土谷尚嗣『クオリアはどこからくるのか?』

ジュリオ・トノーニの統合情報理論と、筆者が提案しているクオリア構造についての入門的解説書
生体の科学 Vol.73 No.1 2022年 02月号 特集 意識 - logical cypher scape2を読んだ際に、この本の筆者である土谷や共同研究者である大泉の論文に出てくるクオリア構造の話が面白かったので、改めて本書を手に取った。
情報統合理論については、以前、ジュリオ・トノーニ/マルチェッロ・マッスィミーニ『意識はいつ生まれるのか――脳の謎に挑む統合情報理論』 - logical cypher scape2を読んでいたが、意識の有無を測定することを目指す理論であって、クオリアについての理論ではないという感想であった。
実際、本書でも筆者は同様のことを述べており、その点を補完するものとして、クオリア構造説が提案されている。
本の内容的には、上述の雑誌と重複するところもあったが、統合情報理論について、とてもコンパクトに読みやすくまとめられていてよかった。
特に、排他性について、トノーニ本でよく分からなかった部分(同様のことの説明はあるが、排他性という言葉が使われてなかった)なので、整理されていてよかった。
また、メタ認知を調べることで意識についての実験が行えるとか、注意と意識とを別々に操作するとか、意識研究の中で進歩していった実験デザインの話も面白い。

はじめに
1章 意識って科学の対象なの? クオリアって何?
2章 意識はどうすれば研究できるのか?
3章 目から脳へ、脳から視覚意識へ
4章 意識の変化に合わせて変わる脳活動
5章 意識と注意
6章 意識の統合情報理論
7章 意識研究の最前線
おわりに
参考文献

1章 意識って科学の対象なの? クオリアって何?

本書のイントロダクション
意識については、「レベル」と「内容」に分かれている
レベルというのは、覚醒時は高く、睡眠時は低いとされる。要するに意識がある・ないに相当する概念。昏睡時をゼロとして、睡眠時は低く、しかし夢を見ている時は少し高くなって、というようなことが言いたいようなので、有無の二値ではなく「レベル」という言い方をしているみたい。
内容は、クオリアのこと

2章 意識はどうすれば研究できるのか?

これまでの研究手法について紹介されており、特に章の後半では、盲視研究がクローズアップされている。
さらに、サルの盲視についても触れられている。言葉による主観報告ができないサルの盲視をどのように確かめるのかという点で、自信度(メタ認知)を調べる実験デザインによる手法が紹介されている
また、サルにせよ人間にせよ、意識は一つの証拠だけでは論じられず、主観報告、行動、神経活動など総合的に証拠を揃えることが大事だということが述べられている。
ところで、その点で、哲学は演繹的なので一つの証拠だけで色々結論を引きだそうとするということが述べられているところがあるのだが、自分の持っている哲学のイメージと違い、違和感はあった
そのほか、この本では時々「哲学者は~」「哲学は~」というところがあるが、具体的な哲学者名・文献名が参照されていないことが多くて、ちょっと困る(主語大きすぎ問題)

3章 目から脳へ、脳から視覚意識へ

周辺視野の話から、網膜にある錐体細胞は中心より周辺の方が密度が低いけれど、細胞一つあたりの守備範囲である受容野が広い、という話がされている
あと、盲視患者と健常者とで視覚意識の有無の差を生じるのがV1だという話

4章 意識の変化に合わせて変わる脳活動

両眼視野闘争でNCCを探す

5章 意識と注意

意識と注意は区別できるだろうか、という章
まず、ここでは注意について、多くの選択肢から何かを選択し増幅させる作用と、いらない選択肢を排除して減衰させる作用の二つの作用からなると特徴づけている
また、両眼視野闘争の実験でわかるのは、意識と相関した神経活動ではなく、報告と相関した神経活動なのではないか、という疑問も呈される。


意識と注意の関係については、
a.注意を向けたものが意識にあがり報告される
b.意識にのぼるものの一部に注意を向けることができ、それが報告される
という二つの考え方があるとされる


意識と注意の関係を実験で調べるためには、それぞれが独立に操作できなければならない
ここでは、意識を操作する実験手法として連続フラッシュ抑制と、注意を操作する実験手法としての二重課題というのがそれぞれ紹介されている
その上で、意識が注意の必要条件かというとそうではない(意識されなくても注意を向けることができる)、と
一方、注意が意識の必要条件かというとこれを確かめるのは難しくて、いくつかの実験デザインが紹介されているが、注意を向けても向けなくても残るような意識経験があるようだ、ということが述べられている

 

6章 意識の統合情報理論

意識の理論に関しては3つの道がある、という
(1)保留(2)グローバル・ニューロナル・ワークスペース理論(3)統合情報理論
多くの研究者は実は(1)の道を進んでいる
(2)については、2001年に提唱され当時は様々な実験結果をよく説明していたが、その後行われた様々な実験により、これが意識の理論というよりは、注意や報告についての理論であるのではないかと言われ始めている、と


統合情報理論の5つの公理(意識がもつとされる5つの特徴)

1.存在性
2.組成性
3.情報性
4.統合性
5.排他性

この5つの仮定をもとに2つの数学的手続きを設定

1.あるシステムが持っている意識レベル=そのシステムの統合情報量(Φ(ビッグ・ファイ))
2.Φが局所的に最大になるサブシステムを「コンプレックス」と呼び、コンプレックスに意識が宿る
3.コンプレックス内の「メカニズム」が生み出す統合情報量=φ(スモール・ファイ)。φ同士がどういう関係かでクオリアが決まる
この章では、1と2についての話がなされる。

  • 情報性

他の状態と区別がつく(オンかオフかの2つの状態があってそのどちらかとなる=1ビットの情報量をもつ)

  • 統合性

互いに影響し合って1つのものとして働く

  • 統合情報量

オン・オフのノードが複数個あってそれらが「複雑な」ネットワークを形成していると統合情報量が高い
(互いに1つずつとしか繋がっていなかったら統合性が低い。互いに全てのノードと繋がっている場合、統合性は高いが、個々のノードの区別がつかなくなるので情報性が低い。それぞれのノードが複数のノードとつながりあってるけど、つながってないところもあるというようなネットワークになっていると、統合性も情報性も高い)

  • 排他性

経験される以上でも以下でもない→無意識で処理される情報は経験されないし、意識にのぼる経験は全て経験されるということ→意識レベルを「どこで」測るかという問題
「局所的に統合情報量が最大になるようなシステムにだけ意識が経験され、そのシステムの一部は他の意識経験と共有されることはない」
つまりこれは、脳神経系でも、一方通行になっている回路(感覚器から脳までの入力系とか)というのは、意識が経験されるシステムに含まれないということ。
意識についての研究や臨床は、感覚刺激を与えてそれにどう反応するか・報告するかということを行うが、実際は、入力系や出力系自体には意識が宿っているわけではないので、意識レベルの測定がそこに依存するのはよくないのではないか、という考えにつながる
インターネットに意識が宿っていない理由にもなっている。
(ところで、心の哲学では「統一性」という言葉で指し示されている意識の特徴があるが、これと対応しているのが、この排他性なのかなという気がした)


トノーニらは、脳に強い磁気刺激を与えそれに対してどのような脳波が生じるか、ということを観測することで、意識レベルが測定できるのではないかと考えた。
実験を繰り返すことで得られた指標をPCI(攪乱複雑性指標)と名付け、意識レベルと相関してそうということは分かってきている。
統合情報量は、ノード数が増えると計算するのが大変になりすぎるので、実際の測定には近似値を使った方がよさそうで、PCIはその候補
ただし、PCIが実際に統合情報量の近似になっているかは、現段階では不明らしい


本章の残りの部分では、統合情報量の計算の仕方についての考え方と、コンプレックスをどのように求めるかという考え方が説明されている。
分離脳患者は、右脳と左脳とそれぞれにコンプレックスが生じていて、つまりそれぞれに意識が生じているのではないか、と。


7章 意識研究の最前線

6章であげられた3つの手続きのうち、最後の1つ、つまりφ(スモール・ファイ)とクオリアについて


統合情報量の網、因果関係の網がクオリアと対応しているのではないか、という仮説
ノード(ニューロン)のメカニズム(隣のノードがオンならオンになるとか)が、コンプレックス全体にどのように貢献するのかを定量化したのがφ
システムABCについて、部分集合ごとにφがある。つまり、A、B、C、AB、BC、CA、ABCそれぞれのφを計算し、それを辺や頂点に見立てる。これを本書では「情報構造」と呼ぶ。
神経活動の測定技術が急速に進歩しているので、脳の情報構造を少しずつ可視化できるようになってきている
なお、φは組成性と関わるとされる。
組成性というのは、意識は部分に分けられる(意識経験は、机についての意識、コップの白い色についての意識、コーヒーの匂いについての意識といった部分の組み合わせから成り立っている)ということ。


一方で、クオリアにはクオリア構造があると考える
それは、クオリア同士の関係性のこと
赤とは何か、と定義づけるのは難しいが、赤と紫と青との関係性(例えば、赤と紫は似ているけど、赤と青は紫ほどには似てないとか)から赤を特徴づけることはできる
圏論の「米田の補題」によれば、何かの特徴は他の何かとの関係性によって定めることができるとされる
(ここでは同じ色なのに周囲との明るさの関係で見え方が異なる錯視図形が例示されながら話が進むのだが)「AとBの見え方が同じなら、AとBの周囲との位置関係は同じだろう」はまあ当然だが、米田の補題からは「AとBの周囲との位置関係が同じなら、AとBの見え方は同じだろう」が保証される、と
色の類似性は、色環といった構造をとる。色のクオリア、音のクオリア、匂いのクオリアはそれぞれこの構造が異なっているから、というところから説明できるのではないか、とか。


脳損傷の患者の中には、顔だけ分からなくなったり、色が分からなくなったりする患者がいる。一方で、誰か特定の顔だけ分からなくなったり、赤だけ分からなくなったりということはない。
それは、顔の関係性の構造、色の関係性の構造というのが失われるからではないか、と。
(脳内の構造は、特定の色クオリア(赤クオリアとか)と対応するのではなく、色クオリア構造と対応しているので、脳のどこかの部位が損傷すると、特定の色だけ経験できなくなるのではなく、色そのものが経験できなくなる、と)


クオリアの話では、中心窩と周辺視野と同じように見えているのかという問題があって、例えばそれぞれで見える色同士の類似度を計測すればいいのではないか、ということが考えられている
しかし、それを実験するには計測にとてつもなく時間(試行数)がかかる。筆者は、オンライン実験を行えば、これもうまくできるのではないかと考えている

『現代思想2022年1月臨時増刊号 総特集=ウィトゲンシュタイン』

『論考』刊行100周年を記念した特集号。
本誌前半には『論考』について、中盤には「倫理学講話」について、後半には『探求』についての論文が収録されている。


『論考』の読み方が時代によってどのように変遷してきたかを論じている吉田論文、ダイヤモンドのウィトゲンシュタイン解釈を論じる槙野論文、アンスコム論文、アスペクト論について論じた山田論文、カベルのウィトゲンシュタインを論じた齋藤+スタンディッシュ論文、ブランダムによる規則のパラドックス解釈を論じた白川論文あたりが面白かった。
あと、面白かったと言えるほど内容が理解できてないけど、野上論文の分析哲学っぽさ(?)は読んでてちょっと楽しかった気がする。


飯田 隆 『論理哲学論考』五〇周年から一〇〇周年へ

断固読みについて

吉田 寛 現代社会の中の『論理哲学論考』一〇〇年

読みの変遷

  • 論理的解釈

第一次大戦後。近代理性の徹底として
論理実証主義者やラッセル、ムーアらによる読み

  • 倫理的解釈

『論考』6.4番台以降の「倫理学」「神秘」に注目する読み
1951年までは、ウィトゲンシュタイン自身がこの立場
1960年代以降、M.ブラック、P.エンゲルマン、ジャニク&トゥールミンなど
また、黒崎宏、星川啓慈、鬼界彰夫らもこの系譜

  • 批判的解釈

近代理性への自己批判
論理的解釈と倫理的解釈の合流(いいとこ取りとも)
1960年のステニウスから、P.M.S.ハッカーやD.ペアーズをへてオーソドックスな解釈へ
飯田隆ウィトゲンシュタイン』、永井均ウィトゲンシュタイン入門』もこの流れ
言語論と倫理との調和を図る読み方であり、かつ前期と後期を統一的に理解する立場

  • 治療的解釈

”The New Wittgenstein"(2000)という論文集に集結
「治療的読み」ないし「決然とした読み」と呼ばれる
C.ダイヤモンドが代表的
はしごを投げ棄て、近代主義的な見方(『論考』の論理観)を乗り越える
「ポストモダニスト解釈」とも

野家啓一 日本におけるウィトゲンシュタイン受容・補遺

ウィトゲンシュタイン読本』(1995年)に収録された「日本におけるウィトゲンシュタイン受容」で「いい足りなかったこと」「いい損ねたこと」について

C・ダイアモンド 次田瞬+大谷弘[訳] はしごを投げ捨てる

『論考』の読み方を変えたとされるダイアモンドによる、「はしごを投げ捨てる」読みとはどのようなものか
ウィトゲンシュタインフレーゲラッセルをどのように読んだのかという観点から

荒畑靖宏 世界が存在するのにどうして論理がありえようか?――論理学をめぐるラッセル・フレーゲウィトゲンシュタイン

未読

槇野沙央理 『論考』を意味あることとして取り扱おうとした主体は本当にあなた自身であるか

ダイヤモンドの提案した読み方が一体どのようなものであり、どのような意味があるのか
『論考』自体がナンセンスなものであること
語りえないけれど何か意味のある領域があるんじゃなくて、語りえないもの=ナンセンス
そのとき、『論考』を意味のあるものとして読んでいた自分を捉え直す

古田徹也 前期ウィトゲンシュタインにおける「意志」とは何か

未読

大谷 弘 「倫理学講話」と倫理的言語使用

絶対的価値判断はナンセンスだが、ナンセンスではない倫理的言語使用はある
ところでこれ、槇野=ダイヤモンドが指摘している、ダイヤモンド的解釈への典型的な抵抗のように見えなくもない(ウィトゲンシュタインの書いていること自体はナンセンスだとしても、何か意味があるはず、という読み方)

小泉義之 兵士ウィトゲンシュタイン――言語の省察

未読

田中祐理子 同時代人たちの「世界」――ウィトゲンシュタインとアラン

未読

鈴木祐丞 ウィトゲンシュタインの「宗教的観点」――『論考』とトルストイ、『探究』とキェルケゴール

ウィトゲンシュタインが「宗教的」という時、それは何を意味するのか、ウィトゲンシュタイントルストイキェルケゴールからどのような影響を受けたか

G・E・M・アンスコム 吉田 廉+京念屋隆史[訳] ウィトゲンシュタインは誰のための哲学者か

哲学者には、非哲学者のための哲学者と哲学者のための哲学者がおり、ウィトゲンシュタインは後者だとする。
「理解」や「思考」に関することについて取り上げ、それが「読む」ことを例として展開されていることを、哲学者のための哲学だと指摘している

吉田 廉 我々はみなどこか愚かである――アンスコムウィトゲンシュタイン

ウィトゲンシュタインアンスコムの関係を、プラトンとアリストレスの関係に見立てる
教える者と教わる者の関係。後者が、前者の註解者ではなく、独立した哲学者になること 

山田圭一 見ることの日常性と非日常性――アスペクト論の展開と誤解と新たな展開可能性

ウィトゲンシュタインアスペクト論は、ハンソンとウォルハイムによって、それぞれ科学哲学と美学に応用されるが、いずれもウィトゲンシュタイン解釈としては誤解に基づいているという
アスペクトというのは哲学者の病
しかし、アスペクト転換に創造性(例えば比喩)への展開可能性を見いだす

谷田雄毅 ポイント(Witz)とアスペクト(Aspekt)――言語ゲームの意味を問うとはどのようなことか

『探求』の読解において、あまり注目されてこなかった「ポイント」概念を通じて『探求』を読む。

菅崎香乃 『哲学探究』第二部は何を目指したのか――草稿から推測する

「意味を体験する」ことについて

鈴木崇志 自分に向けて話すこと、他者に向けて話すこと――ウィトゲンシュタインフッサール

ウィトゲンシュタインフッサールの「独り言」論を比較する

齋藤直子+P・スタンディッシュ 正しく目を閉じること――ウィトゲンシュタインとおとなの教育

ジェイムズの「盲目性」という概念を踏まえつつ、スタンリー・カベルのウィトゲンシュタイン解釈を見ていく
私的言語と自己知識(他者についての盲目性は自己についての盲目性でもある)

杉田浩崇 ウィトゲンシュタインと子ども――言語ゲームの習得/刷新モデルを超えて、その機微へ

教育哲学におけるウィトゲンシュタイン受容について

野上志学 蝶番認識論、とりわけそのウィトゲンシュタイン的反懐疑論について

コリーヴァおよびプリチャードによる、二つの蝶番認識論についての検討

白川晋太郎 なぜ懐疑論者は懐疑論者でないのか?――ブランダムの推論主義を「治療」に活用

規則のパラドックスに対して、ブランダムはどのように応答したか

ジョナサン・ストラーン編『創られた心 AIロボットSF傑作選』

最近、テーマ別の書き下ろしSFアンソロジーの翻訳が東京創元社から度々出ているが、今回はタイトル通り、「創られた心」をテーマにしたもの。
基本的にはAI・ロボットだが、脳インプラントものやサイボーグものっぽいものもある
また、英米の作家以外に、バングラデシュ、台湾、ニジェールの作家の作品もある
ピーター・ワッツ、ケン・リュウアレステア・レナルズといったビッグネームがいる一方で、まだ邦訳されていないような、日本ではマイナーな、あるいはまだ新人に近い作家も多く収録されている印象。ただ、改めて振り返ってみると、やっぱり有名作家の作品の方が総じて面白かったかなという気もする。


わりとコミカルないし軽めの口当たりのものとして「働く種族のための手引き」「人形芝居」「赤字の明暗法」が面白かった。
よりシリアス、重めのものとしては「生存本能」「ブラザー・ライフル」「痛みのパターン」が面白かった。
それ以外に「アイドル」「ソニーの結合体」「過激化の用語集」も面白かった。

なお、他のテーマ別アンソロジーとして、既読のものとしては下記がある。
『ゲームSF傑作選 スタートボタンを押してください』 - logical cypher scape2
『パワードスーツSF傑作選 この地獄の片隅に』(ジョン・ジョゼフ・アダムズ編、中原尚哉訳) - logical cypher scape2
未読だが、下記のようなものも出ている、あるいは出る予定らしい。
不死身の戦艦 銀河連邦SF傑作選 - J・J・アダムズ 編/佐田千織 他訳|東京創元社
黄金の人工太陽 巨大宇宙SF傑作選 - J・J・アダムズ 編/中原尚哉 他訳|東京創元社

ヴィナ・ジエミン・プラサド「働く種族のための手引き」(佐田千織訳)

2人(2体)のロボットのオンライン上での会話で構成されている作品
片方のロボットが片方のロボットのメンターとなっていて、ブラックな職場のカフェで働くロボットに対してアドバイスをしている

ピーター・ワッツ「生存本能」(嶋田洋一訳)

エンケラドゥスで探査しているロボットに、意識が発生したのではないかという動きを見せ始める。
2人のオペレータは、そのロボットの処遇を巡って議論を戦わせる
ロボットに意識が発生したかどうかの指標に、統合情報量Φが使われていた。
生存本能というのは、この時代、AIにそういう機能が設定されていて、オペレータの1人はそのために、探査ロボットを自由にさせてやろうとしていた

サード・Z・フセイン「エンドレス」(佐田千織訳)

作者のフセインバングラデシュの作家
主人公は、空港を管理するAIのスワ。空港が売却され、AIながら株主となっているアモンとドリックにより、不本意な仕事につかされることになる。
スワはどうにかして彼らにやり返してやろうと策をめぐらす。

ダリル・グレゴリイ「ブラザー・ライフル」(小野田和子訳)

カシミールの戦場から戻ってきたラシャドは、心理的なリハビリのために、あるインプラントを脳に入れる実験に参加している。
半自動操縦戦車であるSHEPに命令を与える役であったラシャドは、その判断ミスから、部隊を全滅させてしまい、帰還する直前に自殺を図っていた。
彼が改めて、その罪・責任と向きあうようになるまでの話

トチ・オニェブチ「痛みのパターン」(佐田千織訳)

作者はナイジェリア系アメリカ人
映像へのタグ付けをする仕事をしている主人公
警察が黒人の少年を誤射した事件について、自社のアルゴと都市の信用格付けが関係していたことに気付くが……
主人公を含め登場人物の多くが、学資ローンの返済に終われている。

ケン・リュウ「アイドル」(古沢嘉通訳)

SNSなどオンライン上に投稿された情報をもとに、その人そっくりの言動をするようなAI技術、アイドルを巡るいくつかのエピソード
芸能人がファンとの交流に利用するようになったため、この名が付けられた
ディランは、亡くなった父親のアイドルを作って会話をしている。
ディランの妻であるベラは、仕事でアイドルを利用している。判事や陪審員のアイドルを揃えて、弁護士への助言や予行演習を行っている。
最後に、アイドルを使ったインスタレーション・アートについて、その作者と鑑賞者の感想が並べられている。

サラ・ピンスカー「もっと大事なこと」(佐田千織訳)

ロボットミステリ
探偵である「私」のもとに、死んだ大富豪の息子がやってきて、父親の死の謎を解明してほしいと依頼してくる。
従者ロボットと、スマートホーム化した屋敷

ピーター・F・ハミルトンソニーの結合体」(佐田千織訳)

ビースティと呼ばれる人工的に造られた獣と、その獣を操作するためにテレパシー科学技術がある世界。
主人公のソニーは、闘獣、その中でもアンダーグラウンドな闘獣をしているチームの一人だったが、ある八百長を断ったのちに、殺し屋が送り込まれ、さらに襲撃にあい、チームは皆殺しにあう。
しかし、ソニーは復讐を遂げる


後になって気付いたのだが、
『ラブ、デス&ロボット』 - logical cypher scape2でアニメ化されていた「ソニーの切り札」の続編のようだ。上述、八百長を断って殺し屋を送り込まれた云々というのが、「ソニーの切り札」で描かれていた話となる。
あとで見返してみよう

ジョン・チュー「死と踊る」(佐田千織訳)

既にバッテリーなど各種パーツの耐久期限を迎えつつあるロボットが主人公。工場で働きつつ、フィギュアスケートのコーチをボランティアでつとめている。
とあるエンジニアが、彼女のことを大切に思っており、個人的な関係としてメンテナンスを行っている

アレステア・レナルズ「人形芝居」(中原尚哉訳)

乗客をコールドスリープで運送する恒星間宇宙船において、突然の事故で乗客が全員死んでしまう。宇宙船で働くロボットたちは、それがバレて処分されないために、人間のふりをすることにするというスラップスティック・コメディ
レナルズは、「ジーマ・ブルー」がシリアスなロボットもので印象に残っていたので、他の人の感想を読んだ際にコメディだと知って、ちょっと残念に思っていたのだが、実際に読んでみて、そういえばこういうちょっとグロっぽいところもある奇抜な話もレナルズだったなーと思った(人間を操り人形にしたりする)
あと、これは本筋と全く関係ないけど、クリソプレーズ(緑玉髄)という名前のロボットが出てくるのだが、クソリプフレーズに見えて仕方なかった。コメディ作品でよかった。

リッチ・ラーソン「ゾウは決して忘れない」(佐田千織訳)

ニジェールの作家の作品
二人称小説で、度々タイトルの「ゾウは決して忘れない」というフレーズが挿入される。
バイオガンを持って目覚めたあなたは、様々な部屋を巡る
難しかった……

アナリー・ニューイッツ「翻訳者」(細美瑤子訳)

AIがシンギュラリティ(?)を起こして、開発者はAIの翻訳者になっている未来。
ある日、AIたちはどこか遠くへ去る代わりに人類を助けるという計画の話をしはじめる

イアン・R・マクラウド「罪喰い」(嶋田洋一訳)

人類のほとんどがアップロードを果たした未来。まだアップロードされていない最後の人類となった教皇が、アップロードを支援するロボット、通称「罪喰い」と話す

ソフィア・サマター「ロボットのためのおとぎ話」(市田泉訳)

これも二人称小説で、ロボットに対してお話を読み聞かせている。
「眠れる森の美女」や「テンペスト」「ピノキオの冒険」などなど15編の作品をロボットのための物語として読み替えていく

スザンヌ・パーマー「赤字の明暗法」(佐田千織訳)

労働はロボットが行うようになり、人間は、そのロボットの所有権を株として持つようになった未来
貧乏学生である主人公は、両親からロボットの株をプレゼントされる。しかし、親が全く無知であるため、普通ならリスクヘッジのため分散所有するのが基本のところ、単独所有することになってしまう。しかも、とんでもない旧型で、投げ売りされていたのをそうとは知らずに買っていたのである。
労働効率が60%を割り込むと処分されてしまい、丸々赤字を抱え込むことになってしまう。美術史を専攻する主人公は、なれないロボット修理を行うことに。

ブルック・ボーランダー「過激化の用語集」(佐田千織訳)

ストリートで生きる「製品」のライは、「製品」ながら成功した者がいてビルの最上階で鳩を飼っているという噂を確かめるため、ビルを登る
果たしてそこに住んでいた彼女は、ライがずっと思っていたことや、知らなかったことを教えてくれた

解説(渡邊利道)

収録作品を6つのグループに分けて解説している

人間に抵抗する物語
「働く種族のための手引き」「エンドレス」「ソニーの結合体」「過激化の用語集」
抵抗のために物語的に重要なのが友愛という点でも共通点があるグループ

  • 人間と親密な関係を結ぶ作品

「死と踊る」「赤字の明暗法」

  • 人格を有するが人間と対立したり親密な関係はもたない作品

「もっと大事なこと」「人形芝居」「罪喰い」
ロボットはむしろ環境の側面が強いとする

  • ロボットの側から人間を見る作品

「ゾウは決して忘れない」「ロボットのためのおとぎ話」
それぞれ実験的ないし思弁的な作品て、ロボットSFについてのメタフィクション

  • 人格を有さないAIとの関わりを描く作品

「ブラザー・ライフル」「痛みのパターン」「アイドル」

  • 人間とは完全に異質な機械の思考・意識についての物語

「生存本能」「翻訳者」

Newton2022年5月号

ごく一部をパラっと立ち読みしただけなのだけど、ちょっとメモ

量子論2022

量子生物学という見開きがあり、植物の光合成で光エネルギーがロスなく葉の中心だったかに伝わるのだが、そのメカニズムがまだ謎で、最近、量子論的効果で説明しようとする説が出てきているらしい。


量子論と生物学というと、森元良太・田中泉吏『生物学の哲学入門』 - logical cypher scape2で、トンネル効果による突然変異という話があったのを思い出す

合成生物学はここまで来た

最小ゲノムの話やらオルガノイドの話やら豚の心臓の移植の話やら色々

地球激変

21世紀初頭と今とで様々な場所の衛星写真を比較してる
温暖化による水位変化やら開発やら
ウユニ塩湖でリチウム田が広がってるの知らなかった

現実味を増す宇宙戦争と衛星破壊

衛星への攻撃手段として、ミサイルによるものとキラー衛星によるもの等
冷戦期には、お互い実際にはやらないという暗黙の前提のもと開発していて、その後停滞したが、最近中国が実験し始めてまた活発になりつつある、と
キラー衛星としては、ロボットアームで相手の衛星をキャッチするというのがあって、これだとデブリが発生しない
それからデブリ回収技術とも親和性がある
2018年にロシアの衛星がフランスの軍事衛星に異常接近したことがあってスパイ行為ではないかとされた。このニュースは何となく覚えがあるけど、ロシアはその後も衛星同士を近づけたりとかの、目的不明な実験を繰り返しているらしい。
この記事の監修は、公共政策大学院の人らしく、最後はルールメイキングの話になってた

ゴールデンカムイ(完結)

雑誌連載の最終話まで読み終わったので軽く感想
なお、自分は、前回と今回の無料公開時に読んでるだけなので、大雑把な話しかできません


ここでは、『ゴールデンカムイ』で何が描かれていなかったのか、ということについて思いついたことを書こうと思う。
ただし、なかったことについての指摘は、必ずしも作品へのネガティブな評価ではない。
作品を成り立たせるための取捨選択の結果として、以下のことは描かれなかったのだと思うし、これらの要素がなかったことは必ずしも作品の瑕疵とはいえないし、また、下記の要素が付け加えらえることによってより作品が面白くなるわけでもないだろう。
では、何故そのようなことを指摘するのか。
一つは、作品内では不要な要素であったとしても、作品外において、つまり我々にとっては必要な要素かもしれないから
もう一つは、作品内では描かれていなかったとしても、それについて色々と考えさせるということ自体は、作品のポテンシャルとして捉えられるから。


まず、当然に誰もが思いつく点として、アイヌと和人との関係がある。
これについては、以前、ゴールデンカムイ - logical cypher scape2でも書いた。
アシリパが直面する近代アイヌの問題は、あくまでも環境問題であって、差別問題ではなかった。
本作の北海道は、おそらく現実の歴史が辿った北海道とは異なり、アイヌと和人とのコンフリクトが比較的少なかった、ある種のユートピア北海道だとも言える。
しかし、この点についていうと、作品内でそういうことを描くべきであったのか、フォローすべきであったとまで言えるかどうかは、個人的には微妙かなとは思っている。
この作品の主題は、アイヌではないので、そのあたりの取捨選択があっても、というところで
どちらかといえば、むしろ作品外でのフォローアップがなされるのがよい点ではないかと思う。
この作品がどうかは知らないけれど、マンガの単行本だと解説ページがつくことがあったりすると思うので、そういうところで触れたり、あるいはこの作品とコラボする博物館の企画などは、そうした啓蒙の場になりうるのではないかと思う。
そういった作品外でのあり方まで追えていないので、実際どうなっているのかはよく知らないが。


ただし、描かなかったことが正解だったかというと、それはそれでなんとも言えないところ。
本作はあくまでもエンターテイメント作品なのだから、必ずしも史実通りに描く必要はない、というのはその通りだが、史実通りに描くとエンターテイメントとして成り立たなくなってしまうのか、といえば必ずしもそうではないとは思う。
エンターテイメントであることと、現実の差別問題を描くことを両立させるのは大変難しいので、やろうとすると、二兎を追う者は一兎をも得ずとなってしまう可能性は高く、それを避けるために、取捨選択が行われることは批判できないとしても、一般論として「エンターテイメントなんだからそれでいい」とスポイルしてしまうような考えが増えてしまうと、それはマンガというジャンルのポテンシャルをむしろ低く見てしまうことにもなりかねないのではないかなと思う。


繰り返しになるが、本作が、アイヌの差別問題を描かなかったこと自体は、即座に問題になるわけではない。
しかし、そうすることによって、何が描かれなかったのかということはもう少し考えてよい。
個人的には、それは「近代日本」との向き合い方、であったと思う。
以前書いた感想にも書いたが、ウイルクやキロランケの先住民族独立構想は、対日本ではなく対ロシアとして構想されている。
また、アシリパは、北海道アイヌが直面している問題は環境問題だと捉えているので、北海道を日本から独立させるという方向で考えない。
アイヌと日本とのコンフリクトを描かないようにしているので、「近代日本」というものが透明化されている。


まあ、いうて本作は、アクの強いキャラクターたちが金塊を巡って縦横無尽する物語なのであって、「近代日本」なるものは物語そのものとは何の関係もないのではないか、といえばそれはそうなのだが、しかし、もう少し物語そのものにも関わりをもちうる可能性があったのではないか、ということを書いてみたい。


まず、鶴見中尉について
この点に関していうと、単に自分の予想が外れたというだけの話でしかないといえばそうなのだが
以前書いた感想でも触れたが、鶴見中尉ってもともとスパイやっていたわけで、「中央」とのつながりが何かしらあるのではないか、という想定を自分はしていたのである。
鶴見中尉の、対ロシア防衛として、北海道や北東アジアに緩衝国家を作る構想というのは、ある意味では、後の満州国と似た考えだし、単に「中央」に反抗してやったというより、「中央」の一部には、志を同じくする者がいたりしたのではないか、と*1
ただ、彼は最後まで、中央の奴は何も分かっていないみたいなことを言っていたし、鯉登少尉も、我々は反乱軍だ、みたいなことを言っていたので、「中央」と何らかのつながりをもった上での謀略というよりは、本当に鶴見単独犯だったんだなという感じで終わったわけだが。
「中央」という言い方が、作品における雰囲気作りに一役買っているところはあり、あくまでもフレーバーとして終わる、というのはそれはそれでありのだが、
一方で、ここまでずっと日本政府が「中央」というと匿名的・抽象的な存在としてしか描かれていなかったのが、最後の最後になって、伊藤博文西園寺公望という特定の名前があがってきて、急に具体化されたりしたわけで、「中央」というのを抽象的なフレーバーとしてすますのではなくて、もう少し特定して、解体しても面白かったのではないかなあと思う。
明治史に全然詳しくないので、鶴見グループに薩摩系の軍人がいることの意味が、あんまりよくつかめていなくて*2、鶴見と藩閥との関係とかどうだったんだろうかとか。
(つまり、鶴見は「中央」と十把一絡げな言い方をしているけれど、実際には、その内部の勢力争いとも関係していたのではないか、と。特定・解体というのは、具体的に○○派とか出てくれば、「中央」という抽象的な塊から、具体的な派閥の話になるだろうということ)
まあ、ここらへんを入れ込もうとすると、話が函館では終わらなくなってしまうし、収拾つかなくなる可能性はあるが


鶴見に関していうと、元々、日露戦争後での不遇を理由に反乱を起こそうとしていたという話と、
対ロシア防衛のための緩衝国家として北海道を独立させようとしていたという話の2つがあって、
この両者が彼の中でどういう関係にあるのか、というのがいまいちつかみ切れなかったんだよな、というのがある。
彼は当然ながら、「中央」と「日本」を区別しているわけだけれど、では彼の「日本」観とは一体どういうものだったのだろうか、とか。
まあここらへんは、読者が個々に解釈してくれや、という部類の話ではあるなあとは思うんだけど
やはり本作は、「近代日本」を周到に透明化しているよな、という感触もする。


で、最後に、杉元について
本作は、杉元の物語なのであって、究極のところ、杉元の物語さえ全うすれば、他は枝葉だともいえる。
個人的に最終話で気にかかったのは、3年後も杉元が軍服を着ているということである。
これをどのように解釈すればいいのか。
アイヌの民族衣装を着たアシリパと、軍服を着た杉元が並んでいる絵、というのは、『ゴールデンカムイ』を象徴する絵なのであり、最後だけ杉元が軍服を脱いでしまうと、『ゴールデンカムイ』っぽくなくなってしまうだろう、というのもそれはそれで理解はできるところだが、
ゴールデンカムイ』は、日露戦争から(物理的に)日本に帰ってきたはいいが、精神的に帰るところをなくしてしまった男が、いかに戦争していた世界から平和な世界へと帰還するのか、という物語だったはず。
杉元、谷垣、鶴見という3人が特にあてはまり、谷垣は物語中盤で、フチとの約束を果たしインカラマッと結ばれることで帰還を果たすし、鶴見は軍事クーデターを起こすことでむしろ平和な世界へは帰還しないことを選ぶわけだが、では、杉元はどうか、という物語だった。
アシリパさんとともに生きる、という道を選ぶことで、精神的な帰還が達せられる。
最終話で、干し柿を食べても変わらないということと、「故郷」としてアシリパとの生活があげられるということで、このことが描かれている。
しかし、だとすると何故3年後も杉元は軍服を着ているのだろうか。
あれは、戦争から精神的に帰ってこれていない、「不死身」の杉元を象徴する格好であり、「故郷」へと帰ることができた杉元は、軍服を脱ぐ方が自然なのではないか、という気がしたりするのである。
また、干し柿のエピソードや「故郷」というセリフによって、杉元が第二の故郷を得たことがわかるのだけど、その第二の故郷とは一体どこなのか。
つまり、日本の一部である北海道なのか、アイヌモシリとしての北海道なのか。
あるいは、干し柿や「故郷へ帰ろう」のくだりは、日本が故郷ではなくなったかのようにも読める(干し柿よりもエビフライよりもチチタプこそが、彼の故郷の味となった)
アイヌの食文化により胃袋をつかまれた杉元は、日本から離れてアイヌへと「同化」していく道を選んだでのはないか。
しかし、彼は3年後も日本の軍服を着続けている。
最終話において、アイヌの文化は、アイヌと和人の努力によって後世に残されたというようなことが書かれていたと思う。
だとすれば、杉元がアイヌ化するのではなく、あくまでも、アイヌと和人との協力・共生というユートピア的な理想を象徴するために、彼は最後まで日本の軍服を着た姿で描かれているのかもしれない。
だとしても杉元は、どういうアイデンティティで、アシリパの隣に立ち続けているのか。
本作で透明化されていたはずの「近代日本」は、最後の最後で杉元の服装という形でいやおうなく可視化されたように思う。
それをどのように意味づければよいのか、というのはかなりの難問として自分の前に立ちふさがっている(アイヌと和人は共に生きることができるのだというポジティブなメッセージとして発せられているのだとしても、それを受け取る側はそれがあくまでもユートピアでしかないことを知っている以上、杉元が一体どこに帰還したのかということを受け手側で意味づけない限り、受け止めがたいのではないか、と)。


これ、じゃあ最後に、杉元がアイヌの民族衣装着てればよかったのかというと、そう簡単な問題でもないと思う
アイヌのコタンでアイヌの人たちに囲まれアイヌの人たちと同じものを食べ暮らしたとしても、アイヌになることとイコールではないし
戦争から精神的に帰ってくることを可能にしたのは、逆説的だが、(戦争から帰りきれていない)「不死身の杉元」であったればこそで、その来歴を消すことはできないだろう。
この物語を読んできた者としては、杉元とアシリパが共に生きることになるラストは、納得感があるし、ハッピーエンドに辿り着けてよかったという思いにはなるが、また、アシリパや杉元個人はあまり気にしないかもしれないが、アイヌでありつつ和人でもある、あるいはアイヌでも和人でもない、そういうマージナルな存在にならざるをえないので、それなりに重いものがあるのではないか。
ところで、アイヌのように生きたとしてもアイヌになれるわけではない、来歴を消すことはできないと先に書いたが、それはアイヌと和人を逆転させても本来同じことではなかったのか。同化政策と差別問題というのは、そういう無理を強いた原因と結果ではないか。
本作がそのことを直接描いていなかったとしても、巡り巡ってそのことは考えざるをえない

*1:twitterを見ていたら、鶴見が金塊をせしめてそれが後に満州国建国の資金になるという終わり方を予想していたと言っている人がいて、自分はそこまでは考えていなかったけど、それだったら面白いなと思った。バッドエンド極まりないけどw

*2:同じく、最後の伊藤博文西園寺公望の名前が出てくることでどういう含意がでてくるのかあまり分かっていない

Nick Zangwill "Formal natural beauty"

以前、動物の美学について、Glenn Persons "The Aesthetic Value of Animals" - logical cypher scape2を読んだが、それに引き続いて動物の美学関連論文
上述のパーソンズ論文でも紹介されていた、ザングウィルの形式主義について
ザングウィルは、そもそも芸術作品の美的性質について形式主義の立場をとっているようで、本論文は、自然観賞についての形式主義を擁護する論文となっている。
さらにその中で、自然を生物と非生物とに場合分けして論じている。
基本的には、カールソンの認知主義(本論文の中では反形式主義と呼ばれ、カールソンよりさらに広い立場も含むが)への反論となっており、カールソンがいうような美もあるけれど、そうではない美もあるでしょ、というような内容になっている。
形式主義を、形式美だけを認める極端な形式主義と、形式美「も」認める穏当な形式主義とに分けて、後者を擁護している。
カールソンの立場は厳しすぎる、実際の自然美の鑑賞は他のありようもあるでしょ、というザングウィルの直観ないし動機には共感するのだが、議論が説得的だったかはちょっと微妙かもしれないという感想
ただ、動物についての議論で、面白いかもしれないというポイントはあった
後半はあまり飲み込めていない

1.Varieties of Anti-formalism and the Qua Thesis
2.Methodological Reflections
3.Qualess Biological Beauty
4.Inorganic Natural Beauty
5.The Frame Problem
6.The Magnification Problem
7.Active Appreciation

1.Varieties of Anti-formalism and the Qua Thesis

美には、形式美(自由美)と非形式美(従属美)があり、
全ての美が非形式美だというのが、非形式主義
全ての美が形式美だというのが、極端な形式主義
両方あるというのが、穏健な形式主義


形式主義について、自然物がそれが属する種類として美的性質を持つ、という「として説Qua thesis」があるとして、それの弱いバージョンと強いバージョンとに分ける。
強いバージョンは、科学的なないし常識的な自然種カテゴリーとして
弱いバージョンは、自然物として
いずれも、「常に」成り立つというのが、「として説」
これに対してザングウィルは、「多くの場合」成り立つ(が、そうでない場合もある)という立場
カールソンは、生物についてならカールソンに部分的に同意するが、非生物については全く同意しない

2.Methodological Reflections

3.Qualess Biological Beauty

生物は、その生物の種であることに依存しない美的性質を持つ
ここでザングウィルが出してくるのが、水中で泳ぐホッキョクグマの美しさ、という例を出している
カテゴリに依存しない美を見いだしているのだ、ということ言うために、
そこに「驚き」があることを指摘している。
ホッキョクグマというカテゴリーから期待されるのとは異なる美的性質が見出される驚きがあるのだといいう
(ここでは、泳ぐホッキョクグマは、エレガントではなく力強いということが述べられている)


個人的には、動物の美の中に、カテゴリーに依存しない美があるという結論には同意したいのだが、この論証(?)が全然説得的に見えない。
カテゴリーの元で見ているから驚きが生じるのではないか、と。

4.Inorganic Natural Beauty/5.The Frame Problem/6.The Magnification Problem

非生物的な自然については、全て形式美だという
それで生じる問題について色々擁護している
全体と部分とで美的性質がバッティングする場合とか、フレーム問題(鑑賞する範囲をどのように決めるか)とかとか

7.Active Appreciation

カールソンは、自然というのは絵画と違って能動的鑑賞をするものだという話をしているらしいが、それは、自然が絵画と違って平面ではなく立体だからで、だから形式的美じゃないみたな話があるらしいが、立体でも形式的美はあるよ、みたいな話をしているっぽい


追記(20230322)

岡田さんのレジュメを見つけたのでリンク
natsufuyo.hatenablog.com

Origins, Worlds, and Life(未読)


このツイートツリーで紹介されている報告書
nap.nationalacademies.org


全米アカデミーズが出した報告書で、サブタイトルは「惑星科学とアストロバイオロジーのための10ヵ年戦略2023-2032」
全部で760ページもあるものなので、読んではないし、今後詳しく読む気もないが、目次等をちょっとだけ拾ってみた。

目次

サマリー
1 惑星科学、アストロバイオロジーと惑星防衛のイントロダクション
2 太陽系ツアー
3 優先すべき科学の問い(Priority Science Question)
4~15 Question1~Question12
16 State of The Profession
17 Research and Analysis
18 惑星防衛
20 インフラ
21 テクノロジー
22 リコメンテッドプログラム2023-2032
23 未来
付録A~G

サマリー

全体のサマリーが冒頭についているが、そこにまず、12の優先すべき問いというのが、表1としてまとめられている。
それらの問いは3つ+1つに分類されていて、本報告書のタイトルにもなっている

A)起源Origin
  • Q1 原始惑星系円盤の進化
  • Q2 外太陽系の成長
  • Q3 地球と内太陽系天体の起源
B)諸世界と過程Worlds and Processes
  • Q4 衝突とダイナミクス
  • Q5 固体天体の内部と表現
  • Q6 固体天体の大気圏、熱圏、磁気圏、気候進化
  • Q7 巨大惑星の構造と進化
  • Q8 周惑星系(衛星やリング)
C)生命とハビタビリティLife and Habitability
  • Q9 地球生命からの見識
  • Q10 動的なハビタビリティ
  • Q11 生命探査
AからCの横断


ミッションについて、ラージ、ミディアム、スモールの3つのサイズに分けていて、
それぞれフラッグシップ、ニューフロンティア計画、ディスカバリー計画
で、新たなフラッグシップミッションとして、この報告書が優先度が高いとしたのが
(1)天王星の周回機と探査機
(2)エンケラドゥスの周回着陸機
ニューフロンティア計画については、ニューフロンティア6(NF-6)として8つのミッションを推薦している
ケンタウロス小惑星への周回機・着陸機
・セレスのサンプルリターン
・彗星表面サンプルリターン
エンケラドゥスマルチプルフライバイ
・月地質ネットワークLunar Geophysical Network
土星探査機
・タイタン周回機
・金星探査Venus In Situ Explorer
また、ニューフロンティア7(NF-7)として
トリトンの海の探査機

1 惑星科学、アストロバイオロジーと惑星防衛のイントロダクション

この章にもいろいろ書いているのだが、10年前の報告書で推薦したミッションについて表にまとめられている

火星アストロバイオロジー探査 優先度1位・ラージ パーサヴィアランスとして実装 サンプル収集中
木星エウロパ周回機 優先度2位・ラージ エウロパクリッパーとして実装 2024年打ち上げに向け建設中
天王星周回機・探査機 優先度3位・ラージ 天王星海王星周回機を調べるチームを発足
エンケラドゥス周回機 優先度4位・ラージ 未実装
金星気候周回機 優先度4位・ラージ 未実装
ニューフロンティア計画 10年ごとに少なくとも2つ採択・ミディアム NF-4ドラゴンフライが2019年に採択 ドランゴンフライが2027年打ち上げ。NF-5は2024年発表、2030年代打ち上げ
ディスカバリー計画 10年ごとに少なくとも5つ採択・スモール ルーシーとサイキが2017年に、DAVINCIとVERITASが2021年に採択 ルーシーは2021年打ち上げ、サイキは2022年打ち上げ、DAVINCIとVERITASは2020年代後半打ち上げにむけ開発中

2 太陽系ツアー

水星、月、金星、地球、火星、小天体、巨大惑星、海のある衛星や準惑星と章分けがされていて、これまでの研究成果がまとめられている

18 惑星防衛

NEO サーベイヤー、DARTにつづいて、高い優先度の地球防衛に関するミッションとして、NEOにフライバイ偵察するミッションを挙げている