものがあって「レイヤーだなー」という感想。

  • 《りんご21》

これもピンボケがうまく使われている。連作。
鈴木作品

彫刻作品が置いてあり、その横に、それの側面を描いた絵があり、正面に鏡があるという展示のされ方がしていて、面白かった。

Transformation越境から生まれるアート

ルノワール、藤島・藤田・小杉、クレー、ザオ・ウーキーの4章構成の展覧会
美術館所蔵の作品を、越境というテーマでみせる企画だが、パウル・クレーが新しくコレクションに入ってきたというのもあるようだ。

第1章 歴史に学ぶ―ピエール=オーギュスト・ルノワール

この当時の資料がいくつか展示されていて、その中でブラン編『全流派画人伝』という本がなかなかすごかった。930人の画家について紹介されている本
ルノワールをはじめ当時の画家が、美術館での模写で絵の修行していたって話で、美術館の模写を誰がいつ申請したかという一覧表とかもあった

第2章 西欧を経験する―藤島武二藤田嗣治小杉未醒
  • 藤島《黒扇》

白い服に黒い扇を持った女性の絵

  • 藤島《東洋振り》

イタリアのフランチェスカによる横顔の肖像画に影響を受け、日本人女性に中国服を着せて、横顔を描いたもの。背景には漢字の看板も描かれている。

  • 藤島《屋島よりの遠望》

このセクションで一番よかった(単に、水平線や地平線を描いた風景画が好きなだけかも)。
海の向こうにぼんやりと見える島、というのもよいが、左の方に、白い点のように船が描き込まれているのが、画面を引き締めている*1


基本的に美術館所蔵作品の展示なので、藤田作品は見覚えのあるものが多かった気がする。元々、藤田作品はあまり好みではなくて、なので近代美術館の方で戦争画を見て衝撃を受けた(ゲルハルト・リヒター展 - logical cypher scape2)のだが、それ以外のはやはり好みではないんだよなー
藤田と小杉は同年に渡仏している。藤田は最終的にフランスに帰化する程になるわけだが、小杉の方はヨーロッパがあわなかったらしく予定より早く帰国している。小杉の方は、古事記を題材にとった作品を描いていくことになる。

第3章 移りゆくイメージ―パウル・クレー
  • 《小さな抽象的―建築的油彩(黄色と青色の球形のある)》とドローネー《街の窓》

このセクションでは、まずクレーに対する青騎士への影響から説明されている。
青騎士展に出品していたキュビスムの画家ドローネーの《街の窓》と、クレーの《小さな抽象的―建築的油彩(黄色と青色の球形のある)》が並んで展示されている。

  • ピカビア《アニメーション》

ピカビアっていつもどういう画家だったか分からなくなる(単に自分が記憶できていないだけ、という話)
アニメーションというタイトルだが、もちろんアニメ作品ではなくて、波のような形状の描かれた抽象絵画

第4章 東西を横断する―ザオ・ウーキー

ザオ・ウーキーは以前、「色を見る、色を楽しむ――ルドンの『夢想』、マティスの『ジャズ』……」ブリジストン美術館 - logical cypher scape2での追悼展で初めて見て以来好きで、その後、ブリヂストン美術館「ベスト・オブ・ザ・ベスト」 - logical cypher scape2でも見ていた。
今回の展覧会は、完全にザオ・ウーキー目当てで来た。

  • 《無題(風景)》《海岸》《無題(Sep.50)》

1951年クレーの絵を見て強い影響をうける。これら3作品はいずれもクレーからの影響下で描かれた作品。クレーの記号的な線の描き方を引き継いでいる。

  • 《水に沈んだ都市》1954

クレーの影響を脱したとされる作品。クレー風の記号的な線は描かれつつも、その上から青い絵の具が塗られて平面的になっている、というようなことが説明として付されていた。
ザオは、1957年にニューヨークへ渡る

  • 《15.01.61》

ザオ・ウーキー作品は、日付がタイトルになっている一連の抽象絵画作品が非常に好きで、今回それについては5作が展示されていた。
これだけ一気にザオ・ウーキー作品を見たのは初めてだったので、非常に嬉しかった。
さて、《15.01.61》は、画面の中央に無数の線が描かれているが、クレー的な記号っぽい線ではなく筆触を感じさせるような線で、全体的にもやっと霧のかかったような雰囲気になっていて、それがどことなくイリュージョンとなっている。
《水に沈んだ都市》では、クレーの影響を脱して平面性が強調された絵になった的な解説がされていたけれど、ザオ・ウーキーの絵は、一方では絵の具の物質性が残り平面的なところがあるけれど、一方で、何らかの奥行き感・空間性を感じさせるもので、その両義性が魅力なのではないかと思う。

  • 《10.06.75》

黒とオレンジで描かれた作品

  • 《24.02.70》

まるで入り江ないし峡谷の風景を描いているかのような作品。
サイズも大きく見応えがある。
画面中央部の白い絵の具がかなり盛り上がっていたりする

  • 《10.03.76》

縦長の作品
隅のボケ感、色の混ざり具合がよい感じ

  • 《07.06.85》

全体的に青っぽい作品で、自分が過去にザオ作品を見た2回でも展示されていた奴で、おそらく代表作なのだろう。
個人的にもかなり好き。

  • ジョアン・ミッチェル《ブルー・ミシガン》

並んで展示されていた。アクション・ペインティングな作風の作品
筆のタッチなどについて、広い意味ではザオ・ウーキーとも似ているところがあるかもしれないが、同じ抽象絵画といっても、受ける印象はかなり違う。
ザオの場合、画面全体を青なり茶色なりなんなりの色で塗っていることが多く、また既に述べた通り、どこか奥行き感がある。一方、ミッチェルのこの作品は、白いキャンバスの上に筆を走らせたというのがありありと分かる作品となっている。

  • マーク・トビー《傷ついた潮流》

グレーに赤や青の線

  • アンリ・ミショー

詩人・画家であり、ザオの理解者でメンター的な存在だったという
高齢になったザオに対して、墨で絵を描くことを薦めたのがミショーだったらしい。

石橋財団コレクション選

こちらは流し見
ピカソとミロの特集が組まれていた。

ゲルハルト・リヒター展

近代美術館
難しいな、リヒターは
今まで1,2点見たことがあるくらいで、少し気になっていた画家ではあるのだが、どういう画家なのかは全然知らないままで、この展覧会を見る前に『ユリイカ2022年6月号(特集=ゲルハルト・リヒター)』 - logical cypher scape2を読んで勉強した感じ
「ペインティング」の人ではあるけれど、しかしやはり現代のアーティストなので、コンセプトもかなり前面に出てきている。美的な性質を鑑賞する前に、コンセプトを確認して見た気になってしまいがち、というか。以前、見たときは、あまりリヒターについて知らなかったので、コンセプトとかよく分からず、見た目で「いいかも」くらいに思っていたのだが、そういう感覚にあまりならなかった(美術展行くのが久しぶりだったので、美術を見るモードに自分がうまく入れていなかったのかなとも思う)。
あと、美術を見るときはやはり制作年代気にしがちなのだが、そうなってくると、リヒターの場合やはり、何故この時期にこれ? みたいな感じにもなる。
リヒターの場合特に、具象、抽象、色々なスタイルを次々と変えていっているし、さらに以前やっていたスタイルに戻るということもあるので余計に。


以下、会場エリア別に感想
タイトルで区別できない作品が多いので、本展の作品番号と制作年も記す


アブストラクト・ペインティング ガラスと鏡

入ると部屋の真ん中に「8枚のガラス」があり、アブストラクト・ペインティングの作品群を中心に展示されている

1番最初に置いてある作品で、全体的に白っぽく、オレンジや緑の線が入っている奴
本展覧会は、主にリヒター財団から作品を借りているが、一部に作家蔵の作品もあり、この作品もリヒターが気に入って手元に置いてあるもの、という解説が付されていた。
実際、なるほどこれは結構いいな、という感じがした

灰色っぽい暗い色の作品で、いかにも(?)リヒターのアブストラクト・ペインティングっぽい感じのする作品
スキージによるボケがあるためだと思う。

リヒター曰く、最後の油彩。作家蔵
スキージは使っておらず、キッチンナイフを使っている(ので、リヒター特有のボケ感はあまりなく、絵の具の物質感がある)
余りピンとこなかった

色がややサイケデリックな感じ? この手の色をちょくちょく使っている気がする。蛍光とまではいかないが、そういう系の色

黒や黄色の縦横の線が入った画面に、斜め方向にピンクが入っている
14とあわせて、これもよかった


リヒターに限らないが、抽象絵画というのは(具象画と比べて)区別がつきにくいものの、しかし、見ていると「これは好きだな」「これはピンとこないな」というのがなんとなく出てくる。
「区別がつきにくい」と書いたが、塗られている色やその形状などは異なるので、個々の作品を特定することは可能である。だが、その上で、価値的な判別をつけるのが難しいという意味。
例えば、Aという画家とBという画家だったら、Aの作品の方がよりよいだろうということまでは判断できても、Aの中の作品1と作品2はどちらがよいか(どちらも同時期に同様の様式・技法で描かれた作品とする)となると、かなり難しい。
しかし、にもかかわらず、少なくとも好き嫌いの違いは出てくる(自分は感想を書くときに「よかった」と書きがちだが、これが客観的な「美的よさ」なのか個人的な「好き」の表明なのかは自分の中でも曖昧。特に気に入った作品の場合、「好き」を超えて「よさ」があるはずと信じて書いたりしているが)。
この違いは一体どこに起因するのかなー、と抽象絵画を見る度に思うが、いまだによく分からない。
もっとも、そんなこと言い出したら、具象絵画についても同様のことは言えるかもしれない。
具象画の場合、何を描いているか、それを一体どのような構図で配置しているか、どのような色で描いているか等々のことで判断していくだろう。だとすれば、抽象絵画も同様の基準で判断できなくはないはず。
で、14とか110とか22(後述)とかは、好きだな、よいな、と思うところがどこかしらにあって、それは色であったり構図であったりすると思う。抽象画にも構図はある。

グレイ・ペインティング カラーチャートと公共空間

  • 34 4900の色彩

カラーチャート
ケルン大聖堂のステンドグラス制作時に作られた作品
25色×196枚で4900
ランダムに配置されたカラーパターンなので、当然何の像も結ばない(具象的ではない)が、ステンドグラスのモザイク模様なのだと思いながら見ていると、何かの像を結びそうな気もしてきて、しかし、やっぱり何の像も浮かび上がってはこない。
写真で見たときは「ふーん」という感じだったが、実物を眺めていると、なかなかよいなと思えてくる。

タイトルはアブストラクト・ペインティングだが、灰色で塗られた作品なので「グレイ」のコーナーに置かれていたのだと思う。おそらくスキージを使ってい、ボケ感がある

  • 5 グレイ 1973

油彩っぽいツンツンとした筆触が残されているのだが、それが一様に塗られている。

ビルケナウ

本展の目玉作品
アブストラクト・ペインティング的な4点と、それを写真にとって同じ大きさで出力されている4点とが向かい合うように左右の壁に配置された上で、さらに正面の壁には、グレーの鏡が置かれている。
部屋の中に入って振り返ると、元になったビルケナウ収容所の写真4葉がかけられている。
鏡が置かれることで、作品を見ている自分や他の客の姿が否応なく目に入ってくる
収容所の写真については、暴力描写があるという注意書きが入口に書かれているが、実際のところ、それほど「暴力的」な描写があるわけではない。遺体を燃やしているところが距離をおいたところから撮影された写真で、見た目でのグロテスクさはあまりない。何の写真か分からなければ見た目だけでは「暴力的」な印象はあまり受けないかもしれないが、むろんどういう状況で撮影されたものか分かれば(そしてこの展覧会を見に来ている人は当然分かると思うが)、ある種の暴力描写であるには違いないだろう。
そのような収容所の写真があり、収容所の写真の上に絵の具が塗り重ねられた作品であること、それをさらに撮影した作品が置かれていること、そして鏡がそれらを映し出していること、というコンセプトが当然のことながら、なかなか重苦しい
会場内のいくつかの部屋を行き来しながら見ていたのだが、ビルケナウの部屋は2度目に入るのをやや躊躇した。

ストリップ フォト・ペインティング

  • 63 ストリップ 2013~2016

横に長い作品。今回の展覧会に来ている作品の中で、一番横に長い(キャンパスが4枚にわかれている)
細長い色の線が何本も並行に並べられている、カラーフィールド・ペインティング的だが、デジタルプリントの作品。リヒター自身のとある作品の一部を拡大し細長く切り出し、それを何列にも並べた、という方法で制作されたらしい。
一目見て目をひく作品で、とてもよかった
何がよかったのかを説明するのはこれまた難しいが、とにかく、でかいは正義(?)なので。
色が並べられているという点で、カラーチャートと似てなくもないが、実際に見て受ける印象は「4900の色彩」とはまた違うものがある。

タイトルがついているが、アブストラクト・ペインティング(「98 アブストラクト・ペインティング 2016」と似ていた気がする)。
何故このタイトルなのかは特に説明がなかった

  • 15 3月 1994

14と似てる?

  • 1 モーターボート 1965

初期のフォト・ペインティング作品
説明に書いてあったが、確かに近付いてみると筆のあとが分かる。

頭蓋骨、花、風景 肖像画

フォト・ペインティングな作品が並べられている、やや小さな部屋

  • 31 ヴァルトハウス 2004

スイスの景勝地をモデルとした作品で、確かに写真っぽいのだが、しかし一見して「絵だな」と思った。《不法に占拠された家》(1989)や《頭蓋骨》(1983)の方は「写真だな」と感じるので、何が違うのかなと思うと、構図なのではないかと思う。頭蓋骨は、写真を拡大表示した画像感がある
構図の切り取り方が「写真」というよりは「絵画」なのではないか、と。また、キャプションには、リヒターが、自然について(崇高や不気味さという人間的なものではなく)非人間的なものをみていたという解説がついているのだが、しかし、この作品についていうと、自然に対するロマン的な視点を感じざるをえない。絵になるように描いているので。
このエリアに展示されていた他のフォト・ペインティングの作品と比較して、制作年が新しいことも、この違いと関係しているのかもしれない。

  • 32 ユースト(スケッチ) 2005

風景画のような抽象絵画のような絵で、個人的な好みにあう。
水平線があって、画面上半分が白、下半分が黒っぽい。ハンマースホイって見たことないのでよく分からないけど、ハンマースホイっぽいのかもしれない(リヒターとハンマースホイの関係を云々している論があるらしい)

ボカシが霞っぽくて、奥行感のある作品。


家族を題材にした4点については、あまり感想がないのだが、息子のモーリッツや妻を描いた作品は絵の具で塗られている感じがわりと分かる。『ユリイカ』の表紙にも使われている娘を描いた作品は、そうでもない

フォト・エディション

自分の絵をさらに写真で撮影して作品としたもの
また、それとは別に、リヒター唯一の映像作品というものも上映されていた。なるほど、もともとフルクサスヨーゼフ・ボイスにも影響を受けていたことがあったというので、パフォーマンス・アート的な文脈の作品なのかなと思った。おそらく、わざとノイズをいれて古いフィルムに見せかけていたりするのも含めて、コミカルな作品

オイル・オン・フォト

写真の上に油絵の具をつけた作品群
なんというか、美術やってる高校生とかが作りそうという感じがあり、制作年代的にも特に先駆的というわけでもなく、コンセプト的にはよさ・すごさを感じないが、いくつかの作品については、よいかもというものもあった
ポストカードになって売られているものが多く、ポストカードとの相性はよいなと思った(元作品も小さいので)

  • 56~61 〈シリーズ〈Museum Visit〉〉

これらを見てなんとなく思ったのは、コラージュの逆(?)だなあと
コラージュは写真を切り取って貼るけど、こちらは絵の具を写真の上に塗ることで、写真の一部だけが見えてコラージュっぽく見える。

  • 72 2014年12月8日

  • 76 2015年2月2日

  • 24 1999年11月17日

女性

アラジン

塗料を流してガラス板に転写した作品。まあ、要するにデカルコマニー?

ドローイング

様々な抽象的な線が描かれている。2010年代のもので、日付を見るとほぼ毎日描かれていることが分かる。それぞれ作品というよりは習作のようなものなのだろう。80代になって、日々こういうの描いているのかと思うとすごいけど

  • 39 9月 2009

デジタルプリント

常設

  • 原田直次郎《騎龍観音》(1890)

タイトル通り、龍に観音がのっているという絵なのだが、そのファンタジーイラスト感がすごかった。どこかの寺に奉納された作品らしくて、額縁に卍が並んでいるのも強い
当時、描写の生々しさで評判が悪かったらしいが、今見ると、ファンタジー小説の挿絵かって感じがして楽しい

岸田って肖像画の印象が強く、風景画はもしかしたら初めて見たかもしれない。
上り坂の道路がぐぐっと上がっていく感じがよい

これは、近代美術館に来る度に見ている気がする。

藤田の戦争画を生でちゃんと見るのもしかして初めてだったかも
ノモンハン事件を描いた大作で、めちゃくちゃすごい。
藤田作品はこれまでいくつか見たことあるものの、心掴まれることはなかったのだけど、これはすごかった。藤田の戦争画見てみんな興奮しちゃうわ、これは、という
まず、絵自体のサイズがすごくでかい。
晴れた空にすっと地平線が伸びる草原で、ソ連の戦車部隊と日本の歩兵部隊が戦っているというものだが、それらの戦列がW字に描かれ、その両端に煙が縦にたなびくという構図
この構図がキマりすぎてている
W字のうち、画面に近い2カ所にはそれぞれ、匍匐前進する日本兵と、日本兵により攻撃されている戦車がど迫力で描かれている。
なお、これは日本兵ソ連戦車隊を圧倒しているという絵だが、戦死者がごろごろ転がっている別バージョンがあるらしい。

  • 宮本三郎《本間、ウエンライト会見図》(1944)

キャプションの説明にあるとおり、本題であるはずの会見よりも、それを撮影しているカメラの方を中心にして描かれている。戦争と映像

ジャングルの中の夜戦。遠方にマズルフラッシュが瞬く構図がまたよい

  • 藤田嗣治《薫空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す》(1945)

薫空挺隊というのは高砂族からなる決死隊らしい。実際、この戦いの参加者はみんな戦死してて詳細がよく分かっていないらしい。

  • 大正期新興美術運動

大正期に描かれた抽象絵画などが何点かあった。個別の作品についてはあまりピンと来なかったが、この時期に日本でも抽象絵画の運動があったのかーと。

  • 長谷川三郎《狂詩曲 漁村にて》(1952)

漁船の板材かなんかを使ったフロッタージュ
少し離れてみると、ちょっと面白い抽象絵画に見える

  • 靉光《眼のある風景》(1938)

シュルレアリスムとかルドンとかっぽい作品。昔、『美の巨人たち』か何かでやっていたような気がする。

流して見てた展示室で、「あ、あれいいかも」と思って近付いてみたら、佐伯作品だったのでちょっと嬉しくなった奴
文字は書かれていないが、放射状の構図が目をひいたのだと思う。

白い巨大なキャンパスに子どもの影を描いたもの。まるで、白い壁に投影しているかのように見えるのだけど、絵として描かれている。目をひく。

企画展の方にあった《ヴァルトハウス》と同じモチーフ、同じ手法による作品
しかしこちらは「写真」っぽい

ペンローズの三角形などの不可能物体を(不可能物体に見えるように)撮影した写真作品の連作。ユーモラス

四角がたくさん並べられているような抽象絵画
これはなんかわりとよかった
抽象絵画なのだけど、完全にフラットなわけではなく、少し奥行きのある四角いタイルが並べられているような絵になっている。

村上作品が3点、うち2点がタミヤをモチーフにした作品だったが、さらにそのうちの1つは、コンセプトは分かるが、模型ファンだと不快になるかもなと思った。

これは笑う
ディズニーのキャラクターが出てこないディズニー風イラストの連作
ディズニーロゴのフォントで「Copyright」と描かれたものから始まる。何の作品がモチーフになっているかは分かるが、ハチミツをかぶりまくっていたり、無数のちょうちょで覆われたりしたりで、キャラクターの姿は完全に隠されているような絵が続く

https://twitter.com/sakstyle/status/519819008648835072
これだー!
昔から気になっていて、2014年(と2009年)に上のようなツイートをしていた。以来、忘れていたのだが、展示室に入った瞬間、目に飛び込んできて「!!」となった。
2014年当時、YOWさんから、森村泰昌作品ではというリプライはもらっていたみたい。
予想外に、大きなサイズの作品で驚いた。
近代美術館の常設なので、稲田さんは既にご存知だろう。

筒井清忠編『大正史講義』

最近、『乾と巽』というマンガを読んでいて大正時代も気になり始めていた。『ゴールデンカムイ』や『鬼滅の刃』の影響もある(ゴールデンカムイの舞台は明治末期で大正ではないが)
同じ編者の『昭和史講義』を以前読んで面白かったのと、昭和史自体、当然ながら大正史からの流れをくむところもあるから、という理由もある。
筒井清忠編『昭和史講義――最新研究で見る戦争への道』 - logical cypher scape2
筒井康忠編『昭和史講義【戦前文化人篇】』 - logical cypher scape2
また、『大正史講義【文化篇】』の目次を見たら、めっぽう面白そうだったので、文化篇を読む前にまずこちらを少し眺めておくか、と思った次第でもある。
新書としては分厚い類いで、また各章の執筆者が異なり独立性が高いこともあるので、興味のある章だけをつまみ食いした。

第1講 大正政変――第一次護憲運動 村瀬信一

桂園体制の崩壊
桂は、西園寺・山県から距離をおくことにし、陸軍増師問題を利用し、新政党を造ることを画策したが、国民による異例の運動の前に挫折する

第2講 大隈内閣成立と大隈ブーム 真辺将之

未読

第3講 第一次南京事件から対中強硬政策要求運動へ 武田知己

未読

第4講 第一次世界大戦と対華二十一カ条要求 奈良岡聰智

未読

第5講 大戦ブームと『貧乏物語』 牧野邦昭

大戦ブームとは、第一次大戦による好景気のことで、いわゆる「成金」が生まれた時代
後に野村証券を設立する野村、戦後に神戸製鋼所双日となる鈴木商店、あるいは戦後に国立西洋美術館に収蔵されることになる松方コレクションなどが、この時代になるものらしい
この時代に、経済学者の河上肇が『貧乏物語』を発表し、話題となる
これは、貧富の格差を指摘したもので、多くの人に社会問題を意識させるきっかけになった本らしい
貧困の原因の説明になっていないという批判があり、この批判にこたえる中で河上は社会主義者となり共産党へ入党していくこととなる
大正時代には米騒動が起きるが、これは、経済成長により米の消費が増えたことによる需給バランスの崩壊が要因らしい。
実際には1920年代は成長率は高い方で、関東大震災が経済にダメージを与え、そして昭和以降に「貧乏」の問題は深刻化していく
ちなみに、本章の筆者は経済学者

第6講 寺内内閣と米騒動 渡辺滋

寺内内閣は、後世の評判が悪いけれど、実際はどうだったのか、と
色々書いてあるのだけど、ここでは寺内内閣による科学振興策について抜粋する。
まず、大きなところとして、理研の設立がある。寺内による財政処置など尽力があったらしい。
また、大隈内閣では消極的だった、航空研究所の設立も。
さらに、科研費のもととなる科学研究奨励費制度もこの時期に始まった、と


寺内は心臓病と糖尿病により体調が悪化し、辞意を申し出ていたのだが、山県がこれを許さず、なかなか辞めることができなかったらしい。寺内と山県の関係悪化につながる。米騒動を機に寺内はようやく辞められるのだが、その後、結局亡くなってしまい、亡くなった後になって山県は後悔したとか

第7講 原敬政党内閣から普選運動へ

未読

第9講 人種差別撤廃提案

未読

第10講 三・一独立万歳運動と朝鮮統治

未読

第11講 シベリア出兵からソ連との国交樹立へ 麻田雅文

シベリア出兵、もともと日本では世論的にも政府的にも反対だったらしいが、チェコ軍団救出に欧米が乗り気で、当初出兵に消極的だったアメリカが出兵側に転じたこともあって、日本も出兵することにした、という流れらしい。
しかし、日本はバイカル湖以西には出兵せず、他の欧米やチェコ軍団と足並みが揃わない
その後、コルチャーク政権の成立と崩壊を経て、米軍は撤兵、チェコ軍団救出の名目も消滅するが、帝国の国防を理由にシベリアに残り続ける
元々出兵に乗り気ではなく、欧米にいわれて渋々始めたはずが、欧米が撤兵した後は逆に、残り続けるために欧米を説得する立場に。
そして、尼港事件という事件が起きる。尼港(ニコラエフスク)で日本兵と日本人がパルチザンに殺されるという事件で、これへの代償を求める形で、日本はサハリンに兵を進める
日本と極東共和国の間で、撤兵交渉が始まるが、尼港事件の代償を巡り、交渉は暗礁に乗り上げていく。
原内閣、高橋内閣がともに撤兵に至ることができないまま、加藤友三郎内閣において、撤兵を断交。また、加藤は、後藤新平が日露国交回復のために動くのを黙認し、後藤はソ連の外交官ヨッフェを来日させる。しかし、交渉は頓挫。関東大震災が起きて交渉は振り出しに
加藤高明内閣で日ソ基本条約が締結され、サハリンからの撤兵も行われ、シベリア出兵がようやく全て完了することになる。

第12講 日露戦争後の日米関係と石井・ランシング協定

未読

第14講 新人会―エリート型社会運動の開始 古川江里子

新人会とは、東大法学部(当時、東京帝国大学法科大学)に作られた社会運動系の学生サークルのようなものらしい
1918年に創立し、1928年に大学から解散命令が出て解散
もともと、在学生と卒業生の両方が入会しているグループであったが、1921年に在学者のみの団体となり、それをもって前期と後期に分けられる。なお、卒業生グループとして、後に共産党となる佐野学や野坂参三がいる。
東大法、という将来の官僚になるようなエリート集団の中で、労働運動等に関わるグループが出てきたということで、当時衝撃であったようだ。
といって、当初はそもそも「改革」を志すくらいのふんわりした感じで、社会改革と自己実現を重ねあわせたものだったようだ(いかにも学生サークルという感じがする)
もともと、社会主義系というわけではなかったようだが、次第に社会主義マルクス主義の勉強会をするようになり、前期は無産政党へ、後期は共産党への入党者も出てくる。
後期新人会は、他の大学の学生サークルも含めた学生連合会(学連)や、全国の高校や大学に社会科学研究会(社研)ができて、その中心的地位を担うことになり、マルクス主義を標榜するようになる。が、京都学連事件がおきて、検挙者が出てくる
最後に、新人会メンバーのその後について触れられており、多くは体制側につくことになり、社会主義運動や共産党に残った者もエスタブリッシュメント的な立場で、結局はエリート集団だったと総括しつつも、逮捕者なども出ていることにも注意を向けている。

第15講 社会運動の諸相 福家崇洋

明治後半に初期社会主義があり、これが大正へと引き継がれていく
ロシア革命米騒動をきっかけに、社会主義運動が再興し、様々なグループが生まれる。吉野作造など大学教授らの黎明会や東大生の新人会などもこの時期。政治活動に積極的か否かなどで内部対立があった。
1920年社会主義運動を統一する「日本社会主義同盟」が堺利彦の提唱により結成
また、国際社会主義運動との提携もすすみ、在米の片山潜、また、モスクワでは大杉栄コミンテルン接触
しかし、その後、アナ・ボル対立が始まる。ソ連ボリシェヴィキ政権がアナキストを弾圧したことで大杉が批判的になる。
1922年、水平会が創設され、運動内ではボル派の指導権が確立してく
1922年、ロシアから帰国した徳田球一らと、堺利彦、山川均らが地下会議を開き、日本共産党暫定中央執行委員会が日本共産党へ改組
野坂参三らが労働組合のボル化をはかる
関東大震災以後、組織改編をへて、新旧世代の対立がうまれ、共産党はいちど解党する
一方、アナ派においては、大杉が引き続き国際運動と提携していたが、関東大震災後に憲兵により殺害される

第16講 女性解放運動―『青踏』から婦選獲得同盟へ 進藤久美子

与謝野晶子平塚らいてうの間で、母の経済的自立についての「母性保護論争」が起きる。母になるには経済的自立ができてからという与謝野と、それでは大多数の女性が結婚・出産ができないのであり、国・社会が母を保護するのは当然という平塚。それを、社会主義フェミニストである山川菊栄止揚した論争。
平塚はイデオローグみたいな存在で、市川房枝は実務家肌だったらしい。市川のそうした性質を見抜いて平塚が市川をオルグし、二人三脚で運動を続けていくが、次第に2人の方針はズレていく。女性が政談・演説することを禁止していた治安警察法の改正をもって、ふたりは運動から離れる
関東大震災以降、矯風会や婦人連盟などが、普選(普通選挙)の次は婦選(婦人参政権)と、女性参政権を求めた運動を始める。
ところで、男女平等を求めることは、治安維持法が禁ずる「国体の変革」にあたる可能性があり、女性参政権獲得運動にあたっては、実際家である市川により、男女平等を求めるという戦略は転換したらしい
議会への上程を行い続け、衆議院では何度か通過するところまではいったらしい(貴族院で否決)
その後、満州事変が起きて以降は、上程すらできなくなるが、昭和初期においても、例えば東京市におけるゴミ処理問題などにおいては、女性の政治活動は続いたとのこと

第17講 国家改造運動 福家崇洋

従来、大正デモクラシー研究の対象とはならなかったが、社会主義運動とも重なるところのある国家改造運動が、この章のテーマ
具体的には、老壮会猶存社に関わった満川亀太郎大川周明北一輝について
北は、中国の辛亥革命に参加し、帰国後、満川と交流をもつように。
インドの独立運動を通じて満川と大川も交流を持つ。
老壮会は、満川が世話人を務めた思想団体で数百人の会員をもち、様々な講演会をやっていた。社会主義運動とも重なると先に述べたが、老壮会の講演会には堺利彦など社会主義者も呼ばれており、社会主義運動に近いグループも出入りしていた。
老壮会があまりにも大きくなりすぎたために、満川は改めて猶存社を結成。ここに北が参加し、国家改造を唱えるグループとなってくる
具体的な活動としては、宮中某大事件や皇太子訪欧問題への関与がある。怪文書などをばらまいたらしい。
シベリア撤兵について、ヨッフェと後藤による日ソ交渉が始まるが、満川や大川が親露派であったのに対して、北はもともと対露開戦論者でロシア革命にも批判的であり、ヨッフェに対する公開質問状を発行したりした。こうした方向性の違いから、猶存社は解散に至る

第18講 宮中某重大事件と皇太子訪欧 黒沢文貴

皇太子、つまり後の昭和天皇に関する話
話の背景として、大正天皇の体調が悪く、天皇としての「体」を示すことが難しくなっており、皇太子への注目・期待が高まっていたというのがある。
宮中某重大事件というのは、皇太子妃として内定していた久邇宮家の良子女王の家系に、色覚異常の遺伝があることが判明したことにより、山県有朋が婚約辞退を迫ったところ、東久邇宮が抵抗した、という事件
これが、反山県・薩摩閥の動きと繋がり、政局化したというもの。山県だけでなく、西園寺や田中義一、当時の首相で田中から話を聞かされて事態を知った原敬も、基本的には山県の主張(純血論)に同調したのだが、一度発表した婚約を取り消すのはいかがなものか(人倫論)という反対論により、山県側が折れる結果となる。
もう一つ、皇太子訪欧については、次の天皇として優れた君主たることを期待された皇太子の教育のため、政府側が訪欧を計画したという話。こちらも反対論が出たのだが、これは政府の要望通り、訪欧が実現した。

第19講 関東大震災後の政治と後藤新平 筒井清忠

東京の復興に後藤が活躍したと言われているが、実際には後藤は上手く行動できず、失脚につながったという話

第20講 排日移民法抗議運動 渡邉公太

アメリカにおいて、日本人移民の受入れ禁止を定める法律ができたことをうけて、それへの抗議運動が盛り上がったという話
日清・日露戦争を経て、日本は一等国になりつつあるという意識があった時期に、アメリカからの日本人差別を受けたという意味で、日本国内では大きな問題となったということらしい。
また、入欧できないのであれば入亜だというアジア主義への説得力が高まる一因にもなった、と。

第21講 「軍縮期」の社会と軍隊 高杉洋平

大正の軍縮期の軍隊がいかに「昭和の軍隊」へとなっていったのか。
大正が「大衆」の時代であることとあわせて論じられている
もともと、軍部大臣現役武官制という制度があったが、陸軍増師問題のあと、単なる武官制に改められる。これは、第一次大戦後、軍縮・平和志向のあった大衆による批判を受けてのものであった。
これにより軍部は、内閣からの独立性という政治的な武器を失うのだが、しかし、現代の視点から改めて見てみると、この制度の改正にはあまり実質的な意味がなかったらしい
というのも、制度が改められたあとも、実際には現役武官が大臣になっていて、予備役などが大臣になることはなかったから。
また、陸軍側も考えを改めて、内閣との協調路線をとることになり、内閣側も軍に協力的になるため、内閣が軍を抑制するような形で制度を適用することがなかった。しかし、だからこそ、軍の力が強くなってからこの制度を使おうとしても使えなかったのではないか、と筆者は指摘している。
また、本章では、山梨軍縮、宇垣軍縮について述べている。軍縮は、軍の近代化を難しくし、この結果、精神主義が蔓延るようになったのではないか、という指摘がされている。

第22講 第二次護憲運動加藤高明内閣

未読

第23講 若槻礼次郎内閣と「劇場型政治」の開始

未読

第24講 中国国権回収運動 岩谷將

第25講 破綻する幣原外交―第二次南京事件前後 渡邉公太

第26講 大正天皇論 梶田明宏

最後の3章も読んだけれど、ちょっとうまくまとめられなかったので省略する。
24講は中国におけるナショナリズムの高まりについて、25講は幣原外交(と田中外交)についてで、これらは筒井清忠編『昭和史講義――最新研究で見る戦争への道』 - logical cypher scape2へとつながっていく話だろう。
26講は、タイトルにあるとおり大正天皇についてで、病弱だったことであまり表舞台には立っていないし、どういう信条を持っていた人なのかとかも分かっていないところが多いが、宮家関連の話とか摂政を置いた話とか、近代天皇制が成立していく時期としてはわりと大事みたいな話

『ユリイカ2022年6月号(特集=ゲルハルト・リヒター)』

清水、沢山、平倉、池田、大山の各論考が面白かった

音楽を聴くと、イメージが浮かぶ / ゲルハルト・リヒター×マルコ・ブラウ 訳=西野路代

リヒターへのインタビュー

ビルケナウの鏡――ゲルハルト・リヒターの《ビルケナウ》インスタレーション / 清水穣

サブタイトルにある通り、ビルケナウ論
ここでは、リヒターのいう「シャイン」をレイヤーの出現として説明する
ビルケナウのインスタレーションにおける、コピーないし鏡をレイヤーの出現と捉える
シャインは、グリーンバーグがいうところの平面性だが、そこに歴史性を帯びるのがリヒターの特殊なところだと論じる

写真に似たもの――ゲルハルト・リヒターの〈記憶絵画〉と女性イメージ / 香川檀

リヒターにおいて、女性が、死にかかわるモチーフとして使われていることを論じながら、「内面化」や「想起」について論じる

《ビルケナウ》の白いページ――ゲルハルト・リヒター『93のディテール』試論 / 西野路代

《ビルケナウ》についてのアーティスト・ブック『93のディテール』について

戦争の記録と野蛮の起源、そして恐怖と哀悼 / 飯田高誉

《ビルケナウ》、ドイツ赤軍を描いた《1977年10月18日》、9・11をうけて描かれた《September》、イラク戦争に対する書籍『War Cut』について

二つの体制 / 沢山遼

リヒターが、2つの体制のあいだのジレンマを扱っているとする
リヒターの絵画は、実体そのものへの接近不可能性
シャインは鏡の原理、あらゆるものを並列化して一元化する。
抽象絵画を描いているがポストモダン的であって、例えばクレーの抽象画とかカテゴリが異なるとする。一元的なシャインの専制でもあって、全面的に肯定できるものではない、と。
絵画・写真、具象・抽象、ハンドメイド・レディメイドという3つの二極性がある
「資本主義リアリズム」を標榜
これはもちろん「社会主義リアリズム」のもじりだが、ポップアートのことでもある。ポップアートというのは、抽象絵画のあとにでてきた具象絵画の運動
ポップ・アートには、ハンドメイドのレディメイドという特徴があるが、リヒターやポルケは、ウォーホルやリキテンスタイン以上に「ハンドメイド」で、その技術は、東側でのアカデミックな技術へのパスティーシュ
ここでいったん『グッバイ・レーニン』の話を挟んで、資本主義と社会主義の同質性と表象の交換可能性を確認し、リヒターのメタ絵画=様式批判が、イデオロギー批判であることを論ずる
特定のイデオロギーに属することなく、宙づりにするという道
しかし、そうしたリヒターの戦略にもある種のジレンマがあり、それが特に激化する作品として《1977年10月18日》を取り上げている


ドイツの戦争トラウマを作品のテーマとすることは可能か?――ヨーゼフ・ボイスゲルハルト・リヒターに与えた影響 / 渡辺真也

サブタイトルにあるとおり、ヨーゼフ・ボイスとリヒターとの関係について
アンチ・デュシャン
リヒターのパフォーマンスから受けた影響

ゲルハルト・リヒターの「わかりにくさ」とドイツの歴史 / 長谷川晴生

マルクス・リュパーツ、ジグマール・ポルケ、アンゼルム・キーファーといった1940年代前半生まれの画家たちは、「ドイツの歴史」テーマへと向かっていくことになる
リヒターも「ドイツの歴史]テーマに触れる。しかし、上述の3人のような分かりやすさはなく、「意味」から離れようとする

リヒター、イデオロギー、政治――ゲルハルト・リヒター再読 / 菅原伸也

リヒターの作品ではなく、リヒターが書いた文章から読み解く論考
批評家のベンジャミン・ブクローは、リヒターを歴史家論争におけるハーバーマスに喩えるが、それは適切だろうか、という問い
リヒターは、確かにナチズムを批判しておりハーバーマス的なところもあるが、それだけでなく、ナチズムと社会主義との連続性を想定しており、その点ではむしろ歴史修正主義者の立場に近い、と

対談 懐中のリヒター――ある画家の営為とともに / 蔡忠浩bonobos)×柳智之

(エッセイ)写真はイメージです / 畠山直哉

(エッセイ)カーテン越しの光 / 田幡浩一

(エッセイ)絵画と写真、リアリティと距離 / 前田エマ

アブストラクト・ペインティングを真剣に受け止める――ゲルハルト・リヒター『一枚の絵の一二八枚の写真、ハリファックス一九七八年』 / 平倉圭

アーティスト・ブック『一枚の絵の一二八枚の写真、ハリファックス一九七八年』 について
この本は、あるアブストラクト・ペインティングの作品を、様々な角度から撮った写真を掲載している本だが、その配列にシークエンスを見いだしていく論考
画面の移動や回転を細かく分析している。

分割と接合――ゲルハルト・リヒター《リラ》 / 池田剛介

アブストラクト・ペインティング作品の一つある《リラ》について
スキージ・レイヤーと筆触レイヤーにわけて分析し、筆触レイヤーに明確なコンポジションがあることを指摘
さらに、一度描いたキャンパスをいったん分割し、回転して再接合して創られた作品なのであろう、ということを論証していく

イデオロギーとの別れ――T・J・クラーク「グレイ・パニック」を手がかりに / 関貴尚

美術史家であるクラークによるリヒター論をもとにしたリヒター論
リヒターのグレイ(灰色)は「隠ぺい」にかかわる
リヒターは自らの政治的立場を中立というが、中立こそがイデオロギー的性質を帯びるのではないか
「理解不可能性の創造」こそがむしろ、この画家のポピュラリティのゆえんではないか
少なくともクラークは、リヒターに対して懐疑的

(散文) 硝子絵画の居住者たち――ゲルハルト・リヒター《カードの家(5枚)》にて / 河野咲子

「位置価(Stellenwert)」を問う科学と芸術へ――G・リヒターとW・オストヴァルトの《アトラス》 / 前田富士男

オストヴァルトという化学者による色彩アトラスが紹介されている。
ゲーテの色彩論とは異なる色彩論

フォト・ペインティングと神経系イメージ学 / 坂本泰宏

リヒター《蝋燭》についてなど

ディストーション偽色・スペクトログラム――リヒターの音響 / 荒川徹

「リヒターは抽象絵画を巧みにハックしたエンジニアのような存在」
「(ディストーション・ギターとリヒター作品を類比させて)細部が大きな挙動によってジェネレーティヴに随伴すること」
「機能的偽色は、自然画像をグラフあるいはダイヤグラムに変容させる」
「リヒターの作品は、ただの過剰なエフェクトに過ぎないという批判もできる。だが、リヒターの作品は、自作の断片を無限リピートするような、(...)延々と持続するフィードバック」
「ハイ・レゾリューションではなく、イメージがメディアを含みこむハイ・ディソリューション(高溶解度)の芸術」

マローヤの蛇――シルス、リヒター、アンネ / 杉田敦

未読

ゲルハルト・リヒターの余白に…… / 丹生谷貴志

未読

視差のリアリズムへ――リヒターのクールベ / 新藤淳

リヒターの自宅にクールベの絵が飾られていることから、リヒターとクールベの関係を論じる

リヒターを通して考える「写真とは何か」 / 大山顕

写真とは何かを考えるためには、絵画を見るとよい
その時代時代に応じて、絵画は写真の「変な」特徴を見いだして取り入れてきた。
リヒターは、写真の「ボケ」「ブレ」を取り入れる
写真の無サイズ性と、写真にサイズを取り戻したスマホ写真

フォトリアルとはなにか――リヒターから遡行する / 江本紫織

ゲルハルト・リヒターグラフィックデザイン――デザイン的視点から読み解く初期フォト・ペインティング / 三橋光太郎

機械化された沈黙と、資本主義リアリズム / 布施琳太郎

リヒター作品と全球カメラから取得された画像との比較、どちらも「純粋なイメージ」だが、静的な前者と動的な後者

ゲルハルト・リヒター 鏡としての絵画 / 浅沼敬子

リヒター特集の最後に掲載されているが、リヒターの略歴的な記事なので、まず最初にこの記事から読んだ。
『評伝 ゲルハルト・リヒター』を主に参照しながら書かれた記事とのこと。

冲方丁『マルドゥック・アノニマス7』

3巻以降年に1回のペースで刊行されている同シリーズ。自分も大体毎年6月頃に読んでるっぽい。
冲方丁『マルドゥック・アノニマス1』 - logical cypher scape2
冲方丁『マルドゥック・アノニマス2』 - logical cypher scape2
冲方丁『マルドゥック・アノニマス3』 - logical cypher scape2
冲方丁『マルドゥック・アノニマス4』 - logical cypher scape2
冲方丁『マルドゥック・アノニマス5』 - logical cypher scape2
冲方丁『マルドゥック・アノニマス6』 - logical cypher scape2


Amazonのレビュー見たら似たようなこと書いている人いたけれど「これ一体いつ終わるんだろう」という一抹の不安が浮かびつつも、年に1回ペースで読めるならまあいいかとも思ったり。


ハンターが復帰、シザースから分離する。同じくシザースから分離したノーマ・オクトーバーに認められる。むろん、ハンターの最終目的はノーマの配下になることではなく、ノーマもシザースも均一化すること。
イースターズ・オフィスらは、ウフコックが潜入したガンズ・オブ・オウスの船へ急襲、メンバーの大半を確保し、さらに首だけになった状態で生かされていたブルーを救出するも、リーダーのマクスウェルは逃走する。
薬害訴訟の原告団が組織される。バロットは弁護団のアソシエイトに。
ハンターの指示で、バジルが大学へ入学。バロットがメンターをつとめることに。
逃走したマクスウェルはシザースであることが判明
また、長く昏睡状態にあったオフィスメンバー2人が回復するも、その裏にはシザースが。
舞台はリバーサイドへと移り、新たなグループが登場……
ハンターが議員に立候補するところで終わる。


なお、冒頭から誰かの葬式のシーンがフラッシュフォワード的に度々挿入されている。
ハンターが議員として熱烈な支持を受けているところが描かれている。


マルドゥック・シティの地図初めて見た
もろニューヨークなんだな

日経サイエンス・Newton2022年7月号

日経サイエンス

SCOPE ITで目の不自由な人をナビゲート

靴が振動してナビゲートする。横浜で実験。

ADVANCES 細菌のエピジェネティクス

エピジェネティクスというのは、真核生物のものであって、細菌にはないと思われていたけれど、実はそうではなかったというのが徐々に分かってきているという話(まず、細菌にはないと思われていたという方を知らなかったので、そこから「へぇ」だった)
遺伝子をオフにする仕組みがわかれば、医療にも応用できるかも、とか。

From nature ダイジェスト

  • 中国が持ち帰った「月の石」で新知見

月の火山活動が思われていたより長く続いていたことで、月の熱源についての議論がされているらしい。
これまで、地球の岩石を研究していた中国の研究者が月研究へと参入

  • 放射性炭素法で真贋判定

絵画が贋作かどうか、従来は化学分析などで調べられていたが、放射性炭素法での判定が行われるように。試料が少なくてすむので、絵をあまり傷つけないですむというメリットがある。
しかし、絵画なんてわりと最近のもので放射性炭素法使えるのかと思ったら、1950年代の核実験以前と以降とで放射性炭素の量が全然違っていて、それで判定しているらしい

巨大ウイルスがゆるがす生物と無生物の境界  中島林彦  協力:村田和義

巨大ウイルスというと、以前、
武村政春『生物はウイルスが進化させた 巨大ウイルスが語る新たな生命像 』 - logical cypher scape2
を読んだことがあるが、果たして、この記事の中にも武村が登場してくる。本記事の協力としてクレジットされている村田と武村は、巨大ウイルスについての共同研究者とのこと。


ミウイルスという、細菌くらいの大きさのウイルスが発見されて以降、巨大ウイルスというのは多く発見されるようになっている。
また、ヴァイロファージというウイルスに感染するウイルスがいたり、さらにそれに対抗して、ウイルスがもつ免疫システム(CRISPR-Cas9に似ているらしい)があったり。
そして、ヴァイロセル仮説というのが出てくる。
続いて、巨大ウイルス2種について紹介されている。
まず、武村が発見した「メドゥーサウイルス」について
他の巨大ウイルスと異なり、翻訳機構を持ってはいないが、ヒストンを作る遺伝子を持っている。
ヒストンは、真核生物の細胞核の中で遺伝子を巻き付けておく糸巻きのようなタンパク質で、ウイルスは持っていないとされる。メドゥーサウイルスは、宿主となる細胞の細胞核の中で自らのDNAを複製するが、その際にヒストンを用いているのかもしれない(宿主の細胞核内での振る舞いはまだ確認できていない)。
このヒストン遺伝子は、真核生物のものよりも古く、真核生物から奪ったものではない。むしろ、真核生物の起源においてウイルスが関わっていた可能性を示唆する。
普通の巨大ウイルスの場合、ヴァイロセルの細胞核と宿主の細胞核がそれぞれ独立に存在することになるが、メドゥーサウイルスの場合、宿主の細胞核の中で複製を行うので、ヴァイロセルとしての細胞核と宿主の細胞核が空間的に一致するわけで、ここで、かつて宿主となった細胞がヒストンを獲得したのかも?
続いて「ピソウイルス」について
こちらは大きさだけでなく、形状が細菌によく似ている。ウイルスはそもそも成長しないので個体差がないのだが、ピソウイルスは大きさなどに個体差がある。また、表面を覆う膜も細菌に似ている。村田は、ピソウイルスはもともと細菌だったのが、ウイルスへと「進化」したのではないかという仮説を立てている。
また、細菌のように大きいウイルスとは逆に、ウイルスのように小さい細菌であるCPR細菌というのもいる。

試験管で再現したRNA生命体の進化  中島林彦  協力:市橋伯一

東大の市橋が行った進化実験についての記事
RNAワールド仮説の検証として、RNAだけで生命のように進化するかという実験
シュピーゲルマンという先駆者がいるのだが、シュピーゲルマンの実験では、RNAがどんどん短くなるという結果が得られている。短ければ短いほど複製が早く行われるので増殖速度も増すからである(この短くなったRNAシュピーゲルマン・モンスターと呼ばれているらしい……!)。
しかし、実際の生命はむしろ複雑化しているわけで、市橋は、シュピーゲルマンの実験に手を加える。シュピーゲルマンの実験では、複製のための翻訳機構は外から与えられていたが、市橋は翻訳機構の遺伝子を含んだRNAで実験を行った。変異でこの遺伝子を失ったRNAは淘汰されていくことになる。これは途中までうまくいったが、100世代ほどで進化が止まってしまう。
市橋は、赤の女王仮説を実験にとりこむことを思いつく。
それは寄生体の導入であった。
実は、元の実験で既に寄生体は発生していた。自分の翻訳遺伝子を失っても、他のRNAの翻訳機構を使って増殖をはかるタイプである。こういうタイプは取り除いて実験を進めていたのだが、むしろ、このタイプを放置することにしたのである。
すると、進化が止まらず、進んでいくことになったのである。
宿主として3タイプ、寄生体として3タイプあらわれ、それらは実際の生命の進化のように系統樹を描くことができた。
寄生体が増えると宿主が減り、宿主が減ると寄生体が減るので、再び宿主が増えるという現象や、宿主同士でも、宿主1が増えると宿主2が減る(その逆も)という関係が生じたのち、共生・共存関係が生じるように進化していったという。互いにどのタイプの複製を許すかという観点で複雑なネットワークが生じたのである(例えば、宿主2はどの寄生体の、さらには他の宿主の複製すら許すが、別の宿主3は特定の寄生体の複製しか許容しないとか)
ところで、実際の地球生命のことを考えると、ウイルスに寄生されているといえる。
この実験は、ウイルスと生命の関係がRNAワールド時代にまで遡る可能性を示唆している、と。

メディアリテラシー教育 手探り続く米国の苦悩  M. W. モイヤー

タイトル通り、アメリカにおけるメディアリテラシー教育の話だけど、色々行われてはいるけれど、まだ効果とかが分かっていないとか、やりすぎると全部疑うようになっちゃうとか、課題多いよねという話

拙速な思考は陰謀論に弱い  C. サンチェス /D. ダニング

タイトルにある通り。
拙速に結論に飛びつく、飛躍した思考をするという認知バイアスが人間にはあって、陰謀論と結びつきやすい
二重過程理論にちらっと触れつつ、この認知バイアスを克服する方法としてのメタ認知レーニングというのを紹介し、またこの飛躍思考が統合失調症にあることも指摘。筆者らは、統合失調症の研究から影響を受けており、逆に、一般の人の認知バイアスの研究が、統合失調症研究にもつながるのでは、と。

ネアンデルタールの首飾り クロアチアの遺物が語る知性  D. W. フレイヤー/D. ラドブチッチ

これ、記事のタイトルがいい
原題は「Neandertals Like Us」なので、日本語タイトルの方が断然よい
ネアンデルタール人にも現生人類に近い知性があったのではないか、という話は以前からあり、各所から見つかる遺物によって主張されてきたが、それに対して、それらは現生人類からの影響を受けたものにすぎないという反論もなされてきた。
クロアチアには、19世紀末に発掘されたネアンデルタール人の遺跡があり、ここでは現生人類の骨や遺物が見つかっていない。
多くの遺物が発見されているが、最近になって、これらが改めてリスト化された(これを行ったのが筆者の一人のラドブチッチ)
その中で、再発見されたのが、ワシの爪で、特定の指の爪が集められており、顔料が塗られていて、加工されたあともある、と。
また他にも、この洞窟とは違う場所から持ってこられて、星型のあとが付けられた石や、意図的に線が引かれた人骨などがあり、ネアンデルタール人も象徴表現を行っていたのではないかと見られる。
言語を話していたかどうか直接の証拠はもちろん残らないわけだが、こうした象徴表現が間接的な証拠になるとされている。また、右脳と左脳の機能分化と言語機能には関係があるとされている。また、右利き、左利きの別というのはサルにも一応あるらしいが、人類の場合、右利きが明らかに多いという特徴があるらしい。でもって、歯の化石から調べて、ネアンデルタール人も右利きの割合が多いことが分かってきている、と。
ネアンデルタール人と現生人類は交配したことが分かっているけれど、認知的能力が近かったからこそなのではないか、とも述べられている。

アグロエコロジー 地域の知恵で目指す貧困からの脱出  R. パテル

アフリカのマラウイで行われているアグロエコロジーの実践ルポ
単一作物の栽培ではなく、複数の作物の組み合わせをすることで、土地が痩せることを防ぎ、また、災害などが起きたときにも耐えられるようにする
どういう組み合わせで植えるかということについて、実際に農作している人たちが実験して、その組み合わせを探していっている
しかし、アグロエコロジーというのは、単にそういう農業の方法論というだけでなく、もう少し広い実践・運動のよう
マラウイでは、上記のような試みにより、生産量が増え、収入も安定したが、子どもの平均体重が増えないままだった。これは、正しい知識の不足や家事育児の男女不平等が原因だった。男性も料理をするようにイベント等を通して啓発を行って*1、男性の家事育児への参加を促し、結果として、子どもの体重増加にもつながった、と
そういう活動もこみで、アグロエコロジーと呼んでいるっぽい。
また、この記事の中ではいまだに「緑の革命」的なことが行われていることを批判している

ミリシア 先鋭化する米国の民間武装勢力  A. クーター

ミリシアへのインタビュー調査・実地調査を行っている研究者による記事
ミリシアというのは武装している市民集団のことで、いわゆる過激派もいるが、他方で「大人になったボーイスカウト」的なことしかしていない集団もあり、地域ボランティアの一環という感じで参加している人もいる、と。
彼らに共通しているのは「古き良きアメリカ」への憧れ
20代~30代の白人男性がもっぱらをしめるが、少数ながら女性や子ども、老人もいる。
一部に白人至上主義を標榜しているグループもいるが、一方で、白人以外のメンバーを募集しているグループもいる。筆者のインタビュー調査によって、自分たちは差別主義的ではないと思っているが、人種差別への理解が不足していることが多い、と(過去に行われた差別的な政策が差別であることを理解していなかったとか、人種やジェンダーバイアスを自覚していないとか)。
さらに、ミリシアの中には、政府を是正するためにデモ活動などをしているグループと、政府への「復讐」を考えていて政府高官や政治家への襲撃活動などを企てたり実行したりしているグループがいる。もともと前者9割、後者1割ぐらいの感じだったのが、後者が増えているというのが、筆者や他のミリシア研究者が感じているところらしい。
後者は陰謀論などとも親和性が高い。穏健なグループから分派して過激化していったグループもいるし、また穏健なグループであっても陰謀論を広めるのに加担してしまったりしている、と。

Newton

ダ・ヴィンチ発案の「空気ねじ」で飛ぶドローン

あの有名なイラストの奴、実際には飛べないと言われていたが、実際に飛ぶドローンが開発されたらしい

科学界に影を落とすウクライナ侵攻

ISSやエクソマーズなどの宇宙の話から始まり、北極評議会ITERなどロシアとの共同研究について
北極評議会というの知らなかった。

AI創薬の最前線

創薬自体が、かなりギャンブルみたいなところがある(数打ちゃ当たるというか、莫大な数打たないと当たらないというか。しかし、当たったときのリターンがでかい、と)
創薬には4つくらい段階があるけれど、それぞれについてAIが入りつつある、あるいは入れる可能性があるとかなんとかだったような。

パズルで身につく数学的思考

読んでないのだけど、「あ、これ中高生の時苦手だった奴だ」というのが見えて少し笑ってしまった

量子コンピューター2022

これもあまり読んでないのだけど、IBM量子コンピュータをオンラインで無料で利用できるようにしているというのに驚いた

世界の都市図鑑

ベルンとかケープタウンとかの航空写真初めて見たので面白かった
特にケープタウンテーブルマウンテンの麓につくられたまち

SF映画をもっと楽しもう!

連星系とかワープ航法とかエイリアンとか

*1:「男が料理をするなんて……」という価値観が妨げになっていたので、互いに料理をふるまって良い料理を表彰するコンテストのようなことをすることで、料理をすることと社会的承認をつなげたりしたと

『ラブ、デス&ロボット』シーズン3

NetflixオリジナルのSF短編アニメオムニバス。
2019年にスタートしたシリーズ。
『ラブ、デス&ロボット』 - logical cypher scape2
最近、シーズン3が公開された。なお、シーズン2は、昨年2021年に公開されていたようだが、全然気付いていなかったので、今後見るかもしれない。
事前に見かけていた評判に違わず、「彼女の声」が圧倒的であったが、個人的には「最悪な航海」や「地下に眠りし者」といったモンスター系(?)が面白かった。
「死者の声」もよかったと思う

下記を書くにあたり、各作品のクレジットは「ラブ、デス&ロボット」シーズン3もひと口サイズのSF物語をお届け!─全9話のエピソードガイドを参照した。

ロボット・トリオ:出口戦略

監督:パトリック・オズボーン
脚本:ジョン・スコルジー
スタジオ:Blow Studio

シーズン1にもあった「ロボット・トリオ」の続編
3体のロボットが、絶滅した人類の様々なコミュニティ跡を巡る(武装コミューン、富豪の水上プラント、さらに大富豪の地球脱出用ロケット発射場)
で、イーロン・マスク&ネコオチ

最悪な航海

監督:デヴィッド・フィンチャー
脚本:アンドリュー・ケヴィン・ウォーカー(原作はニール・アッシャーによる短編小説)
スタジオ:ブラー・スタジオ
捕鯨的(鯨ではなくなんか架空の生き物)なことをしている帆船が、巨大なカニの化け物に襲われる(この海域はもともと危険らしい)
船底に閉じ込め、くじ引きで生け贄となる船員を送り込む。が、このカニは人語を解し(というか食った人間の記憶とかを引き継げるっぽい)、人の大勢いる島へ向かえと要求してくる。
この船員は、他の船員たちと相談し、いや他の船員たちとの騙しあいをしながら、カニから生き延びる術を模索する。
フォトリアルな3DCGで、カニとの死闘、船員同士の駆け引きがスリリングに描かれる。
ゴア描写もあり、主人公である船員が他の船員を平気で殺していく展開なのだが、見終わった後はわりと悪くない。というか、主人公実はいい奴だったのではないか、と。
吹き替えの川島得愛さんが、いい具合に悪役声(?)なのもよい*1

死者の声

監督:エミリー・ディーン
脚本:フィリップ・ゲラット(原作はマイクル・スワンウィックによる短編小説)
スタジオ:ポリゴン・ピクチュアズ
元のタイトルはThe Very Pulse of the Machine とあり、こちらの方が内容的には正しいのだが、「死者の声」というタイトルもまあなしではない。
木星の衛星イオで探査車を走らせていた2人の宇宙飛行士だったが、火山活動に巻き込まれ、ローバーが故障。1人は死んでしまう。生き残った主人公は、着陸船まで歩きはじめる。
自分の酸素ボンベが壊れてしまったので、死んだ方の宇宙服とつないで、遺体を引っ張りながら歩いて行く。が、このために、行程はどんどん遅れ、主人公はモルヒネアンフェタミンを投与しながら歩みを進める。これにより幻覚が始まり、死んだ相棒の声が聞こえ始めるのだが……実はそれは、死んだ宇宙飛行士の脳を介して、衛星イオそのものが彼女へと話しかけていた!(イオが自分はマシーンだと名乗っている)
幻覚によりイオの風景が変化したり、あるいは、宇宙服のバイザーを通して電磁場を可視化することで見えるイオの風景だったり、CGアニメの視覚的な面白さが展開される。
見終わったら、制作がポリゴン・ピクチュアズで驚いた

小さな黙示録

監督:ロバート・ビシ、アンディ・ライオン
脚本:ロバート・ビシ、アンディ・ライオン(原作はジェフ・フォウラー、ティム・ミラーによる短編小説)
スタジオ:BUCK
ミニチュアコマ撮り(?)アニメ(上述のねとふり.comによると、ティルトシフトレンズを使った実写とCGアニメーションの組み合わせということなので、実風景をミニチュア風に撮影した奴なのかも。ホワイトハウスとかエッフェル塔とかサン・ピエトロ大聖堂とかが出てくるし)
原題は、Night of the Mini Deadであり、ゾンビものである(邦題だとそれがよく分からなくなるのでは?)
墓場からゾンビが蘇り、世界中のあちこちへと猛烈な勢いで増えていく。ミニチュアな映像なので、画面も引きで構成されており、人とかゾンビとかも群れとしてしか見えない。基本的にセリフもほぼなし((ミニチュアなので)なんか早送り風の甲高い声が入ってる。一部言葉として聞き取れるものもあるが、基本的には何言ってるのかよく分からん)。ゾンビの群れが出てきて、それを様々な手段で攻撃しつつ、やられてゾンビが増えて、というのを繰り返して、エスカレーションしていく。
なので、物語面では特に面白いところはなく、ミニチュアな映像の中、わーわー動いているのを見て楽しむものになっている
上記ねとふり.comによるクレジット表記を見ると、原作小説があって「え?」となる。ググってもよく分からなかったが、ティム・ミラーは『ラブ、デス&ロボット』のプロデューサーなので、本作のための書き下ろしか何かなのかな。

絶体絶命部隊

監督:ジェニファー・ユー・ネルソン
脚本:フィリップ・ゲラット(原作はジャスティン・コーツによる短編小説)
スタジオ:ティットマウス
アメコミ風の絵柄の作品。ある小隊が、山中で別の隊がミンチにされているところに出くわす。すわ、目の前には巨大なクマが。そのクマはただのクマではなく、CIAによって開発されたロボット兵器であった。
ひゃっはー、ひたすら撃って撃って撃ちまくれー、だめだー効かねー、うぎゃー、やられたーみたいなのを繰り返すコメディだった
エンドクレジットの曲がやけにいいなと思ったら、skrillexだった

監督:ティム・ミラー
脚本:ティム・ミラー(原作はブルース・スターリングによる短編小説)
スタジオ:ブラー・スタジオ
スターリングの短編が原作となっているということだけ事前に知っていたので、サイバーパンクな作品なのかなと思ったら、宇宙生物SFだった。
スターリングってほとんど読んだことがなくて知らなかったのだけど、『スキズマトリックス』も舞台は宇宙なんですね……。この「巣」も『スキズマトリックス』と同じ世界観を舞台にしているらしい?
原題はSwarmで群れという意味。
小惑星帯みたいなところに、社会性昆虫みたいな生物の巣があって、1人の科学者がその中に暮らすようにして研究しており、そこにもう1人別の科学者が訪れるところから始まる。
昆虫のような見た目をしているけれど、大きさは人間くらいあり、また、複数の種が共生しており、分業体制をとっている。
後から来た科学者の方は、この群れを人類のために利用しようとする
誰のために働いているかなどということを理解する知性を持ってないのだから、人類のために働かせても問題はないだろう、と。
しかし、実はこの群れにも知性があって、というか、知性を担うユニットは普段休眠状態になっていて、侵略種族が出てきた時だけ起動するようになっている。そして、共生している種は、実はかつての侵略種族であったことが明かされる。
で、その知性ユニットが、この科学者に選択を迫るシーンで終わるんだけど、この選択肢の意味がいまいちよく分からず、なんか突然終わった感が否めなかった。


メイソンとネズミ

監督:カルロス・スティーヴンス
脚本:ジョー・アバクロンビー(原作はニール・アッシャーによる短編小説)
スタジオ:Axis Studios
メイソンさんの倉庫にネズミが出てくるので駆除しようとしたら、なんとネズミが原始的な弓矢で武装していた
早速、駆除業者を呼ぶと、対ネズミ用レーザー兵器ユニットを売りつけられる。ところが、それもネズミに撃破されると、今度は最終兵器として、対ネズミ用ロボット兵器をすすめられる。
サソリ型をしたこのロボットは、情け容赦ない殺戮マシーンでネズミを次々と駆除していくのだが、その血も涙もない仕事っぷりにメイソンさんもどん引きしてしまい、また勇敢に抵抗し続けるネズミの姿に感銘を受け、最終的にはメイソンさんとネズミは仲直りする
というわけで一応ハッピーエンドなんだけど、そもそもロボット投入したのメイソンさんだし、そこで仲直りはできんやろ、とツッコミたくなった

地下に眠りしもの

監督:ジェローム・チェン
脚本:フィリップ・ゲラット(原作はアラン・バクスターによる短編小説)
スタジオ:ソニー・ピクチャーズ・イメージワークス
人質救出作戦遂行中の特殊部隊が、武装勢力の逃げ込んだ洞窟の中へと潜入する。先ほどまで生きていた人質や犯人たちの白骨死体が見つかる。一体どうしたらこうなってしまうのかという訝しがる彼らの前に、クモのような虫の群れが襲いかかってくる。何人かの兵士がその虫に食われてしまう中、なんとか逃げ切ると、そこはおそろしく巨大な地下空間が広がっていた。謎の地下建造物と不気味な声……。
奥へ奥へと進んでいくと、さきほどの虫たちのボスとおぼしき、巨大な化け物が拘束されている。不気味な目で我を解き放てーと心をコントロールしようとしてくる。最後に生き残った兵士は、果たして自らの両目をえぐり取ることでその化け物のコントロールから逃れたのだった……
というわけで、終始サスペンスフルで、ほぼ全滅で、最後に生き延びた人も目は失ってるし、正気が残っているかどうかも怪しい感じで、明るいところが一切ない作品だけれども、しかし、その点で完成度も高いと思った

彼女の声

監督:アルベルト・ミエルゴ
脚本:アルベルト・ミエルゴ
スタジオ:Pinkman.TV
明らかに他の8編とは雰囲気やジャンルが異なる作品
森の中を行軍する甲冑の騎兵隊が、とある湖畔で休息をとる。1人の兵士が湖の中に金が落ちているのを見つける。湖の中から全身に装飾品をまとった女が現れ、不気味な声を発すると、騎兵たちは狂ったように湖へと突進し溺れ死んでいく。先の兵士は、耳が聞こえなかったため、1人それを逃れる。
全編にわたって台詞はなく、女から逃げながらも金品を奪おうとする兵士と、その兵士を魅了しようとする(?)湖の女の攻防(?)が描かれる。
踊り、叫び、カメラのブレ、水の流れ、血しぶき、散らばる装飾品……が織りなす映像美と、民話・説話的な物語や世界観の組み合わせに圧倒される作品、だと思う。
甲冑姿はヨーロッパ風だが、女や兵士の顔の入れ墨など、どことなくアジア風・オリエンタルな要素があり、ファンタジー感を増している
湖を上空から撮ったカットが何回か挿入されるんだけど、あれがエスタブリッシング・ショットというのとはちょっと違うかもしれないけど、そういう役割を持ちつつ、しかし、あまり説明的でなく、絵のきれいさで惹きつけるものになってて、うまかった。

*1:しかし、キャゼルヌの人か!