伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史5』

5巻は「中世3 バロックの哲学」

伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史1』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史2』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史3』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史4』 - logical cypher scape2


シリーズが始まった頃は、勝手に、古代、中世、近代、現代が2冊ずつだと思い込んでいたので、中世3の表記に最初驚いてしまった。
実際は、古代2、中世3、近代2、現代1の8巻構成である。
ただし、本書が扱う時代は14〜17世紀であり、一般的に中世とされる時代ではない。
本シリーズでは、特に16〜18世紀半ばを近世と呼ぶことにしており、本書は中世と近世、特に近世を扱っている。
なお、サブタイトルにあるバロックは17世紀頃頃のことを指す。
歴史区分を、古代・中世・近代の3つにしか区分しないような分け方の場合、近代は15・16世紀頃に始まるとされるが、ある時期から、ここに「近世」という時代区分が日本史だけでなく、ヨーロッパ史や世界史でも使われるようになっているようだ、というのは素人ながら何となく感じている。
この時代をあえて「中世3」としてまとめることで、中世と近代が断絶しているのではなく、近世を介して連続していることを示そうという意図だろう。
そもそもこの中世1から3冊を通じて、中世は決して暗黒時代ではない*1ということを示そうとしているのだとも思う。


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と、以前読んでいる最中に書いたが、実際扱われているのが結構マイナーで
前の巻だと、「中世哲学知らないから勉強になるなー」という感じとはいえ、トマスとかオッカムとか、名前自体は知ってるような人たちが並ぶのに対して、この巻は、名前や学派、キーワードなどからしてすでに全然知らないところから始まる感じであった。
その分、面白かったともいえる。

第1章 西洋中世から近世へ 山内志朗
コラム1 ルターとスコラ学 松浦 純
コラム2 ルターとカルヴァン 金子晴男
第2章 西洋近世の神秘主義 渡辺 優
第3章 西洋中世の経済と倫理 山内志朗
第4章 近世スコラ哲学 アダム・タカハシ
第5章 イエズス会キリシタン 新居洋子
第6章 西洋における神学と哲学 大西克智
コラム3 活版印刷術と西洋哲学 安形麻理
コラム4 ルネサンスとオカルト思想 伊藤博
第7章 ポスト・デカルトの科学論と方法論 池田真治
第8章 近代朝鮮思想と日本 小倉紀蔵
第9章 明時代の中国哲学 中島隆博
第10章 朱子学と反朱子学 藍 弘岳

第1章 西洋中世から近世へ 山内志朗

哲学史の中で重視されてこなかった14、15世紀
筆者は、ビッグネームがいなかったためにこのような不当な評価をされており、実際には、大学の数が増え、活版印刷の登場もあり、哲学も盛んになっていた時代だとする
筆者はこの時代の大雑把な分類として、「唯名論の系譜」「ドイツ神秘主義」「オックスフォード・リアリズム」「正統的カトリック神学」「イエズス会とスペイン・バロック哲学」と並べる
その後特に、唯名論の系譜、オックスフォード・リアリズムのウィクリフイエズス会を中心にした第二スコラ哲学などを論じている。
唯名論については、唯名論者とされている者の主張と唯名論という名前があっていないこと、それでいて何故唯名論と呼ばれているのかが説明されている。
筆者は、唯名論とは函数的なものの捉え方、外延主義的な考えだとする。
一方、神学の義認論という分野で、グレゴリウスの唯名論という立場があって、これが色々あって混ざったようだ

コラム1 ルターとスコラ学 松浦 純

コラム2 ルターとカルヴァン 金子晴男

ルターはオッカムの、カルヴァンスコトゥスの影響を受けている
両者とも神秘主義の影響を受けている

第2章 西洋近世の神秘主義 渡辺 優

アビラのテレサと十字架のヨハネを中心とするスペイン神秘主義について


神秘主義は哲学なのかという点について、神秘主義を「知に焦がれる・希う」「愛する知」と位置付ける。あるいは、語りえないことをそれでもなお語らずにはいられない者なのだ、とも。


スペイン神秘主義の先駆として「照明派」
また、イエズス会ロヨラ神秘主義的傾向があった、と。
ロヨラ神秘主義というのは、ギリシア哲学由来の観想と活動の区別、というのをなくして、活動の中の観想を到達点とするというもの


さて、テレサについて
知らない人だなー、と思ったら、バタイユ『エロティシズム』の表紙に使われている彫像のモデルになった人で、この彫像により有名らしい
神秘主義を神秘体験によって特徴づける、という近代的神秘主義理解は、テレサに由来する
のだが、本章ではむしろ、テレサ神秘主義はそういうものではなかった、ということが論じられていく。
若い頃に、この彫像に描かれているような官能的な神秘体験をしたらしいが、テレサ自身は、その体験には重きを置いていない。
先ほど述べたとおり、観想と活動の区別というギリシア由来の区別があり、さらにキリスト教においては、神への愛と隣人愛という2つの愛のあり方がある。そして前者をよりよいものとする、というのが伝統的な捉え方らしいのだが、エックハルトはこの理解を逆転させる。
テレサエックハルトと同じ考え方をしている
スペイン各地に修道院を創立するという事業をテレサは行なっている。
神秘体験の中で鮮烈に現れる神ではなく、人々のなかで生きる中で、はっきりとはしない形で現れる神のことをテレサは語る。
また、テレサは、女性の弱さを語るが、それを逆説的に女性の強さとしていく。
つまり、女性は学問ができない存在であるが、そもそも神の知は学問によって近づけるものではなく、愛や祈りによって近づけるものであり、そこにむしろ女性の方が神に近いのだ、という女性の優位さを示している。
また、この祈りというのは「私たち」によるもので、共に分かち合うものだという考えもある。


この世界哲学史シリーズの中で、主題的に取り上げられた女性は、このテレサが最初だと思う(女性哲学者自体は、確か古代ローマあたりの章でも出てきたが、名前が言及されたのみ)


ヨハネは、詩とそれに対する注解という形で著作を残した人で、本章では、そこに見られる「暗夜」が一体何を意味しているのかという点が解説される。


テレサヨハネともに16世紀の人

第3章 西洋中世の経済と倫理 山内志朗

中世スコラ哲学の中の経済学
その中でも特に、13世紀フランスのペトルス・ヨハネス・オリヴィについて


中世スコラ哲学の経済学というとピンと来ないが、既に戦前の日本でも、トマス・アクィナスの経済思想を研究していた人がいたらしい


そもそも中世の経済思想は独特で、利子をとってはいけない、というのが根本にある
トマスによると、利子をとるというのは、(1)時間を売ることになっているが時間は神から与えられたものなのでこれを売るのは罪(2)元本と返済金は等しいので、さらに利子をとるのは同じものを2度売ることになるから罪(3)元本を返せば返済したことになるのに利子をとるのは無を売るから罪、ということになる
使用するとなくなってしまうものの貸借を「消費貸借」、使用してもなくならないものの貸借を「使用貸借」と分け、ワインなどは前者、土地などは後者なのだが、貨幣もまた前者に分類されていたのだという。
売買という考えはとらず、等しい量の貨幣で返還する、という考え方らしい、消費貸借


とはいえ、商業革命により、遠隔地との商売が行われるようになり、リスクなどの考え方が入ってきて、海上保険など、実質的に利子に相当するものが認められるようになってくる。


さて、オリヴィ
アッシジのフランチェスコ、そして彼を開祖とするフランシスコ会は、清貧思想を旨とし、貨幣や富の所有を拒絶するのだが、その一方で商業の庇護者としても知られている
オリヴィは、フランシスコ会の中でも急進派
哲学的にはオッカム、スコトゥスの先駆者とも見られ、カトリック批判を行った人でもある
「貧しき使用」論を展開。
未来のために必要ならばこれを所有するのは正当であり、消費しても消えずに残存する、という考え(非存在を売ることにならないので、利子が正当化される)


オリヴィの経済思想
(1)資本概念の創出
利子をとってはいけないという考えだと資本は増えていくことがないが、オリヴィは資本の増殖的性質を認めた
(2)利子肯定論の提唱
(3)共通善という論点を経済思想に持ち込む
価格決定は共同体によってなされる
(4)市場の発見
(5)新しい公正価格論の提起
従来、公正価格はどこでも一致と考えられていたが、売り手と買い手の自由契約による価格も公正価格だとした。ものに内在する価値と価格の不一致を許容した


オリヴィの思想が、資本主義の起源なのかという点について、歴史家の間での議論に決着はついていない、としつつ、筆者は、資本主義の原型がこの時代に既に準備されており、その思想的裏付けをオリヴィが担ったのだと論じている。


第4章 近世スコラ哲学 アダム・タカハシ

15・16世紀のスコラ哲学について
アリストテレス主義の伝統と、それを支えた制度としての大学、その伝統の背景にある、12世紀の哲学者アヴェロエスの思想について紹介したのち、16世紀の哲学者として、ポンボナッツィ、スカリゲル、メランヒトンの3人が検討される。
アヴェロエスの思想としては、知性単一説と神的摂理の問題が特徴としてあげられる
前者は、知性というのは非身体的で質料を欠くので個別化されず数的に一つである、という説(人類の知性は、個人個人にあるのではなく、全人類で一つの知性を共有しているという、なんかすごい説)
後者は、神の摂理を説明するのに、天体を持ち出すというもの。アリストテレスが論じていない神の摂理を、アリストテレス哲学で解釈する方法
さて、検討される3人の哲学者について、3人それぞれ違う思想が展開されている(例えばポンボナッツィは活動していたパドヴァの土地柄、キリスト教神学とやや対立した考えだったり)が、筆者は3人とも先人と比べてオリジナリティはないという。
(この点、「魂・知性論については」という限定付きとのこと、筆者のタカハシさんからご指摘ありましたので追記しておきます。ちゃんと読み取れていませんでしたが、確かに知性論の文脈で書かれている箇所です)
16世紀の哲学の特徴は、アリストテレスの『動物誌』やガレノスの著作などから、自然学の経験的な事例を取り込もうとしているところにある、と。

第5章 イエズス会キリシタン 新居洋子

章のタイトルからは分かりにくいのだが、主に中国におけるイエズス会による哲学の翻訳と儒教との関係について論じられている。
「世界」哲学の感が非常に強い章である。


イエズス会の宣教師は、中国でスコラ哲学や西欧の文物の翻訳を行った。その際、音訳と共に意訳を行なっている。
ここでは、理性(ratio)の翻訳について特に論じられている。
彼らは、理性を「霊性」と訳している。
このことはまず、スコラ哲学においてratioは、現在、理性という言葉で理解されている概念とは意味合いが少し異なっていたことを示す。
一方、霊性という訳語が、儒教の理解から得られていることも論じている。
面白いのは、イエズス会はもともと仏教を意識して 袈裟を着た「僧」の格好をして布教していたが、程なくして儒家から、中国では立場が微妙な仏僧の真似をするのは得策ではないと教えられ、むしろ儒教の方へと接近していったということ。


一方、朱子学には「理」という概念がある。
イエズス会の宣教師は、儒教に対しては妥協的だったが、「理」概念に対しては批判的で、『神学大全』の翻訳には、原著にはない「理」批判が書かれているとか。
ただ、この「理」概念をライプニッツは再解釈した上で、神と同一視するほどに受け入れている。
また、ライプニッツによる再解釈は、朝鮮でなされた朱子学批判と方向性を一にしているとか。


東西双方向に影響関係があったのだ、と。

第6章 西洋における神学と哲学 大西克智

神学と哲学の関係を、哲学者内部の信と知の関係で整理する。
まずアンセルムス、そしてイエズス会のモアナとスアレス、最後にデカルトを挙げている。
アンセルムスにおいては、信があるからこそ知があるという関係だったが、時代が下り、モアナとスアレスになると、信と知は乖離しており、哲学は神学の婢女ではなくなる。

コラム3 活版印刷術と西洋哲学 安形麻理

コラム4 ルネサンスとオカルト思想 伊藤博

ミランドラ、アグリッパ、ポルタ、フランシス・ベイコン
魔術というのが自然に従うものだという思想

第7章 ポスト・デカルトの科学論と方法論 池田真治

ポスト・デカルトの哲学として、ホッブズスピノザライプニッツの3人が比較検討される。
章タイトルにある通り「方法」がキーワード。この章にとって、というだけでなく、この時代のキーワードだったよう。
3人とも、数学に基づく新しい「方法」を立ち上げようと論じている。一方で、アリストテレス的伝統を受け継いでいる面もある、と。


全然知らなかったけど、ホッブズというのはガリレオを崇拝していて、自然学にも詳しかったらしい。『リヴァイアサン』にも科学論があるとか。


ライプニッツデカルト批判、よいなー
明証性とかコギトとか主観じゃん、と

第8章 近代朝鮮思想と日本 小倉紀蔵

朝鮮思想、というのも考えてみれば標準的な歴史の教科書では全然触れられないところだろう。
この章では、朝鮮における朱子学受容の話がなされるが、さらにその後、近現代についてもページが多く割かれている。
朝鮮の朱子学者の間でなされた論争が紹介されており、その中の一つに、人間の本性と動物の本性は同じかどうか、というのがあったらしい。


韓国や北朝鮮での「実学」の理解
実学というのはもともと朱子学のことを指す
ところが、明治の日本で、実用的な学問を指す言葉に変わる
朝鮮でもこれに影響される。日本の植民地下にあったとき*2の影響で、朱子学を前近代なものとし、一方で、朝鮮にも非朱子学的な思想があったとして「実学」なるものが発見される。
ただし、実態としてはそのような学派は存在しなかった、とのこと
とはいえ、そのようなものが要請されたのは、朝鮮も内発的な近代化が可能であったのだ、という戦後の考えによる。
本章では、朝鮮の内発的近代化に繋がったかもしれない流れとして、東学と北学をあげる
(東学は、北朝鮮でそのように扱われていたが、韓国ではそうでもなく、むしろ近年において脱近代の潮流として論じられているとかなんとか)
また、韓国では、逆に朱子学ポストモダンなものとして論じられるようになっているとか。日本と韓国で、ポストモダンのイメージが全然違うとも(韓国のポストモダンは、近代の負の側面を道徳的に断じるもの、らしい)


短い紙面で、朝鮮思想史をまとめていかなければならない章なのだが、最後、かなり長めの引用で終わった

第9章 明時代の中国哲学 中島隆博

これは主に陽明学について
弱い独我論としての陽明学(独我論というか、私の心が基準になるのだ、という感じ?)
王陽明だけでなくその後の展開もあわせて紹介されている
また、キリスト教と仏教の間で行われた、殺生戒をめぐる論争について
中国イスラーム哲学についても
ムスリム儒者というのがいたらしい。近年研究が進んでいるらしい。

第10章 朱子学と反朱子学 藍 弘岳

章のタイトルからは分かりにくいが、荻生徂徠について
徂徠やその弟子たちは、儒学だけでなく、文芸、国学、水戸学にも影響を与え、漢字音韻学にも繋がったとか
また、徂徠は、影響を与えたかどうかはともかく、中国や朝鮮でも結構読まれてはいたらしい。

sakstyle.hatenadiary.jp

*1:すでにそのようなイメージを頭から信じてる人は(このような本の読者層であれば)少ないとは思うが

*2:なお、本章では「併合植民地」という言い方がされているが、ちょっと謎。単に植民地でよいのではないか

飛浩隆『自生の夢』

飛浩隆の2006年から2015年に発表された作品を集めた短編集
7本中4本がアリス・ウォンシリーズとでもいうか、世界観や登場人物が同じ作品となっている。
半分くらいは、初出時に読んでいたが、単発で読むよりこうしてまとめられたものとして読む方が分かりやすかった気がする。

海の指

以前も読んでいたが、だいぶ忘れていた
メロドラマだったのか
情報の海に演奏される、様々な文化の建物がごちゃごちゃに具現化しているなど雰囲気はやはり、廃園の天使とか零號琴とかと通底するものはある

星窓 remixed version

収録作の中で最も古い
remixedというのは、過去の短編の要素を混ぜているかららしい。
夏休みに友人たちと星間旅行をする予定だった少年が、突然それをキャンセルし、なにも見えない「星窓」を買う。その星窓には何かが封じ込められており、存在しない少年の姉が訪れる。
他の飛作品とは雰囲気が違う感じもする。
話のオチはよく分からなかった

#銀の匙

ここから4作品は全てアリス・ウォンが出てくる。「自生の夢」のスピンオフでもある。
アリス・ウォンの誕生時のエピソードを、アリスの兄の視点から描く。
Cassyという書記エージェントや検索エンジュGoedelやGEBなど、このシリーズの世界設定の説明がなされている話でもある。

曠野にて

まだ幼いながらも才能を既に発揮していたアリスと、克哉が、曠野にてバトルする話
Cassyを駆使して物語を作り、その文章が構造物となって、陣取りゲームをしている
ここで克哉が書いていた話の設定を流用して「海の指」が書かれたとのこと
読みながら「海の指って作中作だったのか?!」となった(実際には設定は食い違っており、作中作というわけではない)

自生の夢

忌字禍という存在を倒すため、シリアルキラー間宮潤堂が呼び出される話
といっても間宮は既に死んでおり、彼の残した大量の著作などをCassyが検索することで、彼を再現しようとする試み
読むものと読まれるものとの関係が逆転する


様々な作品への参照がなされているが、伊藤計劃円城塔を意識して書かれているのは、何も知らずに読んでいても察せられた。
しかし、巻末の伴名練の解説を読んで、そういうレベルの話ではなく、作者と伊藤計劃との対話そのものともいうべき作品だと知った。


とまあ、それは置いておいても、この作品のSF設定とそこから紡ぎ出されてくる情景は魅力的


最後にアリスが述べた、忌字禍の脳油
その正体はよく分からなかったが、「はるかな響き」の「あの響き」と通底するものだろうか
言葉から逃れていくものを言葉でなんとか囲い込もうとし、それでもなお逃げられる

野生の詩藻

アリス亡き後、野生化したポエティカル・ビーストを、アリスの兄と克哉で捕まえる話
ポエティカル・ビーストって何だよという話だが、詩が構造物となりビーストととなる、というのが、#銀の匙から読んでいってると、ストンと理解できる

はるかな響き

『サイエンス・イマジネーション』にも収録された作品だが、巻末ノートによると、大きく改稿したとのことで、ざっと読み比べてみたら、骨の女の設定まわりが変更されていた。こちらの方が分かりやすくなっているように思う。
2001年宇宙の旅』の冒頭、サルがモノリスに出会うシーンと、ラスト、スターチャイルドのシーンが使われている。

ジョナサン・ロソス『生命の歴史は繰り返すのか?』(的場知之・訳)

サブタイトルにある通り「進化の偶然と必然のナゾに実験で挑む」本


進化は、何百年何千年あるいはそれよりさらに長いスパンかけて起きるものであり、人間には直接観察できない、とダーウィン以来思われてきたわけだが、実際にはもっと短いスパンでも進化は起きる。
そもそもダーウィン自然淘汰は、人間が行なっている品種改良=人為淘汰から発想されたわけで、適切な淘汰圧がかかれば、人間の観察可能な期間に進化はもちろん起きるのである。
しかし、人為淘汰はあくまでも人為であって、それか自然の中でも同じ速度では起きないだろうと思われていたのが、実はそうでもないというのが20世紀後半になり分かってきた、と。


また、科学研究において、ちゃんと条件を統制した上で実験しないと解明されたことにはならないという考えがある一方で、きれいなラボてできたからといってそれが自然の中でも起きてるとは限らないだろう、という考えもある。
じゃあ、自然環境の中で実験してみますか、というタイプの研究が、本書の中には出てくる
生物の進化を実験で確かめてみる、という研究についての本なのである


では、一体進化の何を確かめるのか。
進化の過程は偶然なのか必然なのか、偶有性と決定論のどちらが正しいのか、ということである。
ティーヴン・ジェイ・グールドとサイモン・コンウェイ=モリスとの間の対立について、と言い換えてもよい。
本書で繰り返し出てくるが、グールドは、進化のテープをリプレイしたら、という思考実験を提案した。本書で紹介される研究は、この思考実験を実際にやってみたもの、ともいえる。
グールドとコンウェイ=モリスが対立している、というのは何となく知っていたのだが、コンウェイ=モリスが近年になって、収斂進化についての事例をたくさん集めた本をだして、進化的決定論、進化の必然性を論じている、というのは知らなかった。
グールドは、進化における偶然性(偶有性)を重視し、進化を再度やり直したら、全く別の生き物が現れるだろうという
一方、コンウェイ=モリスは、進化における必然性(決定論)を主張し、進化は同じような環境に置いて繰り返し同じような生き物を生み出すという。
ここらへんの話が、最近どうも盛り上がっているらしい(?)というのが、本書を読んで何となくわかった。
この前読んだチャールズ・コケル『生命進化の物理法則』 - logical cypher scape2でも、グールドの名前は何度か言及されるものの、そこでなされる偶有性批判みたいなものがいまいちピンと来ていなかったが、この論争において、コンウェイ=モリス側・必然性側を、ちょっと違う視点から援護射撃している本、ということでもあったのか、というのが分かってきた。
なお、このコケルの本は、原著・訳書ともにロソスの本よりもあとに書かれており、コケルはこのロソスの本にも言及している。


では、ロソスは何と言っているのかというと、第一部と第二部では、進化における収斂の強さ、予測可能性の高さが次々と示されていく。
第三部も途中まではそうだが、途中から一転する。進化実験の中に偶有性が現れてくる。
まとめると、遺伝的に近縁な場合、収斂が起きやすいが、そうでないと、同じ環境に対しても違う適応が生じる、ということになる。


しかし、この本は何よりも、進化実験研究の面白さを伝えようとしている本で、ユーモラスな文章でもって、各フィールド実験の経緯、苦労、楽しさが書かれている。
また、この分野の新しさが分かるというか、あるいは、1人の人間が観察できる期間に、あるいは1つの研究助成金が続く間に実験ができるとはいえ、やはりそれなりに時間はかかるもので、紹介されているいくつかの研究については、「この本が書かれている時には、ちょうど論文をまとめているところで、まだ結果は分からない」というので終わっているものもある。
筆者のロソス自身が、この分野のパイオニアの1人でもあり、登場する研究者たちのことを生き生きと描いている。


ところで、翻訳者の人、ちょっと名前見たことあるなと思って調べたら、『生命の〈系統樹〉はからみあう』や『世界を変えた100の化石』の翻訳もしている人だった。どちらもいずれ読みたいと思っている本

生命の歴史は繰り返すのか?ー進化の偶然と必然のナゾに実験で挑む

生命の歴史は繰り返すのか?ー進化の偶然と必然のナゾに実験で挑む

  • 作者:Jonathan B. Losos
  • 発売日: 2019/06/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

まえがき
序章 グッド・ダイナソー
第一部 自然界のドッペルゲンガー
 第1章  進化のデジャヴ
 第2章  繰り返される適応放散
 第3章  進化の特異点
第二部 野生下での実験
 第4章  進化は意外と早く起こる
 第5章  色とりどりのトリニダード
 第6章  島に取り残されたトカゲ
 第7章  堆肥から先端科学へ
 第8章  プールと砂場で進化を追う
第三部 顕微鏡下の進化
 第9章  生命テープをリプレイする
 第10章  フラスコの中のブレイクスルー
 第11章 ちょっとした変更と酔っぱらったショウジョウバエ
 第12章 ヒトという環境、ヒトがつくる環境
終章 運命と偶然:ヒトの誕生は不可避だったのか?
謝辞
訳者あとがき
巻末注
索引
イラストレーター紹介

序章 グッド・ダイナソー

『アーロと少年』の話やディノサウロイドの話から始まる。地球外生命体やカモノハシの話なども。これらの話については、終章でまた戻ってくる

第一部 自然界のドッペルゲンガー

 第1章  進化のデジャヴ
 第2章  繰り返される適応放散
 第3章  進化の特異点
第一部は、自然界に見られる実際の事例が数多く紹介される。


第1章では、コンウェイ=モリスの主張と、さまざまな収斂進化の例を紹介している。
第2章では、個々の種ではなく、生物相全体が収斂する、反復適応放散の例が紹介されている。具体的には、筆者の研究対象であるアノールトカゲである。アノールトカゲは、樹上性、地上性と適応放散するが、カリブのそれぞれの島でそれぞれ別個に、しかし非常によく似た形で適応放散している。
アノール以外に、千葉聡によるカタツムリの例も挙げられている。
また、島嶼化やベルクマンの法則など進化の法則性についても紹介されている(島嶼化というと、動物が小型化するのが有名だが、植物の場合逆に大型化するらしい)
このように第2章では、進化には法則性があり、予測可能な形で繰り返すことを示す事例が挙げられた。
第3章では逆に、収斂していない事例が挙げられる。ニュージーランドやオーストラリアなどがいい例だ。
そもそも、収斂といった場合、どこまで似ていれば同じとみなしてよいのかという問題や、非適応的な収斂のケースなども紹介されている。
何故収斂したり収斂しなかったりするのか。
同じ問題に直面しても、それへの解決策が複数ある場合がある。
その中から、偶然にどれかが選ばれるのかもしれないし、その種が辿ってきた歴史が影響するのかもしれない


進化は繰り返すのか、繰り返さないのか
といえば、どちらの事例もいくらでも列挙することができる。
問題は、どういう時収斂が起きるのか
実験で検証するしかない、ということで第二部へ。


第二部 野生下での実験

 第4章  進化は意外と早く起こる
 第5章  色とりどりのトリニダード
 第6章  島に取り残されたトカゲ
 第7章  堆肥から先端科学へ
 第8章  プールと砂場で進化を追う

第二部では、いよいよ進化実験の例が出てくる。
進化はゆっくり進むと考えられていたために実験できるとも思われていなかったが、第4章で、イギリスの蛾、ガラパゴス諸島のグラント夫妻の研究などの例から、観察可能な速度で起こることが説明される。イギリスの蛾の奴は、大気汚染で色が変わったというめちゃくちゃ有名な話だが、環境汚染という人為的な淘汰圧によるものなので、自然ではあんな速度では起きないと思われていたようだ。
第5章は、エンドラーとレズニックによる、トリニダードでのグッピー実験(論文発表は1980年)
滝によって隔てられた渓流ごとに、捕食者がいるかどうかという環境の違いがあり、それによりグッピーの柄が地味か派手かという違いがあった。
グッピーのいない場所にグッピーと捕食者を放流することで、エンドラーは進化の実験を行った。


第6章では、筆者による、バハマでのアノールの実験。トカゲを捕まえてきて、岩礁に捕食者ともに放して、適応が起きるか実験する。
ハリケーンがくると全滅してしまって実験が強制終了してしまうなどの苦労話も。


エンドラーらの実験でも、筆者の実験でも、同じ淘汰圧に対して、予測可能な進化が起きることが分かる。


このように進化を実験で確かめられることが分かったが、実際にやるには時間がかかり、なかなか後に続く者はいなかった、と。
一方で、時間のかかる実験は、生態学では行われていると。
その一つが、第7章て紹介されるロザムステッド農場でのパークグラス実験で、現在まで150年間続けられている。これは肥料について調べている実験で進化についての実験ではないが、スネイドンらがこれを利用して進化について研究していた。1970年代の研究なのだが、最近にぬるまで知られていなかったとのこと。
第8章では、シュルーターのイトヨの実験とバレットのシカネズミの実験が紹介される。前者は大学キャンパス内に人工池を作っての実験、後者は荒野にネズミを閉じ込める柵を作っての実験
ところで、後者の話では、保守的な土地柄、進化という言葉は嫌がられるのだが、進化という言葉を使わずに実験内容を説明すると、よく理解され興味を持たれるという話が面白かった

第三部 顕微鏡下の進化

 第9章  生命テープをリプレイする
 第10章  フラスコの中のブレイクスルー
 第11章 ちょっとした変更と酔っぱらったショウジョウバエ
 第12章 ヒトという環境、ヒトがつくる環境


第三部は、微生物を用いたラボでの実験
第9章は、レンスキーの大腸菌を使った実験、レイニーの細菌の反復適応放散、トラヴィサーノの酵母を使った単細胞から多細胞体への実験
いずれも反復性が確認されている
第10章は、再びレンスキーの実験。2003年の出来事。爆発的に増殖する個体群が出てくる。12の個体群の中で一つだけが、新たな消化能力を獲得していた。
遺伝子変異を追いかけ、この個体群がどのように進化してきたかを調査
いくつかの稀な変異が重なることで、予測不可能な進化が生じていた
同じ表現型でも、遺伝型が異なるということがある。同じ環境下で表現型レベルでは収斂していても、それを実現させている遺伝型に違いがある、と。そして、その違いが蓄積して、これまでにない表現型が現れることがある。
やはり、進化には予測不可能な面があったのだ、と
第11章では、グールドの言っていた進化のリプレイと偶有性概念の再検討がなされる。
科学哲学者のビーティが、グールドの偶有性は
2つの意味が混同されていると指摘
1つは予測不可能性、もう1つは因果的従属性
そして、進化のリプレイも、2つの意味に取れる。
1つ、同じ条件で繰り返しても不確定性により違う結果になる、という意味
もう1つは、繰り返しても、条件が少し変わればその来歴によって結果が変わってくる、という意味
ここまで見てきた実験は全て前者の意味で行われてきた
そして、後者の意味で行われた実験はおそらくない、と筆者は言う
ただし、遺伝的に異なる個体群を使った実験ならばある。コーハンによるショウジョウバエの実験た。ハエの出身地が違うと同じ淘汰圧に対して収斂が見られなかった


第12章は、進化実験が役に立つ、ということについて
医学の世界で、病原菌の進化や薬剤耐性への進化についての実験が行われている。
やはり収斂が見られるのだが、一方で収斂した個体群の割合が一部にとどまる
これもまた元々の遺伝子が異なっていると、必ずしも収斂しない、という例なのだが、一方で医学的には、仮に一部であっても収斂が見られると、予測可能性が出てきて治療に役立てることができるという。
薬剤耐性・駆除剤耐性についても、全部ではないにしろ収斂があり、そこから対策を練ることができる、と

終章 運命と偶然:ヒトの誕生は不可避だったのか?

コンウェイ=モリスは、ヒトのような知的生命体が誕生するのは進化の必然だと主張する
ディノサウロイドのような思考実験もあるし、アストロバイオロジーでは、地球外生命体も地球の生命と近い姿をしているのではないかと考えている者たちもいる
しかし、筆者は、仮に知性が生まれるとして、知性が生まれるための条件(二足歩行で、目が前についていて等など)が正しいとしても、それを満たす形のバリエーションはたくさんあり、必ずしも似た姿にはならないだろう、と。
ヒトのほか、キーウィ、カモノハシ、カメレオンなどを挙げ、地球の生命の中にも、他の生命とは似ても似つかない、進化の中で一回しか出てこなかったような種がいることを挙げる。
しかし一方で、これらの種もパーツごとに見ると、実は収斂の事例であることも指摘している。
個々のパーツはほかの種にも見られるものだが、それの組み合わせによって見たことのない種が生まれうる。
地球外生命も、もしかしたらパーツごとに見たら地球の生命と似たものを持っているかもしれないが、その組み合わせによって全然見たことのない姿になっていることはありうる。
最後に、進化は予測可能なのかという問いについて筆者は、短期的にはイエス、しかし長期的には分からない、と述べている


進化実験の話はどれも興味深いが、ある程度まで読み進むと、大体結果は同じ(収斂が見られ、予測可能性がある)なのでちょっと飽きてきたところに、最後の9・10章で、いや実は違ったんだ、どーんと出てくるあたりがやはり面白い。
遺伝子が違うと違う方向に進化するというのは、そりゃそうだとも思うんだけど、遺伝子が違っても同じ表現型にいったん収斂するんだけど、違う淘汰圧がかかった時に、収斂せずに分かれていく、というあたりは、なかなか面白かった(例えばカンブリア紀の大爆発について、表現型の多様性が生じる遥か前に遺伝型の多様性が準備されてたみたいな話があったと思うのだけどそれを思い出していた)
あと、ヒトやカモノハシのようなユニークな種も、パーツごとに取り出すと必ずしもそうではないという指摘、意識したことがなかったので、なるほど、と思った。

伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史4』

4巻は、「中世2 個人の覚醒」

伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史1』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史2』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史3』 - logical cypher scape2

主に13世紀について
もっというと、トマス・アクィナスが主人公の巻と言ってよいと思う
2、3、5、6、7章がトマスを中心とした中世ヨーロッパ哲学について*1
4章はイスラームだが、古代ギリシア哲学のアラビア世界やイスラームでの受容についてであり、さらにイスラーム経由で、中世ヨーロッパはアリストテレスを再発見するので、他の章どの繋がりは密接
10章は、ユダヤにおける古代ギリシア哲学の受容について
アジア圏は、8章の朱子学と、9章の鎌倉仏教のみとなる。他の章同士の関連性が強いせいもあって、正直この2つの章が浮いているのは否めない。とはいえ、それは世界哲学史なる企画そのものがどうしても持ってしまう問題で、仕方ないといえば仕方ないし、今後の課題といえば今後の課題、なのだろう。


中世哲学については、昔、山内志朗『普遍論争』 - logical cypher scape2を読んで面白かったという記憶はあるが、結局その後特に勉強していなかったので、今回色々読めてとても面白かった。
そういう点で、世界なのにヨーロッパ偏重だという批判はありうるかもしれないが、個人的には非常に満足。ヨーロッパ中世だけで一冊でもいいくらいだったw (まあそういうわけにもいくまいが)


3、4、5、6、10が面白かった
特に、3章と6章

第1章 都市の発達と個人の覚醒 山内志朗
コラム1 ウィクリフ宗教改革 佐藤優
第2章 トマス・アクィナス托鉢修道会 山口雅広
コラム2 トマス・アクィナスの正義論 佐々木亘
第3章 西洋中世における存在と本質 本間裕之
第4章 アラビア哲学とイスラーム 小村優太
第5章 トマス情念論による伝統の理論化 松根伸治
コラム3 キリストの肢体 小池寿子
第6章 西洋中世の認識論 藤本 温
第7章 西洋中世哲学の総括としての唯名論 辻内宣博
コラム4 東方のキリスト教 秋山学
第8章 朱子学 垣内景子
第9章 鎌倉時代の仏教 蓑輪顕量
第10章 中世ユダヤ哲学 志田雅宏

はじめに 山内志朗

「世界哲学」なる括りをどう定めればいいのかの苦悩が現れているというか
個人的に、ここの一節、正直な感じが好き

日本の鎌倉仏教と西洋における托鉢修道会の活躍などは、影響関係などあるわけないが、単なる偶然の対応として片付けられない構造的な対応関係がある。いや、もちろん偶然かもしれない。

本書を読み終わっても、鎌倉仏教と托鉢修道会にどういう対応関係があるのかは、いまいちよく分からなかった

第1章 都市の発達と個人の覚醒 山内志朗

12世紀ルネサンスがあり、13世紀ヨーロッパ中世の盛期
大学、都市の発達
個人の救済が注目される
個体についての議論も

コラム1 ウィクリフ宗教改革 佐藤優

世界哲学史のシリーズが発表された際、執筆者一覧の中に佐藤優があり、首を傾げていた人を見かけたが、これだった
この本、基本的に13世紀ないしそれ以前の話が中心なんだけど、このコラムだけ内容がら15世紀なんだよな
ウィクリフとフス戦争の話

第2章 トマス・アクィナス托鉢修道会 山口雅広

トマス・アクィナスも所属していた托鉢修道会について(トマスはその中の1つ、ドミニコ会に属していた)


托鉢修道会は、徹底的な清貧と托鉢を旨とする
清貧自体は、これ以前の修道会でも謳われているのだが、徹底して実践する托鉢修道会は新奇なものであった
従来の修道会が農村で活動していたのに対し、都市を拠点とし、さらに説教のための学問研究を重視
このため、大学にも人を送りこみ、教育を受けるだけでなく教える立場にもなり、ドミニコ会パリ大学神学部の講座を2つ教員確保するに至る。しかし、これはそれまで大学の教授ポストを持っていた在俗聖職者たちとの軋轢を生む
で、論争が巻き起こるのだが、トマス・アクィナスもこの論争に参戦している、という話

コラム2 トマス・アクィナスの正義論 佐々木亘

トマスにとっての法は自然法
自然法を秩序づけるのが共同善
人間を共同善に秩序づける徳が正義

第3章 西洋中世における存在と本質 本間裕之

存在と本質について、トマス・アクィナス、ドゥンス・スコトゥスウィリアム・オッカムの3人の考えを比較する。
3人それぞれ違うのだが、トマスとスコトゥスは存在と本質の区別が世界の側にあると考えるのに対して、オッカムは世界の側にその区別はなく人間の観念の中だけにあるものにすぎないとする(同じものなのだが、動詞的に示すか名詞的に示すかの違いだとオッカムはしている)
この違いは何に由来するのかといえば、トマスとスコトゥスが、アヴィセンナの本性の理論を継承しているから。
トマスとスコトゥスは、形而上学が扱う実在の世界と論理学や認識論が扱う知性の領域が対応すると考えており、それの架け橋となるのが本質であり、本質が両方の領域に跨るものであるという考えをアヴィセンナから受け継いでいる。
一方のオッカムは、そのような考えを受け入れておらず、論理学を形而上学から独立させる。


筆者によれば、本質というのは、本質がいかに個別者となるかという個体化の原理の問題や、人がどのように抽象概念を認識するのかという問題、そして普遍論争など、中世の哲学で論じられた様々な問題と関わりのある重要概念


ところで、この存在と本質の区別だが、この両者を区別するというのは、「存在がなくとも本質を理解することができる」ということを前提としている
オッカムの場合、存在しないものの本質は無
本書の中では全く言及がないが、本質と存在を区別するのは、マイノング主義っぽいなーと何となく思った


もひとつところで、この章の執筆者は、おそらく本シリーズで最年少かと思われる。92年生まれで博士課程在籍中

第4章 アラビア哲学とイスラーム 小村優太

アラビアもしくはイスラームへのギリシア哲学の伝播について
また、この章ではちょうどアヴィセンナの本質についても解説されている。


アラビアもしくはイスラーム、と述べたが、まずアッバース朝下でアリストテレスアラビア語へ翻訳される。ただ、この翻訳活動はアラブ人以外が多く、キリスト教徒やユダヤ教徒が従事していたらしい
一方、11世紀以降、イスラーム圏内でペルシア語やトルコ語で哲学が行われる。
アラビア哲学と呼ぶと後者が、イスラーム哲学と呼ぶと前者が取りこぼされる、というなかなか複雑な事情がある


当初、ギリシア哲学はイスラームにとって外来のものであり、特に神学と対立関係にあった。
9世紀、キンディーが哲学はイスラームと一致するものだと擁護。新プラトン主義をさらに一神教的にアレンジし、翻訳活動をすすめた
11世紀のアヴィセンナ(イブン・スィーナー)は、現在のウズベキスタンの生まれ*2で、やはり新プラトン主義の傾向のあるアリストテレス哲学の大成者。哲学のあらゆる分野を網羅した著作を手がける。
彼の本質論について、「馬性は馬性でしかない」というのがあり、これは「栗毛」とか「雄」とかだけでなく「ひとつの」「多数の」「外界に存在する」「頭の中に存在する」なども馬性にとっては属性である、とするものである
11〜12世紀のガザーリー。セルジュク朝の神学者で、哲学の批判者。
彼は、形而上学の20の命題について批判する本を出すのだが、面白いのは彼のこの本は、彼の思惑からすると逆説的なことに、イスラーム圏に哲学を広めてしまうことになる。
というのも、彼の著作はむしろ、ここまでならイスラームと矛盾しないというガイドラインとなり、逆にいえば、どこまでなら哲学を用いてもよい、ということも示すことになったのである。
そもそもガザーリー自身、哲学全てを敵視しているわけでなく、自然学や論理学についてはむしろ有用として受け入れていたという。

第5章 トマス情念論による伝統の理論化 松根伸治

情念論、というのは、今でいうところの感情/情動の哲学かな、という感じ


トマスは、神学大全の中で、情念を欲望的能力と気概的能力の大きく2つの分類の中で、さらに善悪への接近・後退で分類していく
例えば、愛は善に接近しようとする欲望的能力、大胆は悪に接近しようとする気概的能力などのように。
11種の情念を分類しており、これらを2つ1組にしたり(怒りだけは対となる情念がない)、これらが連鎖していく関係などを論じている。


トマスの情念論は、しかし単に情念を分類しようというものではなくて、これらが徳概念と結びついて、倫理学の基礎となるという構成になっている


ところで、魂には理性、意志(理性的欲求)、そして感覚的欲求=情念があるとされる。
トマス以後、主知主義主意主義との論争が起き、主意主義が主流となっていき、徳の座は全て意志と考えられるようになる。
一方、情念においても徳が働くと考えるトマスは少数派であったと述べられている

コラム3 キリストの肢体 小池寿子

トランシ像など、腐敗した遺体の像について

第6章 西洋中世の認識論 藤本 温

志向性について
志向性という言葉は、現代哲学でも主に心の特性を論じる際に使われるが、もとはブレンターノが中世哲学から持ってきた言葉だ、というのは知っていたが、じゃあ、中世でどのような論じられ方をされていたか、は知らなかった。
本章では、感覚認識と知性認識のそれぞれについて、トマス・アクィナスとロジャー・ベイコンの議論を取り上げ比較している。
なお、本章では、中世哲学における志向性は、インテンティオとカタカナで表記されている。


認識する、というのは、スペスキエスが伝達されることで起きる、と考えられる。
スペスキエスというのは形相のことで、認識論の文脈では、何故か形相とは呼ばずにスペスキエスと呼ぶらしい。
アリストテレスは感覚のことを「質料なしに形相を受け入れる」こととし、これを受け入れるのは人などだけでなく、空気や水といった媒体も含まれる。
トマスは、「この質料なしに」というのを「スペスキエスがインテンティオという様態において」と解釈する。
ベイコンは、スペスキエスとインテンティオを同義語としており、スペスキエスは「感覚され得ない形で」受け入れられると解釈する。
認識というのは、スペスキエスが媒体を伝わっていく、という理解で、その際にインテンティオという言葉が使われている。なので、必ずしも心の特性として使われている言葉ではないらしい。
光学の影響を受けており、光源が光を生む、のと同様に、対象が類似ないしインテンティオと生む、という考え方


なお、トマスやベイコンと違って、オッカムはそもそもスペスキエスを否定する、とか。


インテンティオは、アヴィセンナやファーラービーなどに影響され、アラビア語からの翻訳語
先に述べた光学も、イスラム圏からの影響が大きい
トマスもイスラーム思想や新プラトン主義からの影響を受けている、と。


この章、現代哲学における志向性概念と中世哲学史との関係も触れられており、セラーズやパトナムなどの名前もちらほら出てくる。


ところで、些細な話だが、現代においても中世においても、志向性は多義語のようだが、中世の用法の中には「意図」もあったらしい。
心の哲学で志向性の説明がなされる時、「意図」とは違う、と注意書きがされることがあるが、まあ意図という意味で使うこともあったんだな、と
(日本語だと分かりにくいが、志向性はintentionality、意図はintentionなので)

第7章 西洋中世哲学の総括としての唯名論 辻内宣博

13世紀の実在論から14世紀の唯名論
これの影響として「存在論と認識論の分離」「全体論的哲学から個体論的哲学への変化」があったとし、前者としてオッカムの認識論、後者としてビュリダンの社会共同体論がそれぞれ説明されている。

コラム4 東方のキリスト教 秋山学

秋山先生だ
自分の出身大学にいた先生なので、名前と顔は知っているのだが、ただ授業は受けたことはない。友人と先輩からはしばしば話を聞いていたが
ギリシア語やギリシア文学を担当していたような記憶があるので、哲学史の本で名前を見かけるとは思ってもいなかったが。

第8章 朱子学 垣内景子

タイトルにある通り、朱子学について

第9章 鎌倉時代の仏教 蓑輪顕量

タイトルにある通り、鎌倉仏教について
浄土宗などや禅宗の解説だが、従来からある顕密についても解説されている
仏教について用語がよく分からなくて、ちょっと難しかった

第10章 中世ユダヤ哲学 志田雅宏

ユダヤにおける、ギリシア哲学の受容について
イスラームにおけるそれとよく似ているところがあるように思えた。
なお、ユダヤ人も、イスラームで翻訳・受容されたギリシア哲学を受け取っている


まず、当初はユダヤにとってギリシア哲学はあくまでも外部のものであった
しかし、9世紀頃がら受容が始まり、12世紀、パレスチナのマイモニデスが中世ユダヤ哲学を確立させる。
アヴィセンナアリストテレス解釈に影響を受けており、理性をユダヤ教の信仰と結びつける。


もともとユダヤ哲学は、イスラーム圏内でアラビア語で行われていたが、のちにヘブライ語に翻訳され、西方、特にスペインへと中心地が移る
スペインでは、新プラトン主義が受け入れられ、これをさらに一神教的にアレンジされる。イブン・ガビロールは、「流出」を「創造」ととらえ、神の「意志」


哲学への批判も起きる
アラビア語圏では、ハレヴィがさらに「意志」を強調し、また啓示による秘儀を重視
ヨーロッパでは哲学を学ぶこと自体への反発も広がる
14世紀、ヘブライ語による哲学を行った、スペインのクレスカスは、アリストテレス主義を批判。無限の時間・空間を導入し、そこで神の創造が行われるとした。
クレスカスは、キリスト教へと改宗させる運動と対立しながら、一方でスコラ学からの影響を受けていたらしい。

sakstyle.hatenadiary.jp

*1:ところで、何でトマス・アクィナスって、フルネームじゃなくて略して呼ぶ時、アクィナスじゃなくてトマスなの?

*2:ウズベキスタンの人だとは全然知らなかったのでちょっと驚いた

奥泉光『雪の階』

二・二六事件の迫る昭和の東京を舞台に、伯爵の娘笹宮惟佐子が親友の死の謎に迫るミステリ
今回はSF要素はないものの、やはりジャンル横断的な作品となっている。
読後にググって出てきた鴻巣友季子のレビューが簡にして要を得ている
allreviews.jp
ストーリーもさるものながら、視点人物を縦横無尽に行き来するこの文体がスリリング。場合によっては、1つの文の中でふわっと視点が変わる。それは、惟佐子の幻視能力(?)との相乗効果を発揮している。
タイトルに「雪の階」とあり、それは二・二六事件の頃に降っていた雪のことなのだが、物語はその前年の春から始まっており、春夏秋冬四つの季節全てが色彩豊かに描かれている。
また、後半からは、ほとんど妄想としか思われない(というかおそらく妄想の)国際スパイ陰謀とかオカルト選民思想が展開されていき、阿部和重かと思わせるのだが、カタストロフィへは向かわず、いささかコミカルなシーンをきっかけに日常へと回帰して終わりを迎える。

雪の階 (単行本)

雪の階 (単行本)

  • 作者:奥泉 光
  • 発売日: 2018/02/07
  • メディア: 単行本

主人公の笹宮惟佐子は、公家系の華族(堂上華族)である笹宮伯爵の娘で、女子学習院に通い、誰もがその美しさを認める美貌の持ち主であり、服のセンスも非凡なものを持つわけだが、全く非社交的な性格で、囲碁と数学の問題を解くのを何より好み、海外のミステリ小説を愛読している。
そんな彼女の無二の親友ともいうべき宇田川寿子に誘われた演奏会で、カルトシュタインというドイツ人ピアニストから何故か、今度お会いしたいという手紙を受け取る惟佐子だが、それよりも、当の寿子が全く姿を現さない。
寿子の行方は分からずじまいのまま、数日後、彼女が革新派の若手軍人とともに、富士の樹海で心中したと報じられる。
しかし、惟佐子のもとに届いていた寿子のハガキは、約束を破ったことを詫びるとともに、しかし再び東京に戻るつもりがあることを示すもので、何より消印が仙台のものであった。
そもそも惟佐子は、寿子と心中したとされる久慈中尉と会っているのだが、その際、寿子が心を寄せているのは、その場に同席していた槙岡中尉だろうと直観していたこともあり、この死に不審を抱くことになる。


さて、この事件の謎を解くべく実際に奔走し、時に推理を行うのは、惟佐子の幼い頃の「おあいてさん」であった千代子である。
おあいてさん、というのは、身分のある家の子どもの遊び相手となる子どものことで、惟佐子は千代ねえさんと呼んで慕っているのだが、一方でゆるやかな主従関係もあるというものだ。
身分的なものだけてなく、惟佐子の何を考えているのか窺い知れないところのある性格と頭の良さもあって、千代子は千代子で惟佐子のカリスマに感化されているところがなくもない。
千代子は、女性カメラマンとして報道の仕事を始めたところで、同じく新聞記者の蔵原とともに寿子事件の謎を追い始める。
この千代子パートは、時刻表ミステリ的な様相を呈しつつ、一方で、千代子と蔵原のいささかベタな恋愛ドラマとしても進行する。


一方の惟佐子の方だが、まずは父親の笹宮伯爵について
彼は貴族院議員なのだが、天皇機関説問題を追及する急先鋒にたち、時の内閣への批判を強めている。自他ともに認める「陰性」の気質で、陰謀家たらんとしているのだが、その実、彼の「陰謀」というのが、ごっこ遊び的なものの域を出ないのは娘にも密かに見破られているものの、本人はそれに気づいていない。
政友会の成り上がり議員や陸軍との「パイプ」を作りながら、天皇機関説一本槍で政権打倒に「暗躍」し、最終的には梯子を外されてしまう様は悲喜劇的ではある。


さて、来日したドイツ人音楽家のカルトシュタインなのだが、彼は惟佐子の伯父、白雉博允から話を聞いて惟佐子に会おうとしたという。
惟佐子の母は彼女を産んだ際に亡くなっており、その兄が、白雉博允である。
彼はもともと外交官だったのだが、ドイツ赴任中に失踪し、その後帰国するも精神病院へと入院し、その後再び渡欧し行方知らずとなったため、笹宮家は白雉家との付き合いを絶っていた。
カルトシュタインと博允は、心霊音楽協会で知り合っているのだが、この心霊音楽協会や、本作には名前のみの登場となるがギュンター・シュルツなどは、『鳥類学者のファンタジア』にも登場していたはず*1で、どうも同じ世界であるらしい。カルトシュタインが演奏したのは「ピタゴラスの天体」
ただこのあたりの音楽カルト(?)は、本作には直接登場してこない。
カルトシュタインと惟佐子(とその他大勢の付き添いや取材陣)はともに日光観光をすることになるのだが、その日の夜、カルトシュタインは突然に病死する。
そしてこのあたりから、惟佐子の兄、惟秀の姿が見え隠れするようになってくる
寿子の事件とカルトシュタインの死の背後に、惟秀がいるのではないか、と。


そして、この作品にはさらにもう一つのラインがあって
惟佐子は、寿子の事件を調べるにあたり、自らも男女の仲を勉強する必要があると考え、とある男性といきずりの肉体関係を持つのだが、それにとどまらず、次々と男を取っ替え引っ替えしはじめるのである。
幼い頃からのお付きの女中菊枝だけがこの「御乱行」を知っているのだが、1人目は少し年上で身分もそれほど違わない男性で、まあ分からなくもないと言った相手だったのが、お偉い爺さんに元軍人の怪しい醜男と続き、何が何やら分からなくなってくる。
数学好きの惟佐子からすると、あらゆるタイプの男性を試してみている、というところなのかもしれない。
作中、この「御乱行」の相手となった男などが、集まってきてしまうというシーンが2度ほどあって、ここがハラハラするようなバカバカしいようなコミカルなシーンと言えるかもしれない


さらに、寿子の事件とカルトシュタインの事件を結びつけるものとして、栃木にある紅玉院なる尼寺が出てくるのだが、惟佐子の雇った
探偵(というのは先に挙げた元軍人の醜男で、父伯爵にとっての情報源でもある)が、ドイツの間諜組織を背後にあるという報告書をあげてくるのである


さて、笹宮家について。父親は先に述べた通り
兄の惟秀は軍人で、長いこと実家には帰っておらず、父も惟佐子も疎遠である。
笹宮伯爵家は、先祖の財産を食い潰している最中と言っていいのだが、惟佐子の母親が死んだの、後妻として迎えたのが神戸の富豪の娘で、家格は劣るのだが、この家の援助により、財を保っている
この話は、戦前昭和の華族・富裕層の文化を描いている作品として読むこともできて、華美な文体と相まって、そのあたりもわりと楽しい。
惟佐子の腹違いの弟が、母の影響もあってジャズにかぶれた不良少年だったりもする。


この笹宮家の話としてみると、実は内面空っぽの貴族たちが妙な物語に染まってしまっていた話なのかもしれない。
父伯爵は、小物議員でしかないにもかかわらず、自分が大それた陰謀家のように振る舞うというもの。まあ、これは正直かわいい方で
兄の惟秀が、白雉博允のオカルト選民思想に取り憑かれてしまっていた、と言える
弟の方はちょっと可哀想で、この中ではまともに自意識を持っていたのに、途中で愛国受験塾に入らされて、愛国思想に洗脳されてしまう。
まあこれにやって、散々愛国的な思想を喧伝していながら梯子を外されてしまった父伯爵の梯子の外されっぷりが浮き立つのだが


惟佐子は、といえば、何しろ華族令嬢にして、社交嫌いで数学と囲碁が好き、というのだからキャラは立っている。ある種霊感じみた直感能力の高さも示唆されており、終始キャラは立っている。
しかし一方で、その内面はいささか薄い。千代子の恋模様と比較すればそれは一目瞭然である。
彼女は、父親が全然大した人物ではないことを見抜いている。が、父親の指示にはよく従うのであり、実のところ父親のことをどう思っているのかはあまり判然としない(一方父親は惟佐子に対して畏れのようなものを抱いている)
しかし、彼女は最後、例のホテルの部屋でのちょっとコミカルなシーンの後、寿子が死んでしまったことへの寂しさを明らかにする。
彼女は寿子の死を悼み、他方で千代子の恋を祝福し、陰謀や選民思想ではなく、日常にこそ自らの着地点を見出す
だからこそ、彼女は笹宮家を離れ、義母のいる神戸へと行くのだろう
ゆえに、ミステリの謎解きはわりあいあっさりとしたものとなっている。物語のクライマックスは、謎が解ける前に終わっている
とはいえ、この謎解きの解き方はちょっと面白い
惟佐子は、事件の謎だけでなく、彼女と惟秀、惟秀の双子の3人が共有している、幻視された風景の謎も解くことで、かの選民思想が白雉博允の妄想でしかないことも突き止める
これで、白雉の血に宿るとされる超能力めいたものを否定するのだけど、しかし、この推理自体が惟佐子の「霊感」めいた直観によって行われているのである。
そもそも、読者からすると、彼女はアインシュタインの話をしている時に広島の原爆が落ちた風景らしきものを幻視しており、明らかにホンモノなのである。


複数の登場人物の視点を自由に行き来する文体は、一体どこまでが誰の知りうるところなのな、というのを探りづらくさせる。
惟佐子の推理は、読者に対しては明らかにされるものの、いわゆる謎解きのシーンというか、作中の他の人物たちに披露されることはない
だから、千代子たちは最後まで、国際スパイ謀略劇が事件の背後にあったのかもしれない、と何となく思っているはずで、複数の見え方が乱反射する物語になっていたのではないかと思う。

*1:読み返していないので未確認

チャールズ・コケル『生命進化の物理法則』

生き物の(広義の)デザインに物理的にどのような制約条件があるのか、ということを、生態から個体、細胞、 遺伝、代謝、元素と、上の階層から下の階層へと進む形で見ていく本。
筆者はアストロバイオロジーの研究者であり、この本も3分の2程度はアストロバイオロジーの本として読むことができる。


もし水中を泳ぐ動物がいるとしたら、それは流線形をしている可能性が高いだろう。流体の中を移動するには、流線形が効率よいからだ。それは物理的に決まっていることで、地球以外でもそうだ。
この本は、おおむねこのような物理的な制約条件の話をしている。
ある意味では、非常に当たり前の話をしているとも言える。
この本は、生き物の様々な側面でこのような制約条件が働いていることを指摘し、地球の生き物のデザイン(形だけでなく、どの素材を使っているかも含めて)が、かなり蓋然性の高いものだと論じている。
この本は生命の起源についての話ではないので、どのような条件があれば生命が生まれるかという点は論じていないが、もしこの宇宙に生命が生まれるとしたならば、地球の生命のようになる蓋然性は高い、ということを論じている。
これはそれなりに強い主張であり、必ずしも、当たり前と言える主張ではない。
また、究極的には、地球外生命体を発見できなければ検証が難しい話でもあるので、その点、コケルは確かに譲歩しているが、それでもこの強い主張にかなりコミットしてるように読める。


生物の進化は偶有性が高く予測ができない、と考えられているところがある(例えばグールドは、進化をもう一度やり直したら全然違う姿になるだろう、みたいなことを言う)が、この本は、物理的な制約条件が結構あるので思ってたほど偶有性高くないし、予測もわりとできるんだ、という立場をとる。
(本書の中で「予測」は結構キーワード。生物学も「予測」ができるのだ、と)
ただし、これは決定論というわけでは必ずしもない。
細部について、進化が偶有性が有することは否定しない。というか、細部はすごく多様だ。しかし、その多様性も一歩引くと少数のパターンに収まるだろう、と。


本書は、以上のような全体を貫くテーマはあるが、群れから元素まで、と様々なスケールの話をすることもあり、色々なトピックを足早で紹介していく感は否めず、個人的には、前半はなかなかどういう本か掴めなかった。
途中から、個人的にはわりと馴染みのある(?)トピックになってきたこともあり、「アストロバイオロジーの本として読めるな」と思うとグイグイ読めた。
あと、これは本書に限った話ではないと思うけど、節がないのが微妙に読みにくかった。日本の新書なら、ここで節分けるよなーと思うのだが、章までしか分かれてない。
そういえば、ミゲル・シカール『プレイ・マターズ 遊び心の哲学』(松永伸司・訳) - logical cypher scape2もそうだったな、と。

第1章 生命を支配する沈黙の司令官
第2章 群れを組織化する
第3章 テントウムシの物理学
第4章 大小さまざまな生き物の体
第5章 生命の袋
第6章 生命の限界
第7章 生命の暗号
第8章 サンドイッチと硫黄
第9章 水——生命の液体
第10章 生命の原子
第11章 普遍生物学はあるか
第12章 生命の法則——進化と物理法則の統合

生命進化の物理法則

生命進化の物理法則

第1章 生命を支配する沈黙の司令官

注釈に読んだことある論文出てきた。Clelandの"Defining life"
アストロバイオロジーの哲学 - logical cypher scape2

第2章 群れを組織化する

アリやムクドリなど、群れの話
べき乗則とか自己組織化とか

第3章 テントウムシの物理学

前の章が群れで、この章は個体
これは筆者が学生にプロジェクト型の授業でやらせてる、テントウムシに働く物理法則を調べるというもの
脚の粘着力とか、外骨格の強度とか、呼吸のための空気の拡散とか、目(個眼)の数と大きさの限界とか

第4章 大小さまざまな生き物の体

なぜ動物は車輪やプロペラを生み出さなかったの、という話から始めつつ
動物の形態と環境の関係について、エボデボの観点から説明している*1
エボデボの話に入る前に、ダーシー・トムソンの『生物のかたち』(1917)という本が紹介されている。トムソンは数学者で、貝殻の等角らせんや植物の芽に見られるフィボナッチ数列などを研究した人らしい。何となく近藤滋『波紋と螺旋とフィボナッチ』 - logical cypher scape2を思い出した*2

第5章 生命の袋

細胞の話
細胞は希釈への対応
細胞のサイズや形は、拡散などによって決まってくるなど。表面積を増やそうとするので、細長い円筒形になるなど
細胞膜の構成については、偶有性の余地があるとも。

第6章 生命の限界

極限環境微生物の話
生物が生きられる温度やpHの限界について
まずは高温
実際に見つかってる生物の中では、ブラックスモーカーに住む超好熱菌が、122℃で繁殖可能
理論的な話として、大半の有機分子が破壊されてしまう450℃をあげている。もっとも、450℃まで耐えられる生物が存在しうる、というわけではなく、実際にはもっと低い(122℃に近い)ところに限界があるだろうとは述べている。
この450℃というのは、仮にこの温度までいけたとして、(地下の方が温度が高いわけだがそれでどの深さまでいけるかというと)、地球の半径の0.3%までいけない、という話につなげていて、温度の壁があるので、生物圏にはどうしても限界がある、と。
低温の方で、これも低温に耐えるための方法がいくつか紹介される(凝固点降下など)が、低温になるとどうしても化学反応が遅くなり、細胞の損傷への対処が追いつかなるのがネックになる、としている。
次に検討されるのが塩分の問題
塩分が上がるとまず浸透圧の問題が出てくる。次に、水分活性が問題になる。そもそも水が利用できない。液体の水があっても、塩分濃度が高すぎると、生命は存在できないらしい。
pHについては、意外なことに、生命にとって根本的に限界になりうる要素はないようだ。
他に圧力や放射線についても触れていると、これはさらっとした言及にとどまる。

第7章 生命の暗号

DNA、RNAアミノ酸、タンパク質について
なんで遺伝暗号を担うDNAは4つの塩基からなるのか
担える情報量が適度に複雑で、かつエラーにも強いから
合成生物学では、遺伝暗号の文字を変えたり増やしたりしても成り立つ、ということをやれるけど、最適な組み合わせ、というのはやはり今の状態なのでは、と
遺伝の暗号表についても同様。エラーが少なくなるように最適な組み合わせになっている、と
また、アミノ酸についても、実際にはたくさん種類があるものの、生物がよく使うのは20種類程度にとどまる。この20種類は、たまたま偶然選ばれたのか。
アミノ酸のいくつかの性質を選んで調べた研究によると、この20種類の組み合わせは、性質が多様。少ない種類で多様な性質のアミノ酸を揃えた結果なのではないか、と。
タンパク質は、その折り畳み方が熱力学によって制約されており、アミノ酸の組み合わせは多様だが、その形は限られている。


この章は、遺伝暗号について、たまたま初期の生命が偶然これらの分子を使ったから、地球の生命のこの数や組み合わせでやっている、のではなくて、進化の中で最適な組み合わせになるように選択が行われてきたに違いない、といあ趣旨になっている
なので、物理的な限界の話というわけではない。

第8章 サンドイッチと硫黄

代謝について
1961年にピーター・ミッチェルが発表した、プロトン勾配と電子伝達系*3
プロトン勾配とATP合成酵素は、水力発電所のタービンにたとえられていて、エネルギーを集める仕組みとして普遍性があることが示唆されている(生化学を知らないエンジニアが、細胞膜によって勾配のできてるところからエネルギー集めろ、と言われたら同じアイデアを出すだろう、と)
本文中に名前は出てこないが、注釈の中で、ニック・レーン『生命、エネルギー、進化』 - logical cypher scape2やヴェヒターショイザーへの言及がある。
電子受容体と供給体の組み合わせにはバリエーションがある旨の説明の中で、自由電子を利用できる微生物についても触れられている*4


途中、ちょっと面白い挿話が入っている
筆者が行なっている授業で、異星人のコスプレをして行なっている回について。この異星人は嫌気性で、石膏(硫酸カルシウム)を食べ、酸素ではなく硫酸塩を利用しているという設定で、地球がいかに生命が存在しづらい環境かを論じるという講義である。
この講義は、地球を相対化する視点を学生に見せるという教育的効果があるわけだが、本書の中では、その一方で、このような異星人であっても、電子伝達系を利用してエネルギーを集めているということを示している。
また、この講義の設定が実際には結構無理があることを筆者自身が認めており、このような異星人が絶対いないとは言い切れないものの、酸素を用いない場合得られるエネルギーが少ないので、可能性はかなり低いだろうと指摘する。
地球の生命を相対化する講義ではあるものの、やはり、地球生命が用いている方法は、少なとも電子伝達系は高い普遍性がありそうだし、その中でも酸素を用いるものの方が蓋然性高そうという話になっている


本章の最後では、それ以外のエネルギーを集める方法を色々検討されている
発酵、核分裂、電離放射線の利用、核融合プロトン勾配ではなく熱勾配、圧力勾配、重力を用いる方法
いずれも生命が利用するのは難しそう(発酵は実際に使われてるが得られるエネルギーが少ない。熱勾配は利用可能だが場所が限られる)
やはり、電子伝達系は生命にとって普遍性の高いシステムっぽい、と

第9章 水——生命の液体

タイトル通り、水(H2O)の話だが、水以外の溶媒による生命の可能性が検討される


水は、生命にとって好ましくない性質も持つ(加水分解)
しかし、それ以外に有用な性質が多い。ここでは、タンパク質と水との協力関係などが挙げられている


水以外の溶媒として、アンモニア、硫酸、ホルムアミド、フッ化水素、そしてタイタンの海にあるメタン
ここで求められるのは、適度な化学反応を起こせること。激しすぎてもダメだし穏やかすぎてもダメ
特に問題となるのが、低温で液体になる溶媒。低温だと、どうしても化学反応の速度は遅くなる。ところで、生命は放射線など環境からの様々な要因で損傷するのでこれを修復するために、損傷するよりも速く化学反応を進める必要がある。
そんなわけで、タイタンは可能性低いのでは、と述べている。
また、水とそれ以外との溶媒の違いとして、宇宙にある量も指摘されている。水の存在量は、断然多い。


というわけで、水は、液体である温度で化学反応の速度がちょうどよい、量が多い、という点からして、宇宙に生命が誕生した時に利用される可能性がとても高そう

第10章 生命の原子

前の章がH2Oってちょうどよいという話だとすると、この章は炭素ってちょうどよい、というのが主な話


原子の性質として、パウリの排他原理により電子の数や軌道の説明をした上で、炭素は結合が強く、しかし程よく解けやすいという利点をあげている
これに対して、周期表で炭素の下にあり、性質の近いケイ素について検討される。
ケイ素生物ってSFだと定番で、アストロバイオロジーの本だと一応言及されるが可能性は低いとされる奴
本書でも、炭素と比べて結合が弱いこと、酸素と結びつくて(炭素が二酸化炭素という使いやすいガスになるのに対して)安定してしまって使いにくいケイ酸塩になってしまうことを挙げて、あんまり生命に向いてないことが示される。
もちろん、ケイ素を使っている生物はいるが、それは構造を支える支持体としてで、炭素の代わりになることはない。
トリトンのような星で液体窒素の中であれば、という話も出てくる。これは、可能性はないわけではないが、どういう挙動とるかよくわかってないのでよくわからん、と。


水と同じで、炭素もまた、宇宙に存在している量が多い。分子雲とかに有機化合物がある。隕石や彗星にもアミノ酸も見つかっている。一方、隕石にケイ素化合物は見つかっていない。


炭素以外の元素についても論じられている。
まず、水素、窒素、酸素、リン、硫黄
特に窒素、酸素、リン、硫黄は、周期表上で炭素からの距離が近く、炭素との結合で役割を果たす。
また、周期表で酸素の隣のフッ素、フッ素の下の塩素、リンの下のヒ素、硫黄の下のセレンについても触れられている。
フッ素と塩素は反応性が高く使えない
ヒ素とセレンは、実は生物によって利用されてはいるのだが、結合が弱いので多用されてはいない
これらの各元素の性質と、生物にとっての使いやすさについても、一貫して電子の数や軌道、原子の大きさで説明されているので分かりやすい。
あと、周期表で炭素の隣にいるホウ素だが、これは生物でよく使われているらしいのだが、あまり詳しいことはまだよく分かっていないらしい。
確かに、ホウ素って周期表の上の方にある元素の中では一番馴染みがないが、原子番号の小さい奴でもあまりよく分かってないのがあるのだな、という感想


最後に筆者は、地球生命は「炭素ベース」なのではなく「周期表ベース」なのだという。
つまり、利用できる元素を片っ端から試して、使いやすい元素を使ってるだけなのだ、と。
ここで、炭素と水に基づく生命には普遍性があるという主張について、穏健な解釈と強硬な解釈の2つの見方があるとしている。
穏健な解釈は、炭素と水は多いからそれに基づく生命は多くなる(が、それ以外に基づく生命の可能性は否定しない)という見方
強硬な解釈は、化学的性質からいって、炭素と水以外をベースにした生命はありえないという見方
筆者は、地球以外の生命が見つかっていない以上、科学的な態度としては強硬な解釈はとれないけれど、そちらの解釈に魅力を感じている、と述べている。
訳者はあとがきでこの部分に触れて、コケルは「異論を受け入れる態度」「慎重な態度」をとっていると述べているが、これ断言できるような話では全然ないからエクスキューズをつけているだけで、筆者は結構強い主張をしたがっているように見える。

第11章 普遍生物学はあるか

系外惑星ないし地球以外の惑星の環境について
系外惑星の話を一通りして、例えば重力というパラメータが変わると生物がどう変わりうるか、と(スーパーアースは地球より重力が大きい)
重力が大きいと、大型の地上生物の形状にその影響が出てくる。しかし、昆虫のような小型の生物や水中生物にはあまり影響がないかも。
また、タイタンのように重力が小さく大気密度が高いと、空を飛びやすくなる、とか

第12章 生命の法則——進化と物理法則の統合

生物学と物理学の違いについて
より大きいスケールから考えるか、小さいスケールから考えるかという違いがあるのではないか、と。
物理現象は、小さいスケールに不確定性があり、スケールが大きくなると不確定性がなくなっていく。
生命は、逆で、大きいスケールになるほど不確定性が大きい
ただ、量子生物学というジャンルだと、量子的な不確定性が生物にも関わってくるよ、という話も少ししていて、生物学と物理学は統合できるんだ、みたいな話になり、この本のテーマである、進化における偶発性って結局どれくらいあるのか、という話に戻ってきて、経路は狭いだろうと。


最後の最後にさらっと、(本書は、群れから元素まで階層を遡り、それぞれの階層に物理法則を見てきたわけだが)、ある階層の制約が他の階層に基礎付けられているわけではない、というようなことが述べられている。
ここ当たり前の話ではあるのだけど、ちょっと面白い話だと思ったが、あまりにも分量が少ないのでうまく面白さが説明できない。

感想

最後の章で、長いあいだ、生物は無生物とは異なるという考え方が強かったけれど、しかし、生物だって物質なのだから、物理法則に制約されるでしょ、ということが述べられている。
ところで本書は、偶有性・偶発性が、従来の生物学で思われているのよりも狭く制限されているのだ、と主張する本でもある。
さて、この生物における偶有性みたいなのをどう位置付けるのか、というのはちょっとややこしい気がした。
本書では、生物の進化が偶発的で予測できず多様であることが、生物の単なる物質とは異なる特別さとして扱われてきたのではないか、というのが暗に示され批判されているように読める。
しかし、生物の進化が偶然であることを強調するのは、目的論的世界観への抵抗という意味合いも強いように思える。つまり、偶有性を強調することこそ、生物が特別ではないことを示すことになる、という考えもあるはず。
つまり「生物は偶然によって進化してきたのであり、ゆえに特定の目的によってデザインされたわけではない」というために、偶然性は強調されたりする。
本書は「生物は物理法則に従って進化するのであり、ゆえに偶然の働く余地は実は思ってたより少ない」と主張している。そして、もちろんこの主張は目的論的世界観を含意していないので、この2つの主張は当然両立する。
ただ、前者の主張も、生物は特別な存在ではなく物質的な存在だという趣旨があるような気がするので、偶然性がないことこそ物質的な存在であることになるのだ、ということ言われると、気持ち的には「ん?」となりそうな気もする。


生物の限界を定めるような制約の話と
そこに落ち着く蓋然性が高いという話と
その法則に従っておくと適応度が高くなるという話とが
それぞれ混ざっているように思えた。


6、8、9、10章が特に面白かった

*1:なお、筆者は、理由は書いてないが、エボデボという略し方はひどいと思っているらしい

*2:ただ、近藤滋はチューリング・パターン推しで、チューリング・パターンの話は本書ではテントウムシの方で出てくる。あと、本書では、トムソンはそういう数学的パターンがどのように生じたか説明しなかったが、今なら進化発生生物学で、生物の形がどのように生じたか分かってきたぞ、という風につなげるのだが、近藤はややそのあたりとは距離をとっていたかと思う

*3:水素伝達系、という方が一般的かと思う、と書こうとしたのだがWikipedia見てみたら、今の教科書では水素伝達系という言葉は使われていないらしい!

*4:電気を用いる生態系について高井研編著『生命の起源はどこまでわかったか――深海と宇宙から迫る』 - logical cypher scape2が論じている

ガルラジ合同本『___・ラジオ・デイズ』に「質感から考える メディアなきフィクションとしてのガルラジ」書きました


ガルラジについては、別のブログの方では配信中に色々と書いていたのだけど、こちらのブログではまだ触れていなかったかと思う。
高速道路会社のNEXCO中日本ドワンゴが共同制作しているコンテンツで、2018年12月から1stシーズンが、2019年7月から2ndシーズンが配信されていた。
5か所のSA・PAをそれぞれ拠点にした女の子のチームがローカルラジオをやる、という物語である。
garuradi.jp


マイナーな作品ではあるが、一部にかなり熱量のあるファンがつき、このたび、二次創作・評論・エッセイなどを集めた合同誌が発行されることとなったのである。
32名分34作品、A5で278ページ、自立する分厚さとなったと聞くので、それだけでもこの熱量が感じられるだろう。
合同誌の内容については、twitterハッシュタグ「#ガ合」を見てもらえればと思う。
twitter.com


元々コミケでの頒布を予定したが、今年はご存知のとおり、コミケ自体がなくなってしまったので、BOOTHでの頒布のみとなってしまったが、#エアコミケ、ということで、今この流れでポチっとしてもらえたらと思う。
なお、下記のページに書いているが、現在は予約中で、発送は5/12からとのこと。
karioki.booth.pm

質感から考える

自分の原稿の内容は、目次としてはこんな感じ

1.質感について
2.「生放送っぽい」喋り
3.物語とリアルタイム性
4.質感旅行
5.メディアの外に拡張された虚構
6.質感の二次創作

サブタイトルにある「メディアなきフィクション」ってなんだ、という話なんだけれど
ガルラジの話というよりも一般論なんだけど、個人的には「虚構と現実の境界があいまいになる云々」というような言い方に懐疑的なところがあって、それの一つの言い換えとして、メディアがないかのように錯覚する、あるいは実際にメディアのないフィクションの経験がある、ということなのではいか、というような話を組み立ててみた、というのがこのサブタイトルに込められている。
「質感旅行」というのは、いわゆる聖地巡礼のことで、何故かガルラジの場合はそれが「質感旅行」と呼ばれているのだけど
メイクビリーブを使って、聖地巡礼(質感旅行)を説明してみる、という試みであり、これは最近読んでた美学関係のことについて - logical cypher scape2で書いた通り、自分的テーマ2に属するもので、『フィルカルVol.3.No.2』で谷川さんが書いていた「コンテンツ・ツーリズムから《聖地巡礼的なもの》へ—コンテンツの二次的消費のための新しいカテゴリ—」に対する、自分なりの応答という面も持つ(紙面の都合上、あまり直接的に谷川論文へのコメントにはなっていないが)。
フィクション鑑賞って、基本的には、文章でも映像でも音声でもメディアを介した経験なのだけど、そういうメディアを介さないところにもフィクションの経験ってあって、ガルラジは「リアルタイム性」という特徴と「質感旅行」というファンの行動によって、それがかなり特徴的に見られた作品だったのではないかなあ、という話だったかな、と思う


というわけで(?)ガルラジを知らない人でも、美学とポップ・カルチャーというテーマに興味関心のある人にも手に取ってもらいたい、と思ったりしている。
もちろん、ガルラジ合同誌なので、ガルラジリスナーにとっても、納得感のあるものを目指したつもりであるが、そのあたりは、実際読んでみてもらうしかない。

おまけ(?)

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この図は、今回とは全然別の原稿を書いている時に作っていた図なのだけど、その原稿自体をボツにしたので、お蔵入りになっていた図である。
ガルラジの話というより、最近読んでた美学関係のことについて - logical cypher scape2の自分的テーマ2のために考えていたもので、今回書いた「質感から考える」に、この図は使っていないし、この図に出てくる用語も出てこないので、あしからず。
ファイルを整理していたら見つけたので、ちょっと出しておこうかと思った次第。
聖地巡礼(質感旅行)というのは、この図でいうところの「自己についての行為者的想像」の中の「自己関与的想像」に位置する、ということを考えている。
なお、自己関与的想像とミミクリ的想像という言葉は、松永伸司『ビデオゲームの美学』 - logical cypher scape2に出てきた分類を拝借させてもらっている。
普通のフィクション作品は、「自己についての観察者的想像」が行われているわけで、ガルラジもラジオを聞く経験自体はこれに属すると思うのだけど、リアルタイム性とか質感旅行とかは、自己関与的想像をさせるようになっていたのではないかと思う。


オタク、よく、「キャラクターのイラストがはってあるグッズが欲しいんじゃなくて(欲しいけど)、キャラクターが実際に使っているようなグッズが欲しいんだ」みたいなことを言うけれど、それってつまり、そういうグッズは「自己関与的想像」をしやすい、それこそメディアなきフィクション経験をすることのできるプロップになっているから、だと思うのだけど、それに関わる話も、原稿の最後に書いているつもり。

追記

ところで、頒布ページを見てもらえればわかるが、「おまけ」を選ぶことができる

また本誌には、希望者に対し合同本参加者数名をパーソナリティとしたラジオ風音声コンテンツ「オタク・ラジオ・デイズ」を頒布いたします。

ガルラジは、リスナーの方が何故か(ツイキャスなどを使って)ラジオ配信を始める、という謎の流行りがあって、それを受けたおまけである。
サークル名の「チームTwitter」も、もとはその流れの中で出てきた言葉だった
こういう謎の動きが起きるのが、ガルラジ界隈の魅力の一つでもあり、それはもはや「質感」という言葉からは大きく離れるところなので、もちろん本稿の範囲を外れるのは当然なのだけど、ガルラジの魅力は多岐にわたっていて、自分の原稿はそのほんの上澄みをすくっているだけなので、一方、この合同誌はかなりそうしたガルラジの広がりを感じられる本になっているらしいので、どうぞよろしくお願いします

sakstyle.hatenablog.com